第二章 帰路にて (四)
四.
次にルードが目覚めた時、そこは部屋の中だった。視点の定まらない寝ぼけまなこで周囲を一瞥した。
[俺の……家だ……]そう言ってほくそ笑む。
いつもの景色。いつもの匂い。四歳の時からずっと暮らしてきたナッシュの家にいるのだと、すぐに分かった。もう夕刻だろう。部屋は薄暗くなってきている。
ルードはしばらく、ベッドの上でぼうっとしていたが、家族に早く会いたいという想いが沸き上がってきて、起き上がった。旅の疲労のためか、身体の節々が痛む。が、それを気にしてもいられなかった。
居間にはナッシュ一家――叔父のディドル、叔母のニノ、従姉のミューティース――とハーン、そしてライカがいた。ルードが恐縮して入ってくると、一同の視線は彼に集まった。それはルードを非難するようなものではなく、暖かいものだった。
[おお、ルード、大丈夫か?]ディドルがまず声をかける。
[大体の話はティアーさんからうかがったよ]
[すまない、叔父さん。俺は――]
ルードは窓側の椅子に腰掛ける。
[なあに、お前が無事だってんなら、それでいいのだよ]
ディドルは言葉を切り、茶をすする。
[村のみんなにも本当に迷惑をかけてしまっただろうね……]
ルードはうつむいて謝罪する。ニノとミューティースも無言でうつむく。
[……そうだ、みんなは?]
しばらくあって、ルードが訊いた。
[ケルン達のこと? 夕べ遅くに君が戻った、っていうからちょっと前まで家に来ていたのよ。村のみんなも気になって集まってきたんだけど、君が眠っているから帰っていったわ]
[そうか……ふう……]ルードは溜息を洩らした。
[まあさ、明日にしようや。お前が帰って来たのが昨日、それからお前はずっと眠っていたわけだけども、それでも疲れているだろうから、休んでおくのがいいだろうて、なあ?]
ディドルの言葉にルードはうなずいた。
(……まる一日も眠ってたんだ……)
ルードが再び自分の部屋に戻ろうとしたその時、記憶が鮮烈によみがえってきた。
――禍々しい化け物。かまいたち。そして圧倒的な“力”がハーンの剣を介してルードを襲ったこと――。
あれらは一体何だったのだろうか?
[……なあ、ハーン]
扉の取っ手に手をかけ、振り向いてルードは言った。
[何だい?]
[部屋まで来てくれるかな? 訊きたいことがあるんだ]
[……ああ、分かったよ]
ハーンは席を立った。一緒にライカもついてきた。彼らはナッシュ家の人々に会釈して、ルードの部屋へ向かった。
[ええと、俺の家まで馬の手綱を預けていたのはライカだったよね?]
部屋に入り、ルードはハーンに訊いた。ハーンはうなずく。
「すまない、ありがとう、ライカ」
ルードはいつものとおり、意思表示の身振りとともに、ライカに礼を言った。
言った?
(これは……言葉なのか?)
ルードは唖然とした。ルードが今、口にしたのは、彼の知らない『音』にほかならない。しかしそれが無意味に羅列されたものではなく、[ありがとう]という感謝の意味を持つ『言葉』であることも分かった。ルードはハーンを、そしてライカを見る。やはり二人とも驚いている。
そして、ライカがゆっくりと口を開く。
「分かるの?」
ライカは言った。明確な言葉を伴って。
ルードが知らないはずの『音』の列はまったく自然に聞こえた。何気ない会話をしている時のように。
「あ、ああ。何だ、これは……一体何なんだよ?」
言ってルードは呆然と立ち尽くした。地面がぐるぐる廻っているようだ。
「俺……疲れてるのかな? いや、これもまだ夢なのか?」
発する音はやはり、意味が分かる『言葉』だ。
「ううん、夢じゃない。やっと……やっと話せるようになったのね!」
ライカは破顔し、本当に嬉しそうな面持ちをしてルードの両の手首をぎゅっと握り締めた。少し照れくさくもなったルードはちらとハーンを見た。彼は笑っている。
ぽとり、と何かがルードの手の甲に落ちた。それはライカの涙だった。
「ライカ……?」
「わたし、不安でしようが無かった……。“あそこ”から落ちて……気付いてみたら自分のまったく知らないところにいて……言葉も通じなかった……」
鳴咽をこらえ、ライカは言う。安心感からくる涙は、しかし止まらない。
「ねえ、ここは一体どこなの? あなた達の言葉って、ユードフェンリルの古い言葉に似てるけど……」
涙をぬぐい、ライカが訊いてくる。
「どこって……スティン高原だよ。ユードフェンリルって……? いったい何のことだ?」
「……そうだね。僕達が話しているこの言葉は、僕らがすでに失って久しい言葉さ……。そういう伝承があるんだよ」
そこではじめて、ハーンが口を挟んだ。
「ハーン!?」
ルードとライカは再び驚いた。ハーンもまた、それまでとは別の『言葉』を話したのだから。
「あなたまで……どうして?」ライカがぽつりと言う。
ハーンは一呼吸おいてからまた話し始めた。
「ルード、さっき訊きたいことがあるって言ったよね?」
「そう。そうだよ、ハーン。あなたは今までの一連の事件――それに、今起きたばかりの出来事についてどう思う? いや……、何か知っているんじゃないか?」
ルードはじっとハーンを見据える。ハーンは黙ったままルードの、そしてライカの顔を見た。それからしばらくが経ち、ハーンは口を開いた。
「さあて、と。どうしたもんでしょう。まさか、こういう事態にまでなるとは予想してなかったなあ。これはどうやら本当に、とんでもないことが起きつつあるのかもしれないな」
ルードはハーンの次の言葉を待ちながら、ゆっくりとライカの手を離し、ベッドに腰掛けた。
そして、ハーンが口を開いた。
「あの触手の化け物……あれはこの世界、つまりフェル・アルムのものじゃあない。そしてライカ。君は、違う世界から迷い込んだんだと思う。おそらくは、ね」
「フェル・アルム? それが今、わたしのいるところなの?」
ルードとハーン、両者が首を縦に振る。
「フェル・アルム……“永遠の千年”よね? 古いエシアルルの言葉では」
(永遠の千年とはよく言ったもんだ)
ルードは思った。千年を経た今、世界はどこへ向かうのだろうか? 今までどおりの平穏か、それとも――。
「君の住んでたところが“果ての大地”の向こう側にあるのか、海を越えたところにあるのか、あるいは――。まあ、僕の知識じゃあ見当もつかないけれども、どちらにしてもライカにとってここは、まったく知らない場所なわけなんだよね」
ハーンが言う。
「でもハーン。なんで俺やあなたが、ライカの言葉を分かるようになったんだ?」ルードは尋ねた。
「昨日の夜、君に話したように、覚醒したことによるんだと思う。記憶の断片が甦り、力を発揮出来るようになると、ね。実のところは、僕はもっと以前にライカの言葉を話せるようになっていたんだけどさ」
「俺が子供の時に体験した不思議な感覚っていうのは、ハーンの言ったように、ライカと出会ってから急によみがえったかのようだよ。でもさ、俺がこうしてしゃべっているこの言葉は何なんだ? 今までまったく知らなかったのに、さも当たり前のようにこうやって話せてる……」
ルードが狼狽しながら言う。
「この言葉――アズニール語は、わたしの世界では最も広く使われているのよ」
「アズニール……?」
ライカの説明を反芻するルード。先ほどから“エシアルル”とか“ユードフェンリル”など、何やら知らない事柄が出てくる。ライカの世界ではごく当たり前に使われているのだろうが、ルードにはつかめるものではない。
ハーンは腕を組み、唸りながら考えていたようだったが、不意に顔を上げた。
「ルードがアズニール語をしゃべれるようになった今回の件。鍵になっているのは多分、剣だよ」
「剣? ……それって、ハーンの持ってた、あの……」
とのルードの言葉に、ハーンはうなずいた。
「そうだよ! それについても訊きたかったんだ。化け物を倒そうとあの剣を握った時、物凄い“力”が身体の中に入ってきて、ひきちぎられるかと思ったんだ」
身振りを交え、ルードが言う。
「そう。あの剣はずっと前に“果ての大地”で見つけたものでね……たしかに尋常ならざる剣だよ。人間では創りようのない凄まじい“力”が込められている。だけど、その反動も恐ろしいものなんだ。人の魂を消し去ってしまいかねないほどにね。でもルードにとっては、剣の与えた衝撃のおかげで、封印のようなものがさらに解けたんだろうね」
ハーンが答えた。
「フェル・アルム人が失っていた言葉を、俺達は取り戻した、っていうこと?」
「でもなあ。あの剣を手にして大丈夫だったなんて、一体どういうことなんだろうか?」訝るハーン。
「うん? 何が?」ルードが訊き返す。
「さっき言ったように、普通の人間じゃあ耐えられないよ、あの反動には。下手をすれば衝撃で死んでしまうかもしれないからね。だからあの時――化け物を前にして君が剣を握った時、僕は警告したんだけども……」
「じゃあハーンは、あの剣を持っていて平気だったのか?」
と、ルード。
ハーンは一瞬言葉に詰まり、返答に躊躇したようだった。
「ふっふっふ。きっと、僕とは相性が悪いんだろうねえ。なんならルード君にあげようか?」
ハーンは冗談めいて言葉を返した。それを聞いてルードはかぶりを振る。身体が八つ裂きになる体験はもうこりごりだ。
「そうかあ、あの化け物を一刀両断にするくらいだから、よっぽど僕より使いこなせるんじゃないかなあ、なんて思うんだけど……」
冗談交じりなのだろう、ハーンはさも残念がってみせた。
ライカはハーンのほうへ向き直る。
「でもハーン、あなたは前からアズニールをしゃべれたんでしょ? なら、どうしてわたしと話してくれなかったのよ?」
少しすねたようにライカが言った。
「いや……ごめん。でもライカだって僕に会ってからは今まで一言もしゃべってないでしょ?」
「そ、それはそうだけど……」
「まあとにかく」ルードが二人に割って入った。
「お互い不安を抱いていたんだから、しようの無いことじゃないのか? 俺もライカのことを不安に思っていたし、ライカもそうだと思う。でもさ、今はこうやって話し合い、お互い分かるようになったんだ。それでいいじゃないか。それよりさ……」
と、いったん言葉を切った。
「それよりハーンはなんでこの言葉を――アズニールだっけ? ――しゃべれるんだ?」
「僕も覚醒した身だからさ。奥深い封印が解けたっていうこと。まあ僕の場合は、今回のルード君とはまた違った状況だったんだけどね」
「ふうん……」ルードは唸る。
「それで、ルード、ライカ」
滅多に聞けない、力強い真摯なハーンの声に二人は顔を彼のほうに向けた。
「知りたいかい? 一連の出来事の真実を……」
「もちろん!」
ルードとライカは異口同音に言う。強い意志を込めて。
ハーンはそんな二人の心を読むかのような目でじっと見た。
「――じゃあ、行こうか! 遥けき野の賢者のところへ」
「それは、誰?」とライカが聞き返した。
「ああ、ライカには話してなかったよね。このスティン高原の遙か西には“遥けき野”と呼ばれる荒野があるんだ。人が住むような場所じゃないんだけども、そこに賢者とも呼べる人がたったひとりで住んでる。彼にことの顛末を話せば真実のいくらかは――いや、全て明らかになるかもしれないな。そして僕達がその後どうすべきなのか。彼なら分かると思う」
「しかしさあハーン、昨晩も言ったけれども、あのへんぴな荒野にそんな大人物がいるなんて知らなかったぜ? あなたはなんで知ってるんだい?」
ハーンは少し考えるようなそぶりをして答えた。
「……ずうっと昔、大怪我をして死にそうだった僕を助けてくれたのがその人だったんだ。僕が……自分の“力”を知りえたのはその頃で、そのことについても色々教えてくれたんだ。……まあ、いずれにしてもややこしい話はそこに着いてからにしない? 今日も色々あり過ぎたし、ね!」
彼はいつもの口調で締めくくったが、そこにはルード達の問いかけを拒絶する雰囲気があった。
「そうね、わたしも疲れたし、あなた達はそれ以上でしょ? もう、夜だし……」
ライカは窓のほうへ歩いていく。涼しくなった高原の風を受け、彼女の銀色の髪がなびく。ライカは窓の手すりに両手をついた。
「夜、か……。知らない場所といっても、こういう自然や人の生活っていうのは、どこでも変わんないものなのね……」
その言葉は淋しげだった。そうでなくともライカの背中がそう語っていた。
それを聞いたルードは彼女を温かく迎えいれ、そして彼女のためにも真相を明らかにせねば、とあらためて決意するのだった。そしていずれ彼女をもとの世界に戻す手立てを見つけねばならないだろう。
「そうだ、ハーン」と、ルード。
「その賢者は何ていう名前なんだい?」
「名前、ねえ……」ハーンは一瞬天井を見やる。
「その人は名前を呼ばれるのを嫌がっていて……そう、もっぱら〈帳〉と名乗っていたよ」
帳――カーテン。そして、空間を隔てるもの――。その人物がそう名乗るのに、どんな意味があるのだろうか?
「僕は確信している。真実は〈帳〉のもとにある、とね」




