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「そうか。………そうか」
低い声だった。冥界の奥深く、ディアスは静かにそう言葉をこぼした。
固く閉ざされた冥界の蓋。現世を映す水鏡には、ディアスではない男の腕の中に微笑むセメレがいる。
セメレは、ディアスにとって甥に当たる男、知恵と運命を司る神であるノエトスの妻になったのである。
冥界の蓋が固く閉ざされたのは、ディアスが冥府の城で、セメレに捧げるためのものを吟味していた頃だった。
もちろんセメレはディアスが差し出したものであれば、どんなものでも喜んで受け取り、ディアスの求婚を受け入れてくれただろう。分かっていたけれど、それでもディアスは最良のものを捧げたかったのだ。
天上のどんな女神も持てないような、ただ一つのものを与えたかった。
幸いにしてディアスには過去、最高神であったことがある。
あの頃は若かったのだ。ディアスを疎み、冥界に閉じ込めた両親を憎んで討ち滅ぼし最高神の座を手に入れた。
百年も経てば、天上を治める王など柄に合わないことに気が付いて、最高神の座を妹に譲り再びこの冥府に戻ったが、あの頃の遺産はこの冥府にいくらでも残っていた。
永遠の命を与える金の杯に、人を神に変える宝珠の成る枝。黄金の卵を産む鶏も、この世全ての生物を従える王冠だって思いのまま。
けれどそのどれも、あの百合の花のような娘には似合わないような気がして、もっと美しく繊細なものはないだろうかと探していた。
地上に繋がる道が塞がれたと気付いたのは、その時のことである。
ふざけたことをしてくれたものだ、と思う。
過去には地を揺らし、親を殺し、天を荒らすほどの激しい怒りを抱いたこともある。けれど今のディアスを襲うのは、血の気が引くような憎悪であった。
憎悪の感情が頭を埋め尽くし、いっそ冷静にさせられるという感覚はこれまでになかったものである。
純白の生地。金の刺繍。花嫁衣装に身を包んだセメレは息を呑むほどに美しく、だからこそ強い怒りに眩暈がする。
花嫁衣装を着るのなら、華やかな色のそれよりも、白い色のものがいいとセメレは語った。
「あなたの色に染まります、って意味なんですよ」とディアスの腕の中で恥じらうように微笑んで、ディアスが堪らなくなって目蓋に口付けると、くすぐったそうにくすくすと喉を揺らした。
頬に影を作った、長い黄金色の睫毛。それに縁取られた、済んだ青の瞳を覚えている。
ディアスを今支配するのは、悲嘆でもあった。腹立たしさでもあった。憎悪でもあった。
けれど同時に、それは決してセメレに向けられたものではなかった。
セメレがディアスを裏切るはずはない。
そんなことはあり得ないと、ディアスはよく、誰よりもよく理解しているのだ。
セメレは臆病な娘だった。打算的なようでいて、実際にはただの不器用。誰かに心を傾けることが苦手で、それが愛だと認めることが苦手。理由をつけては、これは決して本気などではないと自分自身に言い聞かせていた。
ディアスに愛されている今が好きなのだと、ディアスを本心から愛していない理由を必死に探していた。
その癖ディアスの持つ神話や神格の高さ、性格や見た目と、ディアスを好ましく思ってもいい理由を必死に探していたのだ。
いつか手放されることを恐れて、依存を恐れて、ディアスの元へ行くのを怖がっていた。
捨てられることを恐れて、ディアスの元へ嫁ぐのではなく、保険のように今の立場にしがみつこうとしていた。
セメレから直接教えられたわけではない。けれどあの娘はとても不器用で、それでいてひどく分かりやすいのだ。
あれだけ全身で、全霊で好意を示せる娘も珍しい。あれだけ分かりやすく恋を愛を示しながら、時折ハッとしたように我に返り、自らを誤魔化すように打算を気取ろうとする娘はそう居ないだろう。
かつて、セメレが話してくれたことがある。本当は誰も『セメレ』のことなんて好きではないのだと。悲しげな言葉とは裏腹に、とても明るい眼差しで、なんてことないのだと示すような態度であった。
セメレは、『セメレ』という外側を評価されているに過ぎないのだと。その美しさを、血筋を、生まれ持った立場を愛されているに過ぎないのだと。
両親も、使用人も、本当は誰も『セメレ』という名前を持つ自分自身には興味がない。だって誰もセメレが好きなものを聞こうとしなかった。最上のものを与えるばかりで、望まれるままに与えるばかりで、セメレを叱ることさえしない。愛していると言われるけれど、まるで上辺だけ。
だからセメレもそうしようと思ったのだろう。
周囲の誰も彼もが本心の関心をくれないのなら、セメレだって誰にも本心など渡さないと思っていたのだろう。
セメレはきっと、どこかで分かっていたのだ。
両親、侍女、衛士達。セメレの近くにいる人間の殆どは呪われていた。セメレを愛するようにと仕向けられていた。
セメレに害を成す呪いではなかったから告げなかった。それ以上に、あまりにも残酷な事実であったから告げられなかったけれど、神であるディアスには一目で分かったのだ。
呪いで歪められた『愛』などたかが知れている。セメレはあれだけ散々に恵まれていながら、けれど真実のものだけは与えられなかった。
きっとセメレは、心のどこかで分かっていたのだ。与えられる『愛』は紛い物で、だからいつも笑っているのに寂しそうだった。
なのに自分がどれだけ恵まれているかを分かっているから、不満さえ抱けなかったのだ。
だからディアスに、あんなにも簡単に付け入られてしまったのである。
ディアスがすべての心を真実セメレに捧げれば、セメレはそれだけで簡単にディアスに心を許してしまった。
セメレ自身、無自覚だっただろう。気が付かないようにしていたのだろう。けれどわかりやすいから、ディアスには全部が筒抜けだった。
臆病で、不器用で、ほんの少し面倒なところがあって、けれどディアスはセメレのそんなところさえ愛おしくてたまらなかった。
心の機敏が手に取るようにわかって、一生懸命に強がっているのもわかって、それがディアスには可愛くて仕方がなかったのだ。
だからディアスは待つことにしたのだ。長い時間をかけて、セメレがいつか安心できるように、いくらきりがなくてもそばに居続けようと思った。
あの臆病者の娘が、今更ディアスを切り捨てるなど出来るはずもない。
打算者を気取ろうと必死なセメレが神を裏切るなど、ディアスを切り離すなどそんな大それたことが出来るはずがない。
セメレが、ディアスに憎まれるかもしれないという危険を犯してまで、他の神を選ぶはずがないのだ。
だから企てを図った者がいるのなら、それはセメレ以外の誰かである。
状況を考えれば、ノエトスの他にいない。だからディアスの怒りは、憎悪はただひとり。ノエトスにのみ向けられたものだった。
こうしてみれば、城のものたちにかけられた呪いもノエトスによるものだったのだろう。
神がかけるにしてはあまりにもお粗末で、すっかりどこぞの妖精が祝福のつもりで与えたものかと思っていたが、なるほど。全知以外のものを持たないノエトスが施したというのなら、あの呪いの出来にも頷ける。
肝心のセメレが勘付いて、孤独を感じてしまうくらいには、分かりやすい呪いであった。
「───よくも……」
無意識だった。ディアスはそうして、手に持っていた宝玉で出来た花束を握り潰す。パリン!と大きな音がして、色とりどりの宝石のかけらが地面に落ちた。
「よくも!!」
あまりにも絶対的な神気が冥府を揺らした。亡者が恐れ縮こまり、冥府の番犬さえ巣穴の中で震えている。
現世を映す水鏡。ディアスのために仕立てているのだと微笑んでくれたあの花嫁衣装を身に纏い、ディアスではない男の隣で、花嫁として笑うセメレが映る冥府の泉。そのみなも。
ここでディアスがいくら必死に手を伸ばしても、縋ろうと、ディアスの指先はただ水面を揺らすに留まった。あの柔らかな肌に、薄く色付く頬に触れることは叶わない。
「おのれノエトス、全知を分けられて生まれたエクサルキアの子よ!!ああ、触れるな、触れるな!!その娘に触れるな、その頬に触れるな、その目蓋に口付けるな!!許されざる者よ、忌まわしい男よ!!」
血を吐くような叫びだった。
白と黄金の花嫁衣装を着て、ノエトスのそばで微笑むセメレには、何の後ろめたさも見えなかった。ノエトスに手を取られ、国中の歓声を受けるセメレには、何の不安も見えない。
ただ神に選ばれたという特別に喜んでいるだけである。澄ました顔ではわかりにくいけれど、ただはしゃいでいるだけである。本心から愛おしいと思うのに、同時に堪らなく悲しくもあった。
ディアスを覚えていれば、きっとセメレはこんな顔は出来ない。セメレはディアスを忘れたのだ。
あの娘の中に、ディアスの記憶はないのだ。愛した者の中に、今ディアスは存在さえしていない。
分かっている。この娘に咎はない。分かっている。けれどそれでも、悲しくてたまらない。怒りに襲われてたまらない。
ああ、と思う。ノエトスの指先がセメレに触れるたび、途方もない怒りがディアスの頭を埋め尽くした。
触れるな、触れるな。その娘は私のものだ。その娘は私だけのものだ。その娘の甘やかな瞳を見ていいのは私だけだ!!
そう誓ったのだ。約束したのだ。全てを捧げて跪き、神としての矜持さえ男としての矜持さえ投げ捨てて、けれど何の後悔もなかった。
ほんの一言の約束を、恥じらう瞳で結ばれたから、それだけでディアスの何千年という冷たい孤独は癒やされた。
ディアスの恋。ディアスの愛。黄金を纏った、春の娘よ。
「セメレ、セメレ……。お前だ。お前が私にこれを与えたのだ。執着を与えたのだ。お前の柔らかな微笑みが愛しく、恋しく、だからこそ苦しい。微笑むな、喜ぶな。私以外の男に、その微笑みを見せるな。俺以外の男に、心を動かさないでくれ……!!」
分かっている。セメレに咎はない。それでも縋らずにはいられない。触れれば揺れ動くばかりの水面に、縋るように何度だって手を伸ばさずにはいられない。
「……おのれ」
低い声だった。怒りに表情を無くしたディアスの紫の瞳から、それでも涙ばかりが絶えず流れる。
神気が揺れて、冥府のどこもが凍り付く。
「おのれ……!!」
冥府の土を握りしめる。水鏡に映るセメレは相も変わらず幸福に見えて、胸を突き刺す痛みに視界がくらくらと揺れていた。




