第二話 ふたりのエスタファドル~本物の話~
この王国の王太子エスタファドルが今の状態になったのは、バスラに別れを告げるために男爵家へ行って、最後に彼女が淹れてくれたお茶を飲んでからだった。
毒見役もいないのに、と側近達には止められたのだが、愛した女性への最後の情けのつもりで口にした。
舌を刺すような苦みに意識を失って、気が付いたときはこうだったのだ。こう──まるでおとぎ話に出てくる幽霊のように、自分の身体を離れて浮いている状態だ。
たったひとり以外はだれも、エスタファドルの存在に気付いてくれない。
父である国王も母である王妃も、弟の第二王子も側近達も。
神殿へ行って聖職者達に救いを求めたときも気づいてもらえなかった。もし気づいていたのだとしても、寄進を持ってこない相手の言葉など聞く気はなかったのかもしれない。
今日の昼間、エスタファドルの身体を乗っ取っただれかに婚約を破棄された公爵令嬢ヴェロニカは──
(学園の中庭で、彼女がコイツを別人だと言ったときは驚いたな)
ヴェロニカが自分を愛していることは知っていた。
しかし、まさか同じ身体であっても、中身が違えば気づくほどだとは思っていなかった。
とはいえ、だれもが彼女の言葉は失恋を受け入れられないがゆえの悪あがきだと受け取っていたし、公爵令嬢は宙に浮く本当のエスタファドルに気づいていたわけでもない。
エスタファドル本人は、ヴェロニカのことを愛していない。
政略結婚の相手として大切にして、愛する努力はしていたのだが、どうしても愛せなかったのだ。
淑女のお手本として称賛されていた彼女は、エスタファドルにとって堅苦しい王太子生活の象徴のようなものだった。自由を求めるエスタファドルが愛したのは、
「ああー、エスタファドルぅー!」
今目の前で、エスタファドルの身体に抱かれて絶頂を迎えたバスラだ。
彼女は変わったエスタファドルに肉体関係を求められても、ヴェロニカとの婚約破棄の代償として躊躇なく体を開いた。婚約解消や白紙撤回でなく、相手を貶める婚約破棄をしろと言っていた時点で、バスラがどんな人間かがわかる。
エスタファドル以外は前からそれを知っていた。
こうなったのはバスラのせいかと疑ったこともあるが、どうやら違う。
彼女はエスタファドルの変調に気づくどころか気にしてもいない。
相手が王太子であれば、未来のこの国の最高権力者であればそれで良いのだ。
「お前、まだ消えてないんだ。公爵令嬢ったらしつこいなー。婚約も破棄したんだし、さっさとお前のことなんか忘れてしまえば良いのに」
王都にある王太子個人が所有する家の寝室で、バスラが眠りについたのを確認して、今の状態のエスタファドルに気づいている唯一の存在が視線を向けてくる。
そう、宙に浮く幽霊のようなエスタファドルの存在を知っているのは、エスタファドルの身体を乗っ取っただれかだけなのだ。
コイツの耳にならば、だれにも届かなかったエスタファドルの声も聞こえることだろう。エスタファドルはだれかに尋ねる。
『……貴様はだれだ?』
「喋れるくらいに意識を保ってるの? 大したものだね、王家の血かな? この王国の王族は守護女神に加護を受けてるっていうものね」
『貴様はだれだと聞いている』
「覗き見してたんだからわかるだろ、バスラの恋人だよ。お前と出会うずっと前から、バスラは僕の恋人だったんだ」
『ふたりで協力して私の身体を奪ったのか?』
「まさか。バスラは王太子の身体の中身が僕だってことにも気づいてないよ。自分が殺した恋人が今の男の身体に宿ってるだなんて悪夢かな? 身体が金と権力を持っている王太子でありさえすれば気にしないかな?」
『……殺した?』
「うん、口封じにね。バスラの父親の正妻と嫡子を殺した毒の残りで殺されちゃったんだ。あっちの毒の耐性はつけてなかったからなー」
楽しげに笑うその顔は、その身体が本物のエスタファドルのものだったときとはまるで違う。
だが、だれもがそれをバスラに恋をしたからだと思って受け入れていた。
受け入れるしかなかったのだ。身体自体は同じ人間なのだから。




