第七章 〈帳〉 (三)
三.
少々早めの夕食には昨晩〈帳〉がもてなし損ねたものに加え、ライカもまた腕を振るった。その間、ただ待つだけとなってしまったルードは部屋で安穏と寝ていたが、ハーンの告げ口でライカによってたたき起こされる結果となり、あわれ井戸までの水くみや、そのほか雑務全てをハーンの代わりにこなすことになってしまった。
そんなハーンはひとり、食堂にてタールを弾いていた。ルードがそんなハーンに悪態をつき、ハーンは素知らぬ顔でやり過ごす。それを厨房で聞きながら、ライカと〈帳〉は笑っていた。
食事が終わる頃には日もすっかり沈み、多少薄暗くなった部屋に明かりがともされた。
いよいよ話し合いのはじまりだ。
「では話すとするか」
〈帳〉は切り出した。三人は〈帳〉のほうへと向き直る。とくにルードとライカは、いかな事実があろうとも、おののくことなどしない、という強い姿勢で臨んでおり、それぞれの瞳には真摯な光が宿っていた。
〈帳〉は一同を見渡すと咳払いを一つ、そして静かに語り始めた。
「まず、はっきりとさせておかねばならないのは、フェル・アルムという世界――“永遠の千年”とも称されるこの閉鎖された世界は、もともとはアリューザ・ガルドに存在した、ということだ」
〈帳〉の言葉に、ルードとライカは思わず顔を見合わせる。
「信じがたいかもしれぬが……これは紛れもない事実なのだ」
そんな二人を一瞥し、〈帳〉は話を続けた。
「六百年も昔のことだ。私はアリューザ・ガルドで生活を送っていた。その頃、アリューザ・ガルドはひとつの国によって統一されていた。その王国をアズニールという。王国では魔導の研究が盛んに進められていたのだ」
「あの、話の途中で悪いんですけど」ルードが口を挟んだ。
「“まどう”っていうのは何なんですか?」
「魔導とは、……そうだな。簡単に言い切ってしまえば、ハーンが持つような“術”をさらに発展させ、強力にしたものだ。発動させるためには、膨大な魔力と数多くの知識、それに世界の理を知らねばならぬのだが、ここでは言及しないことにしよう。本筋からは逸れてしまうからな」
〈帳〉は言った。
「魔導……そう。その力をさらに強力にすべく、私を含む当時の魔導師達は研究を重ねていったものだ」
「でもルード。今のアリューザ・ガルドには、もう魔導は無いのよ。恐ろしい、“力”の暴走があって、魔導は封印されたっておじいさまから聞いたことがあるわ」
ライカが言った。
「そんな大事件があったなんて……どういう世界なんだ、アリューザ・ガルドっていうのは?」とルード。
「なに、フェル・アルムと大差ない世界だ。ただ、フェル・アルムの民にとっては摩訶不思議に感じられることが多々あるだろうがな」
〈帳〉が言った。
「話を続けさせてもらってよろしいかな?」
「あっ……すいません、勝手にべらべらとしゃべっちゃって」
ルードとライカはあたふたと頭を下げた。
しかし、〈帳〉にしてみれば、そんな動作すら微笑ましく思えたのだ。〈帳〉は口元で微かに笑うと、話を続けた。
「魔導師達はいつしか魔法の本質を忘れ、魔力の増幅に力を注ぎ込みはじめた。やがて膨れあがった強大な“力”は魔導師の手では制御しきれなくなった。膨大な魔力が堰を切ったように氾濫を起こしたのだ。恐るべき“魔導の暴走”――あれはアズニール歴四二五年のことだったか……」
帳はそう言って立ち上がると、部屋の中をゆっくりと歩きながら言葉を紡いだ。
「私は暴走する魔力を止めようと、師であり友人でもあるユクツェルノイレとともに対策を講じることにした。私達はアズニール王宮の預幻師、クシュンラーナを迎え入れた。だが彼女の幻視をもってしても解決の糸口は見あたらず、我々は絶望の淵に立たされた。あまたの魔導師達もなすすべがなく、そうこうしている間に暴走したかたち無き“力”は世界中に波及し、各地に壊滅的な打撃を与えたのだ。
「だが、思いもしないところから救いの手が伸ばされた。状況に憂えたディトゥアの神、“宵闇の公子”レオズスが暴走せし魔力を消滅させたのだ。もっとも我々は当初、魔力が自然消滅したのだと考えており、レオズスの介入を知ったのはもう少し後なのだが」
「神だって!?」
ルードが素っ頓狂な声をあげたので、一同は彼を注視した。
「あ、いや……ごめんなさい、何度も……」
またも話を中断させてしまったルードは、三人の視線に萎縮するほか無かった。
「ルードよ。君が唸るのも理解出来る。が、事実として捉えて欲しい。本論はむしろ、ここから始まるのだからな」
一息入れて〈帳〉は再び語りはじめた。
「かくてレオズスは、彼が遙か昔、冥王ザビュール降臨時に為したことに続き、再びアリューザ・ガルドを救った。だが強大な魔力に対してはレオズスをしても太刀打ち出来るものではなかった。苦肉の策としてレオズスが用いた“力”は――“太古の大いなる力”、禍々しい“混沌”の力だった!
「そして、レオズス自身が望んだのか、それとも“混沌”がそうさせたのか……“混沌”に魅せられたレオズスは、人間にとって恐怖と化したのだ。皮肉なことに、強大な“力”を消滅せしえたのは、さらに強大な“力”であった。我々人間は、レオズスに隷従することを余儀なくされてしまったのだ。さながら冥王降臨の暗黒時代のごとくに……。
「私は奴隷戦士として地下で名を馳せていた、デルネアという人物を知った。彼は魔導の力こそ持たないものの、たいそうな切れ者で、我ら三人に策をもたらした。『かたちを持たない魔導の暴走より、現在世界を覆っている“混沌”のほうが、崩すに易い』と彼は言うのだ。元凶であるレオズスさえ倒してしまえば、彼の用いる“混沌”はその帰すべきところに戻る、ということなのだ。
「とはいえ、人間が神を倒すなど果たして出来ようか? ユクツェルノイレと私は、宵闇の公子を倒すすべを探すため、文献をあさった。“聖剣ガザ・ルイアート”。文献にあったのはこの著名な剣のみであった。かの剣は黒き神――冥王ザビュールを倒した剣として知られているが、冥王が倒された後、その所在は全く知れない。
「我ら四人は途方に暮れた。人はレオズスに屈するほかないのか? だがある日、クシュンラーナの夢による幻視によって、一つの剣の所在が明らかになった。その剣はアリューザ・ガルドには存在せず、“閉塞されし澱み”という閉じた次元にあることが分かった。ユクツェルノイレとデルネアが、そのあてどない旅に、絶望へと向かう旅に赴いていった。彼らにとってみればまさに決死であったが、剣を入手することこそ、我々がレオズスを倒す唯一の手段だったのだ。
「三年後、デルネアは剣を手に帰還した。しかし、ユクツェルノイレは帰ってこなかった。『“力”に魅入られた』と、デルネアはそれだけ語った。それから我ら三人は、ついにレオズスと対峙したのだ。彼の発する“混沌”の気は、常人にはとても耐えられないものだった。しかし、“名もなき剣”は、かの聖剣に勝るとも劣らない“力”を発揮し、ついに我々はレオズスを――“混沌”の元凶たる神を倒したのだ。
「こうして、忌々しき“力”は消え去り、アリューザ・ガルドから脅威はなくなった。だが、長年の隷従によってアズニール王朝は弱体化し、ついには崩壊してしまうのだった。アズニールが崩壊したことで、各地の諸候はお互いを牽制しつつ、新たな国を興した。だが、やがてそれは戦争という新たな悲劇を生み、“混沌”の脅威の爪痕が未だ残る中で、数多くの命が失われていった。それを見て、私はさらなる悲しみに包まれた。
「そんな折り、デルネアが驚くべきことを私に告げた。たった一つの王国を創り出そう、とな。私はアリューザ・ガルドという広大な土地を、一国が統べることの恐ろしさを十分知っていたから反対した。そうするとデルネアはこう言ったのだ。『ならば、我らの手のみで完璧に制御出来る、小さな世界を創ってしまえばよいのだ。我らを統括する神も、生活を脅かす異形の生物も、魔導すらも存在しない一つの世界を創り、その変化のない永遠の平穏の中で人が営む――これこそが理想郷だ』とな。“閉塞されし澱み”で、デルネアは大地を切り離すすべを知ったらしい。『多大な悲劇を、痛みを知っている我々だからこそ、そんな世界が創れるのだ』デルネアはそうも語った。
「私も、クシュンラーナも、もはやこれ以上の悲劇は見たくはなかった。私達は、デルネアの言う理想郷に全てを賭けてみることにした。ある空間をアリューザ・ガルドから隔離し、閉じた世界を作り上げて統治する、ということ。それが、アリューザ・ガルドの現状から逃避する、ということを意味するのも知りつつ」
〈帳〉はそこまで語ると、再び自分の席に腰掛け、大きく息を吐いた。
「はあ……」
〈帳〉の、そしてルードとライカのため息が、薄暗い部屋にやけに大きく聞こえるようだった。うつむいている三人を後目に、ハーンはぱちり、と指を鳴らし、術による光球を天井に掲げた。暗くなった室内にぼうっと明かりがともる。
「そうすると、このフェル・アルムを創ったのは……あなた達だっていうんですか?」
最初に顔をおこしたルードは、どう反応していいのか分からない、と言ったふうに戸惑いながらも〈帳〉に訊いた。
「左様。歴史に謳われているように、“神君”ユクツェルノイレが生み出した王国ではないのだよ。あれは我々……いやデルネアが、統治する際に作りだした幻想でしかない。友人に敬意を表してな」
「え?! じゃあ、嘘なんですか!?」
「そう、嘘だ」
間髪入れずに〈帳〉が答えた。
「覚えておくがいい。フェル・アルムには“真実”と呼ばれる“嘘”がそこいら中に転がっていることを。唯一の神、大地神クォリューエルは存在しない。アリューザ・ガルドから隔離させ、新天地フェル・アルムを創り出したのは、神君ではない。我ら三人だった……」
〈帳〉はひとり目を細め、天井に浮かぶ光球をしばし見つめた。その瞳は哀しげであると同時に厳しく、自分の過去を咎めているようにすら思えた。
「西方大陸の最西端――そこは“魔導の暴走”と戦乱のため、難民が多数住み着いた広大な大地だ。我々は、理想郷を築く地をここに決めた。デルネアは自分達の計画を難民に伝えた。難民達も救いを求めて、我らの行いに賛同した。
「それから数年が経過し、我々の理想郷――“永遠の千年”世界の構築の準備も整い、いよいよ実行に移す時がきた。これまでにない大がかりな術の儀式が執り行われる。術が完成したその時こそ、フェル・アルムは新たな一つの世界として存在するようになるのだ。幾人かの魔導師達が、野外に設置された魔法陣を取り囲み、その中心に私とクシュンラーナが座し、儀式は始まった」
そこまで言った時、帳は顔をしかめ、少々のためらいをみせた後に言葉を続けた。
「……私とクシュンラーナは、苦しみをともに味わううちに、いつしか惹かれあい、愛し合うようになっていた。フェル・アルムが創造されたその時は、権限をデルネアに任せ、私達は夫婦となって慎ましやかに暮らしていこう、と誓い合っていたのだ。……しかし――。
「しかし、私達のその夢はフェル・アルム創造の瞬間に、残酷にも消え去ってしまった。儀式が完成し、私が呪紋を空に描き終わった時。ついに空間が隔離し、転移の術は発動したのだ。だがそれと同時に、予期せぬ強大な反動力が働いた。かたちを持たぬ“力”が我々に襲いかかり、幾多の者が衝撃のため吹き飛ばされて空間の狭間の餌食になり、“力”に直撃された者は跡形もなく消え失せてしまった。……そしてクシュンラーナも同様……。術の行使に力を使い果たした私にはなすすべなく、目の前の悲劇を見続けるほか無かった。それはかつての悲劇――魔導の暴走を思い起こさずに入られないものであった。
「かくして多くの犠牲のもと『理想郷』フェル・アルムは完成した。だが、愛するクシュンラーナを失った私にとって、もはや理想郷などなんの意味も持たなかった。私は彼女を失った悲しみにくれるあまり、何も考えられなかった。全ては絶望のみ」
〈帳〉は、一同を見渡す。〈帳〉の背負う、あまりにも大きな過去の悲劇。ルードとライカには、語る言葉がなかった。
「幾日かが経って、私は自分の身体に起きた変化に気付いた。失ったものは片目の視力と、それまでの私を魔導師たらしめていた膨大な魔力。得たものは……けして老いることのない身体。創造者として、術の発動者として、この身体が朽ちるまで永久に世界を見続けること。それが今なお私の使命であり、与えられた罰なのだ。
「次に私は、人々の変容に気付いた。何万に及ぶ民全てが、それまでの彼らではなかったのだ。地べたに力無く座り込み、だらしなく口を開け、時折うめき声を上げている。天を仰ぐその目は虚ろでなんの感情も表さない。なんと恐ろしいことだろう! 異様な光景を目の当たりにした私は、自分の為したことの恐ろしさをひしひしと感じたのだ。だが、魔力を失った私には、彼らに対してなすすべがなかった。私は彼らのもとから逃げ出した。
「それからどれくらいの時が経ったのか、私には見当がつかない。狂人と紙一重となった私は、薄汚れた古城の前にたたずんでいるのに気付いた。私はこの場所を安住の地とし、疲れ果てた心身を癒すこととした。広野の中に人知れず在る古城――それこそがここ、〈帳〉の館なのだ。
「さて……話が長くなってすまないと思っている。これまでの話は、過去の歴史の説明に過ぎぬ――真実の姿ではあるがな。だが、ここからが重要なのだ。空虚な世界がどう変容したか、そして……今後、私達がどうすべきか」
〈帳〉は言葉を切った。
「なんか……話が大き過ぎて……はっきりとつかめないんですけど……今までのだって……」
ルードが困惑気味に言った。
「なに、今ここで全てを理解するのは無理だろう。だが、我々には時間がある。〈帳〉の館の中で、ゆっくりと分かっていけばそれでいいと思う。自らの中で反芻しつつ思慮を深めていけば、あとは時を経るにしたがって分かってくるだろう」
「そうそう、今無理に詰め込むことはないって。僕は歴史の流れをつかんでいるからさ、分かんなけりゃ答えてあげるよ」
〈帳〉の言葉を受け、ハーンが朗らかに言った。
「さて――」
〈帳〉は話を再開した。
「古城の中で長い年月を重ね、私は自分自身を取り戻しつつあった。私はとりあえず、この城を変えていった。ひとりで十分生きていけるように。中では掃除をし、埃を払った。外では種を植え、農作物や草木を育てていった。そして、外界から自分の小さな世界を守るよう、結界を施した。
「次に、自分のいるところ以外の場所に興味が湧いてきた。私が逃げ出してから世界は、人々はどうなったのか。すでに現実を見つめる覚悟は出来ていた。私は忌まわしい儀式の行われたあの場所に赴いていった。そして目を疑ったのだ!
「あの虚ろな目をした人々はどこへ行ってしまったのか? 集落が点在し、人々の喧騒が聞こえてくるではないか。彼らは惨劇を何もかも忘れていた。それどころかアリューザ・ガルドの存在すら覚えていないのだ。むろん、私のことなど覚えているはずもない。人々の無垢な瞳の輝きに、私は喜んでいいのか悲しむべきなのか、途方に暮れた。
「私は一人の人間の存在を思い出した。デルネアだ。彼なら何かを知っているに違いない。私はデルネアの行方を追った。彼の名前もまた、人々の記憶からは消え去っていたため、捜索は困難をきわめた。幾星霜、ようやく彼の所在が判明した。
「その地、アヴィザノにはすでに城が建設されつつあった。警備の目をかいくぐって、私はデルネアと対峙した。デルネアもまた、私と同じく不老の身体となっていた。しかし、私と決定的に異なるのは、彼は強大な“力”をその身体に有している、ということ。彼の持つ威圧感に、私は恐怖した。
「デルネアは語った。『これこそが我の望んだ世界。すでに人々はアリューザ・ガルドの存在すら覚えていない。この閉ざされた世界において初めて、我らの民は永久の安らぎを得るのだ』と。虚ろな人々に虚偽の知識を吹き込んだのは紛れも無い、デルネアその人だった。彼はこうも言った。『〈帳〉――お前はもはや傍観者であり、この世界の慎ましやかな住人でしかない。が、我は神にすら相当するのだぞ』と。フェル・アルムの人々はデルネアの存在すら知るまいが、彼が世界に与えた影響というものはまさしく神のそれに匹敵する。力を失った私に彼を止めるすべはなかった。
「私はそれからこの館に帰り、永遠にも感じられるほどの年月をひとり送った。デルネアはその間も、影でフェル・アルムを、中枢を操り、捏造された“真実”を広めていった。世界は彼の定めた予定どおり、今まではほぼ治まっていたのだ」
〈帳〉はほうっと息をついた。
「……そして今、ついに虚構の調和が乱れようとしている」
「それは、ライカがこの世界にやってきたこと、ですよね?」
ルードが言った。
「しかり。空間を閉ざしたこの世界に、アリューザ・ガルドからの者が来るなど、およそ考えられるものではなかったからな。デルネアはその動向を即座に感じ取ったのだろう。デルネアは中枢を操り、今頃は元凶となっている者を消そうと躍起になっているだろう」
「でも、私もルードも何も悪いことなんかしてない。被害者としか言いようがないんですよ?」ライカが憮然と言う。
「君達がこの巨大な運命とやらに巻き込まれた被害者であることは認めよう。だが、問題はそうたやすくはないのだ。……世界が崩壊しつつある、と言って理解してくれるだろうか?」




