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そもそも。
ディアスが天上に反旗を翻したと判断されたのは、ディアスが冥府と地上を隔てる扉を、天上の許可なく開こうとしていたからだった。
ノエトスが姉に頼んで塞がせた『冥界の蓋』が抜け道なら、『冥界の扉』は正規の道と言えるもの。
要するにディアスは抜け道を使えなくなったから、何千年と閉ざされていた正規の道を開くことにしたのだ。
その為にはいくつかの手順が必要で、その過程でどうしたって天上の神に気取られる。
分かっていてなお、ディアスはそうしたのだ。事前に使いを出すこともなく、一人勝手に『扉』を開くことにした。
『蓋』と『扉』の最たる違いは、その大きさにある。
『蓋』はあまりに狭く小さく、一柱の神が行き来をするのにやっとと言えるもの。
反して『扉』は、一度開け放ってしまえばどんなものさえ通すことが出来た。
三つ首の竜、巨大な蛇、冥府の番犬、牡牛の怪物。
そういった、かつて天上地上で持て余し、冥府に閉じ込めるしか無かった怪物達さえディアスの心ひとつで地上に、ひいては天上に解き放つことができる。
幾万といる亡者の魂さえ、ディアスの采配一つで解放することだってできる。
亡者で地上を覆い尽くし、ひとを殺めさせ、より多くの魂を冥府に取り込むことだってしても良い。
英雄の親しいものを取り込んで、人質にして、従えば生き返らせてやるとより多くの戦力を得ることだって可能だ。
やりようはいくらでもある。
だから母であるエクサルキアは、冥界の扉を固く閉ざしたのだ。
全能を司るはずの最高神は、けれどたったひとり、死を司る兄のことを本当は誰より警戒していた。母は本当は、ひどく臆病なのだ。
全知を持っていた頃に視たのだろう。『演算』したのだ。
全知も全能を持って自分が、どうしたって兄に敵わないことを知った。
だから天上の玉座が欲しくても、誰かの下に少しでも付くことが嫌でも戦いを挑まなかった。ディアスが譲ってくれることを知っていたから、それを待つことにした。
そうしてディアスが天上を去る時、最高神の座を持て余した時に、条件さえ突き付けたのだ。
───兄上が持て余していらっしゃる最高神の座を、わたくしが譲り受けましょう。わたくしがこの天上をお治めしましょう。
───ただしその代わり、ひとつお願いがございます。兄上のお力は強大。神々を降さなければならない天上を治めるならばともかく、冥府を統べるだけならば、いっそ過ぎたものと言えるでしょう。
────兄上のお力の幾分かを分け、この天上にお納め下さい。わたくしがこの天を統べるため、必要なことなのです。
ディアスはきっと分かっていただろう。
どれだけ自分の力を分けようと、ディアスのそれとエクサルキアのそれはあまりに種類が違っている。ディアスの力をどれだけ分けても、エクサルキアがそれを扱えることはない。
ただディアスを恐れて、ディアスの力を削ぎたかっただけだ。恐ろしい忌まわしい兄をそうして冥界に押し込めて、安心したかっただけだった。
分かっていただろう。けれどそれさえどうでも良いと思ったのか、ディアスはあっさりとそれを受け入れた。
そうしてディアスは、力のおよそ半分を水晶に分け、エクサルキアに受け渡した。
エクサルキアはそれでようやく安心して、天上を統べることが出来たのである。
エクサルキアはそれでようやく安心して、ずっと手放したかった、忌々しい全知を手放すことが出来るようになった。
そうしてノエトスは生まれたのだ。
そんな母にとって最も忌まわしく、最も恐ろしいディアスが、冥界の扉を開いてしまった。
いつでも戦争を構えることのできる状況を作ってしまった。
母は内心穏やかではないだろう。
最高神として余裕のある態度を心がけてはいるけれど、過去のトラウマというものは根深いものだ。そして何よりも、全知が使えない。セメレを行動原理としているディアスは、当然ノエトスには視えない。
結果の分からない戦いが恐ろしくてたまらないはずだ。
だから冥界の扉が開け放たれた瞬間。ディアスを問い詰めるまでもなく、冥界の攻撃が始まることを確かめるまでもなく、先に攻め入るような采配を下したのである。
一刻も早く、全知の及ばないこの戦いを終わらせるために。
「───ノエトス?帰ったの?」
宮殿。その奥深くに存在する、泉のある庭園。天上から戻り、降り立った先がここだったのだ。
暫くの間、青い顔で立ち尽くしていたノエトスは、近くで聞こえた妻の言葉にハッとして振り向いた。
木々の間から現れたセメレは手に籠を持っていて、どうやら木苺を摘んでいたようだった。
「おかえりなさい」と微笑む姿は愛らしく、足元に気を付けながら駆け寄ってくれるところが愛おしい。簡単にまとめられた金の髪。柔らかに細められる青の瞳。
「セメ、レ……」
ノエトスは、咄嗟に取り繕うことが出来なかった。黄金の瞳を情けなく揺らし、声は掠れて、明らかに動揺した姿を晒してしまう。
するとセメレは案の定、「……どうしたの?」と不安そうにノエトスを見た。木苺を詰めた籠を置いて、案ずるようにノエトスの頬に手を添える。
「真っ青な顔……。まさか、天上で何かあったの?貴方がこんなに取り乱すなんて」
しなやかな指先。柔らかな肌。ノエトスの世界に色をもたらした、愛しい異物の子。
こんなことになるとは思っていなかったのだ。
力の半分を失った今の状況で、天上と敵対することを選んでまで、ディアスがセメレを選ぶとは思っていなかった。
母の出す采配を聞きながら、自分のしたことは、本当に正しかったのだろうかと思った。
本当にこれがセメレを守るために必要だったのか。セメレを呪い記憶を消して恋を消して、付け入るように妻にした。
セメレは毎日を穏やかに笑ってくれて、けれどあの頃のような、無邪気な姿までを見ることはできない。あの幸せな、噛み締めるような瞳を見ることはできないのだ。
セメレを守るためならば仕方がないと思っていた。けれど、果たして本当にそうだったのだろうか。
ディアスは全盛とは程遠い状況で、それでも天上と敵対してでもセメレを取り戻そうとしている。それほどにディアスがセメレを大切に思っているのなら、セメレからディアスを奪うような真似などするべきでは無かったのではないか。
ノエトスがするべきは、セメレに呪いをかけて大事な記憶を恋を消してしまうことではなくて。
天上の母の膝元に忍び込み、ディアスの力を閉じ込めた水晶を取り戻して差し出して、どうか貴方のもとで守ってくれと事情を話して乞うことではなかったのか。
いいやそれよりも、どうして今に至るまでそれに気が付かなかったのだろう。
母を敵に回すことも、叔父を敵に回すこともそう変わらない。
なのにどうして、あの時のノエトスはそれさえ思い付かなかったのか。
ディアスと話すことさえ試みようとしなかったのか。
まるで知りたくなかったこと、気付きたくなかったことを突き付けられるみたいに、ノエトスは動じて仕方がなかった。
意味のない吐息を話すばかりで、言葉を紡げないノエトスを、アトアレ海のようなセメレの瞳が静かに見上げる。
そうして。
「───……よし、よし」
「………え?」
セメレはふと、手をノエトスの方へと伸ばし、ノエトスの頭を抱え込むようにしてそう言った。
抱きしめられている、とノエトスが気が付いたのは、セメレの柔らかな肌。ふわりと香る百合の匂いを脳が理解した時だった。
息を呑む。慌てて仕方がないのに、口からこぼれるのは「え、あ、」なんて意味のない声ばかり。
優しく頭を撫でる手のひらを感じて、「だいじょうぶ、大丈夫」と宥めてくれる嫋やかな声を耳元に感じて、どうしようもなく頬が熱くなる。
「セ、セメレ……?」
「大丈夫よ、ノエトス。何があったって貴方は大丈夫。だって私がついているもの」
「───………」
「何があったって、私は貴方の味方だわ。だって私、貴方の妻ですもの」
だから大丈夫、と。淑やかな、甘やかな声。
ノエトスはその瞬間、自らの胸が強く高鳴るのを自覚した。愛しくてたまらない。
そうか、と思った。ノエトスはセメレを庇護の対象としてのみでなく、そうか。
ノエトスはセメレを、本当はこの娘を、愛していたのだ。
「………あ、」
「ノエトス?」
「あ、ああ。ああぁああああ……ッ!!」
その時、ノエトスを襲ったのは、途方もない羞恥であった。自らの浅ましさを理解したノエトスは、酷い羞恥に襲われた。
なんと浅ましいことか。なんと愚かなことか。なんと醜いことだろう!!
そうだ。そうだ。ノエトスはただ、セメレが欲しかった。
豊かに波打つ黄金の髪。アトアレ海と同じ澄んだ青の瞳。しなやかな指先。柔らかな肌。ノエトスの世界に色をもたらした、愛しい異物の子。愛しい娘。セメレだけが未知だった。セメレだけが、ノエトスの心を動かした。
ノエトスはただセメレを見ているだけで心を満たされて、セメレが微笑むだけで幸せになって仕方がなかった。
言い訳だったのだ。セメレを守るためなど、ただこの娘を得たいがための言い訳だった。なんだかんだとそれらしい理由をつけて、託すことではなく奪うことを選んだ。誰にも渡したくなかったのだ。
黄金の娘。愛しい娘。セメレがディアスに微笑みかけた時、ノエトスの胸を襲ったものの正体。
あれはきっと『セメレが母に滅ぼされるかもしれない』という焦燥などではなかった。
本当はただ、妬ましくて仕方がなかったのだ。淡く色付くセメレの唇を、我が物顔で得るあの男が妬ましくて憎らしくて仕方がなかった。
ただ、それだけだった。
そんな身勝手な理由で、ノエトスは。
「、セ、メレ。セメレ。私は、わたしは、」
「うん。……うん」
「触れてはいけない。私は醜い。罪深く、ひどく、醜い。貴女に相応しくない……!!」
「え、ええ……?一体どうしてそんなことに?貴方が醜いとか汚いとか言うんなら、私の方がよほど俗物だし欲深いし、見てられないものだと思うけど」
「違う、違うんだよセメレ。私は、わたしは、」
「ばかねノエトス。貴方がたとえどんなに酷いことをしたって、そんなの人間が紡いできた歴史に比べれば些細なものだわ。神様だって、神話を見ればきっと誰もノエトスを責められないはずよ」
耳に溶けるやわらかな声。いきなりに叫んで取り乱したノエトスに驚いたはずだろう。特にノエトスは神だ。呆れて怖がって、それとも嫌がって逃げたっておかしくはない。
けれどセメレはそれでも、仕方のなさそうな顔で笑ってノエトスの髪を撫でた。「ばかね」と、あまりにも優しい声で。
「誰も貴方を責められるほど偉くなんてないもの。大丈夫、大丈夫。もしも誰かがノエトスをいじめようとしたら、その時は私が守ってあげるから」
「っ」
「だって私、貴方の奥さんになったんだもの。たとえ貴方が差し出してくれたあの布地に惹かれたのだとしても、他でもない私自身が、貴方を夫に選んだのだから」
長く細い指先の、白い手のひら。滑らかな手のひらがノエトスの頬を挟んだ。微笑む娘はあまりにも美しく、ノエトスは思わず息を呑む。
涙がひとりでにこぼれ、セメレはそれをくすくすと仕方のない顔で笑って、それから優しい手付きで拭ってくれた。
ああ、セメレ。セメレ。
愛しく、柔らかで、心の優しい黄金の娘。打算的であるふりをして、けれどただ傷付くのが怖いだけだった、柔らかな心を持つ我が妻よ。
それでも貴女はきっと私の罪を知った時、私を憎み軽蔑し、嫌うだろう。




