第五章 “混沌”の襲来 (三)
三.
表に出たハーンは再び黒い空を見つめた。剣を持つ手がわなわなと震えているのは、怒りのためでも、恐怖のためでもない。かの漆黒を懐かしむ感情が心の底からわき出ている。そんな自分自身に戸惑っていたのだ。
そんな感情を払拭するかのように、ハーンは駆けだした。
町の通りには魔物達の黒い屍が至るところ転がっていた。時折、町のどこかから金属のあたる音が聞こえてくる。数こそ少なくなったものの、魔物達はまだ襲ってきているのだ。民家はどこも固く門を閉ざし、灯りを消して侵入者の襲来を拒絶している。だが、魔物どもはクロンの外からやって来たのではないのだ。彼らは、黒い空の下であればどこであれ、空間を渡ることが出来るのだから。屋内に突如として現れた魔物達の犠牲になった人々も多いだろう。
[お願いだから逃げてください! 東の門から出てスティンへと! クロンはもう保ちません!]
ハーンは喉が枯れんばかりの大声を張り上げつつ、ひたすら走った。一人でも多くの人が避難してくれることを願って。
(理解してくれる人などいるだろうか?)
詮ない願いでしかないのかもしれないのだが、諦めてしまっては助かるものも助からなくなる。この場で、状況を正しく把握しているのはハーンひとりしかいないのだ。
どこかで断末魔の悲鳴が聞こえた。何も出来ない自分が情けなく思えてくる。ハーンは泣き出しそうになっている自分を抑えるために、唇を固くかみしめ、ふたたび大声で人々に呼びかけた。戦い終わった戦士達が一瞬、ハーンの言葉に耳を傾けるも、とりたてて反応はしなかった。
小さな町だとは言っても〈緑の浜〉から町長宅まではかなりの距離がある。さすがのハーンも、人々に呼びかけながら走るのは堪える。途中、魔物が飛びかかってきたが、ハーンは光弾を飛ばして撃退した。
ようやく通りの正面にバルメス宅の白塗りの塀が見えてきた。しかし、そこに行くまでの通りを魔物が暴れていて邪魔をしている。がっしりとした四肢を持つ魔物のすがたは、熊のようでも猪のようでもありながら、そのどちらでもない。以前、ハーンがディエルを連れてスティンへ向かう最中に出くわした魔物と同じ種族である。
魔物はしかし、ハーンに向かわずに、赤い目を不気味に輝かせながら、道ばたで倒れている戦士めがけて突進していった。このままではあの戦士はやられてしまう! そう思ったハーンは力を振り絞って疾走すると剣で一閃、魔物を瞬時にして撃退した。
[……やあ……魔物達の状勢は……どうだい?]
荒く息を吐き出しながらも、ハーンは戦士に訊いた。戦士は一言礼を言うと起き上がった。
[まったく酷いもんだ! 一体どれくらいやられたのだか、見当がつかない]
彼は額に流れている血をぬぐって言った。
[でも町の中も、だいぶ落ち着いてきたようだ。化けもんどもはあらかた始末したんじゃないか?]
[そう……お願いだから、町の人に呼びかけて一刻も早く東門から逃げて欲しいんだ。僕はこれからバルメスさんにかけ合ってくる]
[町長さんだって?]
戦士は顔を曇らせた。
[無事だといいが……はたして大丈夫かどうか]
[彼に何かあったのかい?]
戦士は、足下で未だ痙攣を繰り替えしている魔物に、忌々しげにとどめを刺した。
[こいつはな……バルメスさんのところから飛び出してきたんだ。……てことは、やられちまってるかもしれない]
そう言って顔をしかめた。それはハーンにとって、もっとも聞きたくない言葉であった。
[だけど、僕は行ってみる! まだ、そうと決まったわけじゃあないだろう?! とにかく、このままじゃあみんなやられちゃうんだよ! あなたも早く逃げてくれ! 東へ!]
再度忠告をして、ハーンは一目散に駆けだした。
門をくぐると、玄関の扉は無惨にもうち破られていた。ハーンは勢いをつけて扉を開けた。
「これは……」
館の中はまるで嵐が訪れたかのような酷い有り様だった。壁はいたるところで破られ、調度は壊されており、あの魔物がどのように暴れ回ったかが分かる。
玄関口付近で女中が一人伏していた。ハーンは駆け寄って抱き起こすが、すでに彼女はこと切れていた。ハーンは冷たくなった女中の手を握りしめ、黙祷を捧げた。
「せめて僕がもう少し早く目覚めていれば! 黒い空が見えた時にバルメスさんに会っていれば! みんな逃げられたのに! こんなことにはさせなかったのに……」
彼女を壁際に横たわらせ、もう一礼すると、ハーンはよろよろと歩き出した。目頭が熱くなるのを感じるが、感情を押し殺してハーンは駆けだした。
一つ一つ扉を開け、室内を見渡す。三つ扉を開けたが、中はもぬけの殻だった。しかし、四つ目の扉を開けた時、むせかえるような嫌な匂いが室内から立ちこめ、ハーンは思わず顔を背けた。血の匂いだ。
ハーンは覚悟を決めて向き直った。戸口付近に二人、テーブルに五人、多量の血を流して倒れていた。ちょうど食事どきだったのだろうか? 食堂に一家全員が集まったその時、あの魔物が姿を現したのだ。そして、バルメスの家族や住人達の逃げる間もなく――。
[町長! バルメスさん!]
声を裏返しながら、ハーンは血に染まったバルメスの身体を抱えた。だが、もはや言葉は返ってこない。伝わってくるのは、冷え切った肌の感触と、なま暖かい血である。ハーンの望みは絶ちきられた。
(あなたがいなくなって、どうすればいいのです?)
堪えていた感情が堰を切った。ハーンはバルメスの胸に突っ伏して嗚咽を繰り返した。
その時、窓から光が射し込んできた。太陽が姿を現したのだ。
(日の光が、死者の魂を清めてくれているみたいだ……。浄化の乙女ニーメルナフよ。イシールキアの妻よ。あなたの力をもって、これらの魂に救いを与えて下さい)
弔いの言葉を述べ、力なく座り込んだハーンは、呆然と考えた。
(日が差したってことは、これで黒い空は去ってくれたのか? でもなぜ突然明るくなったんだ?)
ハーンはゆっくりと立ち上がると、バルメス達に深々と黙祷を捧げて部屋をあとにした。ひょっとしたら最悪の事態だけは免れたのかもしれない。ハーンは淡い期待を胸に、館からのろのろと這い出ていった。
表に出たハーンは、日の光の明るさに目がくらんだ。上空は雲一つない青空になっている。黒い空は――波がひくように北へと戻っているのだ。ハーンは、泣きはらした目を拭い、とりあえず窮地を脱したことを実感した。が。
(――ちがうな)
ハーンの“知識”が、あまりに重い言葉を囁いた。
そうは言っても黒い空は見る見るうちに引き下がっているじゃないか、ハーンは陰鬱と安堵が混ざった頭で考えた。しかし次の瞬間、ハーンの顔色は真っ青になる。
「違う! あれは……あの空は還っていったんじゃない!」
黒い空は、波がひくように、すぅっとひいていった。
そう。あたかも、大津波が訪れる前に海の潮が大きく後退するがごとく――。
「この地域一帯を“混沌”の中に飲み込もうとしてるんだ!」
ハーンは最悪の絶望とともに確信した。
もはやハーンに出来ることは無くなってしまった。
(聖剣を持ったルードがここにいれば? いや、だめだ。あの剣は本来持ちうる力をまだ発揮していない。じゃあ、僕が“混沌”を抑えきるというのは? 無理だ。人間の体で抑えきれるようなものじゃあない!)
ハーンは、枯れ果てた喉をそれでも張り上げながら、住民達に逃げるようにと勧告し続けた。じき、クロンの宿りは濁流のように迫り来る“混沌”に飲み込まれてしまうのだ。
血にまみれた衣服を振り乱し、息せき切って駆け抜けるハーンを、人々は奇異の目で見つめていた。化け物がいなくなって、空も元どおりに戻ったというのに、この若者は何を必死になっているのだろう? ああそうか、親しい人が亡くなったので悲しみに暮れるあまり走っているのだ。かわいそうに。
[頼むから……逃げてください! はやく! “混沌”に飲まれる前に!]
ハーンの必死の懇願もむなしく、人々はただハーンを哀れみの眼差しで見つめるだけだった。
足下のぬかるみに足を取られ、ハーンは危うく転びそうになった。石の敷かれた通りを走っているというのに、なぜ泥を踏みつけているような感じがするのか、ハーンは訝しがって足下を見た。
地面が“混沌”の影響を受け、腐りつつあったのだ。ハーンの踏みつける石はぐにゃりとひしゃげ、彼の足下を危うくさせる。振り返ると、黒い空は北に引き返すのをやめていた。
(僕が外に出るまで、“混沌”の侵攻から持ちこたえられるのか?)
心臓の鼓動は悲鳴を上げ、とうに限界に達したことを主に伝えるが、ハーンは走るのをやめるわけにいかなかった。
やっとの思いでハーンは東門――二つそびえる石造りの監視塔まで辿り着いた。東門ではナスタデン達が衛兵達と話をしていたが、ハーンの息遣いに気付き、彼を迎えた。
[兄ちゃん、やっと来たね!]
ディエルの声にハーンは安堵した。だが、まだ腐らずに固さを保っている小石にけつまずくとその場に倒れ伏せた。
[こんなになるまで走ったってのか? 大丈夫かハーン]
ナスタデンはハーンを抱え起こして言った。
[だいじょうぶ……]
息も絶え絶えにハーンは言った。
[何が大丈夫なもんか。とにかく落ち着けよ、な? 化けもんも退治されたって言うし、もう戻ろうと思ってたところだ。宿に戻ったら休ませてやるからさ]
ナスタデンはにんまりと笑って見せた。ハーンは目を見開いてわなわなと打ち震え、宿の主人の裾をぎゅっとつかむと、大きくかぶりを振った。
[ハーン?]
ハーンの表情が冴えないのに気付いたナスタデンは、声の調子を落として語りかける。
[戻っちゃだめだ、親父さん! うっ……]
ハーンはそれだけ言うと激しく咳き込み、胃の中のものを吐き出した。未だ肩で息を繰り返しているハーンはそれでもすくりと立ち上がり、ナスタデンと対峙した。
[今は詳しく話している時間がないんだ……とにかく逃げよう! せめてあそこに見える丘まで辿り着かないと……]
門を出て二、三十フィーレ先にある小高い丘を示した。
[おい、なんだあれは?!]
衛兵達の声を聞いたディエルは町の中を見渡した。
「うわ……」
ディエルは顔をしかめた。大地は今まであったかたちを成さなくなっており、ぼこぼこと音を立てて腐っていく。
[兄ちゃん達、町はもう保たないぜ! あの空が引き返してくるよ!]
ディエルが叫んだ。
土が腐り、今までの固い地盤を失った家々は、徐々にではあるが地中に沈みつつある。町の中からは予期せぬ出来事に対し、再び驚きの声が聞こえてきた。
ナスタデンはおもむろに足下の石をつかんだ。石はまるで柔らかい粘土のようにどろどろになっていた。ナスタデンは苦虫をかみつぶしたような顔をして、気色悪い感触のする石をうち捨てた。
[せめて……これだけでも……救いになってくれれば……]
ハーンは胸の前で両手をかざし、聞き取れないような声で二言三言呪文を唱えた。すると手の間から、シャボン玉のような透明な球がぽうっとわき上がってきた。
[な……ハーン?!]
術の行使を目の当たりにして驚くナスタデンを後目に、ハーンはふわりと浮く球に向かってあらん限りの大声を上げた。
[クロンの宿りはもう保たない! お願いだから東門から逃げ出してほしい!]
言い終わったハーンは、ボールを投げ込むような要領で、言葉を吹き込んだ透明な球を町の中めがけて投げた。ハーンの手を離れた球はまるでそれ自身が意志を持っているかのように速度を上げ、町の中心と思われる辺りで大きく上に昇って弾け散った。そして球にこめられたハーンの声は、あたりにわんわんと響いた。
[これで少しでも多くの人が逃げ出せたらいいんだけど……]
意識が朦朧としつつあるハーンは、再びナスタデンの肩に寄りかかった。
[逃げよう、親父さん。ついに崩壊がはじまってしまった]
ハーンが指さす方向。一度は引いたと思われていた黒い空が、再び押し寄せようとしていた。しかも今度が空だけではなく、大地をも染めんとばかりに、漆黒の空間をともなって。
[……分かった。逃げよう]
ナスタデンは幾多ものこみ上げる感情を抑えつつ、短く言い切った。




