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フェル・アルム刻記  作者: 大気杜弥
第二部 “濁流”
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第十章 終焉の時、来たりて (七)

七. 希望を繋ぐもの


 ライカが目覚めたのは、周囲に感じる異様さゆえだった。

 ライカの体を包んでいるのは、ねっとりと重苦しい暗黒のみ。それ以外何も無い。今、自分が落下しているという感覚はあるものの、本来そこにあるべきはずの音――風を切る音などはまるで聞こえてこない。落ちる、というにはあまりにも不自然な落下感であった。


 虚ろだった意識が次第に覚醒していく。そして、この異様な空間が自らの夢の産物なのではなく、現実のものだと知った途端、心臓が張り裂けそうなまでの悲愴感に苛まれた。

(そうだ! わたしとルードは落とされたんだった……!)

 ライカは自分の置かれた境遇をようやく認識し、感情にまかせるままに悲鳴を上げた。

 しかし、どんなに喚こうとも、その声はまったく響くことなく、暗闇の中に吸い込まれるようにうち消されてしまう。周囲を取り巻く暗黒は、他の介入を拒む意志を持つような、ずしりと重い威圧感を持ってして、音そのものの存在を否定した。そこにあるのは滅びをもたらす“混沌”ではなく、純然たる黒い色。安定した闇の世界。

 奈落の底の岩に叩き付けられるか、または凄まじい風圧による息詰まりによって、すでに命を落としていてもおかしくないはずだ。しかしライカの体は、底なし沼の中に沈み込んでいくように、深淵に向かってゆっくりと落ち続けていく。

(ルード?)

 重苦しい暗黒の中、ライカはルードの姿を探した。だが墨をまき散らしたかのような空間は夜の闇よりなお濃く、彼女自身の体すら暗闇の中にとけ込んでしまっていた。

 もし、ルードを見いだせなかったら――?

 ライカは最悪の事態を必死で否定しようと、ルードの名を呼ぼうとした。彼女の声は暗黒の中に消し去られるだろう。無駄な行いだとは分かっているが、ライカが何もしなければ、ルードの存在が闇の中へと失われてしまう――そんな強迫観念にとらわれそうになった。

 じわりと、熱いものが目の奥から沸き上がってくる。ライカはせめて泣くまいと、涙を拭おうとした。

 が、どうしたことだろう。右腕が重く感じられる。まるで手首が動かないのはなぜだろうか。だが、その感触は嫌なものではない。むしろ暖かく、心地よい――

(ルード!)

 手首をつかんでいたのは、ルードの右手だった。がっしりとした手が痛いほどに彼女の細い手首を締め付けている。その痛みがライカには嬉しかった。

 ライカは左手で涙を拭きはらうと、ルードの腕をつかみ、体を手繰り寄せた。今の彼には意識が無いのか、目を閉じたままだ。しかしルードの体は暖かく、確かな生気を感じる。ライカはたまらず、両の腕で彼を強く抱きしめた。

(よかった……生きてるのね)

 彼が目覚める様子はないが、無事であることが分かり、ライカは安堵した。


 ルードを抱きしめたまま、あらためて周囲を見回す。自分が本当に〈見回す〉という行為をしているのか、ひょっとしたら相も変わらずただ一点だけを凝視しているのではないか、と疑いたくなるように、暗黒はどこまでも濃い。ルードに頬を寄せても彼の顔が分からないほどに。

 天上と思われる場所を見上げても、漆黒が支配しており、一点の光すら存在する余地がない。

 自分達は今どこに行こうとしているのか?

 この奈落には果てがないことを、ライカは薄々感じ取っていた。死した後、世界の果てにあるという“果ての断崖”から落とされた、不浄な咎人とがびとの魂のように、自分達も救われることなく落ち続けるほかないのだろうか?

 死などは望むところではない。二人ともにまだ命を繋ぎ止めているのだ。同時にそれは死んではいないだけに過ぎない。自分達の状況はきわめて絶望的なのだ。この奈落から抜け出す方法など、ありはしない。

 けれども、ルードをこのままにしておくわけにはいかない。彼の意識はまだ戻らないが、息遣いを、力強い鼓動を感じるのだから。なんとしても必ず、皆の待つ大地へと帰還しなければならない。

 知らず知らずに、ライカの唇が彼の名前を呼ぼうとしているのに彼女は気付いた。

「ルード……」

 自分の声がかき消されないように、ルードの耳元に唇を寄せてライカは囁いた。

「ルード」

 再度呼びかける。

 が、彼の意識は依然戻らない。構わずライカは何度も呼びかけた。彼の名を呼ぶたびに、自分もまた勇気づけられるのが分かるから。


 何度呼びかけただろうか。ようやくルードの意識が戻った。まだ事態がつかめないのだろう、ルードもライカがしたように、周囲を見回しているようだ。

「ここは? ……そうか、俺達は落とされたんだっけな」

 彼の戸惑った声が伝わってくる。お互いの吐息が感じられるほど近くにいるというのに、くぐもった小さな声しか聞こえないというのは、あまりにもどかしい。ルードは落胆のためか、小さく溜息を吐いたようだ。

「落ちていってるのか。まるであの時みたいだな。……覚えてるか、ライカ? 俺達がはじめて会ったあの時を」

 そう。精霊のまやかしにあい、ライカがレテス谷の崖から落ちている間の一瞬だけ、アリューザ・ガルドとフェル・アルムは繋がり――全てが始まったのだった。

「あの時は俺がライカに触ったことで不思議な力が起きたんだ。けど、今はどうも出来そうにない、のかな……」

 もはやルードには為すすべが見つからないのか、聞こえてくる声は弱々しくもあった。


〈あの時――。〉

 ルードの言葉にライカは引っかかりを覚えていた。

(あの時、わたしはどうしていたんだろう?)

 絶望を追いやるすべが、答えはすぐそこにある。

 所在が曖昧になりつつある、数ヶ月前の記憶の糸。その断片を必死に探し、紡ぎあげ――

 ――ついにライカは知った。

 今、自分が出来ること。自分にしか出来ないであろうことを。そして、希望を繋ぐすべは今や、自分のみが持ち得ているということに。

(あの時の願いが聞き届けられなかったのは、ひょっとしたら今この瞬間のためなのかもしれない……)

 思いつつライカは、ゆっくりと目を閉じた。

 まぶたの裏に思い浮かべたものは、アリューザ・ガルド北部のアリエス地方。その山岳の小さな村、ウィーレルだった。そこは自分が住んでいた場所であり、ルードが連れて行くと約束してくれた、帰るべき場所。次に浮かんできたのはライカの家族。祖父。そして行方知れずとなってしまった父、母。

(分かる……分かるよ。どうすればいいのか。……父さん、母さん)

「大丈夫。ルードがわたしを守ってくれたように、今度はわたしが救ってみせるから!」

 そして、確固たる自信とともに、ライカは祈った。

(風の世界ラル。そして風の王エンクィ。今この時だけでいい。わたしに力を授けてください!)


 瞬間。それは起きた。


 ライカは落下がやんだのを感じた。ちりんと、鈴の鳴るような透明感のある音が聞こえたかと思うと、どこからか、小さく青白く光る球体が数個出現していた。それはライカ達の周囲を取り巻き回りつつ輪を形成した。その輪は次第に小さくなっていき、そして次には、輪の一端から延びた白い線状のものが、自分の内部にそっと、暖かく触れるのを認識した。

 と同時に、彼女の視界一面は、白一色に埋め尽くされた。


 強い祈りは自身の力を呼び起こし、そして――


* * *


「……来た」

 膝をつき、暗黒の奈落を長いこと凝視していたサイファはそうつぶやいた。

「来たって、何がさ?」

 ジルに訊かれたサイファは顔を闇から離すことなく、しかし笑みを浮かべて答えた。

「私達の希望が、よ」


 その時、ぽっかりと口を開いている暗黒の中から何かが浮かび上がってくるのをサイファは見た。白く輝き、時折ゆらゆらと揺れ動きながらも勢いよく暗黒の縁から出ようとしている。その白いものは見る見るうちに昇りあがり――ついに裂け目から飛び出した。

 ウェスティンの地にいる者達は一同、その様子に釘付けとなった。デルネアや隷もまた、ただ見入るのみ。

 信じられない。そのような面もちでレオズスはゆらりと立ち上がった。さすがのディトゥア神もあっけにとられたまま、今し方飛び出した白いものが宙に浮いているさまを、ただ見つめている。


 繭が割れるように、柔らかな白の中心が裂ける。中にいるのは間違いなく、ルードとライカだった。ライカはルードを抱きかかえながら、仲間に無事を報せた。ルードはライカにつかまりながらも、友人に手を振ってみせた。

 目を赤く腫らせたレオズスはようやく笑みを取り戻し、うなずいた。

「ああ……おかえり」

 レオズスが腰に収めている聖剣も、主人の帰還を喜ぶように、再び輝き始めた。

 ライカ達を包む白いものが再度、その存在を誇示するかのように上下に大きく動くと、それは次第にある“かたち”をとる。


 翼。


 今、ライカの背にあるのは、白く輝く翼にほかならなかった。風の事象界に属するため、本来は物質的な存在ではない二枚の翼はしかし、あたかもそこに実在するかのように大きくはためく。すると、数枚の羽根のようにも見える小さな粒子はきらきらと光り、地面へと舞い散った。

 空はいよいよ、灰色から暗黒へと変わり、“混沌”の襲来が間近に迫ったことを知らしめる。

 だが、そのような滅びをもたらす黒の中にあって、彼女の翼はきわめて幻想的に映る。希望をもたらしたライカが、神からの御使いであると錯覚したとしても、それは不自然なことではなかった。


《フローミタ アー ラステーズ コムト、アルナース……》


 思わず〈帳〉は、アイバーフィンの言葉をつぶやいていた。


“翼の民の娘よ、来訪を歓迎する”


 〈帳〉の館で、彼がライカにはじめて語った言葉でもあった。今やライカは、その名が現すとおり、翼を持つ者となったのだ。

 ゆっくりとライカは地面に降り立つ。と、彼女の翼は次第に小さくなり、彼女の背中へと消えていく。

 腐った大地の感触は、ライカの嫌悪感を呼び起こし、なおも差し迫る滅びを目の当たりにしているという現実を思い知るが、それでも再びこの大地に戻れたのは嬉しいことこの上ない。

「今、戻ったわ」

 一条の希望を繋ぎ止めたライカは、ぐるりと取り囲む仲間達に向かって小さく、しかし力強く言った。

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