第十章 終焉の時、来たりて (九)
九. そして、為すべきことへ
「助かった……」
世界の破滅を想起させる天変地異の鳴動が止み、しんと静まりかえった周囲に、男のつぶやきが響いた。空のさまを恍惚と見上げていたケルンは、はっと我に返った。
避難民の列は歩みを止めていた。ケルンと同じように空を見上げている人も、うつ伏せになったまま震えていた人も、たった今、災いが過ぎ去ったことに気付いたようだ。緊迫していた雰囲気が消え、安らぎに満ちている。騒ぎ立てる者、涙をこぼす者――人々はそれぞれの思うままに、喜びを表している。
やがて人々は南方に対してひざまずき、祈りを捧げはじめた。ユクツェルノイレへの祝詞を発する声が次第に増えていく中、ケルンは冷静に周囲の様子を窺うのみ。ひざまずく人の群を見て苦笑を漏らした。
「みんな、分かってんのかよ。神様が、なんかしでかしたわけじゃあないってのにさ……あれ?」
ふと横をみると、ミューティースが目をつぶり――地に伏せたりはしないまでも――手を胸の前で組んで、静かに祈りを捧げていた。
「ミュートまで……。神君のおかげなんかじゃない。結局のところ、ユクツェルノイレなんて、いないっていうんじゃあないか。こうなったのはルード達のおかげなんだぜ?」
「分かってるよ。ルード達にありがとうって、祈ってたんだよ、あたしは」
ミューティースは目を開け、ちらりとケルンを一瞥した。
「ケルンの言いたいことも分かるけれどね。でも、『神君が見守って下さっている』って、みんなはまだ信じてるのよ」
「ああ、でも、祈ってる人らが本当のことを知ったら、どうするのかね? 本当の歴史を聞いた時、俺だってにわかに信じられないって動揺したのに」
言葉の変遷、魔物の出現、そして“混沌”の襲来――。フェル・アルムの民は数々の異変に直面した。常識というものに囚われている人々の中には、それら異常きわまりない災禍にどう対処すればいいのか分からず、自分自身の壁を乗り越えれずに苛んでいる人も多い。
今まで伝わってきた歴史が、嘘に塗り固められたものだといずれ公表されるだろう。それは緩慢な平和に依存してきた人々を覚醒させる薬ではあるが、いささか強過ぎる薬でもある。反動、副作用もまた伴うものだろう。
「……そうね。あたし達にとってはこれからこそ、本当に大変なのかもしれない。今までだって南のほうは混乱してるって話、シャンピオから聞いてるからね……」
ふと、二人は申し合わせるかのように、北方を見やる。
「スティンが……無くなっちまったんだなあ、ものの見事に」
ケルンがぽつりと言った。人智を越えた変動を目の当たりにしても、喪失感が実感として、今はまだ湧いてこない。
「あそこでもう羊を飼って暮らすことなんて出来やしないけど……それでも俺は、羊飼いをやっていきたいんだ!」
スティン。そこにはつい昨日までは山々が連なり、麓には青々とした草原が広がっているさまが見えていた。羊達が牧草をはみ、羊飼いはただ平凡な日々を送る――そんな純朴な暮らしが確かにあったのだ。しかし今、スティンには何もなかった。“混沌”に飲み込まれた大地の痕が、否定の叶わない現実であることを語っている。
それでも、ミューティースはケルンに笑いかけた。
「大丈夫! あんたとあたしならやっていけるよ。今度、セルのほうに行こうよ? 羊がいれば、あそこの高原でも暮らせていけるもの」
ケルンは照れ隠しのためか、ミューティースからすっと離れた。そのため彼女から不平の声があがる。
「ま、羊はさ……大人達がスティンから連れてきた何匹かを、分けてもらわなきゃな。あっちに行くんなら」
ぶっきらぼうな口調でミューティースにそう言いつつ、ケルンは自分が歩いてきた方角を見据えた。ウェスティンの地ではどうなっているのだろうか。そして自分の幼友達は? 重圧に耐え抜いた親友のところに今すぐにでも駆けつけ、やや乱暴に称えてやりたかった。
(無事なんだよな? ルード。本当に世界が終わっちまうのかと思ったけれど……実際、まだ俺は心臓が破裂しそうなほど驚いてるんだが、どうやらお前がうまくやってくれたに違いないと思ってる。あとは……俺達のことは心配しなくても大丈夫だ。ありがとうよ! お前ってやつは……)
そのように思いを馳せながら、知らず知らずのうちに祈るように手を組んでいたのに気付いたケルンは苦笑した。ひょっとしたら、そこかしこでひざまずいている人々の想いも、自分とまた同じなのかもしれないな、とケルンは思った。
盲信的な祈りではなく、感謝のあらわれ。
「なに、手なんか組んじゃってさ。ん? 神君なんていないんじゃあなかったっけ?」
ミューティースがケルンをからかうように、彼の周囲をぐるりと回った。
「俺だって、たまにはルードに感謝することだってあるさ」
ケルンは素っ気なく言った。
「けど、あいつめ。いつの間にやらとんでもなく大物になっちまったんだな。俺なんか、相も変わらず冴えない羊飼い見習いだってのによ」
「そんなことないよ。あの子はいたって普通の子だよ。それにひょっとしたらケルン、もしライカと最初に出会ったのが君だったら、君が運命ってのに巻き込まれていたのかもしれないよ?」
「そうかもな。そう考えれば考えるほどやれやれ! つくづく運命ってやつは不思議なもんだよなぁ。俺達は運命に縛り付けられてるのか、それとも切り開いていってるのか、分かんなくなってくるぜ」
言いつつもケルンは、おそらくどちらも間違いではないであろうことを直感していた。ケルンはそこで考えを断ち切り、スティンの仲間達の様子がどうなっているのかを探りに、人々の中をかき分け歩き始めた。
* * *
ぼうっと立ちつくして空を仰いでいたルードは、ふと周囲を見渡した。それまで地に伏せていた仲間達もようやく立ち上がり、一様に空のさまを見上げている。ルードも彼らにならうように、再び灰色の空を見上げた。
“混沌”が追いやられたことを象徴するかのような鈍色の空に今、光の薄い皮膜が出来ていた。おそらくガザ・ルイアートの光の産物であろうその膜は、風に揺れるカーテンのように、輝きながらゆらゆらとうごめく。ライカの故郷、アリエス地方では“極光”という空の現象をまれに見ることがあるという。その美しさを彼女から聞いたことがあるが、ルードの頭上に揺れるカーテンもまた幻想的な美しさを醸し出していた。
「極光……?」
言葉が漏れる。それを聞いたライカは小さくうなずいた。
「やった!! やったんだね!!」
沈黙を破り、真っ先に凱歌をあげたのはジルだった。ジルは無理矢理に兄の両手をつかむと、ぐるぐると回り始めた。ディエルも最初は困惑していたが、しだいに今度は弟を振り回してやろうと躍起になった。
それがきっかけとなったのか、張りつめた雰囲気が氷解していく。
「ルード……」
サイファは、双子のじゃれ合う様子に顔をほころばせながら、ルードに声をかけた。彼女は、口を開いたまま次の言葉を探していたようだが、的を射た言葉が浮かんでこない様子だった。
それはルードも同様。ガザ・ルイアートの力を行使した彼とは言え、自分自身が“混沌”を追いやった実感を未だ感じ取れないでいた。
「どうやら、“混沌”を追っ払ったらしい……な?」
自分の為したことがどうしても確信出来ないためか、ハーンの顔を伺いながらサイファに答える。
「そのとおり。“混沌”は去ったんだ。君のおかげだね……」
ハーンは言った。レオズスたる彼にとって“混沌”を目の当たりにしたのはこれで二回目だ。自分は“混沌”に魅入られてしまったのに、聖剣は――そしてルードはそれを打ち破ったのだ、どこか感慨深いものがあるのだろう。ハーンは口を真一文字にしめて黙りこくった。
「……羊飼いのみんな、これからどうしていくんだろうな」
ルードは、何もかも消え失せた北の情景を見つめながら、ぽつりとこぼした。
「それは私の考えることでもある。避難民の救済が最優先だろうな」
サイファが言った。
「アヴィザノの執政官や地方領主達、それにみんなの力を借りて、これからのフェル・アルムの有り様を考えていかなければならないんだ。色々なことがあったけれども、私はここまで来て、良かったと思っている」
才覚に欠ける凡庸な君主だと、彼女自身ぼやくことがあるが、サイファこそがこれからのフェル・アルムに相応しい指導者になっていくのだろう。
「ふむ。“混沌”は去ったか」
聞き覚えのない声。ルードは――ライカ達も――周囲をあらためて見回した。
すると、ハーンの横に老人と女性の姿があった。
いつの頃から彼らはここにいたというのだろう? 先ほどまでは確かに、自分達を除いては誰もいなかったというのに。ハーンも、目を丸くして、突然のこの訪問者に驚いている。
老人は目を細めてハーンの肩を叩いた。
「わしのことが分かるかね? 少し前には一緒に演奏をやっていたじゃろうに、まさか、もう忘れたとは言わせんぞ?」
「え……。あなたは確か、ディッセ?」
ハーンは記憶の中にある名前を思い出した。ずいぶんと昔のようにも思えたが、あれはほんの十日ほど前のことだった。ディエルを連れてクロンの宿りからスティン高原に向かう途中の野営地にて、年老いたタール弾きとともに曲を奏でた。その時、レオズスの記憶が“ディッセ”と囁いたのだった。
老人はにこりと笑った。
「見事、闇をぬしの力としたようじゃの、宵闇の公子よ。“混沌”と決別したそなたを見るのはまこと嬉しいことじゃ! われらディトゥアの長、イシールキアも喜ぶに違いないぞ。かつての裁きの時は、彼もそうとう心を痛めたのだからな」
「あ……マルディリーン?!」
ルードは女性に向かって言った。彼女はルードの姿を確認すると、微笑んで手を小さく振ってみせた。
「お久しぶり、となるのかしらね、ルードにライカ。ここフェル・アルムで、こうやって会えるとは……嬉しいものね」
そうしてマルディリーンはルードとライカに、またディッセはハーンに対し、相手を紹介した。
ディトゥア神族のなかでも賢者として知られる慧眼のディッセ。その娘がイャオエコの図書館の司書長マルディリーンなのであった。
「ほれ。おぬし、これを忘れていったじゃろう?」
ディッセは背におぶっていたものをハーンに手渡した。
「これは……僕のタールじゃないか!」
ハーンは両腕にタールを抱えると、その感触を懐かしむかのように撫で、そして弦をつま弾いた。やや調子を外していたが、暖かみのある音がこぼれ出ていく。
「ありがとう! スティンで僕が……“混沌”を抑えようと家を飛び出してから、どうなったもんかって気になってたんだ!」
「まったく、タール弾きがなんたることよ! 命の次に大切な楽器を置いていくとはの」
ディッセが高笑いをした。
「でも、なんであなた達がこの世界に入ってこれたんだい?」
ハーンがディッセに問うた。ディトゥアとはいえ、閉鎖されたこの世界に入ってくることなど叶わない。ディエルとジルが訪れたのは意図的ではなく、半ば偶然によるものだった。
「空間の閉鎖が全て解かれたからよ、レオズス。だからこそ、普段は世界に干渉しないわしらも、ここに入り込めたんじゃ」
ディッセは答えた。
「さあて、“混沌”を追いやるとともに、この世界を覆っていた結界――“見えざる天幕”が完全に瓦解したわけじゃ。しかし今のフェル・アルムは、きわめて不安定なものとなっている。しかし結界がなくなった今こそが、還元の時! “混沌”が再びやって来ぬうちにことを起こさねばならん。時機を逸すれば今度こそ、“混沌”に飲まれてしまうだろう」
「否。遅かれ早かれ、いずれは終焉を迎えるしかない」
唐突にデルネアが言葉を放った。一同の視線はデルネアに集まる。デルネアはそれを気にかける様子もなく、ディッセに問いかけた。
「還元と言われたな。その方法を御身らはご存知なのか?」
デルネアの問いかけに、ディッセもマルディリーンもかぶりを振った。
「わしは“慧眼”と言われておるが、わしの知識は全てイャオエコの図書館の蔵書によるもの。そして知る限りでは、書物の中には還元のすべは載っていなかった。そもそも世界を切り離す手段自体、アリューザ・ガルドには存在し得ぬもの。だからこそデルネア、かつて異次元――“閉塞されし澱み”に赴いたお前さんの知識が不可欠なんじゃ」
「我の知識だと。ふん。そのような矮小なものを、“慧眼”と称される御身が欲されるとはな」
デルネアは口を歪ませ、自嘲するように小さく笑った。
「還元のすべを知るのが我だけだというならば、それはやはり絶望しか与えぬものだろう。――一週間! そう、一週間の猶予が必要なのだが、その間“混沌”が手ぐすね引いているとお思いか?」
「わしの読みでは――そなた達の時間にして一週間はとうてい保たぬじゃろう。今しゃべってる時間すら惜しい――」
「ならば全ては詮ないことだ。滅ぶほかない。還元のすべは、遙か南方のトゥールマキオの森においてのみ発動する」
ディッセの言葉を塞ぐようにデルネアが言い放ち、地面に横たわった“名も無き剣”をつかんだ。剣はなおも蒼白く光を放っている。
「デルネア!」
それを見たハーンの表情は硬くなる。デルネアを制止するため腰に差した剣をいつでも抜けるように、剣の柄に手をかけた。
「レオズス。御身が懸念するほどのことはない。我には戦う意志もなければ、それだけの“力”も失せた。……今はただ、剣を握っているに過ぎん」
デルネアは言った。
「――フェル・アルム創造に際して、我はこの“名も無き剣”をトゥールマキオの大樹の根本に置き、術の発動に臨んだ。あの大樹は、さながらエシアルル王の住まう世界樹のごとく、大地の力を流出させていた。そこに剣の力が加えることで、転移の儀式が発動し得たのだ。“名も無き剣”。これこそがフェル・アルムを切り離したすべを発動させる媒体。そして逆もまた真なり。しかしその力は、大樹においてでなければ発揮出来ぬ。もっとも、我らがその地に赴くのに一週間はかかろうがな……」
その時、ルードの裾がくいっと引っ張られた。見ると、ジルが何やら含みがありそうな表情でルードを窺っている。
ルードには、ジルの言いたいことが分かった。
「……いいや。おれ達はやってのけるよ、デルネア。まだまだ不可能なんかじゃない。俺達には出来るよ。さ、ジル」
ルードに背中を押されたジルは、てくてくとルードとデルネアの間に割って入り、わざとらしく咳き込んだ。
「おっほん! そりゃ、普通だったら間に合わないんだろうけどさ。でもだいじょうぶ! ここにおいらがいる限りね!」
なるほど、とサイファが小さく相づちを打った。
「小僧?」
何者だと訝しむようにデルネアが言った。
「ああ、おいらはジル。こう見えてもトゥファール様の使いなんだ。んで、おいらは遠かろうと何も気にせずに、空間を渡れるわけなんだよなぁ」
ジルはさも得意げに胸を張ってみせた。その割に、神の使徒であるということを何事もないようにさらっと言いのけるあたりは実に彼らしいが。
「あんまり役に立つしろもんじゃねえけどな」
「ぐ……」
ディエルに話の腰を折られたジルは小さく呻くが、それでも気を取り直してデルネアに言った。
「どう? おいらに大樹の場所を教えてくれれば、今すぐにみんな連れてくよ?」
「ジルの言葉は本当だ、デルネア。この子にはそういう力があるのだ」
サイファがジルの両肩に手を置き、デルネアと向き合った。
「私達は表向きの考え方こそ違えど、根本では一致するはずだ。……今さっきルードも言っていたように、悲劇を免れるためにフェル・アルムを創造した貴君にとって、世界が消え去るのは耐えられないと思うけれども、いかがだろうか?」
デルネアはぎろりとサイファを見やった。
「もとより、小娘に説教されるいわれなど無いが――小僧、場所を教えろと言ったな」
「うん。でもどこそこにあるって言葉で説明されても、おいらにはぴんと来ないから……かといって地図なんてここじゃあ書きようがないし……そうだね、頭の中で強く念じてちょうだい。おいらはそれを読みとるからさ」
デルネアは否定しなかったので、ジルはそれを了解の印と見たのだろう。
「よっし! それじゃあみんな集まって、おいらにしっかりとつかまって! 転移してる最中に、誰かが空間の狭間に取り残されても、おいらにゃあ探しようがないからね。最後の大仕事、みんなで見届けよう!」
「オレは行かない」
「そう……ええっ?!」
ジルは飛び上がらんばかりに激しく驚いた。当然、ディエルも一緒に行くものとばかり思っていたのだろう。
「ちょっと兄ちゃんてば。どうして?」
「……なあデルネア。このおっきな空間を元に戻すっていうんだから、相当な反動ってのが発生するんじゃないのか?」
ジルの喚き声をよそ目に、ディエルは冷静にデルネアに訊いた。
「創造した時と同様の力は起こり得るだろう。そしておそらくはこのウェスティンの地に多くの力が集中して巻き起こる。空間の切れ目がすぐそこにあるわけだからな」
「……ジル、聞いただろう? オレはここに残って、その反動とやらを抑えてみせる」
「そんな、兄ちゃんとまた会える自信なんて……」
涙目になるジル。ディエルはそんな弟の額を軽く小突いた。
「だったら! 間違いなくみんなを送って、きちっとやってのけて、それからここまで戻ってこい! ……オレを送った時みたいに、突拍子もない場所に行っちまうんじゃあないぞ」
ジルは黙ってうなずいた。
「というわけだ、ハーン兄ちゃん。こいつのこと面倒見てやってくれよ? さすがに間違いをやらかすなんてことはないと思ってるけどさ」
「ディエルも気を付けて。多分、凄まじい力に立ち向かうことになるだろうから無理は禁物だよ。……また、落ち着いたら今度、タールを聴かせてあげるからさ」
ハーンが言った。
「うん……いつになるかは分かんないけど、そうしたいよ」
ディエルはやや複雑な笑みを作った。
「まあ、兄ちゃんにだったら会えるだろうね……」
「ねえ……ジル。君には申しわけないんだけれども……私もここに残るよ」
サイファは、ジルの肩に置いた手を、彼の頭に持っていき愛おしむようにそっと撫でた。
「姉ちゃん……?」
サイファを見上げたジルの顔はすでに涙に濡れていた。兄の激励に心打たれたものがあったのだろう。それゆえに、サイファは言うべき言葉を言ってしまうのをはばかれたが、それでも言うしかなかった。
「私はドゥ・ルイエだ。国王として、まだ私にはここでやるべきことがある。北方には戦い疲れた烈火がいるだろう。私は彼らに撤退の命令を下さなければならない。私の命令なくして彼らは動けないからな。それから、避難していった人達にも、みんなの無事を伝えなければ。だからここで……」
つうっと、サイファの頬に涙が伝った。
「……また、宮殿に遊びに来てくれれば、いつでも歓迎するぞ? リセロやキオルの困った顔っていうのも、それはまた面白いものだしね」
ジルは肩を震わせながらうなずいた。が、おそらくそれは叶わないであろうことを二人は分かっていた。サイファがドゥ・ルイエの名を冠しているように、ジルもまた、全てが終わったあかつきには彼本来のいるべき場所に還らなければならないのだから。そしてそこは人の住まう地ではない。
サイファはジルと固く握手をすると、すっと離れた。ジルは目をこすり、しばらくうつむいていたが、気を取り直して――しかしやや寂しげな――笑みを浮かべた。
「じゃあ今度こそみんなで行くからね! さあ、おいらにしっかりとつかまっていてよ!」
トゥールマキオの森へと向かう面々――ルード、ライカ、ハーン、〈帳〉と、デルネア、それに隷達がジルを取り囲んだ。ルードは、ウェスティンの地に残る仲間達を見つめる。
「じゃ、行ってくるよ……ディエル、サイファ。本当にありがとうな」
サイファとディエルはともにうなずいて返答した。
「父様と私も、ここに残ることにするわ。微力ながら、ディエルの手伝いが出来ると思う。それにこちらのお嬢さん――サイファの手伝いもね」
マルディリーンが言った。
「ルード、それにライカ。もう私には貴方達に助言するものは何一つないのだけれど……あとは貴方達自身で見届けなさい。そして今度、イャオエコの図書館においでなさいな。貴方達とはゆっくりとお話がしたいものだわ」
「さあ、デルネア。おいらに場所を教えてちょうだい」
ジルに促されると、デルネアは何も言わずに目を閉じた。ジルはデルネアと向き合う。しばし瞬き一つせずにデルネアの顔を見上げていたが、
「うん……分かったよ。じゃあ、いよいよ大樹に行くからね!」
赴くべき場所を把握したジルは、明るく言ってのけた。それが、から元気だとあからさまに分かってしまうのは不憫だった。
ルード達はそれぞれ、ジルの腕につかまる。ジルは回りの様子を見て、最後にサイファのほうを見て、そして口を開き――ひとこと“音”を発した。
その瞬間。
ルード達の姿はウェスティンの地から忽然と消え失せた。




