第四章 真実の断片 (一)
一.
空は一面どんよりとした鉛色をしており、山々のほうからは、うすぼんやりとした霧さえ降りてきていた。雨が止むようなきざしは見うけられない。旅人となったルード一行は、ぬかるんだ地面に注意しながら馬を歩めていた。不思議なことに、一行の周囲には透明の幕が覆っているかのように雨が避けているようだった。
「酷いぜ、ハーン!」
ケルンの家が見えなくなってしばらくは無言を通していたルードだが、そのうち我慢出来なくなって不満の声をあげた。
「……ああ、やっぱり怒っている? ルード君」
ルードとならぶようにして馬を進めていたハーンは、申し分けなさそうにルードの顔を窺った。
「当たり前だろうに。突然過ぎるぜ、出発するにしても!」
ルードは憮然と言い放つ。後ろに乗っているライカは、黙って成り行きを見守っているようだった。
「せめて、叔父さん達に挨拶してかなきゃさあ……」
ルードはぼやいた。
「ううん……。そういうふうに突かれると僕もつらいところだなあ……」
ハーンは、ふくれっ面をしているルードの顔色をちらりと見る。人の気配が無いことを確かめてから彼は話し始めた。
「こういう状況じゃあないんなら、行楽もかねてゆっくりと旅をしてさ、〈帳〉のところに着いてから彼を中心にじっくりと話すつもりだったんだけどね。こうなってしまったんじゃあ、今すぐ話さないと君も納得してくれないだろうね」
ハーンは言葉を続けた。
「ごめんなさい。でもね、君達を取り巻く事態が、僕の予想以上に急迫してきたことが分かったんだ。一刻も早く旅立つ必要が出てきたと言うわけなんだよ。君や、君のご家族、それに友達にはかなり気分を害することになっただろうけれどもね……。取り急ぎ、君の家族――ナッシュの人々に対しては、どうして僕らが旅立つのか、という内容の手紙を置いてきたよ。もちろんあの人達にしてみれば、僕の行動が勝手で不可解だと思って当然だろう。今後、僕はこの村に出入りするのすら疎んじられるかもしれない。だけれども、僕自身にとって不利益なことがおころうと、それは些細なことだ。このまま君が村に残っていたんじゃあ、もっと大きな事件……いや、惨事が起こるかもしれないから」
ルードはそれを聞いて、ハーンが何の考えも無く飛び出したのではないことにとりあえず憤慨を押さえ、幾分やわらかな口調で彼に訊いた。
「でもさ、俺が家族に挨拶する間も惜しいほど、急ぐ必要があったっていうのはどういうことなんだよ?」
それを聞いたハーンは眉をひそめた。
「村に留まっていることが非常に危険だったからさ。ともかく早く出る必要があったんだ。出てしまえば危険は少なくなる。村のみんなにとってね。……一刻ほど前のことだ――」
そう言ってハーンはいったん言葉を切った。そしてルードのほうへ馬を寄せ、幾分小声で語った。
「これから言うことは、本当に肝に銘じて欲しいんだ。ルードだけじゃない。ライカもそうだよ」
ハーンは、ルード、ライカ双方の顔を見る。二人はうなずいた。ハーンは、再び言葉を続けた。彼は一刻前、ベケット村で体験したことを語り、ハーンが酒場を後にするところで終わらせた。
「なぜ僕がストウに、『あの旅商の男とはしゃべるな』って言ったか。それこそが、礼を反してまで急いでる理由なんだよ。……ま、どうあれそのうちあの男には分かってしまうだろうけど、とにかくその旅商には、普通の人間には無いような雰囲気があった。もちろん当の本人は、それを抑えているわけなんだろうが、一瞬、あまりに強い殺気――目的を達成しようとする執念――が感じられた。その時僕には分かった。彼は旅商を装った刺客だ、とね」
「刺客!?」
ライカが突然大声を出したので、背中でそれを聞いたルードはびくっとした。ハーンは静かに、と指で合図した。
「なんでそんな人が出てくるのよ? ……わたし達が狙われている、とでもいうの? なぜ!?」
幾分声を小さくしてライカが言う。
「察しがいいね、ライカ。恐ろしいけどそういうことさ。あの連中が出てくるなんて本当に歴史上まれだけども」
と、ハーン。
「ちょっと待ってよ、俺にはなんだかさっぱり分からないんだけど……『しかく』っていうのは何なんだ?」
ルードだけではない、おそらくほとんどのフェル・アルムの民は、闇に潜むようなことを生業とする人間を知らない。数百年にわたって、表向き平和に過ごしてきたのだから。十三年前のあの忌まわしい戦いを除いては。だから、ルードの反応はごく当たり前の反応だった。
「刺客ってのはね、暗殺者――くだいて言うと、目標とした人間を誰にも分からないように殺してしまうことを仕事にしている人間のことさ」
「えっ?!」ルードにはその言葉はあまりに衝撃的だった。だがハーンは続けて言う。
「ライカの言うとおり、その刺客は確実に君達を狙ってきている。帝都アヴィザノ――フェル・アルム中枢が指示を出したんだ。“疾風”と呼ばれている彼ら中枢の刺客は、歴史の中で暗躍していた、と〈帳〉から聞いている。世界の平穏を保つのに、『常識』からかけ離れた存在は危険だ、と考えたんだろうね。〈帳〉が言うには、君達が体験したような、不可思議な出来事を知っている人間は今までの歴史の中で存在していたし、彼らの中にはそれを人々に伝えよう、と試みた人もいるらしいんだ。けれども、歴史の表にはまったくといっていいほど出ない。なぜなら、そのたびに刺客が、邪魔な彼らを消していったからさ……」
ハーンの言葉を聞いたルードは、全身に鳥肌が立つのを感じた。あまりの衝撃のために卒倒しそうだ。
「……なんてこと……」
ライカはただそれだけ、感情を込めずぽつりと言った。
「連中の働きもあって、フェル・アルムは数百年にわたって、これといって大きな事件もないようにみえたし、人々も平穏無事に過ごしてきた」
ハーンはそう言うとふと悲しそうな翳りをみせ、遠い目でどこともなく、遥か前方を見やった。雨は先ほどに比べると収まってはいたが、スティン山地から降りてくる霧は、その濃さを増している。
「でもね、一つだけとてつもない悲劇が起こってね。それは全ての人の知るところとなった」
「それって、あれかい? 十三年前の……」
ルードの言葉を聞いたハーンはうなずいた。
「あの……」ライカがおずおずと尋ねる。
「わたしはフェル・アルムのことがよく分からないから、出来れば教えてほしいんだけど……その事件は何?」
「そうだなあ……」
ルードが後ろのライカを見るように、首を向けて語りはじめた。十三年前のあの悲劇を――“ニーヴル”の反乱――を語ったのだった。幼い日の自分の体験も交えて。ライカはじっとそれを聞いていた。ルードの語りが終わると、彼女は口を開いた。
「ご、ごめんなさい。思い出すのもつらいのに話してくれて」
ライカは恐縮して言った。
「いや、謝ることなんてないさ。こんな時にくよくよしてもいられないしな」と、ルードが逆に慰めるように言う。
「うん……ありがとう……」
「さて、と……僕が話してもいいのかな? 確かにニーヴルの事件は終わった。戦争という最悪のかたちでね。事件が起こった原因を知っている人は、まずいないだろう。これもきわめて不思議な出来事だったのだから。端的に言ってしまえば原因は――これさ」
ハーンはそう言うと、指を振って周囲を指し示した。
「そう、そうだよ! さっきから訊こう訊こうと思ってたんだけど、これだってとんでもなく不思議じゃないか!」
ルードが声をあげた。
「こんなに雨がざんざか降ってるのに、なんで俺達の周りでは避けるようになってるのさ?」
「これって“術”なんでしょ、ハーン?」ライカが言う。
それを聞いたハーンは少し意外そうな顔をしてみせる。
「へええ、ライカは知っていたのか。これは……そうだなあ、何て言えばいいのかな、うーん」
ハーンは紡ぐべき言葉をしばらく考えていた。
「言い伝えに出てくる“魔法”だよ。精神統一をして体内に宿る気力を外に出して、なんかをきっかけに発動させる――」
そんなハーンの言葉をルードは今一つ理解しかねた。
「まあ、色々な力を顕現出来るというわけさ。分かんないのは無理もないよ。この力はニーヴルの元となった事件ではじめて露わになって、そして歴史の闇に葬られたのだから、知っているほうがおかしいかもね」
「でもさ、ライカは知っていたんだよな。それに、かまいたち。あれも術とやらなのか?」ルードが言う。
「ううん、わたしのは正しくはそうじゃないの。術は人に宿る“色”そのものを力の根源にしているんだけど、わたしのは自然の力を借りることによって現しているから。わたし達アイバーフィンにとってみれば『風』の事象界の“色”を用いてるのだけど」
ライカの言葉にまたもルードは唸る。
「世界にはこういう不思議な力があるんだ、というくらいに知っていてくれればいいよ」混乱したルードの思考を救うようにハーンが言った。そして声色を落とす。
「――さてと。ここからはしゃべるのがちょっとつらいな……ルード君もそうだったろうけれどさ。十三年前のアヴィザノでの暴動の実態を話そうか。
「まず、何がしかのきっかけで術の力を覚醒させた人々が、自らの力を暴走させてアヴィザノの街を破壊してしまった。その時に何人かは疾風の手にかかって殺されてしまったけれど、多くは逃げおおせた。また、時を同じくして、ほかの地域でも同じように覚醒した人々がいた。彼らはセル山地、ルミーンの丘で集結して疾風達とあたることとなった。疾風も、術を使う者達を脅威と感じて、剣を交えて戦うのに躊躇した。そしてしばらくは休戦状態となったんだ。
「しかし術使い達はその間、自分達を追いやった旧態依然とした中枢に対し敵意を強め、いずれは打倒する――そんな負の感情を強めていったんだ。そして覚醒はしていなくても、この世界のあり方に何らかの不満を持つ人々を説き伏せ、次第に大きな勢力にしていった。
「機が熟すとみるや、彼らは中枢を打倒する集団“ニーヴル”として兵を挙げて一路、アヴィザノを目指して進軍を始めた。それに対して中枢も挙兵する。アヴィザノ郊外で戦いが始まるわけだけれどもニーヴルは善戦し、“烈火”と呼ばれるフェル・アルム最強の軍団をもアヴィザノまで後退させた。
「でも、アヴィザノは幾重にもわたって塀が囲んでいて非常に強固で、そう簡単にはニーヴルも攻め入ることが出来ない。中枢はなるべく戦いを長引かせようとした。そしてその間に各地に呼びかけて反逆者を倒す人間を集めようと画策した。策は効を奏し、烈火を主軸に置いたフェル・アルム軍はついに、クレン・ウールン河流域のウェスティンの地までニーヴルを追いやった。ニーヴル側も、アヴィザノから内通させようとするなど、色々手を打ったが、そのような点では中枢のほうが数段上で、結局は打破されたんだ。
「ついにウェスティンで決戦の火蓋が切られた。……そして、長い長い戦いの後、ニーヴルはフェル・アルム軍によって全滅した。でも勝ったとはいっても、フェル・アルム側にも多くの死者が出た。それに、この戦いに巻き込まれた近隣の町や村も壊滅してしまった。多大な犠牲を払って、フェル・アルムの今日がある、というわけだよ。そして事実は、勝った側の都合の良いようにねじまげられてしまった……」
いかに明朗なハーンとはいえ、真相を話すのは非常につらそうで、終始沈んだ調子だった。
重く立ち込めた鉛色の空。三人の胸中はまさにそれだった。
しばらく彼らはうつむいて馬を進めていた。とぼとぼと。
「そして、僕もニーヴルのひとりだった……!」
意を決したような強い声に、ルードとライカはハーンのほうを向く。
「僕はあの時、東部の街カラファーに住んでいたんだけれど、ある時突然、人には使えない力を持っていることに気付いた。――つまり術の力だね。そして僕と同じ力を持っているというニーヴルの存在を知って、ルミーンの丘に赴いた。その頃すでに、ニーヴルは軍隊に変貌していたんだけども、あの時の僕は何も状況を理解していなかったんだろうね。その一員となって、中枢と戦った。そうしてウェスティンの決戦に終止符が打たれた時、かろうじて息のあった僕を〈帳〉が助けてくれた。そして、彼のもとで僕は多くを学び……今こうしてここにいる」
「あなたが、ニーヴルだったなんて……」
ルードは、ハーンの説明の『術に覚醒した者が決起した』というくだりから、なんとなくそのことを予感していた。しかし、現実に聞かされるとやはり衝撃は大きかった。だからといって、ハーンを憎む気持ちは全く無かった。ニーヴルを語るのが禁忌とされているから、ということのみならず、たとえ、ウェスティンの決戦が自分の人生に大いなる翳りを落としている、その現実を踏まえたとしても。
「確かにあれは悲し過ぎる出来事だった……ルードにはどう謝っても足りないくらいだよね?」
やりきれない。そんな口調でハーンが語る。
「……そんなことないよ……」
ルードはほかに言葉を発しようとしたが、紡ぎ出すことは叶わなかった。思いはあまたに及んだが、言葉はただそれだけ。ハーンは「ありがとう」とだけ答えた。二人の言葉はまったく短いものだったが、それによって彼らの絆は強固なものになった、とルードは感じた。
「……話を戻すと、君達の事件――君達がまばゆい光に包まれて山から消え失せた、という神隠しのことは、すぐさま中枢の知るところとなってしまった。なぜかというのは僕ごときが分かるものではないけどね。ともあれ、ルードが覚醒してアズニール語を話すようになり、さらには世界の住人ではないライカがここにいる――この事実は世界の平穏と常識やらを揺さぶるには十分過ぎるだろうね。不穏な動きは消されなければならない。……そして今、使命を帯びた疾風が、当事者を捜しに……いや、抹消するためにこの村の近くにまですでに来ている。もし君達が村に残っていたら、疾風はその場で襲ってくる。何も知らない村の人は、君を守ろうと必死に抵抗するだろう。そうすると事件はさらに大きくなって、村の人全員が不穏分子であるように捉えられてしまうかもしれない。膨れ上がる疑惑が行き着く先は、悲劇さ。それこそニーヴルの二の舞……惨劇のみが結果として残るだろう。
「でも、そんなことはあってはいけないんだ。あの悲劇はまた起こしちゃあ、だめだ! だから今、こんなふうに雨が降っているなかをおしてまで急いでいる――〈帳〉のもとにさえ行けば、彼の“護り”があるために、実質危険はなくなるし、村の人達にも危険は及ばない」
やわらかな表情で、碧眼はルードを見る。
「急ぎの旅立ちのわけを、分かってくれたかな?」
ルードはうなずく。
「確かに僕のことを得体の知れないやつって思われても仕方ないかもしれないけども……僕は君達の味方なんだ。同じ覚醒者の立場として放ってはおけない。信じてくれるかい?」
「もちろんさ!」ルードがきっぱりと言った。
「わたしもルードと同じよ。むしろわたし達に同行してくれるなんて、本当にありがたいと思わなきゃ、ね!」
三人は顔を見合わせて、お互いを納得しあったようだった。
そしてそこで会話は途切れた。
雨足は再び強まり、幾多の白く鋭い線が草原を叩く。
ルードの予想以上にハーンの過去は波乱に満ちていた。ほかにもまだ自分に隠していることがあるのではないか、とルードは時々訝るのだが、そんなことは関係無い。ハーンは大切な友人なのだから。
道は緩い下りとなり、多少曲がりくねりながら、ルシェン街道との合流点に出た。北に行けば数日前彼らが歩んできた道、つまり山道を越えてクロンの宿りへ通じる。対して、南に行けばスティンの丘陵を下り、クレン・ウールン河に沿うかたちでなだらかな道のまま中部の都市、サラムレに至る。
「……これからどうする?」ルードがおもむろに口を開いた。
「じゃあさ、ルードはどう思うかな?」
いつもの調子でハーンが言った。
「そうだなぁ、さっきのハーンの話からすると、どうもアヴィザノに近い南の道を取るのはまずいんじゃないかな。大体その刺客とやらがベケットにいたんだったら、なおさら南には行けないだろうし、と俺は思うんだけど?」
ルードもハーンの調子に合わせ、普段どおりにしゃべった。
「うん、そうだね。道のりは険しいけども、いったんクロンの宿りに出て、そこから北回りの街道を使って、途中から道をそれてしまえば……遥けき野だよ。そこまで行けばもう安心さ! 〈帳〉の存在を知る人はおそらく、僕以外いないだろうし、彼の館は巧妙に隠されてある」
「じゃあ、行きましょう?」ライカが催促した。
「さあさあ!」ハーンが言った。
「気を落としていたんじゃあ、つらいままだよ。もちろん危険のことは考えてなきゃいけないけれど、努めて笑っていこうよ。雨が降っていたって、旅を楽しんで行こう。そう、これは旅なんだから!」
それは本当に、ハーンらしい言葉だった。ルードはそれを聞いて、今の空のような重い心が癒される感じがした。
一行は北の方角へ道を選んだ。篠突く雨の中、しかし馬の足取りは今までより軽く。西のほうでは雨も収まっており、夕方の陽がいつのまにか顔を出していた。垂れ込めた雲は、その光を受けて空を赤く染める。ルードは太陽のほうへ首を向けた。
(あっちに、俺達が目指すところがあるのか。俺が驚くようなことっていうのは、やっぱりこれからも起こるんだろうな。その一つ一つに思い悩んだり、自分の境遇をうらんだりっていうのは、馬鹿馬鹿しいかもしれない。どうやら俺達を待っているのは、もっと大きな何かなんだろうから……)




