第十章 終焉の時、来たりて (一)
一. 対峙する者達
〈帳〉は、デルネアと真っ向から対峙し足を止めた。
ルードは、まるで引き寄せられるかのようにデルネアを見つめていた。
デルネア。かつては、“混沌”に魅入られたレオズスをうち倒し、そしてフェル・アルムを創造した人物のひとり。それからの六百年余、フェル・アルムを影で操っていたとされる人物が今、目の前に立っているのだ。
フェル・アルムの全てをその一身につかみ、世界の全てを知る唯一の者。全てを見きわめんとするかのような鋭い眼光。不敵な笑み。引き締まった巨躯。そして腰に差す蒼白く輝く剣。彼を見るだけで気圧されるかのようだ。
烈火のみならず、この場に居合わせている全ての者を威圧するかのような凄まじい重圧感を、ただひとりの人間が持ち得ているのだ。歴史を影で操ってきた者だけが持つであろう独特の陰惨さと冷酷さ、そして気位の高さをルードは感じた。
「――この一件、やはりお前が絡んでいたか、〈帳〉よ。まあ、お前のことだ、そうであろうとは思っていたがな」
低く、しかしよく通るデルネアの声は、まるで引き寄せられるかのような心地よさと威厳を併せ持っていた。声そのものが魔力をおびているかのようだ。
「そしてお前の籠絡に見事引っかかったのがこの面々か……」
デルネアはそう言い、〈帳〉の背後に控える面々を一瞥した。
〈帳〉のそばに控えているのは、ルードとライカ。双子の使徒とサイファは、後方で成り行きを見守っている。
「デルネアよ、私はけっして、この者達を籠絡にかけたわけではないぞ」
デルネアの放つ重圧に抗い、強い意志を持って〈帳〉は言葉を返した。
「彼ら自身が自分達の運命を切り開こうとして選んだ道だ。私はあくまで助言をしたのみ」
デルネアは鼻で笑った。
「それこそ姑息だ。全てが我の思うままに動いていればよかったのだ。そうすればひずみなど生まれる要因がない。そう、このような事態など起きはしなかっただろうに……見ろ!」
デルネアが示したのは黒い空。濁流のごとく押し迫りつつあるそれは、すでにスティンの丘陵すらも覆い隠し、なおも浸食を進めている。ほどなく、ここウェスティンの地も黒い空に覆われるだろう。
「あれに飲まれたのならば、全てが無くなるのだ。世界の破滅。それだけは避けなければならない。我がここで待っていたのは、“混沌”を無くすためであり、真の理想郷をもたらすため。〈帳〉よ、お前には用なぞ無い」
その言葉を聞いて〈帳〉は眉をひそめた。
「貴公になくとも、私にはあるのだ! デルネアよ!」
〈帳〉は凛とした声をあたりに響かせた。
「貴方とこうして対峙するのも十三年ぶり……か。あの時はトゥールマキオの大樹の中で話したものだったな。私が言ったとおり、ひずみはここまで大きくなってしまったのだ」
「『我を取り巻く大いなる流れは変わらぬ。全ては掌中に収まっている』――こう我は言ったものだな」
デルネアは懐かしむかのように語った。
「あの時の貴公は、個々の人々の思いをまったく軽んじていたように聞こえたのだが……こうして“混沌”を目の当たりにして、その思いは変わったのか?」
「否」デルネアは言い切った。
「たしかに、“混沌”の流入なぞは我にすら考えが及ばなかったものの、全ての流れは我がもとにある。それは変わらぬものだ、永久にな」
「デルネア、貴方の目は曇ったのか。それは増長と言うものだ」
落胆する思いを隠しもせず〈帳〉は言い放った。
「世界が終わろうとしている、今この時になってすら、貴方には物事が見えていないのか? ならば単刀直入に私の思いを告げよう。フェル・アルムを――貴方が創造したこの閉じた世界を、アリューザ・ガルドに還元するすべを教えてほしいのだ! そうすれば、全ての呪縛から解き放たれる。あの黒い雲が、“混沌”がこの地を覆う前に、我らが術を行使せねば、その時こそ終焉が訪れるのだぞ!」
「術を行使する、だと? 笑止な。力を失ったお前なぞに何が出来ようか? 今のお前ごときでは、我に相対することすら不相応というものだぞ。貴様の魔力など、我の前にあっては無力に等しい。〈帳〉、今の貴様は夜露をしのぐのがせいぜいの天幕に過ぎぬことを知れ」
デルネアは冷静に語った。
「たしかに我は知っているとも。還元するすべをな。だが、我の創った世界を、なぜにむざむざ放棄せねばならないというのだ? アリューザ・ガルドへの還元など、させん。今さら貴様らがあがいたところで遅過ぎるというものだ」
「しかし、この期に及んで滅びの時を待つようなことこそ、愚かしい行為だと思わないのか?」
「滅び? 我がそれを望んでいるとでも? 痴れ言を!」
デルネアは首を左右に振った。
「まったくもって――貴様の考えこそまさに愚の骨頂よ! 我が滅びを欲しているとでも思っているのか? 愚かな……まこと愚かな! 我の思うところはただ一つ、このフェル・アルムに恒久の平穏を与えることだ。世界を滅ぼすなど、考えもしなかったわ」
デルネアはきっと〈帳〉を見据えて言い放った。
「我は“力”を得るのだ。そのためにここで待っていたのだ。“力”を持つ者の到来をな。絶対的な“力”を手に入れれば、“混沌”のかけらなど、造作もなく次元の彼方に追いやってくれようぞ!」
「この世界の神にでもなろうというのか?」
「全てを超越し、調停出来る存在をそう呼ぶのであれば、我は神になることを望んでいるのだろうな。だがこうして“混沌”を目の当たりにしている今、我はお前などと戯れる時間すら惜しいのだ。――そこの少年よ、来い」
* * *
デルネアが呼んでいるのが自分のことだと気付いた時、ルードは胸が張り裂けそうになった。自身がこの場所に立っていることすら信じがたいかのような、奇妙な感覚にとらわれた。
デルネアが満足げにほくそ笑み、小さくうなずく。
「そうだ。お前だ。“力”を持つ者よ。お前の到来を我は待っていたのだ……さあ、我の前まで来い」
デルネアの声を受け、一歩また一歩と足が進むのはルード自身分かっていた、しかし自分の意志によるものなのかは分からなかった。ルードは〈帳〉の真横まで歩くと、ちらと〈帳〉を見た。
「心せよ、ルード。彼の“力”は強大だぞ」
〈帳〉の言葉にルードは小さくうなずいた。
「さて、名を訊こうか」
デルネアは一歩歩み寄ると、ルードに話しかけてきた。ルードは表情をこわばらせたまま、黙して語らない。
「ルー……ド」
喉から絞り出すようにして、ようやくルードは声を出した。
「ルード、か。……我のことは、〈帳〉より聞いておろう?」
ルードはうなずいた。
「そう。我こそがデルネアだ。この世界の全てを把握せし者。だからこそ我には分かるのだ。お前が強大な“力”を有している、ということをな」
デルネアは視線を下方に移し、ルードの下げている剣を見つめた。
「“力”の所在は一つのみ、か。もう一つの“力”が確かに存在していたのだが……どこへ行ったのか知れぬ。だが今、目の当たりにしている“力”でこと足りるであろう。ともあれ、我が探していた“力”がその剣だとは……そも、その剣がこの地にあるとは、我にとってすら驚嘆に値するもの。ルードよ、その剣がなんたるか、知っているか?」
ルードは、腰に下げている剣に手をやったが、真実を語るのをためらった。
「無駄なことだ。我を前にして物事を隠しとおすは賢明でないぞ。その剣こそがガザ・ルイアートだ。さあ、その剣がどのようなものだったのか、知っているだろう。言うのだ」
デルネアは、まるで全てを見通しているとでも言うのだろうか? ルードは内心焦りながらも言葉を紡ごうとするが、真実を語る以外に持つべき言葉はなかった。
「ずっと昔に冥王を倒した聖剣だって、聞いている」
「しかり。かように大きな“力”を持った剣だ。よもや聖剣がこの地にあろうなど思いもしなかったが、それこそがこれからの世界を切り開く、大いなる“力”の一端となるのだ」
デルネアはまた一歩近づいくと、自身の剣を抜きはなった。刀身はほのかに、そして妖しげに蒼白く光り、剣自体がこの世ならざる次元にて創られたものであることが見て取れる。
(まさか、戦おうというのか?!)
ルードは剣の柄に手をかけようとするが、とっさの判断が出来なかった。明らかに、デルネアの言葉に魅入られているのが分かる。
「……そう構えずともよい。我は戦いを望まぬ。お前の返答次第ではあるが、な」
デルネアのぎらりとした眼光に気圧され、ルードは動けなかった。デルネアはルードの様子を気にかけるわけでもなく、自身の剣を見つめると、穏やかに語りはじめた。
「かつて、宵闇の公子を倒すために我は……我が友とともに異界へと赴き、この剣を我がものとした。結局、彼を失うこととなってしまったがな……」
デルネアは剣を持ち直し、その切っ先を地面に突きつけた。
「ユクツェルノイレか」
〈帳〉の言葉にデルネアはうなずいた。
「……彼の死は、我にとっても大きな痛手だった」
デルネアは語った。やや悲しげに声が揺れて聞こえるかのようだったが、それは気のせいなのだろうか。
「剣を入手した我が帰還のためにその空間を漂っている時、偶然にも空間を閉鎖させるすべを知った。我は理想郷創造のために、そのすべを行使することを決意したのだ。そこには戦いなどなく、恒久たる平穏のみが存在する――ユクツェルノイレのような悲劇を生むこともない――」
デルネアは言葉を切った。
「“混沌”が来る前に話を終わらせよう。すでに魔物の気配がある。ほどなくこの地にも黒い雲が押し寄せるだろう」
魔物の気配がする。それはデルネアの言葉どおりであった。
遙か後方、避難民の間からは動揺の声があがっているのが聞こえる。おそらくは“混沌”の先兵達がすでに出現しているのだろう。かん、かんと乾いた剣戟とともに、魔物達の声が聞こえてくるようだ。どのような状況になっているというのか? デルネアと対峙しているため、振り向けないのがルードにとってもどかしかった。
「ルードよ、お前のその剣、我がもらい受けるぞ。聖剣の“力”を手に入れたその時こそ、我は理想郷を――“永遠の千年”を創造し得るのだ」
そう言って、デルネアは片手をすうっと伸ばした。友の手をたぐり寄せる動作にも思えるその行為自体が、親しみのあるものにすら思える。
「ルード」
〈帳〉が小声で諫めるのを聞き取り、ルードは我に返った。
(デルネアの言葉は……危険だ!)
ルードはあらためて思った。デルネアの話すこと、その一節一節がルードにまといつき、捉えて離さないかのようだ。それはとても心地よいものだが、気持ちを委ねてしまってはならない。魅入られたら最後、デルネアの思うつぼなのだから。『自身を強く保て』という〈帳〉の言葉が思い起こされた。ルードは、自身を強く保つべく、揺れ動く気持ちを必死に押さえようとした。自分達は何のためにここにいるのか? ルードは後ろに控えているライカをちらと見て、うなずいた。その答えはすでに見つけている。
自然と、ルードの口から言葉がついて出た。
「断る」
凛としたその響き。確固たる思い。言葉は周囲に響き渡るかのようだった。
* * *
デルネアは姿勢を崩さずに、眉をぴくりと動かした。
しばらく、沈黙が周囲を覆う。空気がさらに重々しくなるのが感じられる。
ルードは自分の鼓動がどくどくと音を立てているのすら感じとっていた。しかし迷いはない。ルードは、きっとデルネアを見据えると、もう一度言った。
「俺はこの剣をあなたに渡すつもりはない。俺達は、俺達自身の手で“混沌”を消し去る!」
言ったルードは、剣を鞘から抜き去る。ガザ・ルイアートはルードの思いと呼応するかのように、刀身から光を放った。
「そして俺達は、フェル・アルムをアリューザ・ガルドへと戻すんだ!」
「……痴れ言を。なぜに理想の実現を拒むのか、理解出来ぬ」
デルネアは剣先をルードに向けた。しかしそれのみならず、彼の身体からは圧倒的なまでの闘気が放たれている。
「お前と、そして〈帳〉が考えているのは、このフェル・アルムという世界自体を否定することになるのだぞ。フェル・アルムが創られてから、民はこの世界のみで生きてきたのだ。お前は、そんな民の思いすらも裏切ろうとしているのだ。この世界全ての民に対し、『今までの世界、歴史は間違っていた』と言い切れるだけの力がお前自身にあるのか?」
「たしかに、それは酷なことなのかもしれない」
デルネアの放つ威圧感を体中で受け止めつつも、ルードは言った。
「そうだろう。ならば――」
「でも! わたし達はそれを知った上で、世界を元に戻す!」
デルネアの言葉を押し切ったのは、ライカだった。
「我の言葉を止めるとは大した度胸だな、アイバーフィンの娘よ。お前がこの地にあること自体、歪みを生む原因になっているのだぞ」
デルネアは歪んだ笑みを浮かべた。
「いくらあなたが“力”を持っていたと言っても、世界を創りだす、なんてことは出来やしないわ。アリュゼル神族にしても、世界をまったくの無から創り出したわけじゃあないもの。……あなたの言葉からは、歪みを生んだ全ての原因がわたしにあるように聞こえるけど、そうじゃない。世界自体が変わろうとして、歪みをつくり上げてしまったのだから。あなたはフェル・アルムを操っているのかもしれないけど、かんじんの世界がどう動こうとしているのか、そういうところには目を向けてないのね?」
「デルネアよ。悲しいかな、自身の絶対を信じるがゆえに事態を把握出来ぬ者よ。世界自体が還元を望んでいるのだ。これを押しとどめておくことは我らには不可能というもの。たとえ暫くの間の平穏を手に入れたとしても、再び災厄はやってくるだろう。今以上の歪みとともに」
〈帳〉が言った。
「たとえ貴公がどのような力を持とうとも、自然の摂理をねじ曲げることは不可能なのだ」
「俺達は――新しく切り開いてみせる! あなたの力には頼らず、自分達の手で!」
「我が“力”を手に入れたあかつきには、フェル・アルムは完全なる一つの世界となるというのに――お前達はあくまで我に楯突こうというのか!」
それは明らかに敵意の感じられる声だった。
「だが、全ては我の掌中に収まっている。お前達がどうあがこうと、所詮は無駄なこと……」
真上から見下すかのような態度を変えないまま、デルネアは冷酷に言いはなった。
「――烈火に総攻撃の命令を下すぞ。ここに集った民を粛清するためにな!」
「粛清だと?! 避難民には何ら関係など無いのだぞ!」
あまりにも衝撃的な言葉だった。ルードやライカのみならず、〈帳〉すらも呆然としてデルネアを見つめている。
「あくまで平穏にことをすませるつもりだったのだが、貴様らが態度を変えないと言うのならばしかたあるまい?」
デルネアが右腕を上げると、二千からなる深紅の戦士達は、がちゃりという重厚な音とともに、一斉に剣を構えた。
ルードは、〈帳〉、そしてライカと顔を見合わせた。あの兵士達が攻めてきたならば、自分達に勝ち目はないのだ。
「我がもう一度この腕を上げた時、烈火は進撃を開始する。貴様らにはもともと選択肢など無いのだ。我に刃向かったことを後悔して、死ぬがいい」
そう言いつつもデルネアは、手を挙げる素振りをみせる。
「待って!」
たまらず、ライカが叫ぶ。
「ならば聖剣を我に差し出せ! さもなくば、歴史書に新たな一節が加わろうぞ? 『ニーヴルの意志を継ぐ者達が北部に出現するも、勅命を受けた騎士達によって敗れ去る』とな」
「くっ……どのみち、貴公は我らを消すつもりだろうが!」
〈帳〉は唇を噛んだ。
その時、今まで北の空に留まっていた黒い雲が、ゆらゆらと忌まわしく動き始めた。“混沌”をもたらすそれは、自然界では考えられない速さで、とうとうウェスティンの地まで押し寄せてきた。灰色の空のもと、かろうじて明るさを保っていた上空は、ついに暗黒に覆われた。
間もなく、終焉が訪れる。
しかし、聖剣ガザ・ルイアートは暗黒に包まれた今、さらにもまして光り輝く。
「……もはや時は少ない。この地が“混沌”の支配下に置かれる前に烈火を差し向け、我は聖剣の“力”を我がものとする。それでも聖剣を渡せぬ、と言うか?」
押し黙ったままの一同の様子を、デルネアは鋭い眼差しで見やる。剣をデルネアに渡すわけにはいかないが、渡さなければ烈火に蹂躙される。
デルネアは、ルード達の悩む顔を見つつ、歪んだ笑みを浮かべ――ついに高々と腕をつきだした。
「ああっ!」
ルードが声をあげるも、すでに時遅し。烈火達は怒濤の進軍を開始したのだ。
もうもうと砂煙を上げながら、烈火は突進してくる。周囲に轟き、響き渡るのは甲冑の音、蹄鉄の音。そして二千からなる騎士達の闘気が、容赦なく敵対者の戦意を挫かんとする。
デルネアはルード達に剣先を突きつけた。
「お前達も終わりだ。運命とやらに縛られた愚昧な者どもよ」
デルネアは勝利を確信し、刃向かう者に冷たく言い放った。
ルードのやるべきことはもはやただ一つ。光り輝く聖剣を静かに構え、烈火の攻撃に備える。その横では〈帳〉が魔導の詠唱をはじめている。ライカは精神を集中させている――風の力を喚び起こして攻撃をしようというのか。
だが、二千の屈強の戦士達を相手に、勝ち目など万に一つもないだろう。
「ライカ」
ルードはライカを呼んだ。彼女に言うべき言葉は一つ。それは『逃げろ』ではない。すでにルードとライカは運命を共有しているのだから。
「……頑張ろう」
ライカは目を開けるとルードを見つめ返す。微笑みを見せながら、力強くうなずいた。彼女の翡翠色の瞳は澄み渡り、迷いなどかけらも無い。
ルード達一同が、ついに意を決したその時だった。
「待て!」
ルード達の後方から駆けつける者がひとり。その凛とした声の持ち主はルード達の横を通り過ぎ、デルネアと対峙した。
その者は、まとっていたローブを無造作に脱ぎ捨てると、迫りつつある烈火をきっと見据えた。
「烈火の戦士よ! 私はドゥ・ルイエである!」




