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セメレがディアスと出会ったのは2年前。つまりセメレがまだ14の歳の頃であった。
うっかりセメレが死にかけたのである。
毒を盛られてしまったのだと言う。その時は両親が即座に手配した薬師によって助けられたのだけれど、結果としてセメレは三日三晩生死の境を彷徨うことになった。
その時に出会ったのが、ディアスであったのだ。
あの時のことはよく覚えている。何せとても恐ろしかった。
死を体現したような存在であるディアスは、あまねく生物にとって根源的な恐怖である。
ディアスの紫の瞳に見つめられると、それだけで本能的な恐怖と言っても良い感覚が背筋を襲うのだ。
正直、セメレはあの時『あ、私って死んだんだ』と思った。だって死後の審判を受けるためにと、冥界の神様の前へと引き摺られたのである。
けれどディアスは震えるセメレに僅かに眉を下げて、「哀れな」と呟いた。
槍でセメレを地面に押し付ける二体の精霊を止めて、セメレを解放してくれたのだ。
「今日の死亡予定者に、お前の名は含まれていない。お前はまだここへ来るべきではない。あるべき場所へ戻れ、カノスの王女セメレ」
セメレはその言葉に驚いて、思わずパッと顔を上げた。すると恐ろしいはずの冥界の王は、見つめられただけで恐怖を掻き立てる紫の瞳は、哀れむようにセメレを見ていた。気遣うようにも見える色。慈悲の色。恐ろしく思われることに慣れたような、寂しそうな眼差し。
あ、と思ったのだ。存在そのものが恐ろしいこの神は、けれどきっと、善性の存在なのだろうと分かった。そう思うと、不思議とあまり怖くなくなった。確かにちょっとたじろぐけれど、震えるほどではなくなった。
死を体現したような存在であるディアスは、あまねく生物にとって根源的な恐怖である。
けれどセメレは二度目の人生。つまるところ一度は死んだ記憶があって、だから耐性というか、慣れのようなものが人よりもあったのだと思う。
一度目の人生できちんと死んだからこそ、今の恵まれた『セメレ』になれた。
死ぬのもそう悪いことばかりではない、という意識がぼんやりとあったのも関係していたのかもしれない。
だからセメレはそれ以上震えなかった。とはいってもまだ怯えは残っていたから、拳は強く握りしめていたし、吐息は僅かに揺れていたけれど、真っ直ぐとディアスを見つめた。
「………は、」
すると偉大なる冥界の王様の、紫の死の瞳は、戸惑うように揺れたのだ。
後になって聞いたこと。ディアスが誰かに真っ直ぐに見つめられたのは、これがはじめてのことだったらしい。
母のえぐれた瞳からこぼれて生まれた、死の権能を持って生まれた不吉な子。
母さえ父さえディアスを疎んで目を向けなかった。兄妹にさえ恐れられて、早々に冥界に送り込まれてしまった孤独な神様。
それがディアスであり、だから、驚いたのだと。
だからディアスはあの時セメレの緑の瞳に射抜かれて、驚いて、目を見開いたのだ。「何故、」と言葉をこぼして、セメレを拘束していた精霊達までざわめいた。
それがディアスとセメレのはじまりであり、セメレがディアスと関わるようになった理由でもあった。
あの後、ディアスは度々セメレの様子を見るために現世を訪れるようになったのだ。
時に鳥の姿になり、時に蛇の姿になり、他人と関わった経験がないからどうしたら良いのかもわからずに、いつもひっそりとセメレの様子をうかがっていた。
そしてセメレがそんなディアスにいつも気が付いた。一度会ったことがあるからか、まるで直感のようにそれがディアスだと分かったのだ。だからその度に、「こんにちは」と自ら近付いた。
リスの時には木の実を持って、蓮の時にはそっと触れて、するとディアスは困ったようにぴくりと動きを止める。そうしてセメレが「ディアス様」と呼んではじめて、戸惑いながら本来の姿を表すのだ。
そんなことを、何度も続けた。
ディアスの纏う不吉な気配は、はじめて会った時には驚いたけれど、慣れてしまえば何てことはなかった。
恐ろしさが完全に無くなったわけではない。けれどセメレは既にディアスが如何に善良な神かを知っていた。寂しがりやで、神様なのにひどく優しい。
セメレに何かを無理強いしたりはしないし、セメレが気に障ることをしたからという理由でセメレを害することもない。
ディアスはいつだってセメレに優しかった。ディアスはいつだって壊れ物に触れるような手付きでセメレに触れた。
死を表す紫の瞳は常に怯えるように揺れていて、そんな瞳はけれどセメレが笑う度に、慣れない様子で安堵した。
夜を閉じ込めたようなディアスの黒髪。絹のように滑らかで、サラサラとセメレの指をすり抜けた。緩やかなウェーブを描くセメレの金の髪とは正反対で、セメレの髪と混ざると不思議な色になる。セメレはそれを見るのが好きだった。
夜のような静謐さを持つ、とても綺麗な神様。
最初に受ける印象が印象というか、恐怖なのではじめは分からなかったけれど、先入観を無くして改めて見つめれば、ディアスはとても綺麗だった。
神々の中でも最高神に次いだ序列を持つ上位神であり、冥界を治める程の強い力を持つ神。
だというのに、長い間を孤独に過ごしたからか寂しがりやで、時々浮かべるきょとんとした表情はどこか幼くて、纏う陰に惹かれたのだ。
セメレが近付けば近付くほど、ディアスもまたセメレに心を許した。
いつしか死を表す紫の目は柔らかな心を携えて、大きな手のひらはセメレを優しく抱き留めるようになった。
セメレはそうして、ディアスの心に入り込んだのである。
「問題は、お母様とお父様のことかなぁ……」
セメレの為に作られた広い浴場で、セメレはちゃぷちゃぷと足を動かした。
セメレが深くため息を吐くと、お付きの侍女達はセメレの髪や肌を整えながら顔を見合わせる。一番歴の長い少女が「例の方のお話ですか?」と尋ねると、セメレは「うん」と当たり前の様に頷いた。
両親には打ち明けていないけれど、セメレの侍女達は、セメレに恋人がいることを知っている。
名前も身分も知らないけれど、密かにセメレが逢瀬を重ねている相手がいることは把握して、口裏合わせに部屋を抜け出すための手引き。秘密を守ってもくれているのだ。
「例の方とは、今日もお会いになられておりましたものね。もしや王女様、その時に何か……?」
「あれほど見事な布地や宝石をことあるごとに贈ってくださるほどです。さぞかし高貴な方でしょうに、問題だなんて。……まさか、出自に傷が?」
「そういう訳ではないんだけど、なんて言ったら良いかな。高貴な方なのは間違いないのよ?でも結婚をするのは難しそう」
「と、仰いますと?」
「もう他のところの王様だから、カノスに留まってカノスの政治をしてもらうのは厳しいと思うの。立場のある方だし……。それに抱えている事情も事情だから、きっとお父様には反対されてしまう」
ベッドマッサージを受けながらセメレは呟いた。ディアスが別のものを司る神であったのならまた話は違ったのだろうけれど、彼はよりにもよって死を司る神であり、人間をはじめとして生き物という生き物に恐れられている。
両親は嫌がるだろう。深い絶望に陥るだろう。本能的な恐怖とはそういうものだ。死の権能とはそういうものだ。セメレが「ディアス様の妻になります」などと言い出せば、娘が冥府の王に魅入られたと思って、守るために閉じ込めることだってしかねない。
困ったようにため息を吐くセメレに侍女達は「まぁ……」とこぼして、へなりと眉を下げる。
「それは確かに、難しいお話ですね……。王女様にもお立場というものがございますもの」
「お相手が不足ないほどに高貴な方であるからこそ、というお悩みなのですね」
「添い遂げたい、しかし婿入りが難しいとなると、どうしても王女様が嫁がねばならないということ。もしくは通っていただくほかにありません。国王様と王妃様がお許しになるか……」
「ね、困っちゃったなぁ。今更別れるにしてもきっと離してくれないだろうし、うっかり近付き過ぎちゃった。最初に会ったときから、結婚相手としては現実的じゃないっていうのも分かってた筈なのにね」
「王女様……」
セメレの右手をマッサージしていた侍女が、気遣う様な視線でセメレを見た。
セメレはそれに苦笑して、「貴女の心配しているようなことはないわ」と濡れた手で侍女の頬を撫でる。すると侍女はポッと顔を赤らめて、恥ずかしげに瞳を伏せた。
「別に、立場のために身を引こうとか、仕方がないから諦めようって思っていたわけじゃないの。そんなに悲観的に思ってたわけじゃない。元々ね、あの方自身に恋をしているとは言い難かったから」
「そう、なのですか?」
「うん。どちらかといえば、属性にときめいていた感じかなぁ。綺麗で偉大で孤独なひとに愛されることが嬉しくて、あのひとに愛されてるっている状況が好きなんだと思う」
「では、その。王女様のお心は本当のところ、例の方の元にはないと……?」
「どうなのかなぁ。もちろん、顔も性格も好きだし、このまま一緒になれたら幸せだろうなって思うのも本当なのよ?執念深いひとだから、きっといつまでも愛してくれる。これ以上のひとは居ないって、本心で思う」
綺麗な神様。執念深いひと。ディアスはセメレの為なら何だってしてくれた。
きらきらと輝く宝石。どこまでも見通せる水鏡。透ける様に薄いのに、絹の様に滑らかな布地は冥府の業火にも耐え得る衣で、贈られたどれもが長い間冥界で大切に管理されていた神具であった。
そんな貴重なものを城に持ち込んで、騒ぎになることを嫌がったセメレのために、一目ではそうと分からないようにまじないをかけてくれた。「君によく似合う」と頬を撫でてくれたひと。
セメレの為なら、ディアスは誰かを呪うことさえ躊躇わなかった。
セメレがディアスに出会ったきっかけ。セメレが求婚に応じなかったことでセメレを憎んで、あの日セメレに毒を飲ませた男は、ディアスに呪われて見るも無惨な怪物と化してしまった。息を吸うことさえ苦痛で、けれどろくに死ぬことも出来ない。本島から離れた小さな島に閉じ込められて今なお苦しんで暮らしている。
ただの人間であるセメレには大袈裟に感じられてしまう程に大切にされていて、けれどそれが神というものなのだろう。
恐ろしいとは思う。けれどセメレは自分勝手だから、それが自分に向かないのならば構わないとも思うのだ。
ここのところこの国では立て続けに呪われる者が出ていて、自分のせいで怪物になったり葦にされたりしてしまった人間がとうとう両手の数を超えたこともわかっている。
けれどディアスはセメレにとっては常に理想的な恋人だった。押し付けがましくセメレの為に誰を呪ったとは言わないし、セメレに贈る品をわざわざ如何に貴重かなんて言わない。
ただセメレを腕に抱きとめるだけで幸せそうにして、あのすらりとした長躯の膝の上。すっぽりとセメレが収まると、セメレがディアスの手をにぎにぎと触るだけで、子供の様に嬉しそうに笑うひと。
偉大な冥府の王だというのに、まるで奴隷の様な献身さで、ディアスはセメレの前に膝をついたのだ。
セメレが渡した腕いっぱいの百合の花に報いる為に、祝福を込めた黒曜石の耳飾りをくれた。
幸せになれるだろう。何千年という長い時間の孤独を癒したセメレを、ディアスはきっと逃がさない。何をしてでもセメレが離れていかないように、柔らかな幸福を与え続けてくれるはずだ。だからセメレも満更ではないのだし。
「どうしたものかなぁ……」
セメレが16歳になって、両親はとうとう本格的にセメレの結婚相手を探しはじめた。まだ無理強いとまではいかないけれど、それも時間の問題の様に思えてならなかった。
どうせ誰かと一緒にならないといけないのなら、ディアスが良いとは思う。どうせ誰かの子供を産む必要があるのなら、ディアスが良い。あれだけ綺麗なひとの子だ。きっと一番可愛い子が生まれるだろう。
でも、その為に今の生活を手放すことはしたくない。
もちろんディアスに頼んで、無理矢理セメレを捧げさせる形で娶ってもらう方法だってある。セメレとてそれを考えなかったわけでもない。けれどそうなれば、今とは違う環境で暮らすことになるだろうから辞めたのだ。
セメレは冥界はあまり好きではなかった。どんよりとしていて、花ひとつさえ咲いていない。ディアスのことは好きだけど、その為にあんな場所に移り住めるほど深く愛しているかと言われればきっとそうではない。
今のままが一番良いのだ。どこまでも澄み渡るアトアレ海の中心。四季があり、花があり、あたたかな陽射しの差し込むカノスの国。
そこで何不自由のない暮らしを送りながら、美しく献身的な恋人に通わせて逢瀬を重ねるのが一番、セメレにとって都合が良いのだ。
両親に寄り過ぎるのもいけない。ディアスに寄り過ぎるのもいけない。守るために閉じ込められるのも、一緒にいる為にと攫われるのも本意ではないのだ。
あの美しく鬱屈とした恐ろしい神様は、きっとセメレを離さない。ならば無理矢理連れて行かれてしまうより前に、両親にディアスとの仲を認めさせるしかないだろう。今の暮らしを守る為にも。
困ったことである。
セメレはうーん、と悩むように伸びをした。そのまま浴槽の中を立ち上がれば、ポタポタと水滴の落ちる身体を、侍女達は心得た様に包んで拭いてくれる。
素晴らしいことだと思う。何をするにも人に傅かれて、きらきらとしたものに囲まれて、素敵な日々だ。
ずっとこのままの日々を続けることだけが、セメレの願いなのである。




