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フェル・アルム刻記  作者: 大気杜弥
第二部 “濁流”
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序章 (一)

一.


 ユクツェルノイレ湖。

 それは、フェル・アルム北部と南部を隔てるようなかっこうとなっている湖であり、フェル・アルムの創始者、神君ユクツェルノイレをたてまつっている聖なる湖でもある。


 千年前、フェル・アルムに秩序をもたらしたユクツェルノイレ。

 しかし実はフェル・アルムの千年の歴史が偽りのものである、などと誰が信じようか?


 ユクツェルノイレ湖から流れ出るフェル・クォドル河の流域は、二十メグフィーレ四方、広大かつ肥沃な平野となっている。それゆえフェル・アルム南部域には数多くの町や村が点在し、町と町を結ぶ街道には人の行き来が絶えない。

 春を迎えて二ヶ月あまりが過ぎた。すでに初夏の日差しが降り注ぐようになったというのに“中枢都市群”と称される南部域は、帝都アヴィザノを中心に置いているため、未だに建国千年祭が華やかに催されていた。


 鉱山都市オルファンもそんな街の一つだ。

 中枢都市群の南はずれに位置し、農業が産業の中心となっている南部域にあって、唯一鉱業が盛んな街である。

 今夜は十日ぶりに祭りが行われているものの、鉱山を閉めるわけにもいかなかった。ラーリ鉱山は良質の鉄を産出するためだ。町の男達の何割かは不平を漏らしながらも、今日も坑道に潜っていた。

 六刻も過ぎになると男達はようやく仕事を終え、めいめいの家に戻る。活発な者はその後で祭りに参加するのだろう。

 そして彼らは感謝を新たにするのだ。今ある平和に。そして、この地に平穏をもたらした神君ユクツェルノイレに。

 今日一日も平穏に終わるものと、誰も信じて疑わなかった。


* * *


 彼は、目の前の光景が未だに信じられなかった。狂気の一歩手前の冷静さ。怯えきった自分の息遣いのみが、やけにはっきりと聞こえる。叫ぶことも、逃げることも出来ない。自分の身が死に直面している、というのに。

 のそり。地を這いながら、“それ”は暗闇から現れた。夜のとばりに包まれているというのに、球状の漆黒が存在しているのが彼にも分かった。

[うわあああああ!!]

 男の精神はとうとう破綻し、狂気が彼を覆い尽くした。這い出てきた異形の“それ”を間近で見てしまったがために。フェル・アルムの常識では考えられないもの。存在すら許されないもの。

 男の奇声は次の瞬間止んだ。ぐしゃり、という鈍い音とともに。男の頭を“それ”の腕がつぶしていたのだ。首を失った男の胴体が、どさり、と無造作に倒れた。

 爛々《らんらん》と輝く三つの赤い目を細め、“それ”は天に向かって吼えた。その鳴き声は人のものでも、獣のものでもない。大地に響くような低音と、空気を引き裂くような高音。双方の入り交じったこの世ならざる声は、人気ひとけのないラーリの山中にこだました。

 “それ”はしばらくして、元あった暗闇の球の中に還っていった。しかし漆黒の球は消えることなく、ゆっくりと、動き出したのであった。


 この夜、空が星一つない空虚な暗黒に包まれていたことを知る者は、ごくわずかであった。

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