第5章 虚ろを砕く紅爆の少女
◇ 静かな朝の部屋で
朝の光が薄く差し込み、
白羽は掌のペンダントをそっと転がしていた。
胸元で揺らすたび、銀色の欠片が小さく鳴る。
白羽
(ヴォイドさんがくれた……
“わたしでも、
人に触れられるようになる”もの……)
昨日、服屋で初めて人の手に触れた。
それでも誰も死ななかった。
“人間みたいに”外を歩けた。
胸にじんわり温かさが広がる。
と、その時ふと――
記憶の底から別の光景が浮かんだ。
白羽
(……そういえば、
スレイさんって
最初にわたしを殺そうとした時から、
ぜんぜん平気で触ってた……)
刺されかけたあの瞬間。
抱えられた瞬間。
白羽自身は混乱していたが、確かにスレイは何ともなかった。
白羽はおそるおそる、ヴォイドへ尋ねる。
白羽
「どうして、スレイさんは
わたしに触っても
死ななかったんでしょうか……?」
ヴォイドは白羽を一度だけ見やる。
“気づいたか”というような静かな目。
ヴォイド
「―――感情の炎。」
白羽の思考がきゅっと止まる。
白羽
「……え?」
ヴォイド
「死祟の因子よりも、
内側の感情の炎の方が強い。
だから侵食される前に焼き切れる。」
短い。
けれど核心だけが
刺さる言い方だった。
白羽はポカンと口を開け――
スレイ
「……はいはいはい!?」
突然割って入ってきた声に肩を跳ねさせた。
スレイだった。
濡れた髪を雑に拭きながら
こちらへ近づいてくる。
スレイ
「ちょっと待ってよヴォイドさん!
相変わらず説明が乱暴すぎるんだけど!?」
白羽
「スレイさん……」
ヴォイドは無表情で返す。
ヴォイド
「事実だ。」
スレイ
「事実だけど、
言い方ってものがあるでしょ!?
もっとこう……!」
ヴォイド
「お前の場合は“キレやすい”の方が近い。」
スレイ
「聞こえてるって言ってるでしょおおお!!?」
白羽は思わずくすっと笑う。
スレイは白羽に向き直り、肩をすくめた。
スレイ
「まぁね、白羽ちゃん。
あんたの死祟ってのはさ、
“揺らぎのある心”に入り込むのよ。」
スレイ
「でもわたしの場合は――」
自分の胸元を軽く叩く。
スレイ
「揺れる前に、
ここが真っ赤にブチ上がるだけ。」
白羽
「………」
スレイは白羽の不安を察して、
明るい声に戻した。
スレイ
「大丈夫大丈夫!
わたしはあんたの呪いなんか屁でもないの。
死祟が触れてくる前に、
全部燃やし尽くしてあげるから。」
軽く伸びをして、荷物を肩に担ぐ。
スレイ
「それより――
ちょっと散歩してくるわ」
白羽
「散歩……ですか?」
スレイは笑いながら手を振った。
スレイ
「うん。朝の空気吸ってこよ。
あんたはそのペンダント大事にしてなさいな」
そうして扉に手をかけた、その瞬間。
ヴォイドが低く問いかけた。
ヴォイド
「……行くのか。」
スレイの肩が、わずかに揺れた。
振り返らないまま、いつもの軽い声で返す。
スレイ
「行くわよ。
ほら、わたしって繊細な乙女だし?
朝の風ぐらい浴びないと枯れちゃうの」
ヴォイド
「……。」
スレイ
「心配いらないって。
私は…死なないわよ」
そう言って、扉を閉めた。
小さな音。
しかし白羽は気づく。
スレイの笑顔が――
ほんの一瞬だけ、力の抜けたものに見えたことに。
ヴォイドはしばらく扉を見つめ、
そのまま沈黙した。
白羽には、その意味はまだ分からない。
ただ――
この日、スレイが“進む”と決めたことだけは確かだった。
そしてその決意が、
5年前の〈夜〉へ向かっていくことを。
ヴォイドだけが、その気配を静かに読み取っていた。
◇ 森の奥へ──静かに狂気が満ちる
白羽とヴォイドの元を離れ、
スレイは峠に続く小道をゆっくり歩いていた。
鳥の声。
風の揺れる音。
いつもなら心地よいはずの自然の音が、
今日はどこか“薄く”聞こえる。
「スレイ」
(……嫌な匂い……
朝の空気じゃない……)
胸の奥がきゅう、とすぼまる。
五年前、家族を失った夜と似た感覚。
軽く首を振った。
スレイ
「……ふん。気のせいよ。
みんなに心配かけるわけにはいかないし」
冗談めかしながら歩きだした、その時――
風が止んだ。
空気が、急激に“静かになった”。
音が全部消えていく。
まるで世界だけが息を潜めているように。
スレイは瞬時にナイフへ指を伸ばす。
スレイ
(来る……!!)
葉も揺れない。
空気すら動かない。
そして――
???
「……やっぱり来てくれましたね、スレイ様。」
スレイの背中に、氷の針のような悪寒が走る。
振り向けば。
もうそこに立っていた。
七災《虚憑》 ラスティナ。
黒いゴシックドレス。
不自然に揺れない黒髪。
白く細い指先。
抱き締められた、古びたテディベア。
片耳の縫い目が、少しだけ歪んでいる。
その全てが異様で、
存在そのものが“精神を侵す質量”を持っていた。
スレイ
「……あんた……」
声が震える。
スレイ自身が驚いた。
五年。
ずっとこいつを殺すために生きてきたはずなのに。
ラスティナは嬉しそうに微笑む。
ラスティナ
「昨夜は失礼しました。
あなたの“心の形”がまだ整いきっていなかったので……
壊すのを我慢したんですよ?」
スレイ
「……殺すって言ったわよね……
じゃあ今日はその続きってわけ?」
ラスティナはテディベアを撫でた。
ラスティナ
「ええ。
ですが――」
彼女の瞳に“期待”が灯る。
ラスティナ
「今のあなた、とても綺麗です。
“心の痛み”と“怒り”が、
ちょうど熟れてきている。」
スレイの背筋を冷たいものが這う。
ラスティナはそっと一歩踏み出す。
足音はない。
ラスティナ
「ねぇ、スレイ様。
あなた、昨日泣いたでしょう?」
スレイの瞳がゆらっと揺れる。
心を握られたように呼吸が乱れる。
ラスティナ
「泣いた心って……
甘くて、柔らかくて……
それに“怒り”が混ざると……
とても綺麗に、折れるんですよ」
ラスティナの声は澄んでいるのに、
言葉の温度が致命的に冷たい。
そして。
一瞬で距離をつめた。
血のような気配が、スレイの頬を撫でる。
ラスティナ
「だから今日は――」
囁きが耳の奥を掻きむしる。
ラスティナ
「“あなたを壊しに来ました”」
スレイは反射でナイフを抜く!
スレイ
「こっちのセリフ……ッ!!」
ラスティナ
「いいですね……その目。
やっと出会えました、スレイ様。」
そして。
戦闘が始まった。
◇ “戦闘開始”の前に、スレイの身体が壊された
スレイ
「来なさい……ラスティナ……」
ラスティナ
「ええ。では軽く──」
ラスティナの言葉が終わる前に、スレイは踏み込んだ。
最速の加速。
まともな相手なら一合で勝負がつく間合い。
が──
ラスティナ
「──《虚殻開帳》」
スレイの右肩が、内側から爆ぜた。
ボガッ!!
スレイ
「……ぎ」
スレイ
「っぎぁああああッ!!?」
生温かい血がドッと噴き出す。
肩の関節が“捻じ切られた”。
外から触られたのでなく、
精神への衝撃を肉体へ強制投影された。
ラスティナ
「最初に折れるのは“決意”ですよ。」
ラスティナは笑う。
スレイ
(……痛っ……っ……え……?
肩……動かない……?)
腕はちゃんとついている。
だが筋も骨も“ばらばら”になっている感覚。
まともに息ができない。
◇ 視界がひっくり返る
ラスティナ
「次は……“均衡”を奪います。」
テディベアの頭をぽん、と叩いた。
その瞬間、世界がひっくり返った。
何が起きたか分からない。
勝手に身体が、後方へ吹き飛んだ。
ドシャァッ!!
スレイ
「がッ……っ……!!」
背中から地面に叩きつけられ、肺の空気が全部抜ける。
それだけじゃない──
背骨の一部が、完全にズレた。
激痛が電気のように全身に走り、
スレイは痙攣しながら呼吸を探す。
スレイ
「ひ、っ……が……ぁ……っ……!」
肺が潰れたまま膨らまない。
息を吸えない恐怖が、視界を白く染める。
ラスティナ
「精神の芯が揺れると、
肉体はこうして壊れるのです。」
優しいのに、死が近い。
◇ 痛みが“見えなくなる”
スレイは必死に起き上がろうとする。
けれど足が震えて動かない。
視界がスッと暗くなる。
光が消える。
スレイ
「目が……見え……ッ……!?」
ラスティナは微笑む。
ラスティナ
「“痛みの所在”を奪いました。」
痛い。
でもどこが痛いか分からない。
ただ、脳が焼けるように熱い。
立てない。
呼吸できない。
身体のどの部位が折れてるのか分からない。
本能だけが叫ぶ。
スレイ
(……死ぬ……これ死ぬ……!)
◇ ラスティナの“処刑”は静かすぎて恐ろしい
ラスティナはスレイの前にしゃがみ込む。
ラスティナ
「五年前と同じ……
いえ、少しだけ成長していますね。」
スレイ
「ぅ……あ……っ……」
ラスティナ
「でも、惜しい。
あなたの“心”は、まだ壊しきるには未熟です。」
ラスティナは
スレイの胸元に“指先”を沈めた。
肉は切れない。
血も出ない。
だが──
心臓を鷲掴みにされた感覚が走る。
スレイ
「──ッッぎゃああああああああッ!!」
胸骨の中が破裂し、
心臓がひとつ止まったように錯覚する。
ラスティナの指が額に触れ──
ラスティナ
「さようなら、スレ──」
──その瞬間。
「──やめろ。」
ただ一言。
なのに世界そのものが 軋んだ。
風が逆流した。
地面の影が揺れた。
空気が“ひっくり返るように”収束した。
ラスティナの指先は、
スレイの額まであと数ミリ──
その距離を“越えられなかった”。
見えない壁に触れて、
世界の側から拒絶されたように。
ラスティナ
「……っ……!?」
ラスティナ
(い、いま……外部から干渉を……?
精神崩壊の直前で……巻き戻した?)
震える声で呟いた。
ラスティナ
「まさか、《0番》……?
世界秩序の“0番地”
……あなたが、あの……?」
木々の影が揺れる。
黒いコートの男が姿を現した。
ヴォイド。
冷たい瞳でラスティナを一瞥し──
「ラスティナ。失せろ。」
圧でも魔力でもない。
“状況”そのものがラスティナを押し出す。
影が裂ける。
空気が悲鳴をあげる。
ラスティナ
「し、失礼しました……」
少女の姿が影へ溶けるように消えていく。
ラスティナ
「スレイさん……
この借りは必ず返しますわ……」
スレイを壊しかけた七災《虚憑》は、
たった一言の前に逃げ去るしかなかった。
◇ ラスティナが消えたあと
スレイは地面に倒れ込んだまま、
手も足も、まるで自分のものではないように震えていた。
スレイ
「……っ……は……ぁ……」
肺は潰れていない。
骨も折れていない。
心臓も掴まれたまま死んだわけじゃない。
でも。
“死にた瞬間の記憶”だけが身体を占領している。
スレイ
(……怖い……なんで……
心が……なんでこんな……)
肩が千切れた熱。
背骨が折れた音。
胸の奥を握り潰された瞬間の絶叫。
それが脳の奥でずっと再生される。
スレイ
(ぜんぶ……“心”に刻みつけてくなんて……
反則……でしょ……)
胸の奥は、いつもなら怒りで赤く燃えるはずなのに、
今はただ、冷たく震えているだけだった。
涙がにじんだ。
痛いからじゃない。
自分が“無力だ”と初めて思ったから。
◇ ヴォイドの影が落ちる
ヴォイド
「スレイ。」
背後から降るその声に、
スレイはびくっと大きく震えた。
振り返る。
夜気の中で、ヴォイドが立っている。
ヴォイド
「動けるか。」
ただそれだけ。
慰めでも、心配でもない、
事実だけを確認する声。
スレイ
「……う、うご……けない……
こわ……かった……っ……」
始めて口に出した。
“怖い”と言ったのは、
復讐を誓ってから初めてだった。
ヴォイドは近づいてきて、
スレイの正面にしゃがむ。
表情はいつも通り無表情で、
それがまたスレイを泣きたくさせた。
ヴォイド
「そうか。」
その一言で、
スレイの目にぽろっと涙が零れる。
スレイ
「……っっ……わ、わたし……
殺される……って……
思……って……っ……」
涙が床に落ちて濡れる音がする。
スレイ
(……なんで……
なんでヴォイドさんの前だと……
こんな……みっともない……)
でも止まらない。
◇ “強がりの鎧”が壊れる音
スレイは必死に笑おうとした。
スレイ
「……あ、あのね……
ヴォイドさん……いつもみたいに……
殴ってよ……?
そしたら……元気になれるから……」
ぐしゃぐしゃの顔で無理に笑う。
スレイ
「今日の……あたし……変だから……
ほら……いつもの……“殺すぞ”……とか……
言って……お願い…………」
ヴォイドはしばらく黙った。
風の音すら止まる静寂。
そして──
ヴォイド
「……殴れない。」
その言葉が、
スレイの胸を決壊させた。
スレイ
「──っ……っ……!!」
ぽろぽろ、と涙が溢れる。
スレイ
「……なんでっ……」
ヴォイド
「炎が……消えそうだった。」
スレイの呼吸が止まる。
ヴォイド
「今にも“炎”が消えそうなのに、
殴ることはできない。」
たったそれだけの理由。
でも、それだけが欲しかった。
スレイは声にならない嗚咽を漏らし、
ヴォイドの胸へ縋りついた。
◇ “救われた”屈辱と、“見放されない”安心
ヴォイドは拒まない。
押し返さない。
ただ手を後ろに回し、
軽く支えてくれる。
この距離は、
優しすぎず、
距離も近すぎず、
それでもスレイには心地よい温度だった。
スレイ
「……あいつ……
また……来る……怖いよ……」
涙がぽたぽた落ちる。
スレイ
「あたし……今のままじゃ……
絶対……勝てない……」
ヴォイド
「勝ちたいのか。」
スレイ
「当たり前でしょ……っ……」
スレイ
「殺すって……決めてるのに……
家族の……全部……
返すって……決めてるのに……」
涙が止まらない―――
ヴォイドは短く告げた。
ヴォイド
「なら──強くなれ。」
スレイは顔を上げる。
涙でぐしゃぐしゃの目で、
それでも強い光で睨む。
スレイ
「……教えて……
ヴォイドさん……
あたし……強くなりたい……
ラスティナを殺せるくらい……
魂ごと“焼き尽くす”くらい……!」
言い終えた瞬間、
スレイの喉がひゅっと詰まった。
ふざけても逃げてもいない。
誤魔化しも虚勢もない。
ただただ──
心の底をそのまま剝き出しにした願い。
ヴォイドは沈黙した。
短い。
でもスレイには永遠みたいに感じる沈黙。
ヴォイド
「……本気なんだな。」
その低い声に、
スレイは小さく頷いた。
スレイ
「……本気……
あたし……怖かった……悔しかった……
だから……逃げたくない……
ヴォイドさん……お願い……
あたしを……強くして……」
ヴォイドの瞳がわずかに揺れた。
驚きではない。
同情でもない。
“覚悟を量る”視線。
スレイも真正面から見返す。
涙まみれでも、震えていても、
ここだけは崩さないという気迫で。
ふたりの息が少しだけ触れ合う距離。
ヴォイドは、
ゆっくり、息をひとつ吐いた。
ヴォイド
「……まだ炎は消えてないようだな。」
スレイ
「…………私の全て…………
ぜんぶ……燃やし尽くしてもいい……!」
ヴォイド
「そうか。」
一拍。
夜風がふたりの間をかすめる。
そして──
迷いなく、短い返答。
ヴォイド
「……分かった。」
スレイの頬に新しい涙が流れる。
それは悔しさでも恐怖でもなく──
生まれて初めて、“諦めなくていい”と言われた涙だった。
すると――
ぐらっ
スレイの膝が、がくんと抜けた。
緊張がほどけたからでも、
痛みがぶり返したからでもない。
“支えを得た安心”が、足を奪った。
スレイ
「っ……あ……れ……?」
スレイは情けないほどにふらつき、
そのまま前のめりに倒れかけ──
ヴォイドの腕が、迷いなく受け止めた。
ヴォイド
「……大丈夫か。」
スレイ
「う、うん……。」
次の瞬間。
ヴォイドはためらいなく、
スレイの身体をぐっと持ち上げた。
背中へ。
その肩へ、スレイの腕が落ちる。
スレイ
「……お、おんぶ……!?」
ヴォイド
「歩けないだろう。」
スレイ
「そ、それは……そうだけど……
あんた……ほんっと……!」
言い返したいのに、息が震える。
どくん、どくんと、心臓が跳ねているのが自分でもわかる。
痛みでも恐怖でもない。
“預けていい”という重さ。
ヴォイド
「……落ちるな。」
スレイ
「落とさないでよ……!」
ヴォイド
「面倒だ。」
スレイ
「面倒とか言うなぁぁ……!」
強がり混じりの声が、森にこだまする。
だがその実、
スレイの手はヴォイドの胸元を
ぎゅっと掴んだままだった。
◇ 森を戻る二人
夜の風が冷たい。
ヴォイドの足音は一定で、
スレイを揺らさないように歩幅を整えている。
スレイ
(……なんで……こんな……
優しくすんのよ……
普段は殴るくせに……)
背中越しに伝わる体温が、
痛みよりも先に心を溶かしていく。
スレイは、
声が震えるのを隠せずに呟いた。
スレイ
「……ねぇ……ヴォイドさん……」
ヴォイド
「なんだ。」
スレイ
「……あたし……
今日……すごく……怖かった……」
ヴォイド
「知ってる。」
スレイ
「知ってるって……
本当に……なによ……」
ヴォイドは答えない。
ただ背中にスレイを乗せたまま、前へ歩く。
スレイは、
視界が揺れるのに任せて小さく目を閉じた。
スレイ
「……ねぇ……ヴォイドさん……」
ヴォイド
「まだ何かあるのか。」
スレイ
「……ありがと……」
その一言は、
涙と痛みと、残った誇りの全部を混ぜた声だった。
ヴォイドは、
ほんのわずか、歩く速度を緩めた。
ヴォイド
「……礼は要らない。」
スレイ
(………本当にこの人は)
少しだけ、笑ってしまった。
痛いのに。
悔しいのに。
体はボロボロなのに。
今だけは、泣いても、笑っても、
どちらでもいいと思えた。
◇ キャンプ地──白羽の視線
火のそばにいた白羽が、
二人の姿を見つけた瞬間、目を大きく見開いた。
白羽
「ス、スレイさん!?
ヴォイドさんの背中……どうして……!?」
スレイは耳まで真っ赤になった。
スレイ
「ち、違うのよ白羽ちゃん!!
これはね!? その!!」
ヴォイド
「歩けなかっただけだ。」
スレイ
「よりによって一番刺さる説明すんなぁぁ!!」
スレイは寝袋へ横たわり、
白羽がそっと水を飲ませる。
ヴォイドは少し離れた岩に腰を下ろし、
じっと火を見つめている。
スレイは弱い声で呟いた。
スレイ
「……ヴォイドさん……」
ヴォイド
「なんだ。」
スレイ
「……あたし……
ほんとに……強くなりたい……」
ヴォイド
「…………。」
スレイ
「……明日から……
ビシバシやんなさいよ……
手加減したら許さないんだから……」
「耐えきってから言え。」
スレイ
「辛辣っ!?
でも……ありがと……」
火がぱち、と弾けた。
夜風が吹き抜ける。
──そして
地獄の特訓が始まる。
◇ 一日目:身体を壊し、作り直す日
夜明け前。
白い霧が漂う森のふち。
ヴォイド
「まずは走る。」
スレイ
「……また走るの?
昨日もやったじゃない……」
ヴォイド
「昨日のは“準備”だ。
今日は“壊す”。」
スレイ
「壊すって何をよ!?」
ヴォイド
「お前の身体と、
暴発するだけの感情だ。」
スレイ
「説明が怖いのよ!!?」
◇ 地獄のランニング
峠までの全力疾走。
途中倒れれば水をぶっかけられ、
足が攣ればヴォイドが治して
無言で“殴って起こす”。
ドガッ!!
スレイ
「いっっっったぁあ!!?
なんで殴るのよ!!」
ヴォイド
「止まるな。」
スレイ
「殺す気!? 死ぬってば!!」
ヴォイド
「死なないように走れ。
怒りに任せて脚を動かせ。」
スレイ
「だからアンタはぁぁぁ!!」
スレイは泣きながら走った。
胸の奥は、痛みと悔しさでじわじわ熱を帯びていく。
だがまだ、その火をどう使えばいいのか分からない。
◇ 基礎打撃訓練
息も絶え絶えのスレイを、
ヴォイドは広場に立たせる。
ヴォイド
「次は打撃だ。」
スレイ
「休憩……は……」
ヴォイド
「ない。」
スレイ
「鬼……!」
ヴォイドの拳がスレイの腹へ。
手加減なし。
ドッッ!!
スレイ
「ごぶッ……!!?」
倒れる。
吐きそうになる。
涙が出る。
ヴォイド
「避けろ。殴れ。立て。」
淡々とした声が、逆に怖い。
スレイはヨロヨロ立つ。
スレイ
(痛い……痛い……
でも……
ラスティナの……あの痛みよりは……!!)
腹の奥で、怒りと恐怖がぐつぐつ煮え立つ。
ヴォイド
「そのまま殴るな。」
ヴォイドが告げる。
ヴォイド
「感情に任せて振るう拳は、
ただの自傷だ。」
スレイ
「……じゃあ……
どうすればいいのよ……」
ヴォイド
「答えは明日教える。」
夕暮れまで殴られ続けた。
◇ 二日目:感情を“磨く”日
朝。
スレイは青ざめた顔で起き上がった。
スレイ
「……全身……死んでる……」
ヴォイド
「今日もやるぞ。」
スレイ
「やるのね!? そうよね知ってた!!」
木の棒一本で、ヴォイドが踏み込む。
ヴォイド
「避けろ。」
ドッ
スレイ
「くっ……!」
ドッ
スレイ
「速いってば!!」
ドッッ
スレイ
「ぎゃあ!?!?」
転がるスレイ。
そのたびにスカートがめくれる。
ヴォイドの棒が地面を払った瞬間──
スレイ
「──ッッッ!?」
スカートがふわりと舞い上がる。
太もも、腰、全部。
スレイは凍りついた。
ヴォイドは無反応。
スレイ
「いっ……今の……見た?
見たよね!?
絶対見たでしょ!!」
ヴォイド
「……何をだ。」
スレイ
「はああああ!?!?
見せたのに無関心とか
逆に殺意湧くんだけど!!」
ヴォイド
「戦闘に無関係だ。」
スレイ
「関係大アリよ!!!
乙女の尊厳がああああ!!」
しかしヴォイドは気にもしていない。
それが余計に悔しい。
スレイ
(なんで反応しないのよ!?
こんな美少女の……見たのに!!)
羞恥で心拍が跳ね上がり、
怒りで顔が熱くなる。
ヴォイド
「今のだ。」
ヴォイドがぼそりと呟いた。
スレイ
「今の……?」
ヴォイド
「今の瞬間、お前の目は赤くなっていた。」
スレイはハッとする。
スレイ
(……さっき、一瞬……
視界が赤く滲いかけた……?)
羞恥で集中が乱れ、
見切りが余計に崩れた。
◇ 「火種」を掴めず、不安が膨らむ
夕暮れ、スレイは地面に両手をつく。
スレイ
「……ッ……乱れる……
ぜんぜん……整わない……」
心の温度。
怒り、怖さ、羞恥、悔しさ。
全部バラバラ。
ヴォイド
「火種が散っている。
そのままではラスティナに勝てん。」
スレイ
「……分かってる……
分かってるけど……!」
声が震える。
ラスティナに胸を刺されかけた感覚が蘇る。
スレイ
(……怖い……
負ける……
今度こそ殺される……)
その恐怖がまた、別の炎を生む。
しかしそれもまた散っていく。
二日目の終わり。
スレイの心には 不安だけ が残った。
◇ 三日目の朝:核心
早朝の冷たい空気の中で膝を抱えるスレイ。
スレイ
(……分かんない……
どうすれば……)
その背後に影が落ちる。
ヴォイドだ。
ヴォイド
「立て。」
スレイ
「今日もやるのね」
ヴォイド
「今日が最後だ。」
スレイ
「最後……?」
ヴォイドは静かに言い放つ。
ヴォイド
「ここで掴めなければ、
二度とラスティナには勝てない。」
スレイの喉が震える。
スレイ
(……怖い……でも……)
拳を握り、震えながら立ち上がる。
◇ ヴォイドは“核心”の場所に触れる
ヴォイドはスレイの目の前に立つ。
ヴォイド
「火種の核心を教える。」
スレイ
「え、核心……?」
スレイが問い切る前に──
ヴォイドの右手が、すっと伸びた。
そして。
スレイの胸元に触れた。
心臓の真上。
柔らかい乳房のふくらみのすぐ下。
指先が脈を掴む位置。
スレイ
「っ……っ!?!?」
スレイの身体が硬直した。
全身が熱くなる。
膝の裏まで痺れた。
スレイ
「ちょ、ちょっと……!
どこ触って……っ……!」
ヴォイド
「ここだ。」
スレイ
「“ここだ”じゃないのよ!!
場所分かって触ってるでしょ完全に!!」
スレイの耳は真っ赤。
呼吸は荒く、声も震える。
だがヴォイドは、
羞恥に沈むスレイを見ても、
表情を一切変えない。
ヴォイド
「お前の“炎”は、
ここを中心に生まれる。」
指先が脈を押さえた瞬間──
スレイの思考が“内側”へ吸い込まれた。
動揺
怒り
恐怖
羞恥
悔しさ
家族の記憶
死にかけた恐怖
ラスティナの影
白羽の笑顔
ヴォイドの言葉
全部が胸の奥で、赤く渦巻いていた。
そして。
スレイ
(……え……
これ……全部……
ここで燃えてた……?)
ヴォイドは淡々と告げる。
ヴォイド
「炎を暴れさせているのは、お前自身だ。
だが逆に言えば──
ここを“一本の炎に束ねる”ことができれば、
精神の死《虚憑》ごと焼き切れる。」
スレイ
「……一本に……束ね……」
脈が、ヴォイドの指先から伝わる。
生まれて初めての“自分の中心”の感覚。
――すとん、と線が通る。
スレイ
(……あ、これだ……
これだったんだ……!
わたしの怒り……
わたしの力……!)
世界のざらつきが消えた。
呼吸が静かになった。
胸の奥で散っていた全ての感情が、
一本の炎に繋がった。
スレイ
「……分かった……
私、分かった……!」
ヴォイドは手を離さない。
ヴォイド
「まだだ。
束ねた炎を“拳に纏え”。
それができればラスティナは殺せる。」
スレイの胸の奥に熱が走り、
確信が宿る。
スレイ
(勝てる……
わたし……勝てる……!)
と、その瞬間。
ヴォイドが静かに手を離した。
スレイは全身を震わせた。
熱と誇りと、そして──
羞恥が一気に押し寄せる。
スレイ
「っ……ま、待って……!!
理解はしたけど……」
スレイ
「でも……
胸……触られたの……
やっぱり……
恥ずかしいんだけどぉぉぉ……!!」
ヴォイド
「反応する必要はない。」
スレイ
「あるの!
大ありなの!!
女の子の胸はそんな道具じゃないのよ!!」
ヴォイド
「位置の問題だ。」
スレイ
「位置の問題じゃないわよ!!」
──羞恥で全身が震える。
でも胸の奥は一本の炎に整っている。
それが、
スレイの“《紅爆》の覚醒”だった。
◇ 三日目・午後:仕上げ
スレイの呼吸は整っていた。
胸の中心に、一本の紅い線。
ヴォイドは最後の試験を言う。
ヴォイド
「殴れ。」
スレイは拳を握る。
羞恥も、恐怖も、怒りも、
全部が一本の炎に収束する。
スレイ
「うおおおッ!!」
ゴォォォッッッ!!!!
木が片側から“焼き切れた”。
拳が走った軌道に、空気が震え、
一瞬だけ、スレイの目が紅く光る。
ヴォイドは短く言う。
ヴォイド
「これが《紅爆》。
……ラスティナにも通用するだろう。」
スレイは涙をこぼして笑った。
スレイ
「……っへへ……
これで……勝てる……」
◇ 決戦前夜
夜は、静寂と緊張を孕んでいた。
ラスティナとの最終決戦は明日。
焚き火の赤い光がふたりの顔を照らす。
スレイは胸の中心に“炎”を宿したまま、
じっと焚火を見つめていた。
スレイ
(……いよいよ、明日……
あたし……死ぬかもしれない……
でも……勝つ……絶対に……)
ヴォイドは少し離れ、
薪を足しながら静かに言った。
ヴォイド
「スレイ」
スレイ
「なに、ヴォイドさん。」
ヴォイド
「こちらへ来い。」
スレイの心臓が跳ねる。
スレイ
(……ち、近……!?)
(一日中密着して特訓して……
胸も触られて……
なんか今日のヴォイドさん……
距離感……近くない……?)
ヴォイドは
スレイのすぐ前に座って言った。
ヴォイド
「……目を閉じろ。」
スレイの脳が爆ぜた。
スレイ
(えっ……えっ……!?
ま、待って、ちょっと待って!?
“目を閉じろ”って……
これ……これ絶対……
キスじゃない!?!?)
顔が一気に熱を帯びる。
スレイ
(心の準備が……
いや、してたけど……
いやしてないけど……)
(いや……
ヴォイドさんから……!?
死ぬ、心臓が死ぬ……)
スレイは、
手をぎゅっと握りしめ、
髪を整えるふりをしてドキドキしながら。
スレイ
「……う、うん。」
震える声で返事をし、
ゆっくり、ゆっっくり目を閉じた。
唇が、少しだけ震える。
スレイ
(お願い……優しめがいい……
いや……激しくてもいい……
いや……どっちでも……
ああもうどうしよう……!)
ヴォイドの気配が近づく。
本当に近づく。
スレイ
(く、来る……!!
来ちゃう……!!
私の初キス、まさかヴォイドさん……!?
うそ……うそでしょ……!?
う、嬉し―――)
その瞬間──
スッ……(手が額へ)
ピト。
ヴォイド
「──終わった。」
スレイ
「……へ?」
スレイが目を開けると──
ヴォイドの手が“額”に触れていた。
ヴォイド
「明日の決戦に備えて、精神の揺れと筋緊張、
それから感情の火力の最終調整をした。」
スレイ
「……………はぁぁぁああ!?!?」
スレイは両手をぶんぶん振り回す。
スレイ
「なんでよ!!
絶対……絶対キスだと思うじゃない!!
あたし今……人生で一番ドキドキしたんだから!!」
ヴォイドは静かに答える。
ヴォイド
「しない」
スレイ
「そこ即答するんじゃないわよ!!」
顔を真っ赤にして荒ぶるスレイ。
だがヴォイドは、ほんの少しだけ視線を柔らかくした。
スレイが言葉に詰まる。
スレイ
「……ヴォイドさん……
あたし……明日……
死ぬの……怖い……けど……」
ヴォイドは炎を見つめたまま、
いつも通りの無色の声で言った。
ヴォイド
「──お前は死なない。」
スレイの時間が止まる。
スレイ
「……え?」
ヴォイド
「この数日で、お前は十分に強くなった。
《紅爆》も、制御できる程度にはなっている。
明日は“必ず生き残る”。」
断定。
絶対。
揺るぎゼロ。
慰めでも励ましでもない。
真実を語る者の声。
スレイの胸が、
ぎゅうっと強く熱を帯びる。
スレイ
(……反則だって、そんな言い方……)
ヴォイドは立ち上がり、
去り際に短く、もう一言だけ置いていく。
ヴォイド
「……だから死ぬな。
必ず俺の元に戻ってこい。」
それだけ。
でもスレイは、
涙が止まらなかった。
◇ ラスティナ vs スレイ ── 最終決戦
夜明け前の森。
まだ世界が半分眠っている時間。
スレイは足を止めて深呼吸し、
ひび割れた胸の奥で、
ただひとつの想いを燃やした。
スレイ
(……ラスティナ、今日で終わらせるわ)
(家族も、白羽ちゃんも、ヴォイドさんも……
あんたには触らせない……!)
風が揺れた瞬間、
世界の真ん中にひとりの少女が立っていた。
黒いドレス。
影を引かない足。
虚ろな微笑み。
七災《虚憑》──ラスティナ。
ラスティナ
「来たのですね、スレイさん」
ラスティナ
「前は予想外の来客によって
貴方を殺しそびれましたわ。
ですので……」
今度こそ復讐の続きを。
スレイは一歩、前へ。
スレイ
「こっちのセリフよ。
私は、あんたを今日殺す。」
ラスティナが静かに微笑んだ。
ラスティナ
「……五年前と同じ決意の顔。
でも──
今は“折れる気配”がありませんね。」
次の瞬間、空気が裂ける。
ラスティナの姿が揺れたと思った途端──
スレイ
「──ッ!?」
スレイの腹に“何か”がめり込んだ。
ドッ……!
スレイ
「ッぐ……ッッ!!」
肋骨が三本折れた音。
胃液と血が逆流し、口からあふれ出る。
視界が揺れて分かった。
ラスティナの“脚”がスレイの腹にめり込んでいた。
スレイ
(見え……なかった……!)
蹴り飛ばされる。
背中が木に叩きつけられ、
肺の空気がすべて抜けた。
スレイ
「ひっ、が……ぁ……!!」
呼吸できない。
世界が暗い。
ラスティナ
「スレイさん。
あなたは“精神の死”だけを
警戒してきたでしょう?」
ラスティナが歩み寄る。
靴音があるのに、影がない。
ラスティナ
「でも私……
実は肉体の殺しも得意なんです。」
テディベアの頭を指で弾く。
──《虚殻開帳・裏帳》」
その瞬間、
スレイの右肩が内側から爆ぜた。
バゴンッ!!
スレイ
「ぎぁあああああッ!!?」
血が溢れ、腕がぶら下がる。
外からの攻撃じゃない。
精神の揺れを肉体へ強制変換する“虚憑の本領”。
スレイ
(腕が動かない……痛い……
でも、どこから……?)
しかし、そこで止まらない。
ラスティナ
「“どこが壊れたか分からなくなる”と、
人は必ず折れるんです。」
視界が黒く塗りつぶされた。
本当に一瞬で──
見えなくなった。
スレイ
「めッ……見え……ッ!?
いや……いやだ……っ!!」
やばい。
胸の奥で本能が叫ぶ。
ラスティナ
(このままじゃ……また……!!)
ラスティナはスレイの首を
両指でそっとつまむように触れ、
ラスティナ
「では最後に、“自我”を折りましょう」
その瞬間、スレイの頭の中で“パキン”と何かが割れた。
自分が誰か分からなくなる感覚。
ほんの一瞬で、心の輪郭が消えていく。
スレイ
「…………ッ!!」
ラスティナが胸元に手を伸ばす。
心臓を掴むように──
スレイの胸骨が内側からミシ、とへこんだ。
スレイ
「ぁ……あ、あああぁぁぁッ!!」
痛みが限界を超え、意識が飛びかける。
スレイ
(……負ける……また……
また……あたしだけ……
あの夜みたいに……)
その時。
闇の底で、声が浮かんだ。
──『炎を暴れさせているのは、お前自身だ。
ここを“一本の炎に束ねる”ことができれば、
精神の死《虚憑》ごと焼き切れる。』
“ここ”──
胸のど真ん中。
骨じゃない。
筋肉でもない。
もっと奥。
心の芯。
自分という一本の“軸”。
そこに、ずっと燃え続けている火。
スレイ
(……そうか……
ずっと……散ってたんだ……)
(家族のことも……
白羽ちゃんのことも……
ヴォイドさんのことも……
全部……バラバラに……)
胸の奥に、細い炎が走る。
揺れていた不安、恐怖、後悔、
そして、守りたいものへの想いと怒り──
それらがひとつの軌道に集まり始める。
スレイ
(束ねるんだ……!
……あたしの家族を壊したあんたへの怒りも……
ヴォイドさんをあんな顔にさせたあんたへのムカつきも……
ぜんぶまとめて――)
(一本の炎に……!)
息を吸う。
痛みに耐えて立ち上がる。
ラスティナの瞳が“初めて揺れた”。
ラスティナ
「まだ立つのですか……?」
スレイ
「立つわよ……何度でも!
私の全てを……
まとめて燃やしてやる……!!」
核心に触れた瞬間、
胸の奥に“紅い熱”が灯った。
スレイの目がゆっくりと赤く染まっていく。
ゴウッ……
音のない炎が、スレイの周囲の空気を揺らした。
気迫が物理的な圧として広がり、
触れた空気そのものが震える。
ラスティナの精神の侵食が、
一瞬だけ押し返された。
ラスティナ
「これは……?」
ラスティナの声がかすかに震える。
スレイは力一杯、足を踏み鳴らした。
ズンッ!!
その衝撃で、見えない“恐怖の膜”がひび割れる。
スレイ
(……怖くてもいい……
震えててもいい……
でも――)
スレイ
「あたしの怒りは、
あんたの呪いなんかより
ずっとずっと熱いんだから……!」
スレイが間合いを詰める。
ラスティナの手刀が肩へ落ちる。
ザシュッ!!
皮膚が裂け、血が飛ぶ。
痛みで意識が飛びかける。
でも──
もう止まらない。
スレイ
「うおおおおおッッッッッッッ!!!!」
拳が紅く燃え上がる。
気迫が爆発し、空気が波打ち、
ラスティナの身体の周囲の“精神の幕”が弾け飛んだ。
ラスティナ
「それが……あなたの……!」
ラスティナの言葉の続きを、
紅い拳が遮る。
ラスティナの胸へ吸い込まれた一撃。
ドッ!!
“精神の核”を紅蓮の炎が直撃した。
ラスティナ
「……ぁ……」
テディベアが手から滑り落ちた。
スレイはもう立てない。
でも声だけは絞り出す。
スレイ
「これがあたしの……
全部だッ!!」
《紅爆》――
仲間と家族を想う怒りと願い、
そのすべてを束ねた感情の爆発。
ラスティナの精神が砕け、
身体がゆっくりと膝から崩れる。
スレイは、そのまま仰向けに倒れた。
呼吸は荒く、体中が痛みで痙攣している。
でも──
拳だけは、空へ向けられていた。
震えながら、力なく、でも確かに。
スレイ
「……私の炎……
やっと……届いた……」
涙と汗と血をこぼしながら、
スレイは満天の夜空に拳を掲げ続けた。
スレイ
「パパ、ママ、お姉ちゃん……
勝ったよ、わたし……」
紅い炎はもう見えない。
けれど、その余熱だけが、
まだ胸の奥に残っていた。
──戦いは終わった。
◇ 帰る場所
焚き火はほとんど炭になりかけていて、
白羽はその前で小さく膝を抱えていた。
白羽
「スレイさん、最近全然見かけない……
一体どこ、行ってるんだろ……」
胸の奥がざわつく。
理由は分からないけれど、
今日はどうしても不安だった。
ヴォイド
「スレイは大丈夫だ。」
白羽
「……はい。
でも、なんとなく……」
白羽が言い終わる前に。
──がさっ。
森の茂みが揺れた。
白羽はビクッと肩を跳ねさせる。
白羽
「す、スレイさん……?」
月明かりが差し込んで、
ひとりの影がゆっくり現れた。
スレイだった。
血と土にまみれて、
服も切れ、足元もふらついているのに──
表情は、驚くほど晴れやかだった。
スレイ
「ハロー白羽ちゃん……
元気してた……?」
白羽は今にも泣き出しそうな声で叫ぶ。
白羽
「ど、どうしたんです!?
身体、すごい傷ですよ……っ!?」
スレイ
「やだぁ、心配してくれたの~?
ま、心配かける美しさもあたしの魅力よね……」
と、調子よく笑おうとして──
ぐら……っ。
身体が完全に傾いた。
白羽が支えようと手を伸ばすより先に、
黒い影が静かにその間に割り込む。
ヴォイドの腕が、
スレイの身体を無造作に受け止めた。
スレイは苦笑をこぼしながら、
その胸に額を押しつける。
スレイ
「……まったく……あんたら……
いちゃついてんじゃないわよ……
焚き火デートとか……勝手にしちゃってさ……」
白羽は真っ赤になって反論する。
白羽
「い、いちゃ……っ!?
そ、そんな……っ!」
ヴォイドは淡々とした目でスレイを見下ろす。
ヴォイド
「殴るぞ。」
スレイ
「こんな時くらい……甘えさせなさいよ……
……ちょっとだけ、
無理し過ぎただけなんだから……」
それを言った途端、
スレイの指先が震えて、
力が抜けるように握られた。
白羽がそっと覗き込む。
白羽
「スレイさん……
ほんとに……大丈夫なの……?」
スレイは目を閉じたまま、
ふっと笑った。
スレイ
「大丈夫よ、あたし
約束守ったもん……」
スレイ
「ほら、ヴォイドさんに殴られる前に
ちゃんと帰ってきたでしょ……?」
白羽は胸がいっぱいになり、
言葉が出なかった。
そんな白羽の頭を片手でぽんと押さえながら、
スレイはヴォイドの胸に顔を寄せたまま、
低く呟いた。
スレイ
「……ねぇ、ヴォイドさん……?
……見てたでしょ……」
ヴォイド
「………」
スレイ
「さっきの戦いのこと。
ぜんぶ、見てたんでしょ……?」
ヴォイドの喉がわずかに動く。
そして──
視線をそらしながら短く返す。
ヴォイド
「なんのことだ。」
スレイはくすっと笑う。
スレイ
「……相変わらずね、あんたは」
スレイ
(そんなあなただから……
好きなのよ……)
白羽は二人のやり取りを
黙って見つめるしかなかった。
ずっと苦しそうだったスレイが、
いまは安心しきった顔で──
まるで帰るべき家に戻った子どものように
ヴォイドの胸に身をあずけている。
その姿を見て、
白羽は胸の奥でそっと思った。
白羽
(……本当に、
帰ってきてくれてよかった……)
スレイは小さく息を吐き、
そのまま意識を薄くしながら
最後の言葉だけ落とした。
スレイ
「……やっぱり……ここが……
一番あったかいわね……
……帰ってきた……って……思える……」
そして──
スレイは、静かに眠った。
ヴォイドは無表情のまま、
けれど丁寧に彼女を抱き上げる。
白羽がそっと先導するように歩き出す。
夜の森は冷たいのに、
三人の周りだけが
不思議なほど温かかった。
スレイが、
どれだけ傷ついても戻ってくる場所──
三人の物語が、また続いていく場所だった。
◇ ラスティナの最期
(静寂の決戦場にて)
スレイの足音が遠ざかる。
夜の気配だけが残り、世界が再び静かに沈む。
その中心で、
ラスティナは倒れていた。
黒いドレスは裂け、
精神の揺れに焼かれたような痕が全身に残る。
だが──
その表情は、どこか安らかだった。
そこに、
風すら乱さず影が立つ。
ラスティナ
「……やはり……
来て、くださるのですね……」
ゆっくりと開いた瞳に、
ヴォイドの姿が映る。
ヴォイドは何も言わず、
膝をついてラスティナの身体をそっと抱き起こした。
その動きは驚くほど優しい。
壊れものを扱うようでいて、
それ以上に、“生きていたもの”を尊重する手つきだった。
ラスティナ
「……不思議……です……
もう……痛みは……ないのに……」
小さく、息を吐く。
ラスティナ
「……それでも……
こうして……抱き上げてもらえる……」
かすかに、微笑む。
ラスティナ
「……私、最後に……
ちゃんと人として……
扱われています……ね……」
ヴォイドは答えない。
ただ、腕に込める力を、ほんのわずかに強めた。
それだけで十分だった。
ラスティナの身体の奥で、
黒い気配が音もなく剥がれ落ちていく。
虚憑が、
役目を終えた殻のように崩れていく。
その中で──
ほんの一瞬。
ラスティナの瞳が、
少女の色に戻る。
ラスティナ
「……ありがとう……」
声は小さい。
けれど、はっきりと届く。
ラスティナ
「……私の人生……
間違いじゃ……なかった……」
そう言い切ったあと、
彼女は、わずかに息を整えた。
侵食が、
今にもすべてを奪おうとしている。
それでも──
ラスティナは、自分の意志で顔を上げた。
ほんの少し、背伸びをする。
触れたのは、
ヴォイドの頬。
一瞬。
音もなく、短い接触。
それは誓いでも、
願いでもない。
ただ、
「ここにいた」という痕跡。
ラスティナの瞳が、静かに揺れる。
そして、
遠ざかっていった背中の方角へ、
一度だけ視線を向けた。
ラスティナ
「……あの子を……」
言葉がそこで止まる。
視線がヴォイドへ戻る。
ラスティナ
「……お願いします……」
命令でも、懇願でもない。
ただ、託すという行為。
ヴォイドは何も言わない。
ただ一度だけ、
確かに頷いた。
それを見て、
ラスティナは安心したように目を閉じる。
次の瞬間、
彼女の身体は光の粒となり、
夜風の中へ静かに溶けていった。
ヴォイドの腕から、
重さが消える。
ヴォイド
(ラスティナ。
虚憑に侵されていたが、
最後まで――自分の意思で立っていた。)
(……ここまでだ。
あとは、静かに行け。)
彼はしばらく、その場を動かなかった。
夜が、すべてを包み込む。
やがて、影が揺れた。
ヴォイドは静かに立ち上がり、
何も言わず、歩き出す。
引き継がれたものを、
確かに抱えたまま。
夜は、
変わらず冷たく、
そして静かだった。




