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フェル・アルム刻記  作者: 大気杜弥
第一部 “遠雷”
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終章 (三)

三.


 ルードは、杉板張りの廊下をそろりそろりと忍び歩きをしていた。館は、〈帳〉ひとりで住むにはあまりにも大きく、ルード達が居住している今も、それは変わらない。スティンの麓のベケット村で一番大きいとされる旅籠、〈椋鳥むくどりの房〉よりさらに大きいものだろう。

 忍び足で階段を上ると、そこには〈帳〉の部屋があった。ルードは重厚な雰囲気を醸し出している鉄の扉まで近づくと、そっと耳を当てた。かすかに二人の会話が聞こえてきた。


「……さすが……分かってましたかぁ……」

 この間延びした声は、ハーンだ。

「……“果ての大地”……ガザ・ルイアートの存在を知っている者などいません……」

 これは〈帳〉の声だ。

 途切れ途切れでしか聞こえず、何を言っているのか分からなかったが、ルードは一つ、気になった。大賢人であり、またそれ以上の存在である〈帳〉が、ハーンにきわめて丁寧な口調で話しているという点だ。

 なおもルードが扉に右耳を押し当てていると――不意に反対の耳が引っ張られ、激痛が走った。

「痛ってえ!」

 とっさにルードは大声を出してしまい、耳を押さえる。ルードが横目で見ると、そこには両手を腰に当て、半ば呆れた表情を浮かべているライカがいた。


 彼女は溜息をもらした。

「情けない格好ね、ルード……」

 ルードも言い返せず、ライカを見つめたまま座り込んだ。

 ぎいっ……

 音を立てて扉が開いた。ルードの表情はまたもひきつる。〈帳〉はそんな彼を見下ろしながらも険しい表情を崩さなかった。ルードは何も言えない。〈帳〉の態度が彼の返答を拒否するかのようだった。

(この人はいつもそうだった……)

 〈帳〉は滅多なこと以外では表情すら変えず、またその口調も同様だった。あまりに長い年月が彼の心に壁を作り、孤独にしてしまったのか、あるいは自らのとがゆえに悩んでいるのか――。それでもルード達が来て騒ぎ出してからは、ずいぶんと人間らしさを持つようになった。奇妙な言い方ではあるが、ルードにはそう思えた。

「……聞いていたのか、ルード」

 〈帳〉は重い口調で話した。

「なんだ……ルードかあ」

 ハーンは扉の隙間からひょっこり顔を出した。こちらの声は相も変わらず軽快だ。

「ごめんなさい。わたしがルードをちゃんと止めておかなかったから……ほら! ルード!」

 ライカは申しわけなさそうに言いつつルードを立たせ、謝ることを促した。

 ルードは立ち上がるとおそるおそる〈帳〉の顔を窺った。表情は相変わらず険しい。

 三人の緊張状態を打ち破ったのは、ハーンの一言だった。

「別に僕は聞かれてても困らないんだけどなぁ」

「しかし! ……今ここでことをややこしくするのは……」

 毅然とした表情を崩さずに振り返り、〈帳〉は反論する。

「ややこしく?」と、ルード。

「あ、いや……」

 〈帳〉にしては珍しく、ルードの一言に狼狽した。次の言葉を紡けないほどだ。

「とにかく。わたし達は食堂に戻りますから。……きりのいいところでお茶を飲みに来てくださいね」

 ライカは〈帳〉に向けてにっこりと笑うと、ルードの腕をつかみ、去っていった。連れ去られていくルードは〈帳〉の言いかけた言葉が気になっており、今まで怒られていたことすら忘れて、訝るような表情をしていた。


* * *


 ルード達が視界から消えると〈帳〉は重い扉を閉め、つぶやいた。

「そう、いずれは彼らにも語らねばなるまい。しかしながら、それほど急を要する事柄でもない……もっとも――」

 彼は、すでに腰掛けていたハーンに声を向けた。

「……あなたが、以前と同じ存在である、というのなら、いかに事実が過酷であれ、彼らに……そう、まわりはじめた運命をすでに背負っている彼らに、さらに重い荷を背負わせなくてはならないのですが、どうですか。あなたは――?」

「ひとりのバイラルとして生きるしかない。それが僕の背負った“罪”ですからねぇ……」

 外の景色を眺めながら頬杖をつき、ハーンはきわめて普段どおりの口調で話した。

「カラファー生まれ。戦士にしてタール弾き。術の力を覚醒させ、術使いともなった。……それが僕、ティアー・ハーンの本性です。それ以外の何者でもありませんよ、僕は」

「ひとりのバイラル……か」

 〈帳〉は椅子に深く腰掛けると、ハーンと対峙した。賢人はハーンの瞳をじっと見つめる。真意を見きわめるために。

「あなたの瞳には一点の曇りもない。分かりました。あなたはもう別の存在なのですね。たとえ記憶を残していても……」

「〈記憶〉は残っていません。〈知識〉として蘇ったんですよ。十三年前、“ニーヴルの事件”によって術が覚醒したと同時にね。……だけどそれは全てじゃない。ただ明確なのは、赤ん坊の時からフェル・アルムに生き、そして、今ここにいるという僕――ティアー・ハーン――の人生だけです」

 〈帳〉の眉がぴくりと動いた。

「しかし、覚えておいでなのだろう? “あれ”を。……我々とのあの――」

 ハーンは〈帳〉の言わんとしていることを察した。

「ええ、覚えてますよ。ただし先ほど言ったとおり、記憶としてではなく、知識としてね。あなたの犯した過ちについても……理解出来ます」

 それを聞いて、〈帳〉は黙したまま頭を垂れた。

「一ヶ月前、あなたは僕達に言いましたよね。事実の隠蔽いんぺいは、何も生み出さない……かりそめの緩慢な平和を求めるあまり、フェル・アルムは多くを犠牲にしてしまった、と。……そして、こうも言ってましたっけ。おそらくフェル・アルムには遠からず秩序の崩壊が訪れる、とね。無理矢理せき止められた流れは、ほんの些細なきっかけで崩れるかもしれない。小さな一点にしか過ぎなかったひび割れは徐々に大きくなり、気付いた時にはとても人の手には補えるものではなくなってしまう。最後は濁流となって全てを飲み込むのです……」


 ハーンは少し考え、付け足した。

「いえ……別の“力”の干渉を招くことも考えねばなりませんよね。〈帳〉、あなたもそれを憂えているのでしょう?」

「触手の化け物と、星なき暗黒の空。それが意味するものは、“混沌”の到来……」

 〈帳〉はぽそりと言った。

「アリューザ・ガルドを含め、多くの人々の置かれた状況を混乱させたくはないのですが……最悪の事態だけは避けねばなりません。……私は力を失いました……あなた達だけが頼りなのです。……デルネアを止めねばならない。さもなければ大いなる“力”に飲み込まれてしまう……」

 悲しみに満ち満ちた真摯しんしな瞳で〈帳〉はハーンを見つめた。


「……やれやれ……」

 ハーンの日溜まりを感じさせる声が〈帳〉の心を癒す。

「力を失ったって言っても、あなたの場合はもともとがあまりに強大でしたからねぇ、大魔導師殿。魔法に関しちゃあ僕は未だにあなたの足下にも及びませんよ。……しかしまあ、こんなご時世に僕の記憶が目覚めて、世界の運命を握る人となってしまったっていうのは……結局のところ僕はかつての僕と同じ役柄を担っているってことなんでしょうかねぇ?」

 ハーンはゆっくりと腰を上げると、戸口に歩いていった。

「どうするのです?」

 〈帳〉が声をかけた。

「そろそろ戻ってお茶にしませんか? ルード達も怪しんでいるでしょうしね。……それと、僕達の立場は今までどおりでいましょうよ。あなたは大賢人。僕は一介のタール弾きにして戦士。ティアー・ハーン以外の何者でもない、って言ったでしょう?」

「……それもまたしかり、か……。では下に降りようか。ティアー・ハーン、君の旅が無事であることを祈って」


 〈帳〉もまた立ち上がり、自分の部屋を後にしようとしたが、ふと躊躇した。

「どうしましたか?」

 取っ手に手をかけ、部屋を出ようとしたハーンが振り返る。

「……ハーン、君はここから出たあと、何をしようというのだ、本当のところ?」

 それを聞いてハーンはにんまり笑ってみせた。

「やっぱり分かっちゃうんですかねぇ。確かにスティンには行きますよ。その後はそう、街道を南下しつつ異変がないか調査して……最後にはアヴィザノへ赴きます」

「なんと、ひとりでか?!」

「ええ。中枢の情勢を知っておきたいですし……もし今デルネアが中枢にいるのなら、警戒がいかに厳重であれ、会っておきたいですから」

 ハーンは大したことがないように、さらりと言ってのけた。

「ハーンよ。ひとりではあまりにも危険だ。やめたほうが賢明と思うが。言っただろう、彼の“力”がどれだけ危険か。それに彼は、人の心に入り込むのに非常に長けている。私でさえ彼に会うのはきわめて慎重にならなくてはならないのだ。まして君は、ニーヴルの残党として認識されることもあり得る。あきらかに君の身が危険にさらされるぞ。やはり、我々と合流したあとのほうがいいのではないか?」

「いえ。こういうことって、ひとりのほうがかえって感知されにくいもんです。それにね、もし彼と会えたとしても、すぐに剣を交えたりはしませんよ。……彼に訊くべきことっていうのがあるでしょう? それに、あらゆる意味で機が熟さねば、たとえ彼を倒したとしても、今回の崩壊はとどまることなく、むしろ進行するでしょうしね。でも、彼と対面叶い、時の利得たりと感じたら、迷うことなく戦うでしょうけど」

「では……あくまで単独で行こうというのだな」

「はい。あなたとルード達は還元の切り札なんです。あなたの知識。ガザ・ルイアートを得たルードの“力”。ライカがこの世界に来たことで生じた、アリューザ・ガルドとの空間の接点。それら全ては取っておかなきゃならないと思うんですよ」

 それを聞いた〈帳〉は、厳しい表情を浮かべたが、やがて部屋の奥へ行くと、ひと振りの剣をハーンに差し出した。


「だが君とて大きな切り札には違いないのだ」と〈帳〉。

 ハーンは剣を受け取ると、鞘から剣を抜き、刀身をさらした。片刃の剣には意匠がほどこされてはおらず、無骨ともいえたが、その刀身からは確かに活力が感じられた。光から隔絶された闇のように黒い刀身は、全ての光を吸収してしまうかのように、ちらりとも光らない。そのような漆黒の刀身を凝視していたハーンは、やがて鞘に収めた。

「これは……」

「持っていくがいい。聖剣がルードを携帯者と見なした今、君は短剣しか持っていないだろう? これは、漆黒の導師スガルトを倒した魔導師、シング・ディールが鍛えし剣。名を“漆黒の雄飛”――レヒン・ティルルと冠する。君も感じているように、闇の波動に包まれている剣だ。さすがにガザ・ルイアートの強大さと較べたら劣りはするが、持ち主は強大な闇の加護を得る。……以前のあなたとは違う君を――ハーンを信じているから、これを託すのだ。存分に使ってほしい」

「ありがとう。僕を信じてくださって。それを裏切る行為はイシールキアにかけてしません」

「では行こうか。君が出かける前の、最後の休息となるが」

 そう言って〈帳〉は重い扉を開いた。

「なあに、またお会いしますよ。アヴィザノから戻ったらね! 言ったでしょう? ちょっと家を空けるだけなんですよ」

 ハーンはそう言って〈帳〉の部屋から出ていった。彼の背中を見ながら〈帳〉はそっと笑みを浮かべ、扉を閉じた。


* * *


 ルードは食堂に戻ってきてからというもの、渋い顔を崩さなかった。手をあごにやり、肘を突いたまま椅子に腰掛けている。ライカはその隣に座っていた。

「ねえ、大丈夫よ。ハーン達が何か企んでるわけじゃないのは、ルードだって分かるでしょう?」

 最初はルードの行為に怒っていたライカも、さすがに彼の悩む姿を心配げに見つめるようになっていた。

「そりゃあ、分かってるさ」ルードは姿勢を崩さない。

「……でもさ、俺の知らない何かを、あの二人は知ってるんじゃないか? 俺が話を聞いていたと分かった途端、雰囲気が変わった。今さら何をごまかす必要があるっていうんだ?」

(ここに辿り着いて一ヶ月。俺達は家族のように暮らしてきた。そんな俺達に話せない事情がなぜあるっていうんだ? 水くさいな。それとも、俺達が知る時期ではない、ということなのか? あの二人の間の……秘密については……)

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