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フェル・アルム刻記  作者: 大気杜弥
第一部 “遠雷”
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第六章 意識の彼方にて (三)

三.


 視界に広がる蒼。それは空。

 爽やかなものは、かすかに吹く乾いた風。

 どっしりとしたもの。大地と、肌をくすぐる草の感触。


 ルードは気が付くと、両の眼を見開き空を見つめていた。次に感じたのは身体の感覚。肉体の重みを確かに感じる。

(生きてる……。なんでだ?)

 両手はハーンの剣を握ったままだ。手を剣から離すと、短刀が刺さった胸をさすった。胸には止血のための包帯が巻かれており、血痕がどろりと手に付くものの、傷を負った感じや、痛みが全く感じられない。

 ふと脳裏に、巨大な薄暗い空間と、神秘的な女性の姿が一瞬浮かんだ。だが、今のルードにはそれが何なのか分からなかった。夢での出来事を思い出そうとしても思い出せない、でも閃きのような何かは感じる、という感覚に似ていた。

 ルードは首を横に動かしてみた。


 ライカがいる。彼女は力無く座って顔を伏せたまま、嗚咽をあげている。

 あれからどのくらいの時間が経ったのだろうか。ハーンは? ここからでは彼がどこにいるのか分からない。自分の見えない場所で、やはり悲しんでいるのだろうか?

(でも、俺は生きてる……!)

 突如、ルードは生きていることの喜びに溢れた。充足感、幸福。どんな言葉でも足りないくらい、彼は生きていることを精一杯に感じ取っているのだ。自然と笑みがこぼれる。そうだ、俺が生きていることをライカに知らせなくちゃ。早く彼女の悲しみを取り除いてやらなきゃ!

「ライカ!」

「……え?」

 ライカは涙でぐしゃぐしゃになった顔をゆっくりと上げる。そして、ルードと目があった。

 ライカは目をしばたたき、呆然としている。

「俺は――ルードは生きてるよ。だからもう泣かないでくれ」

「ル……ルード? ルード?」

 彼女の中では今、驚きと喜びとが混ざっているようだ。

 ルードはやおら、立ち上がった。やはり痛みはまるで感じない。むしろ爽快な感すらあった。

「ほら、このとおり大丈夫だ!」

 ハーンの剣を地面に置くと、その手でどん、と胸を叩いた。

「ルードぉ!」

 ライカはそう叫ぶと、また泣き出してしまった。ルードはひざまずき、右手で彼女の手を握り、左手を肩にぽんと置くと、優しく語りかけた。

「なぜ、泣くのさ?」

「だって、だって、……驚いたのと……うれしい! ……うん、嬉しいんだもの……!」

 ライカはしばらく泣いていたが、それが収まると、ルードのほうへ顔を上げた。目は真っ赤に腫れているが、真摯な顔で彼を見つめる。

「……本当に、ルードなのよね? 幽霊じゃないわよねえ?」

「ああ、俺は生き返ったんだ。どうしてだか分かんないけど、でも、今までのことだって分からないことだらけだからさ、こういうことがあってもいいんじゃないか?」

「よかった!」

 そう言うなり、彼女は抱きついてきた。ルードは少し狼狽ろうばいしたが、それでも彼女をいとおしく受け止めた。ライカの暖かさを全身に感じる。

「よかった……」

「……うん……」

 二人はそれだけ言うと、黙ってしまった。何も言わずとも、二人は十分過ぎるほど、喜びを分かち合ったのだから。


 しばらくして、駆け寄ってくる足音が聞こえてきた。ルードはそちらのほうへ顔をやる。ハーンだった。ライカは涙を拭いながら、それでもルードから離れようとはしなかった。

 今まで、ハーンは泣き崩れるライカの様子に見かねて彼女から見えないところにいたのだ。そして上衣を脱ぎ捨て、ハーン自身が先ほどの戦闘で負った傷の手当をしていた。胴体に巻かれた包帯が未だ痛々しい。

「……はあ……」

 ハーンが最初にあげた声は、拍子抜けしたものだった。

「ハーン!」ルードは相対するように、快活な声を出した。

「そんな……そんなことが起こるなんて……」

 ハーンは座り込むと、さも考え込んでいるように、指でこめかみを押さえてみせた。

「ほら、俺は無事なんだよ。傷もなくなったみたいで……。まるで快調なんだ」

 どん、と胸を叩いてルードは笑う。だが、ハーンは生返事をしながら、ルードの脇に横たえてある剣を拾い上げた。

「……とにかく、何事もなかったかようで、よかったよねえ」

 ハーンはそう言って笑ったが、すぐまた思い詰めた表情になって、剣をじっと見つめた。

 ルードには、ハーンの今の感情をくみ取れなかった。いつもどおりのハーンなら、間違いなく大喜びするはずなのに。

 ハーンは、半ば放心しながら剣を見つめていたようだが、ややあってしんみりと言った。

「本当によかったよ。……でもごめん。……君らを守り抜けなかった。そりゃあ、こうしてルードが生きてて、……万事がいい方向に収まったからよかったものの、僕にとっては取り返しのつかない失敗だったから……本当にごめん、僕自身、自分に奢っていたのかもしれない。自分の力にね。

「今日は早いけど、ここで休もう。色々あって疲れたよ……。ルードが生きていてくれたっていうのが何より嬉しいよ」

「短剣が刺さった時のことを思い起こすとぞっとするさ。でも今は傷一つないし、かえって快調なんだぜ?」

「え? 傷一つないだって?!」

 形相を変えてハーンが問いただす。

 「ちょっと見せてごらん……ふぅん、本当だ……」

 ルードが胸の包帯を解くと、ハーンとライカは、傷があっただろう箇所をまじまじと見つめた。

「傷が……ないなんて……」

 ライカはそう言うと、無造作に置いてあったくだんの短刀をかざしてみた。刃先には血痕がこびりついたままとなっている。ハーンは今し方取り去った包帯をじっと見つめていた。彼の手は、包帯から滲むねっとりとした血で汚されてしまった。

 ルード自身もおかしいと思った。あれだけ血を吹き出していた胸元は、傷一つないのだから。まるで剣を胸に受けていなかったか、もしくは傷が完全に塞がってしまったかのような――。

「どうしたのさ?」

 訝っているハーンに、ルードは尋ねた。

「……ううん、……そう、そうなのか?」

 ハーンの返事は的を射たものではなかった。彼は立ち上がると再び剣に目をやった。思い詰めた表情で剣を見る、そんなハーンの仕草がルードには印象的に感じられた。


 ルード達が、いつもどおりの彼らになるのにはしばらく時間がかかった。だが、野営するに相応しい場所を見つけだし、キャンプの準備のためにせわしなく体を動かしているうちに、徐々に普段の彼らに戻ってきて、天幕を張り終える夕刻頃には、変わらない笑い声が聞こえるようになった。

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