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魔性のセメレ  作者: 久里


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5

 


 今から3000年も前。ノエトスは、知恵と運命を司る神としてこの世界に生まれ落ちた。


 最高神を母に持ち、与えられた役目は『流れ』を維持すること。

 要するにノエトスは、人間や神々が運命と呼ぶそれを管理することを役目として与えられたのだ。生まれながらの権能として『全知』を持つノエトスが、知恵ばかりではなく運命も司る理由がこれである。


 ノエトスは全知全能を司る母より、全知を分けられたことによって生まれた神だった。ノエトスの瞳は全てを正確に明確に映して、ノエトスはこの世界の理というものを知り尽くしている。

 そして見ただけで簡単に全てを理解してしまえる瞳や脳は、副作用的に、ノエトスに未来視の力も与えたのである。


 少し目を『凝らす』だけで決められた未来さえ見えてしまうのだ。いや。正確には、演算によって導き出すと言った方が正しいのかもしれないけれど。

 とにかくノエトスは、動物、植物、人間、それから海に空。この世界の理のもとで存在する全てのもの運命を、簡単に理解して、把握して、見渡すことが出来てしまう神であったのだ。


 しかし、この強大な力は悲劇的なものでもあった。

 全てを知るからこそ、全てがたいくつに映るのだ。全知の力はノエトスから全ての喜びを奪い去ってしまった。


 かつては全知全能を司り、誰よりも完全な神として知られていた最高神であるノエトスの母。

 そんな母が敢えて手放したのも頷けるほどに、その為の器を、その為の子供を作ってでも手放したのも頷けるほどに、全知はひたすらに虚しさだけを与えるものであったのである。


 ノエトスにとって不幸であったのは、ノエトスが母ではなかったことだろう。全知はあっても全能はなかった。

 むしろノエトスは全知を受け止める器として作られて、そのことにだけ特化していたせいで、神としての能力そのものは実に弱々しいものだったのである。


 戦いを司る兄のように槍を持つことも出来なければ、狩りを司る妹のように弓を持つことも出来ない。奇跡を司る姉のように、術に特化しているわけでもない。


 ただ知ることが出来るだけ。ただ運命を見ることが出来るだけ。

 この権能を手放す為の器を作れるほどの力はノエトスにはなくて、だからノエトスは生まれてこの方3000年間を、虚しく褪せた色の世界で生きていたのだ。


 ───16年前。

 セメレという名の小さな王女が、カノスの国に生まれ落ちるまでは。


 それは、ノエトスが生まれてはじめて目にする『未知』だった。本来生まれるはずのなかった存在。運命に組み込まれていない、予定にない命。


 本来生まれるはずのない赤ん坊が生まれたことに気が付いて、ノエトスはカノスの国へと向かったのだ。そしてセメレを見た。

 けれど、どうしたことだろうか。何も視えなかった(……)のである。


 ノエトスの3000年の生の中で、はじめて『視界』に映らないものを知った。

 何もかもが予定調和に進む世界に、はじめて現れた異物。何千年も年月を重ねたせいで、世界が少し不具合を起こしたのかもしれない。セメレはこの世界の理から完全に外れた存在だった。


 衝撃だった。あまりにも意味が分からなかった。けれど歓喜した。セメレの存在は、ノエトスにとっての福音に等しかった。ノエトスの奇跡。生まれてはじめて、ノエトスの心は動かされた。


 だから、潜り込んだ王宮。世話役の一人もいない、うす暗い部屋。ノエトスは小さな赤ん坊を抱き上げて、抱きしめて、泣いたのだ。

 ああ、と思った。それくらいに、セメレの存在はノエトスにとって素晴らしいものだった。


 ノエトスがセメレの存在を隠そうと決めたのも、その時のことである。

 母はノエトスに『あるべき流れを維持せよ』と役割を与えた。運命の管理。それは要するに、いつか現れる異物、つまるところセメレの存在にいち早く気付いて処理をしろということだったのだろう。

 けれどノエトスはそうしなかった。母に与えられた役割を放棄して、むしろ排除すべきセメレを大切に育てることに決めた。


 ノエトスは、神としては力の弱い部類に入った。けれどそんなノエトスでも、神は神だ。人間の意識を歪めるくらいの、簡単な催眠ならば当然容易く行える。

 ノエトスはカノスの国に宰相として入り込むことに決めた。そうしてセメレの為に、様々な環境を整えたのである。


 あの頃、王室はひどく荒れ果てていた。

 類稀な美しさを見初められて王妃になったセメレの母は、けれど欲深く、民から集めた税を湯水のように使って贅沢に溺れていた。気に食わないことがあれば、使用人や奴隷を鞭で叱責するのも日常茶飯事だった。

 王妃の美しさを高く評価していた国王は、けれど誰かを愛するということを知らず、多くの美女を恋人として囲ってもいた。国政を放り出し女遊びに興じていたのだ。


 冷え切った夫婦関係。妻は夫の地位と財だけを愛し、夫は妻の美だけを評価していた。そんな夫婦の間に生まれた娘がセメレであり、セメレが両親から与えられるのは無関心だけだった。


 これはいけない。あまりにも教育上よろしくない。

 そこで宰相としてカノスの国に入り込むことに成功した当時のノエトスは、赤ん坊だというのに殆ど放置されていたセメレを腕に抱きながら、少し考えた末、二人をちょっといじくることにしたのである。


 セメレが愛されるように。セメレがあたたかな親の庇護のもとで育てるように。

 ノエトスは国王夫妻に呪いをかけた。性格を変えるこにはこれが一番手っ取り早かったのだ。


 王妃は浪費をやめて、使用人達に対して鞭を振るうこともなくなった。

 国王は妻だけを愛するようになり、政にもしっかりと向き合うようになった。


 セメレがいつだって金に困らないように、やりたいことをやりたいだけ出来るようにするために、国だって大きくしたのだ。

 全知を持つノエトスにとっては政治も戦争も簡単なもので、セメレが育つ頃には、カノスはアトアレ海で最も大きな国になっていた。


 ノエトスは、セメレがいつだってあたたかな幸福の中にいられるようにしたかったのだ。


「……ごめんね、セメレ」


 意識を失ったセメレの目元に手を添える。淡く光がまばたいて、セメレの中で、セメレにとって最も失い難いであろうものが封じられていくのが分かった。

 記憶や恋にまつわる呪いは、神々の中でも特によく使われるものだ。ノエトスはセメレの記憶を消した。ノエトスはセメレの恋を消したのだ。


 次に目覚めた時、セメレはディアスの記憶を失っているだろう。これでセメレはディアスを選べない。

 可哀想なことをしたと思う。けれど必要なことだった。


 かつて、ノエトスの全知もこの瞳も、全ては母のものだった。ディアスはそんな母の兄であり、母が全知を持っていた頃に全てを『視た』相手でもある。

 反対に言えば、母もまた分かっているのだ。覚えているだろう。ディアスが元々、誰かを愛する運命を持たなかった人であるということを。


 そんなディアスが、よりにもよって人を愛した。

 母は気付くだろう。セメレが異物であることに。


 母に気付かせるわけにはいかない。だって知識しか持たないノエトスは、母に対抗する術を持たないのだ。


 特に母から分けられた全知さえ、セメレに関わることには何の意味も成さない。

 セメレが関わらない国政や戦争は、刻一刻と変わる状況さえよく見通すことができた。

 けれどセメレを憎んで毒を持った少女には気がつけなかったように、セメレとディアスが思い合って逢瀬を重ねていたことに気が付けなかったように、この力は一番知りたいことだけをノエトスには教えてくれないのだ。


 ノエトスは無力だ。全能を持つ母に対抗出来ない。これまで全てを知り尽くして生きてきた。けれど知ることはできても、考えることには向いていないのだ。

 セメレを守るための方法も、こんな形しか思い付かなかった。





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