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塞の村  作者: 七子
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前編

 六月の末に祖母が亡くなって、四十九日を終えてみれば、空はすでに天高く秋の気配。

 法要が近くなった頃から、母が「あちらの方に挨拶に行きたいのに方法が分からない」とぶつくさ言い出した。「住所を忘れたのか」と聞けば、「昔はよく行っていたのに、今は行き方さえ忘れてしまった」と言う。

法要を終えた今では、

「これはそういうご縁だったのだから、わたしが行けないのは仕方がないことね。もしあなたがあちらの方と会うことがあれば、くれぐれも不調法をお詫びしてちょうだいね」

などと、とんでもないことを言い出す始末。

 「あちらの方」が誰なのかさえ分からないというのに会うも何もないと思うのだが、昔から、ネジが一つ緩んだようなフワフワしたところのある人だったから、最近ますます磨きがかかったのかもしれない。


 さて、母屋から東の山側に30メートルほど登った所、雑木林が茂る一角に、祖母の隠居所がある。良く手入れされた切妻造の平屋は、間取りで言えば1LDK、一戸建てとしてはこじんまりとしたものだ。生前から「この屋が空いたらアサが住むように」と祖母が重ねて言って来たこともあって、遺品が片付き四十九日も済んだ所で、その家を自室代わりに譲り受けた。

 母屋とはあぜ道を多少広くした程度の私道でつながり、ひとまたぎで超えられる小さな沢を渡ると、すぐに引き戸の玄関となる。脇に植えられた樫の若木が、辛うじて庭との目隠しをしているが、庭といっても祖母の好きな草花などが思いつくまま植えられているだけで、一帯の雑木林から続く東の山との界は曖昧だ。

 カロカロと軽い音を立てて引き戸を開ければ、昔ながらの広い三和土と上がり框。祖母のいた頃には季節の花など飾ってあったものだが、今は広いだけに物寂しい。

 正面の襖は寝室代わりの六畳間、廊下を挟んで左手にキッチンと居間兼用の広い板敷きの部屋、廊下の突き当たりは勝手口へと続く。

 この、北側に設けられた勝手口のドアがどうやっても開かない。

「不用心だと思って鍵をかけたまま忘れちゃったのかしらね」

と母は笑うが、家中どこを探しても勝手口の鍵は見つからない。

 子どもの頃には、勝手口の上がり框に松ぼっくりだの花だの置かれていた記憶があるが、いつの頃から開かなくなったものなのか、とんと見当がつかない。


 今夜は夏祭り、日が暮れれば恋人と神社へ行くつもりで、祖母の残した着物から見繕って浴衣など用意してみたが、昼間ささいなことから口論となり、夕刻を過ぎても恋人が迎えに来る気配はない。

 それでも心残りがあって、汗を流してから白い浴衣に着替えてみた。

 秋が近いとはいえ、昼間の熱がまだ残る。涼を求めて網戸にした居間から見る庭は、暗くなってみれば尚のこと鬱蒼として、山の気配がいっそう濃くなるようだ。庭からの虫の音に交じって、花火の音が祭の始まりを告げている。

 涼むつもりがそのままぼんやり庭に見入ってしまったようだ。

チャリ、チャリ、チャリ…

不意に聞こえた砂利を踏む足音に、我知らず胸が高鳴った。急いで玄関に回るとすぐに、カロカロと引き戸が引かれた。


 出迎えてしまったが、闇に紛れて立つ人影が浴衣姿の男なのはともかく、待ち人ではないとすぐに分かった。玄関灯を点すと、オレンジの光に見知らぬ若い男が浮き立った。男は驚いたように目を見張る。

「夜分に申し訳ない。久しぶりに灯りが見えたので、ケサさんがご在宅かと思い…」

「あの、ケサはわたしの祖母ですが…祖母は六月に他界して」

慌てて上がり框に膝をついてみたが、突然のことになんと言っていいのか口ごもる。

「ケサさんが…」

そう言って、目を伏せた男の目元に、驚くほど濃い陰が落ちた。

 黒と見紛うばかりの搗色(かちいろ)の浴衣は、よく見れば細かい縞模様が染められている。さほど歳も変わらなく見える若い男に、渋好みの浴衣がよく似合っていた。

「では、ご仏前に花を手向けさせてはいただけないでしょうか?」

見ると、手に提げた手桶に黄色い花が入れられている。

「仏壇は母屋になりますので、そちらに…」

 案内するつもりで立ち上がると、ふっと耳元を何かがかすめた。つられて見やると、奥の勝手口で何かがバタバタと騒いでいる。

「蝙蝠でしょうか?出してやらないと可哀想だ」

男が言った。

「蝙蝠?」

男はさっさと畳表の雪駄を脱ぐと、

「これがあなたの履物?」と、玄関に置かれた白木の下駄を取り上げた。

止める間もなく、下駄と雪駄を提げた男はさっさと家に上がり、慣れた足取りで勝手口に向かってしまう。勝手口の光の届かない隅で何かが騒いでいるのは間違いないが、さてそれをどうしたものかと見ていると、

「このドアを開ければ勝手に出て行くでしょう」

と男が言った。

「あ、でも…そのドアは開かないんです」

「大丈夫」

男に手を取られ勝手口に降りる。それで履物を、とようやく思い至った。

 うながされるようにドアノブに手をかけると、しっとりと湿ったような冷たさに驚いた。思わず顔を上げると、狭い勝手口のこと、すぐ脇に寄り添うように立つ男が笑った。

「回してみなよ」

 すると、あれほど固く回らなかったノブが、ユルリと回転したのだった。

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