第十章 終焉の時、来たりて (二)
二. “絶対なること”の崩壊
メナード伯は焦る気持ちを抑えるように、下顎に蓄えた白髪交じりの髭をいじっていた。
何より、時間がない。黒い雲はすでに上空を覆い尽くし、いずれ押し寄せるであろう“混沌”を待っているのだ。そして、“混沌”の力が強まるにつれて、化け物達が姿を現し、避難民達を襲っている。今はまだことなきを得ているが、はたしていつまで保つものか。加えて、前方からはとうとう烈火が押し寄せてきた。
自分達に訪れる未来など、もはや無いかのようだ。北方の民はこのウェスティンの地で絶望の中に朽ち果てるしか、道はないのだろうか。
こうして絶望を認識した時、伯爵は自分の感情すら分からなくなった。長年に渡る人生のなかで、今ほど自分の体と心が重苦しく苛まれたことなど無かったのだ。
「領主さん」
いつの間にか、伯爵の真横にはジルが来ていた。ジルはつい先ほどまでは、サイファの横についていたのだ。
「まだもう少しは時間があるよ、領主さん。“混沌”が押し寄せるまではね。それまでは魔物とやり合ってる戦士達も持ちこたえられる。魔物達の数にも限りがあるって、兄ちゃ――ディエルが言ってたからね」
「それはありがたい報せだな」
メノード伯は淡々と言った。
「わしの部下達も、この騒ぎの中でかけずり回っていて、なかなか情報が届いてこなかったのだ。とりあえずの間はしのげるということか、我々のほうはな。しかし――」
伯爵は前方を見据えた。そこでは今まさに、“烈火”という名の禍が襲いかかろうとしている。
「あの戦士達を相手に、わしらはどう戦えというのだ?! 間もなくやって来るのだぞ!」
伯爵は苛立ちを隠すことなく、わななきつつも声を荒げた。
「大丈夫だってば」
ジルは未だ、前方を見据えている。彼の目はただひとりの人物のみを捉えている。サイファだ。
「サイファ姉ちゃんがすることを見ていてよ。おいら、全ての主たるヴァルドデューン様の名にかけたっていいさ。姉ちゃんが、やってくれるってね!」
「ああ、陛下……」
沈痛な面もちを隠さず、メナード伯は喉の奥から祈るように、気持ちを露わにした。ルード達のほうへと駆けだしていったルイエ。彼女が国王として何を為さんとしているのか、伯爵には図りかねた。ジルは知っている。そしてそれは間もなく、この地にいる全ての者が分かることだろう。
* * *
「烈火の戦士よ! 私はドゥ・ルイエである!」
地響きとともに押し寄せてくる甲冑と蹄鉄の音にかき消されながらも、ルイエは言い放った。
(私は今、国王として先頭に立っているのだ。今こそ、為すべきことを為す時! ジルよ、君の力、使わせてもらうぞ!)
ルイエは心に誓うと、手にしていた“珠”を高く放り投げた。するとその白い珠は四散し――ルイエの立像を宙に大きく映し出したのだ!
烈火は何ごとかと宙を仰ぎ見る。烈火の進軍がやや遅くなったようにルイエには感じられた。彼女の額を飾っている宝珠を知らぬ者など中枢にいない。それは、ドゥ・ルイエのみが飾ることを許されている青水晶なのだから。
ルイエは大きく両の手を広げ自分自身を誇示した。
「烈火よ! 私の言葉を聞くのだ! 私は諸君らの主、ドゥ・ルイエである!」
ルイエの発した声と同様、宙に映った幻像からも声が放出される。それは烈火が突進する音すらもうち破って、朗々とあたりに響きわたった!
「ルイエだと? なぜ、ここに……少々放蕩が過ぎるのではないか? のこのことアヴィザノを抜け出してくるようでは、執政官達の気苦労も絶えまい」
デルネアは言った。臣下の言葉としてはまったく礼を欠いた言葉ではあるが、デルネアも、当のルイエも構っていない。すでに君臣の間柄ではないと、お互い悟っているからだ。
「デルネア。私は貴君が今までに――遙か過去から現在に至るまで、いかなることを為してきたのかを知った。だが、貴君ももう少し私のことを知るべきだったな。私は凡庸たる君主ではあるが、少なくとも自分が何を為さねばならないのか、それくらいは心得ているつもりだ」
ルイエはデルネアに対して言った。
「私を軽んじてもらっては困るな、将軍よ。貴公の暴走をくい止めるために……そしてルミエール・アノウとエヤード・マズナフ、両名のためにも、私はここにいる!」
「……我と烈火の動向を追っていたのは、国王自らだったとはな。それは今の今まで思いもしなかったわ。それで、貴様のお守りにつけられたのが近衛二名だったということだな」
歯牙にもかけない様子を露わにするように、デルネアは鼻で笑った。
「かの者達に疾風をけしかけたのは、間違いなく我の命によるものだ。……それでルイエよ、仇討ちでもするつもりか? まあ、さぞ悔しかろうな」
その態度に、思わずルイエは顔をしかめる。
「言うな! 彼らの無念さなど、貴公に分かるものか!」
「ああ、分からぬわ。たかだか人間数名の命であろう? 我がそんな些細なことでいちいち感傷的になるようでは、世界全てを掌握出来るものか」
「貴様あ!」
「デルネアの言葉にのせられては駄目だ! あなたにはしなきゃならないことがあるだろう?! 時間がないんだぞ!」
ルードの言葉を聞いて、ルイエは目が覚めた思いがした。デルネアの掌中で踊らされて、危うく目的を忘れるところだったのだ。烈火は先ほどより足が鈍ったようであるが、瞬きを数回しないうちにも辿り着くところまで近づいてきていた。
「ルイエよ、我と戦うか? 自らの死をもって後悔するのが関の山であるがな」
「いや、私は貴君と戦うわけではない。私はドゥ・ルイエとして為すべきことを為すのみだ!」
すんでのところで、ルイエは荒ぶる感情を抑えた。ルードに目配せをして感謝すると、再び全ての烈火を見渡して、言葉を発した。
「烈火の戦士よ、ドゥ・ルイエが命を聞け! 進軍を止めよ! これは勅命である!」
ルイエがその勅命を発した時、誰にとっても信じがたいことが起きる。出来事を確信していたのは、ルイエひとりだったのかもしれない。
がちゃがちゃと甲冑を鳴らしながら近づいてきていた烈火の足が、前列から順々に止まっていくのである。
やがて――周囲はしんと静まりかえった。
全ての烈火達は、戦闘に備えて構えていた剣をおろすと、先ほど対峙していた時と同様、不動の体勢をとった。
そして、かしゃ、かしゃ、という音があたりに響く。典礼の際に、近衛兵達がそうするように、烈火達は一斉に剣を高く掲げ、そしてそれぞれの目の前に構えると、小さく一礼をしたのだ。臣下の礼。ルイエは宮殿にて、この礼式を何度となく目にしているが、このような大人数が一斉に行うのを見るのは始めてであった。
ルイエ自身、圧倒される思いであったが、何よりも達成感がそれにまさった。彼女は誰にも知られないように、小さくほぅっと息をつくと、烈火に対しておもむろに手を挙げた。
それを見た烈火は、臣下として応えるべく、剣をしまうと一斉に一礼をした。
宙に浮かんだルイエの像は、すうっとかき消えていった。
「何?!」
ルイエの為したことに対して、ルード達は驚きの声をあげる。が、それ以上に驚いたのはデルネアであろう。彼は後ろを振り向いたままでその表情は読み取れないが、デルネアがあきらかに狼狽しているのが分かる。今まで軍を率いていたデルネアの命令に対し烈火が拒否した。これはデルネアにとって、まったく想像出来ないことであったに違いない。
「止まっただと?! 解せないことだ」
「デルネアよ。やはり貴公は増長しきっているようだな。烈火は私の配下に置かれている戦士達だぞ。ルイエたる我が命令を聞き入れるというのが当然のことだろう?」
「馬鹿な!」
デルネアは、まるで信じられない、という面もちのまま、顔を横に何度も振って、吐き捨てるように言った。
「烈火という戦士を形成したのも、何より今までの行軍を統率していたのも我だというのに、なぜ! なぜ我の命令が聞けぬのだ! 進軍せよ!」
しかしデルネアの言葉はまるで風のように流れて行くのみ。烈火の中で誰ひとりとして動こうとする者はいない。
烈火は、かつてデルネアが作りあげた中枢の精鋭戦士である。ドゥ・ルイエに絶対の忠誠を誓う戦士達。かつてのルイエ達は、デルネア自身の言葉を“神託”として受け入れていたのだが、今のルイエ――サイファ――は、違っていた。
王になる者は“ドゥ・ルイエ”の名を冠すると同時に、幼少の名を捨て去るのが通例だが、現ルイエは、王となった今でも幼少の名“サイファ”を併用している。それが、確固とした己というものを未だに持っている要因でもあったのだ。公の立場では国王『ルイエ』でありながらも、また『サイファ』というひとりの人間でもあるという認識。今までの王との違いがそこにあった。
そして、そのことをデルエアは見抜けなかった。
「我は絶対なる存在! 信じられるものか! 我を差し置いて、ルイエごとき命令を聞くなど!」
デルネアは、自分自身の拳を力任せに地面に叩き付けた。ごうんという鈍い音とともに、デルネアの目の前の地面に亀裂が走り、ルード達の足下にまで伸びていった。
ルードは亀裂を避けて飛び越すと、ルイエの横まで来た。
「世界を全部ひとりで操れるなんてことは、出来ないと思う」
うつむいたデルネアに対し、ルードは諭すように言った。
「フェル・アルムは、確かにあなたが創った世界かもしれない。けど俺達は、その創られた世界の中で俺達なりに生活しているんだ。あなたが介在しなくっても、ちゃんとやっていける」
その時、石のように動かない烈火達の中から、数名の者が走り抜けてきた。全身黒ずくめの装束をまとった彼らに、ルイエは不安を覚えた。デルネアの側近であろうが、宮中でも見かけたことなどない者達だ。
「あれは隷だ。存在を知られぬように、ひそかに宮中に住まう者達。デルネア麾下の参謀であり術使い、と言おうか。剣の腕は持たぬがな」
〈帳〉が言った。
「なるほど。少なくとも彼らだけは、デルネアに忠誠を誓うのかもしれん」
隷達はデルネアの周囲を取り囲むと、術の詠唱に入ろうとした。が、デルネアに制止された。
「やめおけ。貴様らの魔力では〈帳〉にうち消される。もっとも〈帳〉よ。“礎の操者”と冠されていたお前も、今となってはそれだけの力しか持ち得ていないのだがな」
〈帳〉は否定しなかった。
「しかし、我に従う者がこれだけしかおらぬ、とは。二千の烈火は結局動かぬのか、ふん……」
デルネアは自嘲するかのように笑った。
* * *
「ルード」
ルイエは小声でルードに話した。
「土が腐り始めている。黒い雲の影響がすでに顕著に出てるようだ。何より避難民達の中にはクロンの悪夢から逃げてきた人もいるのだから、このような場所から一刻も早く立ち去りたいに違いないだろう? ――避難民だけでも、先にサラムレに行かせてやりたいと思うのだけれど?」
「もちろんそうしたほうがいい、とは思うんだけれどな」
ルードも賛成した。
「だけど……それが出来る?」
「やってみるしかないだろう? 必ず烈火を動かしてみせる。まあ、それは私の役目だからね」
ルイエはルードに笑いかけると、次の瞬間には毅然とした表情に戻り、再びデルネアと対峙した。
デルネアの発する闘気は相変わらず圧倒的なものである。
が、ルイエはあえてその闘気を真っ向から受けた。ルイエ自身の為すべきこと。その大筋はすでに終わったとはいえ、あくまでデルネアに対しては、戦いの勝者として正々堂々と渡り合わねばならない。その思いこそが、ドゥ・ルイエ皇としての風格に繋がるということを、当のルイエは知ってか知らずか。ルイエは毅然とした口調でデルネアに話しかけた。
「物事は全て貴公の思うがままに進むわけではないということ、その身をもって知ったであろう、デルネアよ!」
「……小娘が。お前が今のドゥ・ルイエたる立場にあるというのも、全て我が計らったことだというのに刃向かうとは……身のほどを知れ!」
デルネアの闘気が膨れあがり、ルイエに襲いかかった。
「うああっ!」
かたちを持たないその力は容赦なくルイエを痛めつける。ルイエは両の手で自らを抱きしめるかのように、自分自身を守ろうとするが、ついにこらえきれずにどう、と倒れた。
「サイファ!」
ライカは思わずルイエのそばに駆け寄り、彼女を抱き寄せた。幸い、傷は浅いようだ。
「しっかり」
「ライカ……ありがとう。大丈夫よ」
ライカの肩を借りたルイエは、やや顔をしかめながらもすっくと立ち上がった。
「我、ドゥ・ルイエの名において、烈火に命ずる! 貴君らの敵はニーヴルにあらず! この地に現れている化け物を押さえ込むことこそ烈火の使命と知れ! まずは道をあけ、北方の避難民を通してやるのだ。そのあとで、臨戦態勢に移れ。繰り返すが敵はニーヴルではない! これは勅命である!」
勅命を受けた烈火達は、即座に二つに分かれていく。騎士達の列の間から、サラムレへと続くルシェン街道が現れた。
今、街道の封鎖は解けたのだ。
「貴様……! あくまで神託に背くか」
デルネアは後方で道を空ける烈火達の様子を苦々しく見つめるほか無かった。
「神君ユクツェルノイレなど実在しないことを、私は〈帳〉殿から聞いた。今まで神の役を演じていたのが貴公である、ということも」
ルイエは続けて言った。
「デルネア。黒い雲が近づいている。避難民を通してやってくれぬか」
「……ふん」
毅然とした眼差しと、鋭い眼光。ルイエとデルネアはお互いの視線を交錯させるように対峙する。今度はデルネアも力ずくで押さなかった。国の君主と、世界の君臨者の間には、目に見えない何かが交錯しあっているかのようであり、両者一歩も引く構えを見せない。それは静かなる戦いであった。
長い沈黙が周囲を包んだ。
が。
「……通るがいい」
ついに、デルネアは重々しく言った。デルネアの思惑の一端が、音を立てるかように大きく崩れ去った瞬間であった。




