第25章 虚憑と呼ばれたもの(後編)
◇ 村の外縁/夜
雷の残滓が、空に細い爪痕を残している。
白い煙は、遅れてほどけた。
そこに、二人。
淡い青髪の女。
白衣の名残を纏い、視線は冷たいほどに静か。
その半歩後ろに、淡い桃色の髪の少女。
笑みは柔らかいのに、目の奥だけが平らだった。
遺乃は、少女の肩に縋るようにして上体を起こそうとする。
だが、背中が拒む。
遺乃
「……お二人、とも……」
血の混じる息。
声が、掠れる。
遺乃
「……なぜですの?」
青髪の女――リゼは、返事の代わりに一歩前へ出た。
“前に立つ”という行為だけで、世界の向きが変わる。
原初虚憑は、ほんの僅かに後退した。
逃げではない。
「次の手順が見つからない」動き。
リゼは、虚憑に向けて手を下ろしたまま、淡々と言う。
リゼ
「この方たちに、
これ以上手出しはさせません」
虚憑は喉を軋ませる。
意味にならない音。
原初虚憑
「……――……」
リゼは、遺乃を見ない。
少女も見ない。
虚憑だけを見る。
それが、戦場での“判断の順番”だった。
そして、背後。
百音が、遺乃の隣へ膝をついた。
布を広げ、迷いなく手を伸ばす。
百音
「お姉ちゃんは、
もう大丈夫ですよ~」
少女が、涙でぐしゃぐしゃの顔のまま振り向く。
少女
「……助手のお姉ちゃん……」
百音はにこりと笑う。
けれど、手は遅れない。
百音
「手当ては得意分野ですので~」
遺乃の背中。
裂けた布。
血の流れ。
百音は、いちばん先に“危ない場所”だけを見る。
情緒ではなく、順番。
百音
「……出血、多いですね~」
軽い声。
しかし指先は冷たいほど正確。
百音は布を丸め、傷口に押し当てる。
圧迫。
迷いなく、強い。
遺乃
「……っ……」
声にならない。
少女が、怯えたように百音の手を見る。
血が、指の間から滲む。
百音
「だいじょうぶですよ。
血はそのうち止まります~」
百音は遺乃の肩口へ、
顔を寄せて小声で言った。
百音
「はい。
息、ゆっくり~
吐くほう、長め~」
遺乃の肺が、咳を拒む。
けれど、百音の声が妙に届く。
遺乃は、震える息を吐いた。
そのたび、痛みが少しだけ“輪郭”を取り戻す。
百音は、少女の方へ視線だけを向ける。
百音
「そのままお姉ちゃんを
抱っこしててくださいね~」
少女は、泣きながら頷く。
言葉にならない声。
遺乃は、ようやくリゼの背中を見る。
白衣。
青い髪。
“終わったはずの人”。
(……確か……お名前は……)
呼び名が、出てこない。
記憶はある。
遺乃
「……リゼ……さん?」
一拍。
リゼは、振り返らない。
虚憑から視線を外さないまま、短く答える。
リゼ
「……はい」
それだけ。
肯定以上でも、説明以下でもない。
遺乃
「……なぜ……ここに……」
その問いに、今度はリゼは答えない。
代わりに、背後から軽い声が差し込む。
百音
「遺乃ちゃんが、
呼んだからです~」
遺乃
「よ、呼んでませんわ……!」
百音は圧迫を続けたまま、遺乃の顔を見る。
笑っているのに、目は泣いていない。
百音
「しっかりと、
呼んでましたよ~」
軽い。
けれど、逃げ道がない言い方。
百音
「“守るものがありますの”って」
遺乃の喉が詰まる。
リゼが前を見たまま言う。
リゼ
「遺乃さん。
質問はあとにしましょう」
声は低く、揺れがない。
戦場での判断を、そのまま言葉にした調子。
リゼ
「まずは、村を守りましょう」
命令ではない。
提案でもない。
“今そうする”という事実の提示。
遺乃
「……っ」
胸が、痛みとは違う形で締まる。
(……一体、何がどうなってますの)
だが――
目の前の背中は、確かに“守る位置”に立っていた。
◇
なぜ――
理解できない。
(……おかしいですわ)
(わたくしは、顕現で――
彼女たちの縁を、確かに剥がしたはず……)
胸の奥が、ざわりと揺れる。
痛みのせいではない。
前提そのものが、静かに崩れている感覚。
その瞬間。
遺乃の思考に、ひとつの仮説が沈む。
(……あのとき……)
(……無相蓮華空相・顕現が……)
(……本当に、成立していましたの……?)
背中の痛みが、意識を現実へ引き戻す。
――雷鳴。
夜を裂く白光が、再び落ちる。
虚憑の輪郭が歪み、
“在るべき位置”から、強制的に弾かれる。
原初虚憑
「……――……!」
声にならない音。
怒りではない。
ただ、「そこに居てはいけない」という反射。
虚憑は、攻撃に転じない。
転じられない。
雷が、落ち続ける。
一撃ごとに積み上がるのは、
“排除”ではなく、“不成立”という結果だけ。
その最中。
静かな声が、割り込んできた。
リゼ
「……遺乃さん」
次の雷が落ちる。
リゼ
「まず、謝らせてください」
一拍。
リゼ
「ごめんなさい。
あなたを騙していたわけでは、ありません」
百音が、半歩遅れて続く。
百音
「私と百音ちゃんには……
本当に、名前も過去も必要なかったんです」
百音
「だから、あの村での生活は……
紛れもなく、“第二の人生”でした」
言い訳ではない。
弁明でもない。
ただ、事実を置く声。
それでも――
遺乃の中に残る疑問が、消えない。
(……では、どうして……)
(顕現を受けたはずのあなた達が……
“ここに在る”……?)
その疑問を、リゼは理解していた。
リゼ
「……どうして、ですよね」
短く息を吸う。
リゼ
「結論から言います」
雷が、もう一度落ちる。
リゼ
「あなたの顕現は――」
一拍。
リゼ
「発動していませんでした」
その言葉は、
否定でも糾弾でもなく――
静かに、世界の前提を書き換えた。
遺乃
「……は……?」
理解より先に、
喉が音を立てる。
雷が落ちる。
虚憑の肩口が、また“抜ける”。
リゼは振り返らない。
視線は虚憑に固定されたまま。
リゼ
「“白い花”は、
あなたの顕現残滓ではありません」
遺乃の胸が、ひくりと跳ねる。
(……では……)
(……では、あれは……)
遺乃
「……あれは、一体……」
リゼ
「“外部から与えられた空白”です」
一拍。
雷鳴。
虚憑は、後退するしかない。
攻撃のための“置き場”が、存在しない。
リゼ
「ヴォイドさんが――
私に施してくれた、加護」
遺乃の意識が、一瞬、止まる。
(……ヴォイド様……)
(……その名、どこかで……)
その名が落ちた瞬間、
遺乃の世界が、わずかに揺れる。
“縁の外側”から差し込む名前。
リゼ
「あなたは、
私たちの縁を剥がした――
そう、思っていた」
雷。
虚憑が、さらに距離を取る。
もはや“前に出る”という選択肢はない。
リゼ
「でも……違いました」
一拍。
リゼ
「顕現で落ちたのは、“記録”だけ」
リゼ
「加護があったから、
因果は――切れなかった」
雷が、空を割る。
リゼ
「……だから」
リゼ
「私たちは、
ここに戻ってこられたんです」
遺乃の指先が、わずかに震える。
悔しさでも、
安堵でもない。
(わたくしは……
守ったつもりで、
何も守れていなかった……?)
(それとも……
守れていたからこそ、
今、ここにいる……?)
答えは、まだ、出ない。
雷が、また落ちる。
夜の外縁で、
戦いは続いている。
だが――
遺乃の中では、すでにひとつ、
“世界の輪郭”が、
静かに、ずれ始めていた。
◇
その間にも、百音の手は止まらない。
止血。圧迫。固定。
呼吸の誘導。
“痛みを薄める”ためではない。
“生存を成立させる”ための順番。
遺乃の呼吸が、少しずつ整っていく。
その合間に、遺乃は百音の横顔を見た。
近い。
思ったよりも、ずっと。
この距離で、
この手つきで、
何も迷わず“処置をしている”存在。
――血を扱うことに、慣れきった指。
かつては、
触れた瞬間に命を終わらせ、
痛みすら与えずに、呼吸を止めてきたはずの手。
遺乃は知っている。
百音という少女が、
どれほど多くの血に触れてきたかを。
それでも今、
その指は――
“止める”ためではなく、
“止まらせない”ために動いている。
殺すために最短だった動きが、
生かすための最短に置き換わっている。
迷いはない。
躊躇もない。
あるのは、
「この命を、ここで終わらせない」という
結果だけ。
遺乃の喉が、ひくりと鳴った。
遺乃
「……あの……」
百音
「はい~?」
一拍。
遺乃
「……百音……さん……?」
百音は、ほんの一瞬だけ瞬きを遅らせた。
笑みはそのまま。
百音
「……はじめて、
私の名前を呼んでくれました~」
そして、何事もないように、
いつもの調子で。
百音
「あとで、ゆっくりお話しましょうね~」
やがて。
百音
「……よし。
これで、いったん大丈夫です~」
少女が、遺乃の胸に顔を押しつけたまま、
ぶんぶんと首を振る。
少女
「わたし……お姉ちゃんといる……!」
少女
「離れない……!」
百音は、困ったように笑う。
百音
「うんうん~
でも、いまは村の中が安全です~」
遺乃が、掠れた声で言う。
遺乃
「……わたくしは、
もう大丈夫ですわ」
少女
「だめ……だってぇ……」
遺乃は、ゆっくりと少女の手を取った。
小さな指。
まだ、震えている。
視線が、少女の手袋へ落ちる。
歪な編み目。
色の揃っていない糸。
それでも、確かに“作られた温度”。
遺乃は、片方ずつはめる。
指先まで、きちんと押し込む。
遺乃
「あなたが作ってくれた手袋……
とても、あたたかい……」
少女が、息を呑む。
遺乃
「これで、元気が出ましたわ!」
遺乃は、少女の頬を指先でそっと拭う。
血ではなく、涙だけを。
遺乃
「あなたのおかげですの」
少女
「お姉ちゃん……」
遺乃
「また後でね……」
そして、百音を見る。
頼む相手を、迷わない目。
遺乃
「百音さん。
この子を――村へ」
百音
「はい~」
即答。
迷いはない。
百音は、少女へ手を差し出す。
百音
「いっしょに帰りましょうね~
お姉ちゃん、ここにいますから~」
少女は最後まで渋る。
遺乃の服を掴む指が、離れない。
遺乃は、手袋をはめた手で、
少女の指をほどく。
乱暴にはしない。
でも、確実に。
遺乃
「……大丈夫ですわ」
遺乃
「わたくしは――
ここに、いますの」
少女は、泣きながら、百音の手を握った。
それでも何度も、振り返る。
百音は、少女の背中を軽く押しながら歩き出す。
境界の内側へ。
村の灯りへ。
夜の外縁で。
雷だけが、静かに次の手順を待っていた。
◇
百音と少女の気配が、
境界の内側へ完全に消える。
残ったのは――
遺乃。
リゼ。
そして、距離を保ったままの原初虚憑。
夜の外縁は、
一瞬だけ、妙に静かだった。
遺乃は、地面に手をつく。
血の気が引いた指先が、土を掴む。
遺乃
「……まだ……」
身体を起こそうとする。
だが、視界が揺れた。
膝が、言うことを聞かない。
足元が、ふわりと抜ける。
遺乃
「……っ……」
次の瞬間。
雷鳴が、地面を叩いた。
遺乃のすぐ前――
一歩も踏み出させない距離。
遺乃は、はっと顔を上げる。
リゼだった。
振り返らず、
虚憑から視線を外さないまま。
リゼ
「――無理をしないでください」
声は低く、淡々としている。
リゼ
「……今は、下がってください」
命令ではない。
叱る声でもない。
ただ、
“順番”を示す言葉。
遺乃は、歯を食いしばる。
遺乃
「……まだ……
わたくしは、戦えますわ……」
リゼ
「ええ。分かっています」
即答だった。
迷いも、疑いもない。
リゼ
「あなたの力が、
ここで止まるものではないことも」
一拍。
リゼ
「ですが――
今ではありません」
雷鳴。
虚憑が、じり、と距離を取る。
前に出られない理由が、
“力不足”ではないことを、世界が示している。
リゼ
「あなたが出るのは、
全てを“終わらせる”ときです」
遺乃の指先が、わずかに震える。
悔しさではない。
焦りでもない。
(……今、ではない……)
リゼ
「今は、耐えてください」
リゼ
「その判断ができることも――
あなたが“無相”である証です」
雷が、また落ちる。
遺乃の胸が、僅かに揺れる。
遺乃
「……リゼさん……」
息を整えながら、問いを投げる。
遺乃
「あなた……何者ですの?」
雷が、一本、落ちる。
虚憑の足元が抉れ、意味を失う。
リゼは、ほんの一瞬だけ考える素振りを見せた。
そして、静かに答える。
リゼ
「……"世界の禁忌"を、
少しばかり覗いてしまった」
一拍。
リゼ
「罪深い研究者ですよ」
虚憑が、低く軋む。
原初虚憑
「……――……」
その身体が、歪む。
胸の欠落が、さらに広がる。
腕の輪郭が、不自然に太くなる。
“削っている”。
自分の存在理由を、
燃料として削っている。
力の密度が、跳ね上がる。
遺乃
「……自壊……強化……」
リゼ
「……ええ」
雷が、連続して落ちる。
だが――
虚憑は、避けた。
これまでとは違う。
反射ではない。
“理解して避けている”。
代償を払った証。
リゼは、息を吐く。
リゼ
「……では、こちらも出力を上げましょう」
静かに、言葉を切る。
――PROTOCOL《CELESTIAL QILIN》(プロトコル《セレスティアル・キリン》)
その瞬間。
空が、裂けた。
一本ではない。
十でもない。
雷が、“空間として”展開される。
上空。
地表。
高度差。
逃げ道という概念が、消える。
雷は、落ちない。
代わりに――
空間そのものが、発光した格子へと再定義される。
上空。
地表。
高度差。
すべての座標に、
同一の“雷圧”が与えられた。
逃げ道ではない。
逃げるという選択肢そのものが、
最初から用意されていない。
選別と裁定を行うかのように、
雷光が戦場全体を満たす。
――雷災圏。
次の瞬間。
原初虚憑の身体から、
音もなく“何か”が削ぎ落ちた。
肉でも、影でもない。
存在の厚み。
意味の層。
肩口が、ずれる。
胸部が、空白になる。
脚の輪郭が、一拍遅れて追いつく。
原初虚憑
「……――……!!」
悲鳴ではない。
痛覚ですらない。
“そこに在る理由”が、
次々と剥ぎ取られていく。
跳べない。
潜れない。
防げない。
雷は触れていない。
だが、触れられた結果だけが残る。
一歩、動こうとした瞬間、
足元の概念が先に壊れた。
膝が、意味を失う。
世界そのものが、
雷を“正解”として固定している。
虚憑の身体が、きしむ。
否――
身体ではない。
因果が、悲鳴を上げている。
それでも――
虚憑は、笑った。
歪んだ口元。
成立し損ねた感情。
削られた欠落の内側で、
無理やり、密度を引き上げる。
骨格が歪み、
影が増え、
存在の残骸が、互いを食い始める。
命を燃やす。
理由を削る。
未来を圧縮する。
――《 》
――《■■■■■■》
――《――――》
意味にならない“何か”が、
喉の奥から零れ落ちる。
次の瞬間。
音が、消えた。
雷でもない。
爆発でもない。
“中身”だけが、吹き飛ぶ。
空間が剥がれ、
意味が抜け落ち、
世界が一瞬――空白になる。
遺乃とリゼの身体が、
同時に弾き飛ばされた。
リゼ
「――っ!」
リゼの、短い悲鳴。
驚きとも、痛みともつかない声が、
空白に引き裂かれて消える。
次の瞬間、
二人の身体が地面を転がり、
衝撃音だけが、遅れて響いた。
リゼが倒れる。
遺乃も、伏せる。
しばらく、
何も起きない。
風も、
雷鳴も、
悲鳴もない。
虚憑は、
ふらふらと前へ出た。
足取りは定まらず、
身体は、もう限界に近い。
そのとき――
からり、と。
ボロボロのポケットから、
小さなものが落ちた。
軽い音。
薄く、平たい、硬質の欠片。
半月のような形で、
縁が、ひとつだけ欠けている。
踏み出しかけた足が、止まる。
視線が、無意識にそれを追った。
自分が生み出した、
“空白”の向こう側。
意味の抜け落ちた空間。
音のない静けさ。
――なのに。
その欠片を見た瞬間、
胸の奥に、別の景色が差し込む。
張りつめた糸を、
指先で弾いたときの震え。
揃わない拍。
少しだけ早すぎる入り。
誰かの笑い声。
誰かの掛け声。
失敗しても、やり直せばいい空気。
音が、重なり合って、
その場を満たしていた時間。
理由も、
意味も、
考えなくてよかった頃。
ただ、
そこに居て、
同じ振動を感じていた――
それだけで、十分だった。
虚憑の視界が、
ほんの少しだけ、柔らぐ。
砕けた身体。
欠けた輪郭。
それでもなお、
奥に残っていた“何か”が、
あたたかい形で、息を吹き返す。
雷鳴が、
遠ざかる。
裁定の領域から、
意識が、静かに――
別の時間へ、滑り始めていた。
◇《回想》女子軽音部部室/放課後
部室は、最初からうるさい。
叩かれる音。
鳴らされる音。
床を這って腹に響く音。
ズレてる。
合ってない。
でも止める理由もない。
アズサはマイクを握る。
息を吸う。
それだけで、声が出る準備が終わる。
アズサ
「いっくよー!」
合図。
音が一斉にぶつかる。
♪ だららん だんだん
♪ まだまだ 途中でも
♪ だいたい なんとかなるって
♪ そういう ノリでしょ
考えない。
歌う。
身体が勝手に前に出る。
(……やっぱ、ここ楽)
サビで、半歩。
即、後ろが騒ぎ出す。
低音が太くなる。
リズムがやたら元気になる。
横から「私も!」と音が被さる。
はいはい、知ってる。
♪ だいじょうぶ だいじょうぶ
♪ なんとか なるなる
♪ たぶんね!
音が止まる。
一拍。
「よし!」
「今の良くない!?」
「今日、声つよつよじゃん!」
アズサ、どや顔。
アズサ
「でしょでしょ」
「今日、当たり日だから」
――ぐいっ。
肩を組まれる。
アズサ
「近い近い!」
「最近さー」
「アズサ、前出るよね」
「昔もっと後ろだった」
アズサ
「それ言い方!」
「堂々としてるって意味!」
「存在感増した!」
「圧ある!」
アズサ
「最後やめろ!」
即、別方向から。
「成長期?」
アズサ
「またそれ!?」
「でも胸は残念ながら――」
アズサ
「うっさい!死ね!!」
即、爆笑。
「ごめんごめん!」
「今日のご飯奢るから!」
謎の謝罪ポーズ。
アズサ
「まったくもう!」
背中叩かれて、
肩押されて、
髪くしゃっとされる。
距離ゼロ。
雑音多め。
通常運転。
「文化祭、このまま行けそうじゃん」
「センター頼むわ、ボーカル様」
アズサ
「はいはい」
マイクを握り直して――
ふと、思いついたように言う。
アズサ
「ねえみんな。最後にさ」
「なに?」
アズサ
「気合入れよ」
一瞬の間。
「……えいえいおー?」
アズサ
「それ!」
全員、円になる。
手が重なり、
手首に巻かれた、
色違いのシュシュが並ぶ。
同じ形。
同じ雑さ。
同じノリ。
アズサ
「いくよー!」
全員
「えいえい――」
一拍。
全員
「おー!」
笑い声。
拍手。
意味もなくテンションが上がる。
狭い部室。
放課後。
当たり前みたいな日常。
◇《回想》練習帰り/ハンバーガー屋
駅前のハンバーガー屋。
いつも通り、騒音。
油の匂い。
炭酸の音。
学生の声。
レジ前。
アズサ、一歩前。
アズサ
「ポテトLとチーズバーガー二つ」
アズサ
「それと~ナゲットも。
コーラも追加で」
一拍。
後ろ、沈黙。
「……え?」
「今なんて?」
「バーガー二つ?」
アズサ、振り返る。
アズサ
「なに?」
「なに?じゃない!」
「それ全部、一人!?」
アズサ
「うん」
即答。
「……一人で?」
アズサ
「うん」
完全沈黙。
「待って」
「その体型で?」
「全国の女の子の敵なんだけど!?」
アズサ
「ひど!」
トレー着弾。
ポテト山。
バーガー二つ。
ナゲット。
でかコーラ。
アズサ、目が光る。
アズサ
「わー」
着席。
即ポテト。
もぐ。
アズサ
「揚げたておいしー♪」
(……いっつもこの子、
おいしそうに食べるのよね)
バーガー。
一口でかい。
「口のサイズおかしくない?」
アズサ
「そう?」
もぐもぐ。
ナゲット。
コーラ。
ごく。
迷いゼロ。
「……ねえ」
「お腹いっぱいにならないの?」
アズサ、考える。
アズサ
「……んー」
間。
アズサ
「わかんない」
「え?」
アズサ
「空いてる感じもしないし、
いっぱいって感じもしない」
「それ満腹中枢バグってる絶対!」
アズサ、笑う。
アズサ
「まぁ、大丈夫でしょ」
「その“大丈夫”が一番怖い!」
誰かが睨む。
「てか今の話、聞いてた?」
アズサ
「き、聞いてたよ?」
「……じゃあ、何言ってた?」
アズサ
「……私、かわいいって。」
「言ってないけど!?」
アズサ
「……ごめん。
正直、聞いてなかった」
言ってから、首を傾げる。
「まったくあんたって子は……」
「最近ぼーっとしすぎだから気をつけなよ?」
アズサ
「……はーい。反省してまーす」
笑いが起きる。
アズサも笑う。
ちゃんと笑ってる。
声も出てる。
でも――
終わったあと、何も残らない。
ポテト、最後の一本。
もぐ。
(……まぁ、いいか)
理由なし。
判断なし。
油の匂い。
炭酸の音。
放課後のざわめき。
アズサは、
空のトレーを見て、
「食べた」という事実だけを、
ぼんやり眺めていた。
――このときは、まだ。
◇ 文化祭前日/夜・アズサの部屋
ベッドの上。
アズサは仰向けで、スマホを持っていた。
天井は見ていない。
画面だけを、ぼんやり眺めている。
通知音。
――ぽん。
グループ通知。
【軽音部】
「最終確認!」
「明日、朝練7時集合でいいよね?」
すぐに、ぽんぽんぽん。
「体育館裏の入口」
「音出し8時から」
「衣装忘れんなよー」
アズサは、画面を見ながら指を動かす。
アズサ
「りょーかい」
すぐ返事が返ってくる。
「短っ!」
「もっと気合入れて返せ!」
アズサ
「えー眠いし」
「前日でそれ!?」
「寝坊フラグ立てんな!」
アズサは、くすっと笑う。
アズサ
「大丈夫大丈夫。
明日はちゃんと起きるから」
即。
「信用ゼロ」
「むしろ不安しかない」
アズサ
「失礼だな」
少し間。
通知が、また来る。
「てかさ」
「文化祭終わったらさ」
アズサ、指が止まる。
「打ち上げどうする?」
「バーガー屋また行く?」
アズサ
「行く」
即答。
「即答すぎ」
「またあの量食う気?」
アズサ
「余裕」
「怖いわ」
「胃袋どうなってんの」
アズサ
「才能」
「使い道おかしい」
笑いのスタンプ。
意味のないスタンプ。
テンポだけのやりとり。
アズサは、画面を眺めながら、
小さく息を吐く。
アズサ
「明日さ」
少しだけ、間。
アズサ
「うまくいくといいね」
すぐ返ってくる。
「急に真面目!」
「どうしたボーカル」
アズサ
「なんとなく」
「まぁ」
「なんとかなるでしょ」
「今までそうだったし」
アズサ
「だよね」
最後に。
「じゃ、明日!」
「朝練遅れんなよ!」
アズサ
「はいはい~おやすみ」
スマホを伏せ――かけて、
ふと、通知欄が視界に入る。
画面の上。
《トレンド》
・各地で発生する異常現象
・原因不明の消失事案
・若年層への影響拡大
スクロールすれば、
もっと出てきそうな気配。
アズサは、指を止める。
一拍。
アズサ
「はぁ……またこれ」
小さく呟いて、
親指で、すっと画面を閉じた。
興味がない、というより。
考える理由が、なかった。
スマホを伏せる。
画面が暗くなる。
部屋は静か。
時計の音だけが、規則正しい。
アズサは、目を閉じる。
(……明日)
その言葉だけが、
頭の中に残る。
理由はない。
不安も、確信もない。
ただ――
「明日が来る」と、
当たり前に思っていた。
そのまま、
意識が沈んでいく。
――そして、翌朝。
◇ 文化祭前日/早朝
――ぱち。
目が開いた瞬間。
アズサ
「……あ」
一拍。
アズサ
「……あ゛っ」
飛び起きる。
アズサ
「やっば!!
普通に、ガチで!!
寝坊してる!!」
時計を見る。
秒で理解。
アズサ
「朝練、
もう“思い出”の時間じゃん!!」
布団を蹴飛ばす。
制服を掴む。
裏表?知らん。
ボタン?後でいい。
靴下片方行方不明。
とりあえず履く。
ギターケースを肩に引っかける。
玄関ダッシュ。
ドアを開けて、
そのまま外へ。
(なんで今日に限って……)
走る。
走りながら、息切れ。
アズサ
「はぁっ、はぁっ……
昨日ちゃんと“寝坊すんな”って
言われたのに……!」
自分で自分にツッコミ。
アズサ
「くぅ……絶対にいじられる!」
ギターケースが、
ばたんばたん背中に当たる。
アズサ
「ごめん!
今行ってる!
めっちゃ行ってるから!!」
誰にともなく謝りながら、
走る。
息が切れる。
でも、止まらない。
――まだこの時は、
「急げば間に合う」と、
本気で思っていた。
◇
走る。
息が切れる。
いつもの道へ――
行こうとして、止まった。
バリケード。
赤いコーン。
黄色いテープ。
通行止め。
(……え?)
近くに、
買い物袋を持った中年の女性が立っている。
アズサ
「すみません。
ここで何かあったんですか?」
女性は、ため息をついた。
「最近多いでしょ」
「異常現象ってやつ」
アズサ
「……異常……現象?」
(ニュースでやってたやつだ……)
「地面にね、突然亀裂が走ったんだって」
「で、若い女の子が……」
一拍。
「……持っていかれたのよ」
「かわいそうにねぇ」
アズサの足が、動かなくなる。
(……持って、いかれた?)
アズサ
「それ……どこで……?」
声が、掠れる。
自分の声なのに、遠い。
女性は答えなかった。
ただ、顎で――指し示す。
「……あそこ」
警戒線の向こう。
アズサは、
一歩、踏み出して――止まる。
足が、言うことを聞かない。
(やだ)
(やだやだやだ)
でも、目は勝手に前を見る。
地面に、
見覚えのある色が落ちていた。
ギターケース。
――上半分が、消えている。
壊れた、じゃない。
削れた、でもない。
最初から、存在しなかったみたいに。
喉が、ひくりと鳴る。
そのすぐ横。
――腕。
細い。
白い。
女の子の腕。
切り口は、
信じられないほど、静かで。
血の主張すら、控えめだった。
そして。
指先。
――そこに、あった。
見覚えのありすぎる、色。
文化祭用に揃えた、
あのシュシュ。
(……あ)
声が、消える。
世界が、
一段、下に落ちる。
アズサは、
ふらつきながらギターケースに手を伸ばした。
開ける。
中。
折れたネック。
ねじれた弦。
砕けた木片。
音が、死んでいる。
全部、
もう二度と鳴らない。
その奥で。
ころん、と。
何かが、転がり出た。
小さくて、
軽くて、
あまりにも、見慣れた形。
――ギターピック。
アズサは、
反射みたいに、それを掴んだ。
指先が、震える。
止めようとしても、
止まらない。
そのまま、
膝が折れる。
地面に座り込み、
身体を前に倒す。
声は、出なかった。
叫びも、
泣き声も、
言葉も。
ただ。
肩だけが、
何度も、何度も揺れた。
握ったピックが、
手の中で、
やけに固かった。
◇ 軽音部部室/昼
文化祭は中止になり、
解散となった。
理由は、誰も言わなかった。
言わなくても、
全員が知っていた。
部室には、
静かに人が残っていた。
楽器はある。
椅子もある。
譜面も、そのまま。
でも、
音は出ない。
誰かが言う。
「この世界……」
「もう、だめなのかな」
沈黙。
「……これから、どうする?」
視線が、
アズサに集まる。
アズサは、
しばらく黙ってから、言った。
アズサ
「……私、学校やめる」
ざわ、と空気が揺れる。
「え?」
「ちょ、待って」
アズサ
「……やることが、できたの」
部室の隅。
古びたテレビが、
つけっぱなしになっている。
《――成立基盤補修計画に関する政府発表――》
淡々としたアナウンサーの声。
アズサは、
それを見つめたまま続ける。
アズサ
「お医者さんにね、聞いたんだけど」
一拍。
アズサ
「世界に百人くらいしかいない
難病なんだって。わたし」
息を吸う。
アズサ
「でも、それが……」
少しだけ、言葉を選ぶ。
アズサ
「もしかしたら、
この世界のために
なるかもしれないって」
誰も、口を挟まない。
アズサは、
ふっと、笑った。
アズサ
「私ね、この世界のこと好き」
――みんなと馬鹿やって
――いっぱい怒られて
――でも、また笑って
アズサ
「……そういうのって、
悪くない」
拳を、軽く握る。
アズサ
「だから――」
一拍。
アズサ
「この世界を、守りたい」
アズサの手の中を見る。
――ギターピック。
「……そのピック」
「……あの子の、だよね」
アズサ
「うん」
指先で、そっと包む。
アズサ
「忘れないように」
一拍。
アズサ
「私たちが、
ちゃんと、ここにいたって」
部室の外で、
遠く、サイレンが鳴った。
誰も、もう振り向かない。
世界は、
確実に壊れている。
そのとき。
――こん。
控えめで、
それでいて、やけに現実的な音。
一瞬、
誰も反応できなかった。
もう一度。
――こん、こん。
短くて硬く、
逃げ場のない音。
扉が、ゆっくりと開く。
立っていたのは、
黒い装備に身を包んだ、複数の人間。
ただ、
“迎えに来た”という事実だけが、
部室に流れ込む。
空気が音を失う。
「……え?」
「なに……?」
理解しようとした瞬間、
もう、理解してしまっている。
アズサは、
何も言われる前に、
一歩、前へ出た。
それから、
部室を――見渡す。
壁。
楽器。
譜面。
そして、仲間たち。
一人ひとりの顔を、
目でなぞる。
急がない。
迷わない。
全部、
ちゃんと見る。
それから、
小さく息を吸って――
アズサ
「さようなら」
言葉は、
驚くほど静かだった。
誰かが、
何か言おうとして、
口を開く。
でも――
アズサは、
ほんの少しだけ、笑って続ける。
アズサ
「……今まで、ありがとう」
それだけ。
それ以上、
何も残さない。
がちゃん。
扉が閉まる。
金属の音が、
部室の中で、
やけに大きく響いた。
誰も、追いかけない。
誰も、呼ばない。
呼んだところで、
届かないと知っている。
しばらくしても、
扉は、開かない。
その音は、
ただの「閉まる音」だったはずなのに。
それきり――
世界から一人分の居場所が、
確かに消えた。
その穴は、
誰にも見えないまま、
塞がらなかった。
◇《回想おわり》村の外縁/夜
回想が、
音もなく剥がれ落ちた。
薄い膜が、
夜気に溶けるように消えていく。
冷たい空気が、
一気に肺へ流れ込む。
――現実が、戻る。
原初虚憑の身体は、
その場に立ったまま、
微動だにしない。
いや。
立っていられていない。
崩れる音は、しなかった。
砕ける衝撃もない。
ただ――
輪郭が、内側からほどけていく。
力を失ったわけじゃない。
討たれたわけでもない。
思い出してしまった。
それだけで、
この形は、もう“保てなかった”。
原初虚憑は、
自分の手を見る。
赤黒く濁り、
何かを壊すためだけにあったはずの指先。
そこから、
細かな光が零れ落ちる。
ぱらり。
ぱらぱら。
――まるで、
拾い上げたはずの何かが、
また指の隙間から落ちていくみたいに。
原初虚憑
「……あ……」
声にならない音。
喉が、震える。
次の瞬間。
理由もなく、
涙が溢れた。
止められない。
意味も分からない。
怒りも、
怖さも、
悔しさも。
守れなかったことも。
置いてきた部室も。
閉まった扉も。
――全部が、
区別を失って、流れ出る。
原初虚憑
「……そう……だ……」
喉の奥で、
ずっと使われていなかった“呼び方”が、
今さら、引っかかる。
原初虚憑
「……うち……」
一拍。
原初虚憑
「……練習……」
息が、詰まる。
原初虚憑
「……いかなきゃ……」
誰に、言っているのかも分からない。
原初虚憑
「……めい……わく……」
最後まで、言えない。
“さようなら”も。
“ありがとう”も。
もう一度言う資格すら、見つからない。
身体が、前に傾く。
支えるものは、何もない。
そのまま――
どさり。
白い地面に、
“中身の抜けた重さ”だけが落ちた。
ほぼ同時に。
少し離れた場所で、
リゼもまた、膝から崩れ落ちる。
雷災圏が、完全に消える。
轟音も、光も、痕跡もない。
夜が、戻ってくる。
まるで、
最初から何もなかったみたいに。
――ただ一つ。
世界のどこかに、
埋まらない“穴”だけを残して。
◇
遺乃は、
ふらりと立ち上がった。
足元は覚束ない。
一歩踏み出すたび、
白い地面が、ざっ、と鳴る。
ざっ。
ざっ。
冷え切った感触が、
足裏から、じかに伝わる。
倒れたリゼが、視界に入る。
ほんの一瞬、足を止める。
呼吸はある。
吐く息が、かすかに白い。
――生きている。
それだけを確かめて、
遺乃は、また歩き出す。
ざっ。
ざっ。
急がない。
逃げない。
崩れ落ちた原初虚憑の前で、
静かに膝を折る。
視線を合わせるために。
同じ高さまで、降りる。
虚憑は、
もう顔を上げられない。
視界は滲み、
身体は、ほとんど感覚を失っている。
呼吸だけが、
かろうじて、存在を繋いでいた。
遺乃は、
そっと手を伸ばす。
原初虚憑の頭に――
やさしく、置く。
慰めるためじゃない。
裁くためでもない。
ここに、確かに在ると示すために。
遺乃
「……ねぇ」
静かな呼びかけ。
遺乃
「あなたが、
壊れたわけではありませんの」
一拍。
遺乃
「忘れてしまっただけ」
遺乃
「耐えきれないほどの重さを、
抱えたまま……
前に進んでしまっただけですわ」
原初虚憑の指が、
白い地面を、きゅっと掴む。
遺乃
「世界が、壊れ始めたから」
遺乃
「あなたが、
先に壊れてしまったわけではない」
声は、静か。
でも、逃げ道を与えない。
遺乃
「だから……」
ほんのわずか、
声が揺れる。
遺乃
「ここでこれ以上、
自分を罰さなくていい」
原初虚憑の呼吸が、
少しずつ、整っていく。
原初虚憑
「……うん……」
ほとんど、音にならない。
遺乃は、
その返事を、確かに受け取る。
瞳の奥が、
深い赤に染まる。
――原初還り。
世界が、
一瞬だけ、息を止めたように静まる。
だが、まだ詠まない。
まだ、終わらせない。
遺乃は、
最後にもう一度、
虚憑の顔を見る。
遺乃
「皆の元に還りなさい」
それは命令ではない。
慰めでもない。
選び直すための言葉。
原初虚憑の呼吸が、
一度だけ、深くなる。
そして――
遺乃
《原初無相経典・無名回天》
音はない。
衝撃もない。
ただ、
世界における
“存在の向き”だけが、
静かに、反転する。
原初虚憑の輪郭が、
ゆっくりと、ほどけていく。
壊れるのではない。
削れるのでもない。
――戻っていく。
原初虚憑は目を閉じたまま、
その口元だけがほんのわずか、緩んだ。
原初虚憑
「今日の……ライブ」
声は、もう消えかけている。
原初虚憑
「……絶対に……」
息が、細くなる。
原初虚憑
「……成功させよ……ね……」
それは、
誰かに向けた約束。
遺乃は、
その言葉を遮らない。
次の瞬間。
身体は、
細かな光の粒子となって、
夜空へ舞い上がる。
静かに。
音もなく。
名を持つ前の場所へ――
還っていった。
◇
遺乃は、
消えゆく光を、見上げる。
少し遅れて、
リゼも、同じ空を見る。
二人とも、
何も言わない。
そこにはもう、
雷も裁定もない。
ただ、
静かな夜だけが、
残っていた。
◇ エピローグ/少女の家・夜
囲炉裏の火が、ぱちぱち鳴る。
薬草の匂いと湯気が混ざって、
小さな家の中はむわっとしていた。
その中心。
遺乃とリゼは――
ほぼ同時に、治療台(床)に捕まっていた。
少女
「動かないでね!」
百音
「はい~、消毒しますよ~」
ぐいっ。
じゅっ。
遺乃
「――っっっ!!?」
リゼ
「いだだだだだだだ!!?」
叫び声が、見事に重なる。
遺乃は正座のまま、
少女に肩と腹をがっちり押さえられている。
一方リゼは、
百音に首根っこを捕まれた状態だった。
リゼ
「百音ちゃん!?
ま、待ってください……!
これ、本当に必要な痛み――」
百音
「説明は、あとです~」
にこ。
百音
「動くと、もっと痛くなりますよ~?」
リゼ
「……っ」
完全に黙る。
遺乃は歯を食いしばりながら、
少女の顔を見た。
遺乃
「……あ、あなた……
そんなに力、ありましたの……?」
少女
「……ある」
即答。
少女
「お姉ちゃん、逃げようとした」
遺乃
「してませんわ!!?」
ぐいっ。
遺乃
「――っ!?」
少女
「いま、ちょっと腰浮いた」
遺乃
「……っ」
言い返せない。
百音は、
リゼの背中に塗り薬を伸ばしながら、
楽しそうに言った。
百音
「二人とも~
さっきまで、
すごく格好よかったのに~」
百音
「いまは、
普通に患者さんですね~」
リゼ
「……し、しょうがないです」
百音
「はい~、その通りです~」
百音
「だから――
大人しくしてくださいね~」
じゅっ。
リゼ
「いだぁぁぁぁ!!?」
遺乃
「声が大きいですわ!!」
リゼ
「あなたもさっき、
同じ声を出していました!!」
遺乃
「出してませんわ!!」
百音
「出してましたよ~」
少女
「うん」
遺乃
「……」
リゼ
「……」
二人同時に、
気まずく視線を逸らす。
囲炉裏の火が、
ぱちり、と鳴った。
その音を合図にしたかのように――
少女と百音が、
同時に立ち上がる。
少女は小さな瓶を持っており、
百音は布と薬を広げている。
そして――
二人とも、
にやっと笑った。
百音
「さて~」
少女
「最後いくよ」
遺乃
「……さいご、とは……?」
百音
「最終治療です~」
にこ。
その笑顔が、
さっきまでより
ほんの少しだけ――
楽しそうだった。
遺乃
「……わ、わたくし……
もう、だいぶ回復して……」
少女
「だ~め」
即答。
二人の距離が、
一歩、縮まる。
遺乃
「……リゼさん……」
リゼ
「……ええ……」
無言で、
視線が交わる。
遺乃
「……これ、あの……」
リゼ
「ええ……
嫌な予感がします……」
遺乃とリゼは――
反射的にぎゅっと抱き合っていた。
一拍。
遺乃
「ま、待ってくださいまし――!!」
リゼ
「や、やめ……やめてください――!!」
二人の悲鳴が、
小さな家いっぱいに響き渡る。
夜は、
とてもにぎやかだった。
◇
囲炉裏の火が、
静かに揺れている。
その前で――
遺乃とリゼは、
完全に屍になっていた。
仰向け。
ぴくりとも動かない。
一拍。
遺乃
「……まったく、あなた達は」
リゼ
「限度ってものがあります」
二人は同時に、
はあ、と小さく息を吐く。
少女は遺乃の隣にしゃがみ込み、
そっと額に手を置く。
百音はリゼの方へ身体を寄せ、
同じように、やさしく撫でる。
百音
「だって……
心配だったので~」
少女
「そうよ!
ちゃんと、直してあげなきゃって!」
一拍。
その言葉に、
遺乃が微かに目を開けた。
遺乃
「……ええ……
身に沁みましたわ……」
リゼも、
かすかに息を吐く。
リゼ
「タナトスロア時代でも、
ここまでの治療はされたこと……」
百音は、
リゼに身体を寄せたまま、
ちらりと顔を見上げる。
その瞳には、
もう緊張も警戒もなくて――
ただ、素直な期待だけがあった。
百音
「……先生?」
そして、
ほんの少しだけ口角を上げる。
百音
「……よしよし、
してほしいです~」
声音は、
いつもより柔らかい。
冗談めいているようで、
どこか本気だった。
リゼ
「……百音ちゃん?」
百音
「頑張ったご褒美ください~」
百音は返事を待たずに――
そのまま、リゼの胸に頭をあずけた。
ぎゅう、ではない。
そっと。
安心を確かめるみたいに。
体重を、
少しだけ預ける。
リゼは、
困ったように目を伏せてから――
小さく、息を吐いた。
リゼ
「……まったく……」
そう言いながら、
そっと百音の頭に手を置く。
指先は、
驚くほどやさしい。
髪を撫でる。
一度。
もう一度。
よしよし。
百音の口元が、
ゆっくりと緩んだ。
百音
「……えへへ~」
その笑みは無防備で、
とても満ち足りていた。
リゼ
「すっかり甘えちゃって……」
百音は胸に額を預けたまま目を閉じた。
今この瞬間を逃したくないみたいに。
リゼは逃げずに――
百音の背中に手を回し、
静かに、ぽんぽんと叩く。
守るというより、
受け入れる仕草。
百音の表情は穏やかで、
幸せそうだった。
遺乃はその様子を見て、
少しだけ笑う。
それから、
少女と視線を合わせた。
遺乃
「……今回、あなたには」
一拍。
遺乃
「本当にお世話になりました」
少女は、
きょとんとした顔で、
遺乃を見る。
遺乃は、
ゆっくりと言葉を選ぶ。
遺乃
「……そこでですね。
もし、あなたが良ければなんですが」
遺乃
「わたくしが、
あなたから奪ってしまった縁を……」
遺乃
「ここで、お返しするのも――」
そこで。
少女が、
被せるように声を上げた。
少女
「お姉ちゃん!」
遺乃
「……え?」
少女
「私はこのままがいい」
だって、と。
少女
「今が、一番幸せなんだから!」
そのまま――
遺乃に、ぎゅっと抱きつく。
勢いよく。
迷いなく。
遺乃
「……っ」
驚いたように、
一瞬だけ硬直してから。
遺乃は、
そっと少女の背中に腕を回した。
ゆっくり。
確かめるように。
そして、
頭を撫でる。
遺乃
「……ほんと」
遺乃
「変わった子ですわ」
でも、声は――
とても、やさしかった。
やがて、
遺乃はゆっくりと顔を上げ、
百音とリゼを見た。
遺乃
「……改めて」
遺乃
「あなた達にも、
感謝をお伝えしなければなりませんわ」
囲炉裏の火が、ぱちりと鳴る。
二人は、
ほとんど同時にこちらを見る。
遺乃は、
一度だけ視線を落とし――
小さく、息を吸った。
遺乃
「今回のことで……
わたくし、知ってしまいましたの」
遺乃
「一人で立っているつもりでも……
一人では、守れないものがあるということを」
視線を上げる。
逃げない。
逸らさない。
遺乃
「あなた達の背中を見て……
それを、はっきりと」
一拍。
遺乃
「強さとは……
前に出ることだけではありませんのね」
遺乃
「支えること。
戻る場所を、残すこと」
遺乃
「……それもまた、強さだと」
言葉を探すように、
ほんの一瞬、唇が止まる。
遺乃
「……ですから」
遺乃
「もし、よろしければ」
遺乃
「一緒に――
ここで、暮らしてはいただけませんか」
百音
「……え?」
リゼ
「……」
遺乃
「無理に、とは言いませんわ」
遺乃
「ただ……
あなた達がここにいると思うと」
遺乃
「わたくしは……
前より、少しだけ――
怖くなくなれるのですの」
そう言ってから、
遺乃は、深く頭を下げた。
遺乃
「どうか……
わたくしと、一緒にいてください」
静かな間。
百音とリゼは、
思わず顔を見合わせる。
きょとん、と。
それから――
同時に、遺乃を見る。
リゼ
「……遺乃さん」
リゼ
「私たちも……
気づいたら、この村を
大切に思っていました」
百音
「大好きです~」
リゼ
「罪を背負ったままでも……
ここにいると」
リゼ
「“まだ、やり直していい”と
思えたんです」
リゼ
「人のために、
胸を張って立ってもいいと」
一拍。
リゼ
「ですから――」
リゼ
「こちらこそ、
ぜひ一緒に、村を守らせてください」
その言葉に、
遺乃が、ゆっくりと顔を上げる。
その横から――
ひょい、と。
百音
「それと~」
百音
「先生と助手も、
引き続き継続希望です~」
百音
「……ここ、
居心地いいので」
遺乃は、
一瞬だけ目を丸くして――
それから、
堪えきれないように、笑った。
遺乃
「……はい」
短く。
けれど、確かに。
その声に、
少女も、百音も、リゼも――
自然と、笑っていた。
外は静かな夜。
けれど――
ここには確かに、
“続いていく日常”があった。




