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第25章 虚憑と呼ばれたもの(前編)

◇ 遺乃の屋敷・裏手の湯殿/夜


ぼろ家の裏手。


板を継ぎ足しただけの、

どう見ても仮設の湯殿。


隙間だらけの壁。

天井は布。

床は、きしむ。


――でも。


湯気だけは、一人前だった。


もくもく。

もくもく。


遺乃は肩まで湯に浸かり、

両腕をだらんと縁に乗せていた。


遺乃

「……はぁ……」


力の抜けきった声。


腕を一度、水面から持ち上げる。

ぱしゃ。


もう一度。

ぱしゃ、ぱしゃ。


次に、脚。

ぐい、と前に伸ばす。


湯の中で、つま先がふよふよ揺れる。


――五秒。


遺乃

「……ふぅ……」


完全に、力が抜けている。


その横を、

ぽちゃんと何かが通過した。


遺乃は、視線だけ動かす。


湯の上を漂う、

壊れかけのヒヨコのおもちゃ。


片目が取れかけ。

くちばしは欠けている。

色も、だいぶ剥げている。


それでも、堂々と浮いている。


遺乃

「……ぴい助」


名前を呼ばれ、

ぴい助は意味もなく回転する。


遺乃は指先で、つん。


くるり。


遺乃

「……今日もしっかり、

 浮いてますわね」


もう一度、つん。


今度は、

ひっくり返って止まる。


遺乃

「……あら」


遺乃

「ぴい助、裏返しは禁止ですわよ」


そっと戻す。


また、つん。


ぴい助、

今度は縁にぶつかって止まる。


遺乃

「……あ」


遺乃

「脱走は、許可しておりませんわ」


指で押し戻す。


ぴい助、

押し返されて、また中央へ。


遺乃

「……よし」


なぜか満足。


遺乃は、湯気の向こうで鼻歌を始めた。


♪~


音程は迷子。

でも、本人はご機嫌。


その途中で――

天井の布が、ひらっと揺れる。


冷たい空気が、

すうっと入ってくる。


遺乃

「……」


遺乃

「…………さむ」


次の瞬間、真顔のまま立ち上がる。


ぴい助に向かって宣言。


遺乃は、

湯を一度、両手ですくって――


ぱしゃ。


自分の腕にかける。


遺乃

「……気合」


意味不明。


もう一度、脚を伸ばす。

ぎゅー。


遺乃

「……うぅ……」


完全に、限界。


遺乃は立ち上がる。


湯殿から一歩。


――へくちっ!


遺乃

「さむいですわ!!」


即、布を引き寄せる。


濡れた髪が背中に貼りつく。


遺乃

「……これは……想定外……」


震えながら、振り返る。


ぴい助は、

何事もなかったように浮いている。


遺乃

「……ぴい助は、いいですね……」


ぴい助、無言。


遺乃は深くため息をついてから、

小さく言った。


遺乃

「……お先に、失礼しますわ」


ぴい助を残し、

小走りで湯殿を後にする。


その背中に――

湯気と、ぴい助の沈黙だけが残った。



布で髪を拭きながら、

遺乃は囲炉裏の前に腰を下ろした。


まだ少し、

肩のあたりが熱を持っている。


湯気はもうない。

代わりに、

夜の冷えが、ゆっくり戻ってきていた。


遺乃

「……ふぅ……」


小さく息を吐く。


髪の水気を、

丁寧に拭き取る。


ごしごし、ではない。

とん、とん、と叩くように。


その間、

囲炉裏の上の薬缶が、

かすかに音を立てた。


遺乃は立ち上がり、

湯を急須に移す。


茶葉を入れ、

蓋を閉める。


少し待つ。


――その「少し」が、

遺乃にとっては大事だった。


湯の音。

布の感触。

夜の静けさ。


遺乃

「……ちょうど、良いですわね」


湯呑みに注ぐ。


白い湯気が、

一度だけ立ちのぼり、

すぐに消えた。


遺乃は座り直し、

膝の上に、編みかけのものを置く。


毛糸。

針。


指が、

いつもの速さで動き始める。


からり。

からり。


規則正しい音。


遺乃は、

そのリズムに合わせて、

小さく鼻歌を口ずさんだ。


♪~


さっきより、少しだけ明るい調子。


音程は、相変わらず迷子。

でも、楽しそうだった。


編み目を一つ、引き抜く。

揃える。


からり。

からり。


遺乃

「……ふふ」


湯呑みに手を伸ばし、

一口。


温かさが、

喉を通って、胸に落ちる。


遺乃

「……おいしい……」


鼻歌を再開する。


♪~


指は止まらない。


――そのとき。


からり、と鳴るはずの音が、

鳴らなかった。


編み針が、

空中で、止まる。


遺乃は、

ゆっくりと、自分の指先を見る。


遺乃

「……?」


理由は、分からない。


糸は、絡んでいない。

指も、冷えていない。


ただ。


世界の“手触り”が、

一拍だけ、ずれた。


遺乃は、

鼻歌をやめる。


湯呑みを、そっと置く。


毛糸を、

膝から下ろす。


遺乃

「…………」


静かに、立ち上がる。


耳を澄ます。


夜の音は、ある。

囲炉裏も、外も、変わらない。


それでも。


遺乃

(……来ましたのね)


戸のほうを見る。


まだ、

何も起きていない。


――だからこそ。


遺乃は、

外に出ることを選んだ。



戸に手をかける前に、

遺乃は一度だけ、囲炉裏の火を振り返った。


強すぎず、弱すぎず。

今夜も、ちゃんと燃えている。


遺乃

「……すぐ、戻りますわ」


誰に向けたでもない、小さな声。


戸を開ける。


夜の空気が、すっと入り込んできた。


冷たい。

けれど、いつも通りだ。


白いものが、静かに降っている。


粒は細かく、

触れると、すぐに消える。


屋根に。

地面に。

袖に。


――ただ、冬の夜があるだけ。


遺乃は、何の気なしに空を見上げた。


星と星のあいだ。

夜の継ぎ目に、細い一本線が走っている。


光らない。

鳴らない。

広がりもしない。


それでも、目が逸れない。


“裂けてはいけない場所”が、

裂けている。


遺乃は一歩、外へ出た。


そのとき――

戸口の脇に掛けられていたものが、視界に入る。


分厚い、防寒着。


遺乃は、すぐには手を伸ばさなかった。


縫い目。

不揃いな糸。

少しだけ歪んだ形。


指先で、そっと触れる。

ざらり、とした感触。


その瞬間、

頭の奥に、いくつかの顔が浮かぶ。


誰か一人じゃない。

でも、確かに――この村の人たちだった。


遺乃は、

何も言わずに、防寒着を取る。


羽織る。


肩に、重さ。


遺乃

「……」


息を吸う。


体温が、

布の内側に留まるのが分かる。


遺乃

「……あたたかい……」


それだけで、十分だった。


戸を閉める。


村の中は、変わらない。


眠りに向かう気配。

家々の明かり。

遠くで、戸が閉まる音。


誰も、外を見ていない。


遺乃は歩き出す。

村の外れへ。


足音が、夜に溶ける。

冷たい粒は、相変わらず降っている。


やがて、家の明かりが途切れる。


畑。

林。

その先。


遺乃は、ふと足を緩めた。


理由はない。

音も、匂いも、風も――

何一つ、変わっていない。


それなのに。


遺乃

(……静か、ですわね)


夜は元々静かだ。

だからこそ、これはおかしい。


静けさが、深くなるのではない。

薄くなる。


あの裂け目の下で、

音も、気配も、意味も――ひとつずつ、抜け落ちていく。


遺乃は、ゆっくりと歩みを進める。


数歩。


胸の奥が、妙に軽い。


不安にならない。

警戒も、湧いてこない。


代わりに――

考えが、平らになっていく。


遺乃は、立ち止まった。


遺乃

(……これは……)


視線を上げる。


夜の向こう。

人影が、立っていた。


立ち方は、人そのもの。

姿勢も、距離も、自然だ。


――だからこそ。


遺乃は、すぐに分かった。


そこから、何も来ない。


意思がない。

感情がない。

敵意も、警戒も、目的も。


本来なら、

人がそこに立っていれば、必ず生じるはずの“揺れ”。


視線が合う前の、わずかな緊張。

近づくか、逃げるかという迷い。


それが――

最初から、存在しない。


あるのは、

「立っている」という結果だけ。


中身を伴わない行為が、

夜の中に置かれている。


遺乃は、静かに息を吐いた。


防寒着の前を、きゅっと握る。


遺乃

「……なるほど」


声は低く。

感情を含まない。


一歩、前へ。


距離が縮んでも、何も変わらない。


遺乃

「やっぱり……」


視線を、まっすぐ向ける。


遺乃

「あなたでしたのね」


夜は、答えない。



◇ 村の外縁/夜


遺乃の目の前に、

少女が立っている。


背は、遺乃よりわずかに高い。

体つきは細く、華奢だが、折れそうな弱さはない。

年齢を量れる要素が、どこにも見当たらなかった。


髪は肩より少し下まで伸び、後ろで束ねられている。

色は黒に近いが、夜の光を受ける角度によって、

毛先だけが紫がかった濃淡を帯びる。


身に着けている衣服は、

この村の誰とも噛み合わない。


膝丈より少し短いスカート。

段になった布が何層にも重なり、

本来なら動きに合わせて揺れるはずの形。


だが――

その布は、ところどころ裂けていた。


縫い直された形跡はない。

裂け目の隙間から、肌がそのまま覗いている。

それでも、本人は隠そうともしない。


足元は、ほとんど素足に近い。

履き物だった名残のようなものはあるが、

歩くための役割は、すでに失われている。


寒さも、風も、

その身体には届いていないようだった。


遺乃の視線が、

胸元へ移る。


そこで、はっきりと異変が分かる。


少女の胸が動かない。

呼吸に伴う上下がない。


すぐ近くにいても、

鼓動の気配が、

まったく感じられない。


そして――

左胸。


そこだけが、明確に欠けていた。


布は垂れ下がらず、

裂けても沈まず、

形を保ったまま、空間を避けている。


肌も、血も、影もない。

ただ、「無い」という事実だけが、そこに在る。


遺乃は、その一点を見て、

息を整えることをやめた。


そして、静かに声をかけた。


遺乃

原初虚憑うつろ……ですのね」


返事はない。


それでも、存在が“こちらを向いた”のは分かった。

視線が合った、というより――向きが揃っただけ。


遺乃は、続ける。


遺乃

「三千年も前のことですもの。

 お名前は忘れましたわ」


沈黙。


原初虚憑は、動かない。


遺乃

「けれど……」


一歩、近づく。


距離が縮んでも、

警戒も、拒絶も、生じない。


遺乃

「わたくしが、

 あなたを殺したことだけは……

 覚えていますの」


原初虚憑の身体が、

わずかに揺れた。


遺乃は、その左胸を見る。


空洞。

何もないはずの場所。


遺乃

「三千年前……」


指先で、

自分の左胸を、なぞる。


遺乃

「わたくしが……

 あなたの心臓を……」


一拍、置いて。


遺乃

「……食べましたのね」


言葉が落ちた瞬間、

空間が、わずかに歪んだ。


原初虚憑の喉が、

かすかに震える。


声には、ならない。


ただ、

何かを“吐き出そうとする動き”だけが、

確かに、発生していた。


遺乃は、それを見て、

静かに目を伏せる。


遺乃

「わたくしを、憎んでますのね」


断定だった。

問いではない。


遺乃

「……当然ですわ」


一拍。


遺乃は、微かに息を吸う。

防寒着の合わせを整える指が、

そこで止まる。


逃げる仕草ではない。

儀礼でもない。


戦いに入る所作。


遺乃

「でも……」


視線が上がる。

村のある方角を、背に置くように。


遺乃

「わたくしにも、

 守るものがありますの」


村の灯りは、この場所までは届かない。


境界の外で、

殺した存在と殺された存在が、

まだ言葉にも、殺意にも、踏み込まないまま、

静かに、向かい合っていた。



次の瞬間。


空気が、

前後を失った。


原初虚憑が、そこにいた。


来た、ではない。

距離を詰めた、でもない。


置かれた。


遺乃の正面に、

最初から存在していたかのように。


原初虚憑

「――……」


喉が、ぎしりと鳴る。

意味にならない音だけが、吐き出される。


遺乃は、

反射より先に“縁”を動かす。


拳が振るわれる前に、

「当たる」という関係が、

わずかに、横へと逸れる。


拳は空を切り――


その先で、

地面が沈んだ。


砕けたわけでも、抉れたわけでもない。

地面であった理由だけが、抜け落ちる。


土も石も、

形を保てず、ずるりと崩れる。


遺乃は、

その崩落の縁に、立っている。


原初虚憑は、

それを一切気にしない。


肘。

膝。

掌。


次々に置かれる攻撃。


遺乃は、

半歩も動かない。


ただ、縁をずらす。


当たらない。

触れない。


当たるはずだった未来が、

成立する前に、すべて逸れていく。


遺乃

(……やはり……)


(“当てる”という概念が、

 こちらには、届きませんの)


虚憑の動きは荒い。

力は過剰だ。


一撃ごとに、

空気が歪み、

地面が意味を失う。


それでも――

遺乃には、届かない。


遺乃のスカートが、

遅れて、揺れる。


蹴りの余波。

肘打ちの風圧。


それらが、布を翻すだけで、

身体には、触れない。


原初虚憑

「……■■……」


音が、低くなる。


苛立ちではない。

“届かない”という事実だけが、

その中身を削っている。


次の瞬間。


虚憑の周囲から、

何もない波が、広がった。


空殻。


地面。

空気。

光。


すべてが、

「中身」だけを失っていく。


遺乃は、

その波の縁を、踏み越える。


身体が、

一歩、現実から外れる。


だが――


足首に、

わずかな痺れ。


遺乃

「……っ」


靴底の縁が、

一部だけ、削られる。


遺乃

(……完全では、ありませんのね)


即座に、

その箇所の縁を引き戻す。


削れた意味を、

最小限に留める。


歩行は可能。

致命ではない。


虚憑は、止まらない。


足元の影が反転し、

空殻が、槍のように突き上がる。


遺乃は身を捻る。


肩。

脇腹。

太腿。


複数箇所を、

“かすめる”。


肉体は無事。

だが、存在の厚みが、

わずかに削られる。


遺乃

(……間接なら……触れる……)


そのとき。


虚憑が、

自分の上衣に手をかけた。


引き裂く。


布が、ばさりと宙を舞う。


パーカーだったものが、

遺乃の視界を一瞬、覆う。


ほんの、一拍。


その隙。


腹部に、

重い衝撃。


遺乃

「……っ!」


蹴り。


構えも、溜めもない。

ただ、

“そこに脚が来た”という結果。


遺乃の身体が、

横へ弾かれる。


地面を転がり、

膝と肩で止まる。


スカートが翻り、

夜気を切って、裾が跳ねた。


遺乃は、咳き込む。


口元に、赤。


血が、落ちた。


遺乃

(……ようやく……一撃……)


虚憑は、

自分の上半身が露わになっていることを、

一切、気に留めない。


寒さも、視線も、

そもそも評価対象にない。


原初虚憑

「……は……」


歪んだ笑み。

勝利ではない。


“当たった”という結果だけを、

模倣した表情。


遺乃は、

ゆっくりと立ち上がる。


横腹に手を当てる。


血は、

そこで止まる。


縁を操作し、

出血と意味の流出を、遮断する。


遺乃

(……この程度……)


(致命には、程遠いですわ)


視線が、虚憑を捉える。


遺乃

(……ですが……)


(次は、こちらの番ですの)


指先を重ねる。


遺乃

「……縁起断絶――」


蓮壊。


音はない。

光もない。


だが――


世界の内側から、

虚憑の“成立理由”が、断たれる。


虚憑の胴体が、

大きく、崩れ落ちた。


今度は、はっきりと。


上半身が、

途中で“終わる”。


原初虚憑

「――……!!」


初めて、

身体が、揺らぐ。


虚憑は、

片膝をついた。


地面に手をつく。


遺乃

(……やはり……)


(“空”でも……)


(断てる部分は……ありますのね)


遺乃は、

血の滲んだ口元を、

袖で軽く拭う。


呼吸は乱れていない。


虚憑は、

片膝をついたまま、こちらを見上げている。


歪んだ笑みは、

もう、保てていない。


原初災厄同士の戦いは――


ここで、

明確な“差”を刻んだ。



遺乃は、虚憑へと歩み寄っていた。


速くはない。

逃げる必要が、ないからだ。


虚憑は、すでに削られている。

存在理由は歪み、

成立は破綻し、

世界との接続は、ほとんど断ち切られている。


残っているのは、

惰性のような“形”だけ。


それでも――

まだ、立っている。


遺乃は足を止め、

ほんの一拍、虚憑を見下ろした。


遺乃

「……ここまで、ですわ」


声は低く、穏やか。

宣告でも、怒りでもない。

“確認”に近い。


遺乃

「あなたは、もう――

 世界に留まる理由を、失っていますの」


虚憑の身体が、わずかに揺れた。


返事にはならない。

だが、反応ではあった。


喉が、軋む。

空気を通す意味を失った声帯が、

意味にならない振動を吐き出す。


原初虚憑

「――……ァ……」


音は、崩れている。

怒りでも、嘲りでもない。


ただ――

“まだ在る”という事実だけが、

抵抗として滲み出る。


遺乃は、その様子を静かに見つめる。


遺乃

「無理に、言葉を探さなくてもよろしいですわ」


一歩、近づく。


遺乃

「あなたは、元より

 “意味を伝えるため”に

 残された存在ではありませんもの」


虚憑の腕が、僅かに動く。

掴もうとするでもなく、

攻撃でもない。


世界に触れる“癖”だけが、残っている。


遺乃は、そこで初めて、

視線を少しだけ伏せた。


(……終凍)


胸の奥で、名を呼ぶ。


(あなたは……一体、なぜ……)


歩みは止めない。

だが、思考は過去へ沈む。


(なぜ今になって……

 終わったはずの原初災厄を、

 この時代に呼び戻したのですの)


終凍。

無相。

そして――目の前の虚憑。


(世界は、確かに歪んでいました)


(ですが……

 “このような形”で目覚めさせる理由が……

 どうしても、分かりませんの)


虚憑の喉から、再び音が漏れる。


原初虚憑

「……――……」


今度は、わずかに強い。


言葉ではない。

だが、否定でも肯定でもない。


“問われたこと”だけは、

何かが、受け取っている。


遺乃は、もう一歩、踏み込む。


“終わらせる距離”。


遺乃

「……答えは、聞けませんわね」


それを、責める調子はない。


遺乃

「ですが――

 それでも、ここで終わりですの」


手を、上げる。

裁定のためではない。

消去のためでもない。


“戻せないものを、

これ以上歪ませない”ための動作。


そのときだった。


――空気が、僅かに揺れた。


遺乃の意識が、一瞬だけ逸れる。


視界の端。

戦いの余波に削られた空間の向こう。

本来、何も見えないはずの場所に――


“色”が、滲んだ。


結界。


遺乃が常に覆い隠しているはずの、

忘れ去られた村。


その輪郭が、

戦闘による歪みに押され、

ほんのわずか、露出している。


そのとき。


少女

「――おねえちゃん?」


場違いなほど、澄んだ声。


遺乃の背後。

息を切らし、小さな足で駆けてくる影。


あり得ない。


村の外に出られるはずがない。

遺乃自身が、その“外”を拒み続けてきた。


少女

「だ、だいじょうぶ!?」


少女の手には、手袋。


少し歪んだ編み目。

糸の色も揃っていない。

それでも――確かに、“作られたもの”。


遺乃が、見覚えのないそれ。


少女

「……これ、お姉ちゃんに」


少女は両手で、

それを差し出そうとする。


少女

「寒くなるって、言ってたから……」


遺乃の思考が、一瞬、止まる。


――編んだ。

この子が。

遺乃のために。


少女

「その人……お友達……

 じゃ、ないよね」


視線が、虚憑を一瞬だけ見る。

怯えきれない、けれど警戒している目。


――しまった。


戦いに集中しすぎた。

結界の補強が、遅れた。


村を覆っていた境界が、

虚憑との戦闘で押し歪められ、

ほんのわずか、道を作ってしまった。


少女は、

その決壊寸前の隙間を、

“渡す理由”を持って、

縫うように越えてきてしまった。


遺乃

「いけませんの!

 今ここに来ては――」


言い切る前に、

虚憑が動いた。


遺乃が振り向くよりも早く、

その身体は、少女の方へと向きを変える。


視線が、まっすぐに少女を捉える。

次の瞬間、口元が歪んだ。


裂けるような笑み。

感情をなぞっただけの形。

それでも、はっきりと分かる――悪意。


狙いは、遺乃ではない。


“遺乃が守っているもの”。


理解した、その瞬間。

遺乃の判断は、もう終わっていた。


世界のためでも、

裁定でも、

最適解でもない。


ただの――反射。


遺乃は、少女を引き寄せた。


乱暴に。

けれど、壊さぬように。


腕で包み、

胸に抱き寄せ、

視界から隠す。


そして――

背を向けた、その瞬間。


衝撃。


鈍く、重い、

成立そのものを叩き潰す一撃が――

遺乃の背中を、正面から貫いた。


ばしゃり、と。


遅れて、

血が――舞った。


背中から噴き上がった赤が、

夜気を裂き、

弧を描いて、空中に散る。


遺乃

「――っ、ぁ……!!」


声になり損ねた悲鳴。

同時に、喉の奥から血が逆流する。


がっ、と身体が跳ね、

口元から、赤が零れ落ちた。


肺が、空気を拒む。

吸おうとしても、血の匂いだけが喉を満たす。


視界が、白く弾け、

血飛沫が、視界の端で滲む。


音が、一拍遅れて戻ってくる。


遺乃

「……っ、く……!!」


掠れた声と同時に、

背中から、さらに血が噴き、

地面に――重い音を立てて落ちた。


喉から、掠れた音。

上品さも、言葉の形も、保てない。


足が崩れ、

遺乃はそのまま倒れる。


少女を抱いたまま、地面へ。


意識はまだある。


だが、身体は――

完全に遅れている。


背中から伝わる熱と痛みが、

遅れて、遅れて、

ようやく全身を満たしていく。


遺乃

「……ぁ……あ……」


呼びかけようとして、

名前を思い出そうとして、

それすら、うまくいかない。


少女

「――――――っ!!!!!!」


声にならない悲鳴。


次の瞬間、息を吸い込み――

引き裂くような絶叫。


少女

「おねえちゃあああああん!!!」


少女

「やだ!! やだぁ!!

 起きてよ!!

 ねえ!! ねえってばぁ!!」


泣き声と叫びが、混ざり合う。

言葉は壊れ、意味は追いつかない。


少女は遺乃の胸にしがみつき、

必死に揺する。


小さな手が、服を掴み、

指が震え、

離すという選択肢を、拒み続ける。


少女

「やだぁぁ!!

 おねえちゃん!!

 いなくならないで!!

 ねえ!! ねえ!!」


遺乃

「……だ……め……」


ようやく、声。


音は小さく、

掠れて、

震えている。


遺乃

「……だい……じょう……ぶ……」


嘘だと分かっている言葉。

それでも、言わずにはいられない。


遺乃

「……ここに……いますわ……」


息が、途切れ途切れになる。

視界の端が、暗む。


それでも――

腕だけは、離さない。


少女を抱く力だけが、

まだ、世界と繋がっている。


ただ、

少女の重さだけが、

確かに、胸に残っていた。



虚憑はそれを――

勝利を確信した顔で、見下ろしていた。


歪んだ口元。

感情を模しただけの、薄い笑み。


ゆっくりと、

確かめるように立ち上がる。


二人まとめて、消せる距離。


結界は破れ、

遺乃は倒れ、

守るべきものは、その腕の中にある。


抵抗の余地は――

もう、ない。


遺乃の身体の下で、

血が、どくどくと流れ続けていた。


背中から溢れた赤が、

衣服を濡らし、

白い地面へと落ちる。


冷たい表面に触れた瞬間、

赤は弾くように広がり、

吸われることもなく、

ただ、滲み、滞り、重なっていく。


新しい血が、

古い血の上に重なり、

夜の色を、

静かに、確実に塗り替えていく。


その上で。


少女は、

遺乃の胸にしがみついたまま、

長く、長く、震えていた。


顔を押しつけ、

息を吸うたびに、

喉が、ひくり、と跳ねる。


泣き声は、出ない。


代わりに、

涙だけが、終わりなく流れていた。


頬を伝い、

顎から落ち、

遺乃の服へと染み込み、

そのまま、赤と混ざる。


肩が、何度も大きく揺れ、

背中が、痙攣するように上下する。


遺乃の服を掴む指は、

白くなるほど力を込めているのに、

濡れて、滑り、

何度も、握り直すことしかできない。


指の間を、

遺乃の血が、温度を残したまま流れ落ちる。


掌に溜まり、

指先から、静かに落ちる。


少女は、

それが何なのか理解できないまま、

ただ、必死に抱きしめ続けていた。


離せば、

この温度まで失われてしまうと、

言葉になる前の感覚だけが、

身体に刻み込まれている。


遺乃の中で、

時間だけが、ゆっくりとほどけていった。


(……ここまで……ですわね)


声には、ならない。

喉は血の匂いで塞がれ、

息は、出ていくたびに細くなる。


思考だけが、まだ、ほどけない。

流れ続ける血と同じ速さで、

静かに、静かに――前へ進む。


(原初のみなさん……)


三千年前。

災厄を消すために、

互いを殺し合わせた存在たち。


正しさのため。

世界のため。

それしか選べないほどの時代の中で、

わたくしたちは――ただ、冷たく強かった。


(村のみなさん……)


名も、過去も失してなお、

それでも生きたいと願った人たち。


笑い声と、畑と、水と、火。

何も語らないのに、幸せそうで。

「消えたい」と願ったはずの人々が、

それでも“今日”を続けていた。


守りたいと、

初めて、心から思えた居場所。


そして――


(お二人……)


雛さんは、

わたくしに押さえつけられても、

声を荒らすことなく、ただ「聞いて」と言った人。


刃ではなく、

味噌の匂いと、器の触れ合う音で、

わたくしを“裁く側”から引き戻した人。


怖いのに、優しくて。

優しいからこそ、怖い人。


この子は、

遠慮も事情も知らない顔で、

当たり前のように近づいてきて、当たり前のように触れる。


ぽん。

ぽんぽん。


それだけで、

「ありがとう」を、疑いもなく口にしてしまう子。

その軽さひとつで、

三千年分の硬さが、ふっと緩んでしまう。


(……不思議ですわね)


雛さんは、理屈で。

この子は、日常で。


わたくしの中に、

断りもなく、

確かな“温度”を残していった。


(厄介で……)

(それでも、あたたかい)


胸の奥が、きし、と鳴る。

それは痛みではない。


長い時間を生きて、

凍りついていたはずの場所が、

ようやく――ほどけてしまう、その音。


(……この温度を)


(……手放したくない、なんて)


――わたくしが、

そんなことを思う日が来るなんて。


遺乃は、

ゆっくりと、目を伏せた。


その瞬間、

溜め込んでいたものが、決壊する。


涙が、溢れた。


一滴ではない。

止めようもなく、

長く、長く、流れ続ける。


視界が歪み、

白い地面も、

赤い血も、

境目が、分からなくなる。


(……ごめんなさい)


(わたくしが……)


(皆を……不幸にしてしまいましたわ)


胸の奥で、

何かが、きし、と音を立てる。


それは痛みではない。

後悔でもない。


長い時間を生きて、

ようやく辿り着いた、

静かな理解。


(……それでも……)


(……それでもどうか……)


(この先……

 皆が苦しまない未来が

 訪れますように……)


誰かに届く保証のない、

それでも、手放さずにはいられない願い。


原初虚憑は、

二人へ向けて、右手をかざした。


すると、黒紫の波が

遺乃と少女をまとめて呑み込もうとした。


次の瞬間――


???

「PROTOCOL《QILIN》(プロトコル《キリン》)」


それは、淡々としているのに、妙に耳に残る声だった。

感情を削ぎ落とした報告。

――“成功を前提にした”発声。


轟音。


夜空が、裂けた。


雷鳴。

白光が、一直線に走る。


閃光は、迷わない。


虚憑の右手――

二人を呑み込もうと掲げられた、その位置。


“起点だけ”が、正確に貫かれた。


次の瞬間、世界が爆ぜた。


爆ぜたのは肉体ではない。

そこに在ったはずの座標そのもの。


原初虚憑

「――▲――ッ……!!」


声にならない。

怒りでも、痛みでもない。


“在れなくなる”ことへの、初めての反応。


虚憑の身体が、大きく仰け反る。


右腕は――

肘から先が、存在していない。


断面はない。

欠損ですらない。


“そこがあった”という事実だけが、

消えている。


原初虚憑

「……▲……※……ァ……?」


喉が、軋む。

問いの形を取ろうとして、失敗した音。


足元が、崩れる。


虚憑は、片膝をついた。


空殻で削れていた地面が、

衝撃の余波で、一瞬だけ――元に戻る。


意味を失っていた世界が、

ほんの一拍、現実を思い出した。


少女

「――――っ!!」


悲鳴。


遺乃の胸に顔を埋めたまま、

少女の肩が大きく跳ねる。


恐怖の声。

それでも――


さっきまでの“絶望の叫び”とは、違う。


遺乃の胸を圧していた重みが、消えた。


だが――

遺乃は、起き上がれない。


背中の痛みが、まだ身体を縫い留めている。

肺を動かすたび、遅れて赤が喉に滲む。


少女が必死に抱きかかえ、

小さな腕で、遺乃の上体を支えていた。


遺乃の髪が、少女の肩に絡む。

ほどけない。


遺乃は、少女の肩越しに――

その光の出どころを、見上げる。


白い煙が、ゆっくりと晴れる。


そこに、二人。


青い髪の女。

その半歩後ろに、淡い桃色の髪の少女。


(………え?)


理解が、追いつかない。


(………そんな……)


あり得ない。

あり得るはずが、ない。


遺乃の目が、大きく見開かれる。


遺乃

「……お二人、とも……」


喉が、震える。

声は、かろうじて形になる。


遺乃

「なぜ……」


一拍。


遺乃

「……なぜですの?」


返事は、まだない。


だが――


虚憑が、後ずさった。


逃げではない。

撤退でもない。


“次に何をすればいいか分からない”という動き。


原初虚憑

「……――……」


音は、掠れている。

そこにはもう、嘲りも余裕もない。


二人は、まだ動かない。


それでも――

世界の向きが、確かに変わった。


遺乃は、少女の温度を胸に感じながら、

その光景を、瞬きも忘れて見つめていた。


――終わりではない。


「未来への可能性」が、

はっきりと現れた瞬間。


夜は、まだ裂けたまま。

雷の名残が、空に長い爪痕を残している。


その下で。


物語は、確かに――

次へ進む準備を整えた。



――前編・了

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