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魔性のセメレ  作者: 久里


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10

 


 母と二人きりのお茶会を終えたセメレは、名残惜しそうにする母を置いて馬車に乗り込み、そのまま王宮を後にした。

 御者のいない馬車。ノエトスの神馬が引く馬車である。


 今のセメレが住んでいるのは、正確には王宮ではなく、セメレが結婚してから建てられた新しい宮殿であるのだ。


 ノエトスはセメレを妻としてから間も無くして、セメレの為の新しい宮殿を建て始めたのである。


 あの時はセメレも大層驚いたものだった。

 神殿のようでもあるそれは、神であるノエトスが関わっているだけあって、通常では考えられないような速さで完成へと辿り着いた。

 何せノエトスは兄弟神である建築の神に頼るだけでなく、工事のために集められた奴隷達にさえ命の水を与え、一時的に素晴らしい力までも与えたのだ。


 健康で力強い奴隷達は、けれど奴隷とはいえアトアレ海に住む人の子である。当然神に対する信心は持っていて、彼らはノエトスの直々の指示に喜んで従った。

 その上ノエトスの神殿に仕える神官達まで総出でカノスの国に詰めかけて、それだけの人手があれば作業も進んで当然というもの。

 そうしてセメレの宮殿は建てられたのだ。


 白の大理石で作られた大きな柱。黄金の装飾に、小さな泉の備わった中庭。

 セメレの部屋はいくつもあって、全てがセメレの為にあつらえられていた。

 セメレも把握しきれていない程の服が収められている衣装部屋。溢れんばかりの宝石類。身を包み込むような寝台に、大きな浴場。宮殿の奥には庭園があって、泉までが備わっていた。


 使用人はいない。けれど代わりに、ノエトスが作った泥人形達が全ての仕事をしてくれた。

 泥人形とはいっても、見た目は人間とそう変わらない。神様が作った泥人形だからか、水に触れて溶けるようなこともない。口もきけないし感情はないけれど、知性はあって表情豊か。

 セメレの忠実なしもべでもあって、セメレは彼らを中々に気に入っていた。


 セメレの結婚が片付いて、今度は本腰を入れて侍女達の結婚の世話をする必要があった、ということもある。長くセメレに仕えてくれた彼女達も、けれどいつまでも城にいるわけではない。

 実際セメレの侍女達は、この宮殿が完成するまでの間に瞬く間に結婚を決めてしまった。セメレや母の伝手のほか、ノエトスの口添えもあってあっという間だったのだ。


 だから王宮には、セメレの侍女はもういない。

 そんな中、美しく寡黙で忠実な泥人形達の存在は、随分と都合が良かったのだ。


 元々の王宮にこれまで通り住むのも、新しい宮殿に入り浸るのもセメレの自由だとノエトスは言った。

 けれどセメレはいつの間にか、生まれ育った王宮よりも新しい宮殿に移り住むようになっていた。他人の噂も聞こえない新しい宮殿は、静かで居心地が良く、何よりも心が安らぐ。最奥の庭園には小鳥が訪れるから寂しくもなかった。


 少し前までは不思議と散歩が好きで、週に何度も城を抜け出していた覚えがある。百合なんてどこにでもあるのに、百合を摘むのが楽しかった記憶もある。

 けれど本当のセメレは随分と自堕落で、無理に外出をするよりも、部屋で微睡むことの方が好きなのだ。


 どうして少し前までの自分が、侍女達の助けを得てまで、やたら外に出たがったのかが不思議なほどだった。

 まるで何かの目的でもあったみたいだけれど、そうではない。侍女達はその間セメレが秘密の恋人と会っていると思っていたようだけれど、そんな記憶はセメレには一つもないのだ。


 結局セメレはそれに対して、きっと、結婚前だから色々心境の変化もあったのだろうと思うことにした。

 マリッジブルーのようなものかもしれない。結婚適齢期を迎えて、しかもまだ誰が夫になるのかもわからない状況。不安になって当然なのだから、普段と少し違う行動をすることだって、何もおかしなことではない。


 何だかあの頃は毎日が楽しくて、輝くような日々だったような気もするけれど、気のせいだろうとセメレは思っていた。

 単にいつもと違う行動をしていたことで、緊張した心を脳みそが勝手に『楽しい』と解釈したに過ぎないはずだ。


 だってそうでもなければ、あのころのセメレが浮き足立つような理由なんて一つもないのだから。

 あってはいけないのだから。


「………あたま、いたい」


 自らの宮殿へと戻り、馬車から降り立ったセメレは、まず一言目にそう言って気怠げに眉を顰めた。

 そのままセメレがその場にしゃがみ込めば、さらりと金の髪が肩を流れる。


 頭が痛い。嫌な汗がこめかみを流れて、いつの間にか集まっていた泥人形達が心配そうにセメレの周りを固めていた。

 どうしたことか、あの頃のことを思い出すといつもそうなのだ。

 夫選定が始まる前のことは、何もかもをはっきりも覚えているのに、何かを取りこぼしてしまったみたいな喪失感がふとした時に襲い来る。それを深く考えようとすると、いつも思考がぼんやりとして、その上ひどく頭が痛んで気持ち悪い。


「───セメレ!!」


 ぐるぐるとした気持ち悪さにセメレが唸っていると、やがて焦った男の声がそこに響いた。

 しゃがみ込んだセメレの側、おろおろと心配するように集まっていた泥人形達をかき分けて、ノエトスが現れたのだ。


 セメレの夫。知恵と運命を司る男神。

 かつてはカノスの国の宰相でもあり、あの頃は澄ました顔を一度たりとも崩さなかったノエトスは、けれど血相を変えた様子、肩で息をしながらそこにいた。

 泥人形からセメレの様子を知覚して、広い宮殿をそれでも駆け抜けてきたのだろう。


「ノエトス……」


 セメレはそこで、ようやくほっとしたように息を吐いた。頭の痛みはそのままに、縋るように夫に向かって手を伸ばす。

 ずるり、と崩れ落ちそうになったところを慌てたノエトスに支えられた。「酷い顔色だ」と、呟くノエトスこそが顔から血の気が引いて青かった。


「すぐに薬を。少し苦いけれど、飲めるね?セメレ」

「ん……」

「口を開けて。少量ずつ流すよ」


 うながされるままに顔を上げて口を開けば、ここ最近ですっかり馴染み深くなってしまった薬の味が口の中に流れ込む。嫌な苦味が目立って、思わず眉間に皺が寄ってしまうけれど、これの効き目は誰よりもセメレが知っていることだ。


 何とかこくこくと嚥下して、次に息を吐いた時には、セメレの頭痛はすっかりと消え去ってしまっていた。

 人の世には考えられないような効き目のこれは、知恵の神様が直々に調合してくれたものであるのだ。セメレの為に、希少な材料をかき集めてノエトスが作ってくれた。


「…………にがい」


 まぁ、それでもまずいものはまずいのだけれど。

 う、と顔を顰めてそう呟いたセメレに、ノエトスは安心したように苦笑をした。「すぐに口直しを用意させるよ」と手を差し出され、背中を支えられて立ち上がる。


「蜂蜜をかけた果物がいい……」

「うんうん、たくさん用意させようね」

「甘い飲み物もくれる?」

「もちろん。さ、おいで、セメレ。口直しを済ませたあとは、またおまじないを掛け直そう。もう怖い思いをしないように」

「ん。……ね、ノエトス」

「うん?」


 セメレが良くなったことを確かめて、ほっとした様子のセメレの夫。優しくセメレの手を引いてくれるノエトスを見上げて、セメレはふわりと、綻ぶように微笑んだ。


「駆け付けてくれて、ありがとう。貴方がきてくれたから、私ね。本当に安心できたのよ」


 繋いだ手をぎゅっと握りしめてセメレが言うと、ノエトスは何だか困ったような、後ろめたいような顔で「……それは良かった」と苦笑した。


 セメレはノエトスの、こういう時、気の利いた言葉の一つも出せない辺りが可愛いと思っている。

 このアトアレ海の神には、十を超える子を持つ神だってザラにいる。そんな中でノエトスは未だ子も孫もいない、人間の女性とも女神とも恋をしたという神話がない数少ない神だった。


 正真正銘、セメレが唯一。それを示すような不器用さを見るたびに、セメレはどうしようもない安心感を覚えるのだ。

 幸せだ。この上なく。間違いなく。


 恵まれた生まれ。恵まれた両親。恵まれた美貌。恵まれた結婚。

 美しく有能で、けれどセメレ以外の女を知らないセメレの夫。全てをセメレの為に尽くしてくれる。全てを、セメレは思いのままにすることができる。


 これを幸せと言わないのなら、きっと幸せなんてものはこの世に存在しない。

 だからセメレは間違いなく、今この海で最も幸福な女なのである。


『───セメレ』


 だから、そう。

 足元に絡みつく寂しさも、胸にぽっかりと穴の空いたような喪失感も、きっと何もかもが勘違いなのだろう。


「………あ」


 また、頭が痛くなってきた。

 これ以上考えるのは、やめておこう。




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