第四章 真実の断片 (五)
五.
天幕の中、ライカの澄んだ声が話の始まりを告げる。
「フェル・アルムの人が術の存在を知らないというんなら、わたしの話も雲をつかむようかもね」
ライカはそう前置きを入れて、語り始めた。
ライカ・シートゥレイ。
彼女は“エヴェルク”という大地の、北方に位置するアリエス地方に住んでいる、という。そこは山と森と湖に囲まれた非常に美しいところらしい。気候は冷涼で、そういう点ではスティンの高原と似通っている。だが一地方とはいえ、どうやらフェル・アルム全土を包み込んでしまうほど大きいという。その大地を含む世界の名が“アリューザ・ガルド”。
ライカは、峰々が連なる山間のウィーレルという小さな村に、祖父である村長ケネスとともに住んでいた。ライカは父親の顔を知らない。父、アヌエンはライカが生まれてすぐに『試練』がもとで亡くなったらしい。母親のミルも、二年前に山で行方を絶っている。しかしライカは母がまだ生きていると信じている。根拠はない。ただ、母親までも失いたくない、そんな真摯な願い。
ライカははっきりと覚えている。子供の頃、アリエスを離れて四年間ほど、エヴェルク大陸中部の大都市カルバミアンで母親とともに暮らしたことを。そこでの生活はいい刺激となって、彼女の気質をつくりあげた。
アイバーフィン。それが彼女の部族の名前。銀色の髪はアイバーフィン特有の色なのだ。“翼の民”という意味を持つアイバーフィン達は山間に居を構えることが多い。天高くそびえる山は、彼らを象徴するものだから。空、風――彼らはそういうものを司り、また自らの力としている。アイバーフィンは風の力を操ることが出来るのだ。さきの化け物との戦いで、ライカがかまいたちを起こせたのもそのためである。
しかし、ライカはまだそれほどの力を持っているわけではない。翼を持っていないのだ。
彼らアイバーフィンが“翼の民”と名乗る何よりの理由は、空を舞うことが出来るためだ。“ラル”という風の世界に赴き、試練を受けることで彼らは背中に翼を得るのだ。翼を手に入れるための試練も非常に厳しいものである。ライカの父もそれがために命を落としているのだ。彼らの翼は精神的なもので、物質世界であるアリューザ・ガルドでは、本人が意識的に見せようと念じる以外、なかなか見ることは出来ない。ただ、飛ぶ際に時折現れる二枚の翼は光り輝き、天からの使いかと人々に思わせるほどだ。
その日。ライカは彼女の家からそう遠くない所にあるレテス谷へ出かけていった。そこは、いつもなら冒険と称して友達と出かけるところだ。活発な彼女は、男の友達と一緒になって野山で遊ぶことも多かった。
しかし、その日に限って彼女はひとりで出かけた。なぜか、そんな気分だったのだ。レテス谷は危険な場所ではないが、そこに住む風の精霊が時々悪戯をおこすとも言われている。ひとりで行くのは避けたほうが良い、そう思いながらもライカは谷に向かった。
谷の小径を降りていく途中、ライカは目を疑った。いつもどおりの径。しかし岩肌の向こう側にちらりと、見慣れない光景を見たのだ。それは山の花が咲きこぼれる野原だった。
(ふうん、こんなにきれいなところがあったなんて。今までは遊ぶのに夢中で、見落としてたのかな?)
ライカの足は自然とそちらに向いた。野原への道のりはなかなか困難で、大岩を無理矢理に登ったりしてやっとのことで辿り着いた。だが彼女が野原に足を踏み入れようとした途端、いきなりその情景は消え失せたのだ!
(これはまさか、風の精のまやかし? ……え!?)
ライカの片足は地面を捉えていない。彼女は眼下に広がる景色におののいた。
切り立った谷間。足下には奈落の裂け目。彼女の身体は今、崖から一歩踏み出していたのだ! もはや体勢を戻すことは叶わない。ライカは崖から落ちていった。耳元で風が切る。彼女の体は奈落の底へと向かっていく。
(……わたしはおしまいなの? こんなにあっけなく……)
絶望の中、ライカは最後の望みに託した。風の力に頼ることだ。彼女には翼が無いとはいえ、死を目前とした時には何かの力が生まれ出るかもしれない。とにかくそれしか考えられなかった。彼女を包んでいるのは、死への恐怖。
しかしついに、風は彼女の救いにはならなかった。
意識が忘却の彼方へ赴こうとするなか、彼女は思った。
(落ちていく……)
(ちょっと無茶したよね……)
(「風」も助けを聞き入れてくれなかった)
(わたしの力だけじゃあ……もう……)
(……飛ぶのは……生きてかえるのは……)
(無理……よね……)
(……でも、絶対に……死にたくなんかない!)
その時。ライカは気付いた。
誰かが自分の体に触れる感じ。膨大な量の何かが頭の中に流れ込む感じ。
そして見た。
まばゆいばかりの光の球が彼女のからだを中心に、外へ外へと膨らんでいくのを――。
「……俺も同じ感じを覚えたよ。俺はライカが野原で倒れているのを見て近づいてみた。ただ倒れているんじゃない、って分かったんだ。ライカの周りは何も無くて……そう、空が覆っていた。そして俺がライカの側に辿り着いた途端に、景色ががらっと変わって……俺はライカとともに奈落の底へ向かって落ちていった。あの時は何がなんだか分かんなかったよ。俺がライカの腕をつかんだ瞬間に俺の体は光に包まれて、気を失って……気付いたら俺達はクロンの宿りのそばにいたんだよな」
ライカの話を聞いていたルードは言った。
「レテスの谷でわたしが見た野原の幻像……あれはきっと、スティン高原の野原だったのね。そしてそこにルードがいた、というわけね。あの瞬間、フェル・アルムとアリューザ・ガルド、お互いの世界が繋がったんだわ。そのあとわたしは幻像の野原でなく、現実の崖から落ちていってしまった。ルードもその一瞬だけ、わたしの世界に来てしまったのよ。でもそれからなぜかわたしがこっちに来ちゃって、今に至ってるんだけどね……」
ライカが一言一句確かめるように言う。
「なるほどねえ……」とハーン。
「どうして二つの世界が繋がったのかは分からないけれど、人間には想像も付かないほどの大きな“力”が働いたんだろうね。ルードは覚醒し、ライカは異世界に連れてこられた。君達が転移させられたのはクロンの宿りの付近で……そこには偶然にも前日戻ってきた僕がいた。既に覚醒を経験した僕が、ね……」
「大きな力かあ……」
ルードは後ろ手で頭を抱え込むとつぶやいた。
「それって、俺達三人の“運命”ってやつなのかなあ?」
「そう。運命と言ってもいいだろうね。今の僕達に吹いている一陣の突風が、このまま何事も無く過ぎ行くものなのか、もっと大きな、嵐を呼ぶものなのか。……僕は後者のような気がするけれど」ハーンが言う。
「ふん……」ルードが鼻を鳴らした。
「まあ、あまり深く考えないで、突き進んでやるさ、俺は!」
そう言ってこぶしをぎゅっと握り締めた。
「へえ、ずいぶんと強気ねえ」ライカが言った。
「ああ! なんで俺がこんな事件に巻き込まれなきゃいけないんだ、なんてふうにくよくよと運命をうらむのはやめたよ。そしたらさ、頭ん中が妙にすっきりしたんだよ。だから、こうなったら俺の運命とやらの行き着く先を見てやるのさ!」
それを聞いて、ハーンが笑みを浮かべた。
「ふふふ、ルードも強くなったもんだねえ、うん、これからはいちいち悩んでいられないかもしれないからね。〈帳〉だって突拍子もないことを言うかもしれないし」
(強くなった、か。でも、運命を見きわめるための、そしてライカを守るための強さが、俺にはないんだよ……)
ルードは心の中でそっとつぶやいた。
しばらくして彼らは床に就いた。ルードもすぐに寝ついた。
今や三人は“運命”の渦に入り込んだのだ。




