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フェル・アルム刻記  作者: 大気杜弥
第二部 “濁流”
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第四章 水の街サラムレにて (三)

三.


 夕方近くになり、ようやくライカが目を覚まし、ついでルードがむくりと起き上がった。〈帳〉はルードとともに酒場に向かうことにしたのだが、ライカもついてくると言いだした。

「だがライカ。君はここにいたほうがいいのではないか? 言葉が分からないだろうし、ちと物騒だぞ、夜の酒場というのは?」

「分かってます……でも……」

「でも?」ルードが聞き返す。

「でも……」

 ライカは目を泳がせて、どのような言葉を言うべきかしばし考えた。

「ルード。まさかわたしを置いて、おいしいものを食べに行こうっていうんじゃないでしょうね? なんと言ってもついてくわよ!」

 それが空元気であることを、ライカ自身は分かっていた。


 この街に来てからの彼女を苛んでいる疎外感。自分の知らない言葉がまかり通っているというのは、なんと心細いことなのだろうか。ふと、今朝方見た夢の一片が頭をよぎった。これからを暗示させるような暗い夢。彼女達に待ち受けている過酷な使命が、夢のかたちをとったのだろうか? いずれにせよ彼女の胸中のみにしまい込むには大き過ぎる。そんなつらさを隠すためにライカは笑うのだ。その笑いに隠された感情を、ルードは分かってくれるのだろうか?


(そんなの、わがままで勝手な希望だわ)

 冷静に見つめる、心の中のもうひとりの自分が囁いた。

「俺に振るのかよ? 〈帳〉さん、どうする?」

 ルードはちらと〈帳〉を見、そしてライカを見る。ライカは腕組みをしたまま、ルードの回答を待っているようだった。

「むぅ……」

「どうなのよ?」

「まあ俺は……いいと思うけどさ」

「じゃあ、決定ね! さ、行きましょ! いいでしょ、〈帳〉さん?」

 ルードの言葉が終わらないうちに、ライカは彼の腕をとってそそくさと歩き始めた。

「やれやれ、困ったお嬢さんだ……」

 〈帳〉は苦笑すると、二人の後をついていった。


 ライカはまるで上機嫌のようで、しきりにルードに笑いかける。そんな彼女につられてルードも笑い返すのだった。

(ライカどうしたんだろ? 妙に明るいな?)

 ルードは、どこか心に引っかかる感じを持ちながらも、ライカの快活さを前にして違和感は隠れ去った。

(ま、明るいことはいいことだし……。俺も楽しくなるからいいか)

 忙しげに行き交う人の間をくぐりながら、一行は〈雪解けの濁流〉を目指した。ふだん山村で暮らしているルードにとって街の雰囲気は珍しいもので、彼はひっきりなしに周囲を見渡していた。

 ふと、ルードは奇妙な雰囲気を感じた。見ると、道ばたに座り込んでいる痩せこけた男が焦点の合わない虚ろな眼差しで、そこかしこに目を向けていた。

「ふん、だから言ったじゃねえか、あの野郎、俺の言ってることに……」

 男の言葉は完全に常軌を逸していた。誰に言うでもなく意味のないひとり言を繰り返す男を横目に、ルードは道を急いだ。

「あれってアズニール語じゃないの?」

(そうだ! あの口調はアズニール語。俺達しか話せないと思ってたのに、一体いつからこんな風になっちゃったんだ?)

 ルードはそう思いつつ、酒場の扉をくぐった。


 いくつもの円卓が並ぶ店内はすでに旅商達がおり、それぞれの会話に花を咲かせていた。大声で笑い話をする者、稼ぎの話をする者、にやつきながら下世話な話をする者――十人十色である。ざわめく彼らをちらちら見ながらルード達も席に腰掛け、飲み物を注文した。


[……だけどな、南のほうがとんでもないことになってるってのは本当だぜ?]

 隣卓の椅子に腰掛けている若い商人の言葉に、ルードと〈帳〉は反応して耳を傾ける。

[大昔の言葉っていうやつをだな、南の連中がしゃべり出したのよ。嫌なことにそれが物忌みの日に起きやがったんだ]

[ジェリスよう、なんなんだよ、その大昔の言葉ってのは?]

 向かいの席に腰掛けている長髪の男が言った。

[学者さんに言わせれば、だ。なんでも神君がフェル・アルムを統一なさる前、世界で使われていた言葉らしいぜ。それが今になって中枢をはじめ、南部全域に広がっちまったんだ。ダナール、信じられないかもしれないけどほんとなんだ]

 ジェリスという商人は言った。

[そんなのが自分のあずかり知らないうちにしゃべれるようになってみろ。おかしくなる奴が出ても仕方ないだろう?]

[若いの、それなら俺も聞いたことがある]

 それまで向かいの席に座っていた口ひげを蓄えた男が、酒を片手にジェリス達に近づいてきた。

[俺はイルーレ。オルファンからやって来たんだが、なんせ、俺自身その言葉を話せるようになっちまってるしな]

[で、イルーレさん、どんなふうなんだ、あっちはさ?]

 酒をつがれたジェリス達は、思わず身を乗り出す。

「混乱しきっている」

 ルードには、アズニール語でしゃべる男の声が聞こえた。

[あん?]長髪のダナールが聞き返す。

[〈混乱しきっている〉って言ったんだ。大昔の言葉ってやつではな!]

 イルーレは笑って言った。だが、その顔は急に険しくなる。

[だが今の世の中、笑いごとじゃあすまなくなってきている。言葉もそうだが、オルファンのラーリ山で炭坑夫が化け物に殺されたり、アヴィザノの近くで化け物が八つ裂きになっていたり……ここんとこ常軌を逸する出来事ばかり立て続けに起きている。さらにだ……]


[興味深いお話ですね]

 いつの間にか〈帳〉が彼らの横に立っていた。

[出来れば私にも聞かせていただけないだろうか?]

[兄さんは芸人かい?]と、ダナール。

[だったらなんか一つみせて欲しいもんだな。そうすればとっておきを教えてやるよ]

 イルーレが言った。

[なら……]

 〈帳〉はあごに手をやり、少々考えるふしをみせた。まるで何かを探っているように周囲を窺いつつ。

[では、これなどいかがですか?]

 彼はおもむろに、手近にあった空のグラスを取り、ナプキンを一枚入れるとぱちん、と指を鳴らした。すると、もぞもぞとナプキンの中で何かが動き始め、〈帳〉がナプキンを取るや一羽の小鳥が現れた。商人達は一様に感嘆の声をあげる。

 〈帳〉が手にしたグラスを揺らすと、小鳥は飛び立ち酒場の中を二、三周軽やかに飛んで回ったあと、もとのグラスに収まった。〈帳〉がナプキンをかけ、指を鳴らしてナプキンを取ると、グラスはもとの空のグラスに戻っていた。

 酒場の中はどっとどよめき、拍手やら口笛やら、〈帳〉に対する賛辞が送られた。

[兄ちゃんやるな! 手品師なのかい?]

 ダナールは〈帳〉の肩を叩いて、自分の隣に座らせた。酒場にいたほかの商人達も彼らを囲むようになった。


「ねえ、ルード」

 完全に輪から外れる格好となったルードとライカ。商人達と〈帳〉を横目で見ながら隅のほうでちびちびと飲んでいたのだが、やがてライカが小声で尋ねてきた。

「あの人達、なんて言ってるの?」

「ざわざわしていてよく聞き取れないな。みんなそれぞれ、言いたいことを言ってるみたいだ。あとで〈帳〉さんから訊くしかないかな?」

「ルードもあの人達にまじって聞いてくればいいじゃない?」

「……そういうわけにもいかないだろ」

 言いつつルードは生ぬるい酒を飲み干した。

「なんで?」

「さぁてね、どうしてだろうね?」

 ルードは給仕に合図を送り、もう一杯酒を注文する。ライカは何かはぐらかされている感がした。ルードは、あからさまに目をそらしている。彼が物事をごまかす時には必ずこうするのだ。

「あ、ずるい!」ライカは口をとがらせて非難する。

「なんだ、ライカももう一杯欲しいのか?」

「そうじゃなくて!」

 ライカはうつむいてぶつぶつ、こぼした。何かしら自分を安心させてくれそうな言葉をルードが言ってくれるような気がしていたのに、見事に逸らされたからだ。

「それはそうとしてさ、……なんだよ、怒ってるのかよ?」

 ライカにじろりと睨まれて、ルードは苦笑した。

「何? 今なんか言おうとしてたでしょう? いいから続けなさいよ」

 いかにも不満げな口調でライカが言った。

「ああ、さっき〈帳〉さんが使った手品。あれは術なのかな?」

 そう言いつつ、ライカに飲み物の入ったグラスを手渡した。

「ありがと」

 ライカはグラスを受け取って、少し表情を和らげる。

「……そうね。わたしも術のことはよく分からないけれど、あれは目くらましの術のたぐいだと思うわ」

「俺もそう思ったんだ。〈帳〉さんも、こんなところで術を使わなくてもいいのに。誰が見てるか分からないじゃないか」

 それを聞いて、ライカの心臓が跳ねる。頭をよぎったのは疾風のこと。酒のおかげで頭の片隅に追いやられていた不安が、再び目の前に現れた感じだ。不意に胸の辺りがきゅうっとつぶされたように苦しくなり、ライカは顔をしかめた。

「ライカ?」

「なんっ……でもない……」

 気丈にもライカは笑ってみせた。だが、表情がこわばっていることが自分でも分かる。

「だけど気分悪そうじゃないか。先に宿に帰ってようぜ? あとで〈帳〉さんから話を聞けばいいわけだし」

 ルードはライカの背中を叩いて催促した。ライカも何か言おうと思ったのだが、結局何も言えずうなずいた。


 二人は席を立ち、酒場をあとにしようとした、が、無粋な男がひとり、卑下た笑いを浮かべて声をかけてきた。顔を赤らめた、見るからに酔っぱらい風情。ルードはこの男が中枢の“疾風”ではないかと一瞬勘ぐったが、そうではなさそうだ。

[お二人さん、こそこそと話しちゃってさ。これからどこへ行こうってんだい?]

 ルード達は男を無視して出ていこうとした、しかし。

「きゃ!」

「ライカ!」

 男はライカの腕をつかむと、無理矢理自分の前に立たせた。

[俺を無視するんじゃねえよ、姉ちゃん。人が話しかけてるってのにその態度は無いんじゃねえのか?]

 妙な相手にわけの分からない言葉を言われることほど嫌なものはない。しかもつかまれた右腕が痛い。ライカはルードに目線を送った。

 ルードはライカと男の間に割って入り、ライカを背中でかばう姿勢をみせ一言。

[この手を離せ]

[……ああん?]

 あからさまに馬鹿にした口調で男は聞き返した。

[いいかげんにしろよ。彼女から手を離せと言ったんだ]

[はっ、小僧が。いい気になるんじゃねえ! 俺が手を離さなかったらどうするってんだよ?]

 男が大声を張り上げる。これには周囲の商人達も会話を止めざるを得なかった。

[手を離さなかったら……俺にも考えがある!]

 ルードは怒りの表情で男と対峙し、腰に下げている剣の柄をこん、と叩いた。酒場の中がどよめく。

[やろうってのか?]

 男はライカの腕を放すと、戦う構えをみせた。ルードからすれば明らかに素人の構えだが、ルード自身も後に引けなくなっていた。

(どうする? やるのか?)

 だが救いの手はすぐに伸ばされた。

[ルード!]

 〈帳〉が駆けつけ、小さい光の球を男の眼前で炸裂させた。男が目を押さえ、後ずさった瞬間に、ルード達は酒場の外に急いだ。


「大丈夫だったか?」

 宿に戻る道中、まず口を開いたのは〈帳〉だった。ライカがこくりとうなずいた。

「ならばいい」

「〈帳〉さんのほうは? 何か聞けたんですか?」と、ルード。

「あと、あんなとこで術を使って大丈夫なんですか?」

「あの手品が術によるものだと分かったのはさすがだな」

 〈帳〉は言った。

「安心していい。術の行使前に周囲は確認しておいた。怪しい輩などはいなかった。それと、商人達から聞き出せた世界の現状については、道すがら話すわけにもいかないだろうからあとで話すことにしよう。結論だけを言うならば、もはや安穏としていられない状況だ。今夜にでも出発したほうがいいだろうな。……疲れてはいないか?」

「俺は大丈夫ですよ。ライカは……あれ?」

 ライカが笑みを浮かべている。ルードはそのことに驚いた。

「何?」

 ライカが訊いてきた。

「今、笑ってたんじゃないか?」

「え、わたし笑ってた?」

 そう言ってはじめて気が付いた。自分は嬉しかったのだ。

 ルードと男が何を話していたのかは分からないが、明らかなことが一つ。ルードが自分を守ってくれたということ。思い返せば酒場の中では、ずっと自分の横にいてくれたではないか。その一つの行動だけで、今日感じた全ての不安は吹き飛ばされ、ライカの胸中は安らぎに包まれるのであった。

(私はひとりじゃないんだ。ルードがいてくれる。そう、不安なことはひとりで抱え込まないで、ルードと一緒になって克服していけばいいんだ)

 ライカは、未だきょとんとした表情を浮かべている想い人に笑いかけた。

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