1
日本に生きていた元々の人生。自然災害によってうっかり死んでしまったはずが、気が付けば生まれ変わっていた。
その上転生先は、電気もガスもない地球でもない異世界である。普通なら絶望して頭を抱えるべき状況になってしまったわけだけれど、そうはならなかった。
幸運に恵まれたからである。
何せ、父は国王、母が王妃。
金、権力、名誉。両親がその全てを持ち合わせていたので、必然的にセメレもまた恵まれた人生を生まれながらに約束されていた。
地球ではないどこか。呪術師がいて神官がいて、怪物も英雄も神様さえ当たり前に存在しているこの世界。
どこまでも澄み渡る青さが広がるアトアレ海、随一の大国といっていい国にセメレは『セメレ』として生まれた。
アトアレ海の至宝とさえ呼ばれた母の美しさを正当に引き継いで、金の髪に緑の瞳。
絶世とも謳われるような美貌は、身分や状況によっては時にとてつもない不幸を招くものだけれど、セメレにはその心配は必要なかった。両親の権威によって守られているから、誰もセメレを害せない。
世界はいつだってセメレに優しかった。
父は権力者でありながら、側室を娶ることなく愛人を作ることなく、ただ王妃である母だけを一心に愛していた。
母もまたそんな夫に対して穏やかな愛を返して、政略結婚だったというにはあまりにも平和な家庭。
セメレはそんな両親の一人娘であり、それ故に誰よりも大切に育てられた。後継者争いに巻き込まれる心配もなく、約束された将来。
セメレはただ、成人した頃にでも添い遂げたい男を選ぶだけで良かった。あとは父なり母なりが良いようにしてくれる。
政治には関わっても良いし、何もしなくたって構わないとも言われていた。「好きなように生きれば良い」と頭を撫でてくれたのは父であり、その為に親というものはいるのだと微笑んでくれたのだ。
本来であれば、それでもこの身分として生まれた責任があるのだから、と奮い立つべきなのだろう。
けれど生憎とセメレは前世からとにかく怠惰でつまりはぐうたらで、そんな気が全く起きなかったのである。
そもそも元が民主主義で生きていた一般市民。
選挙で選ばれたわけでもないのに、生まれた身分ひとつで「政治も好きなようにして良いよ!」と権力や影響を与えられたところで、怖くて何も行動に起こせないのがセメレという人間だった。
小心者なのだ。自分の行動一つで、国民の生活や他国との関係まで悪化しかねないとか怖すぎる。
だからセメレは何もしないことを選んだ。王女としてどうかと思うくらい、変哲のない日々。実に穏やかな日々を過ごしたのである。
テレビもスマホもないけれど、案外退屈にはならなかった。暇があれば竪琴を爪弾いたり、母に習って糸を紡いだりした。暑い日には泉を泳いで遊んで、寒い日には温めた石を抱いて侍女達とたくさんの話をした。
まるで神話の中に入り込んだみたいで浮かれていた、というのもあるのだろう。
生まれ変わった先のこの世界では英雄譚や怪物の話、そしてそれに関わったという神のことを現在進行形で聞くことができて、前世でいう神話の中のギリシャを思わせたのである。
だから何をしても楽しくて、不便はあっても不満はなかった。夢を見ているような感覚ですらあったのだ。
「セメレ」
それは、朝から数えて四度目の鐘が鳴った時のことだった。
ゾッと背筋が凍りつくような感覚。まだ明るい午後の時間だというのに現れた、恐ろしい夜のような気配にセメレはパッと顔を上向かせた。
そこに立っていたのは男であった。
長く伸びた黒髪に紫の瞳。そこにいるだけで本能的な恐怖を掻き立てるような男であったけれど、セメレは彼を視界に確かめると、パッと表情を明るくさせた。
それどころか、セメレは両手いっぱいの百合を抱えたまま駆け寄る。すると静かな夜のようなそのひとは、厳格な表情をふ、と緩めてセメレを抱き留めた。
「ディアス様!ふふ、時間ぴったり」
「ああ。お前との約束だから張り切った」
「私もです。ディアス様にお渡ししようって思ったら、ついこんなに」
ほら、とセメレが腕の中の百合をずいと差し出せば、ディアスは「すごいな……」と呟くようにしてパチリとまばたきをした。
緩む頬。表情は柔らかくて、とても冥界を治める恐ろしい神様には見えない。
セメレは彼が微笑んでくれたのが嬉しくて、くすくすとディアスの胸元に擦り寄った。土のような匂いがする。花ひとつ咲かない冥界の匂い。
「ディアス様に差し上げます。あなたみたいに綺麗だから、今年最初の百合が咲いたら、ディアス様にあげたかったの」
そういってセメレが綻ぶように微笑めば、ディアスもまた幸福に目を細めた。




