第24章 幾千の夜を越えて
◇ 《回想》街はずれの診療所・廊下/昼
扉の前で、
男は一度立ち止まった。
窓の外で、
白いものが、静かに落ちていた。
雪だった。
粒は細かく、
音も立てずに、
ただ、降っている。
手には、紙で包んだ果物。
外気で冷えたそれが、手のひらに重い。
診療所は町外れにあった。
大きな二階建てでもなく、石造りでもない。
白く塗られた壁はところどころ剥げ、
窓枠の金具には赤茶けた錆が浮いている。
コンコン。
ノックをする音。
「――失礼する」
声を落として言ってから、
男はノブに手をかけた。
きい、と乾いた音がして、
扉が開く。
◇ 街はずれの診療所・病室/昼
扉を開けた瞬間だった。
「おにいちゃん!」
白いシーツが跳ね上がる。
「……待て」
返事をするより早く、
少女はベッドから身を起こし――というより、
そのまま飛んだ。
「わっ!」
男の胸に、軽い衝撃。
腕に絡みつく細い手。
額が、どん、とぶつかる。
「いきなり、起き上がるな」
「だいじょうぶだって!
今日はいける日!」
「医者は何て言ってた」
「“絶対安静”!」
「それは“行ける”じゃない」
少女は気にしない。
ぎゅっと腕にしがみついたまま、
頬を押しつけて、にへっと笑う。
「だってさ。
ひさしぶりだもん」
「昨日も来たはずだが」
「昨日はノーカウント」
「都合がいいな」
男はため息をつきながら、
片手で少女の背を支え、
もう片方でベッドに戻そうとする。
「ほら、戻れ」
「やだ。いまは
“おにいちゃん時間”だから」
「時間にそんな権限はない」
少女はそう言って、
ぎゅっと力を込める。
細い腕。
思ったより、ちゃんと力がある。
「……果物、持ってきた」
男は話題を変える。
「え?」
紙に包まれたそれを、軽く持ち上げる。
赤い林檎が、ひとつ。
少女の目が、ぱっと明るくなる。
「ほんと?」
次の瞬間。
「じゃあ、今から食べよ!」
「切り替えが早いな」
「いまが“おにいちゃん時間”でしょ」
腕が緩む。
その隙に、男は少女をベッドに戻す。
今度は、乱暴じゃない。
少女は枕に収まりながら、
林檎から目を離さない。
「ねえねぇ」
少女が言う。
「なんだ」
「皮、むいて?」
両手を合わせて、
おねだりのポーズ。
「自分でやれ」
「やだやだぁ」
(手足をバタバタする)
「おにいちゃんがやるのが、
いちばんおいしいもん」
びしっと指を差す少女。
男は、ほんの一瞬だけ林檎を見る。
「……仕方ない」
「やった!」
小さく、ガッツポーズ。
男は椅子に腰を下ろし、
林檎を手に取る。
皮に刃を当て、
くるりと回す。
赤い皮が、細く、途切れずに落ちていく。
少女はじっとその手元を
見つめていた。
「おお~!
今日はとってもお上手!」
「何の評価だ」
「ほら!
途中で切れてない!」
「それが普通だ」
「昨日はちょっと切れてたよ?」
「……それは言うな」
やがて、
白く艶のある実が顔を出す。
男は林檎を切り分け、
一切れを差し出す。
少女は受け取ると、
「わっ」と小さく声を上げて、
待ちきれない様子で、かじった。
しゃく。
小気味いい音。
次の瞬間、
冷たい果汁がじゅわっと溢れ、
唇の端で、きらりと光る。
少女は一瞬、きょとんとして――
それから、ぱっと顔を明るくした。
「……おいしい!」
頬が、ふにゃっと緩む。
もう一口。
今度は少し大きめに。
「すっごくおいしいよ!
この林檎!」
嬉しそうに言い切って、
もぐもぐと頬を動かす。
「つめたくて、
あまくて……」
言葉を探して、
小さくうなずく。
「……だいすき」
男はそれを見て、
残った一切れを手に取る。
自分の分だ。
口に運ぼうとした、その瞬間――
横から、ぬっと伸びる影。
ぱくっ。
林檎は、消えた。
「……おい」
返事はない。
少女は無言のまま、
もぐもぐと頬を動かしている。
一生懸命。
とても真剣。
やがて、
ゆっくりと男の方を見た。
目はきらきら。
頬はぱんぱん。
「……」
まだ、しゃべらない。
男は小さく息を吐いて、
そのまま、少女の頭に手を伸ばす。
ぐしゃぐしゃ。
「食うなら言え」
少女はされるがまま、
それでも、もぐもぐ。
一拍。
「……おいひい」
くぐもった声。
頭を撫でられながら、
嬉しそうに目を細める。
口の端から、
果汁がきらり。
とても幸せそうだった。
◇
少女は、男の服の裾をつまんだまま、
顔を上げた。
「ねえ、聞いてもいい?」
「なんだ」
「……そのさ」
一瞬、言いよどんでから。
「職場の女の人と私……
どっちが可愛い?」
男は、すぐに答えなかった。
ほんの一瞬。
それだけ。
だが――
「あー!」
裾を引く力が、強くなる。
「今、迷ったでしょ!」
「迷ってはいない」
「じゃあなんで黙ったの!」
「考えていただけだ」
「考えるな!」
即答だった。
「早く! 今すぐ!」
「……お前だ」
少女の顔が、
ぱっと花が咲いたみたいに明るくなる。
「でしょ!」
勝ち誇ったように胸を張る。
「だって私、
おにいちゃんのこと
一生お世話できるもん!」
「……急だな」
「わたし、本気だよ?」
指を折りながら数える。
「お料理して、
洗濯して、
風邪ひいたら看病して」
「仕事で疲れて帰ってきたら、
“おかえり”って言うの」
全部立てたまま、
じっと男を見る。
「……その人、できるの?」
男は少し考えてから。
「知らん」
「ほらぁ!」
大正解と言わんばかりに頷いて、
そのまま、ぎゅっと抱きつく。
胸に顔をうずめて、
小さく付け足す。
「おにいちゃんは……
私のだもん」
一拍。
次の瞬間。
「むぐっ」
頬が、左右から引っ張られた。
「んひゃっ!?」
口が、むぎゅっと潰れる。
「まず、
病気をちゃんと治せ」
低い声。
「ふぇ……?」
「順番が逆だ」
「なにがぁ……」
「全部だ」
ぐい、と軽く引っ張ってから、
手を離す。
少女は頬をさすりながら、
一拍。
それから、にへっと笑った。
「……ずるい」
「何がだ」
「ちゃんと私のこと大事って、
言ってくれない」
「……言わん」
再び、裾をつまむ。
ふふ、と小さく笑ってから、
素直にベッドへ戻る。
「でも、治ったら
また聞くからね」
男は、視線を逸らしたまま。
「……好きにしろ」
少女は、それを聞いて、
心底満足そうに笑った。
枕に顔をうずめて、
小さく付け足す。
「約束だから!」
そのときだった。
部屋の隅から、
唐突に音が溢れ出す。
《――政府は本日、各地で確認されている異常現象に対し――》
画面が切り替わり、
歪んだ地形が一瞬映る。
《成立基盤補修計画の実行を正式に決定しました》
少女は、見ていない。
それどころか、
満足したように小さく息を吐いて、
目を閉じる。
「ね、おにいちゃん?」
「なんだ」
「ずっと……
私のおにいちゃんでいてね」
男の返事は、少し遅れた。
「……ああ」
少女は安心したように、
小さく笑う。
世界が、何を決めたかなんて、
どうでもいい、という顔で。
◇
その直後だった。
少女の指先が、ぴくりと震えた。
「……?」
男が視線を落とすより早く、
少女の身体が、ぎゅっと強張る。
「――おい」
呼びかけても、返事がない。
息が浅くなる。
胸が、不自然な速さで上下している。
「……っ」
男は即座に立ち上がった。
「誰か!」
廊下に向かって声を張る。
「医者を――!」
振り返った瞬間、
少女の手が、無意識に男の服を掴んでいた。
指先に、力がない。
それでも、離れない。
男は反射的に、その手を包み込む。
強く。
逃げないように。
「……大丈夫だ」
自分に言い聞かせるような声。
そのときだった。
足音が、複数。
白衣が視界に割り込む。
「下がってください」
短い、しかし迷いのない声。
「処置に入ります」
男は、一瞬だけ躊躇した。
だが、
別の白衣が静かに腕に触れる。
「ご家族の方は、こちらへ」
「……」
男は、もう一度だけ少女を見る。
呼吸は浅いまま。
まぶたは閉じている。
掴まれていた手が、
ゆっくりとほどけた。
男は、何も言わずに一歩退く。
白衣に囲まれ、
少女は手際よくベッドへ戻される。
カーテンが、引かれる。
世界が、そこで区切られた。
◇
処置が終わり、
病室の出入りが落ち着いた頃。
少女は、静かに眠っていた。
呼吸はまだ浅いが、
規則的だ。
男は、ベッドの脇に立ったまま、
しばらく動かなかった。
「……先生」
低い声で呼ぶ。
廊下にいた医者が、足を止めた。
「少しいいか」
医者は一瞬だけ病室を振り返り、
それから小さくうなずいた。
廊下に出る。
扉が閉まると、
中の音が、すっと遠ざかった。
男は、壁に視線を向けたまま言う。
「さっきの発作だが、
前より重くなっている」
医者は、否定しなかった。
「ええ」
短い返事。
「頻度も、間隔もだ。
……原因は何だ?」
医者は、数秒だけ黙った。
その沈黙が、
答えだった。
「原因は、分かっていません」
「……」
「現在確認されている症例は、
世界で百例前後です」
男の眉が、わずかに動く。
「発症率にすると、
およそ一億人に一人」
淡々とした口調。
「既存の病名には、
当てはまりません」
医者は、
持っていたファイルを胸に当てる。
一度、迷うように指を止めた。
「本来は――」
言いかけて、止める。
視線を上げ、
男を見る。
「ご家族、ですよね」
「ああ」
即答だった。
医者は、ゆっくりと息を吐く。
そして、
ファイルを差し出した。
「……お渡しするか、
正直、迷っていました」
男は受け取る。
紙の重さは、
思ったより軽い。
「ですが」
医者は病室の扉に目をやった。
「彼女は、もう……
長くはありません」
はっきりとした言葉だった。
「この病気の治療法は、
存在しません」
「進行を遅らせることも、
現状では難しい」
「……」
「彼女自身は、
そのことを知りません」
一拍。
「知る必要もないと、
判断しています」
医者は、そう付け加えた。
「だから――」
男の手元のファイルを見る。
「支えている方には、
知っておいていただくべきだと」
それ以上は言わなかった。
医者は一礼し、
その場を離れる。
廊下に、静けさが戻る。
男は、
ファイルを開いた。
専門用語が並ぶ。
検査数値。
観測記録。
経過所見。
そして、診断名の欄。
――非特異性世界同期症候群
(Non-Specific Synchronization Syndrome)
備考欄に、短いコードが記されていた。
《NSS-Ω(終端固定位相)/重度》
男は、そこで初めて、
ページを閉じた。
それ以上、文字は頭に入らなかった。
ただ。
「世界で百人しかいない」
その一文だけが、
胸の奥に残っていた。
病室の向こうで、
少女は、何も知らずに眠っている。
それが、
今はまだ許されている。
◇
どれくらい経ったのか。
病室には、
機械の小さな作動音と、
一定のリズムで上下する胸の動きだけがあった。
白衣の姿は、もうない。
男は、
ベッドの脇に立ったまま、
ずっと動いていなかった。
少女の手を、
両手で包むように握っている。
力を入れすぎないように、
けれど、離さないように。
やがて――
少女のまぶたが、
ぴくりと動いた。
もう一度。
ほんのわずか。
男は、
それだけで息を止める。
「……ユキ」
思わず、
名前が先に出た。
少女のまぶたが、
ゆっくりと開く。
光を確かめるみたいに、
一瞬、焦点が合わない。
それから――
男の顔を見て。
「……あ」
小さな声。
次の瞬間。
「ふふっ」
笑った。
まだ少し眠そうな声で。
「おにいちゃん……
すっごい慌ててた」
男は、
一瞬だけ目を見開いてから、
すぐに視線を逸らす。
「……そんなことはない」
「あるよ」
少女は、
握られている手を見て、
くすっと笑う。
「あんな顔、
はじめて見たし」
男は、
返事の代わりに――
一歩、近づいた。
そして、
そのまま。
ぎゅっ。
少女を、
そっと抱き寄せる。
驚かせない程度に。
でも、はっきりと。
「わっ」
少女は一瞬、
目を丸くして――
「ちょ、なに」
そう言いながらも、
抵抗はしない。
頭を、
くしゃっと撫でられる。
少し乱暴で、
でも、どこか必死な手つき。
「……っ」
男は、
小さく息を吐く。
「本当に……」
一拍。
「本当に心配した」
低い声。
少女は一瞬、
きょとんとして――
それから、
にへっと笑った。
「えへへ、そんなに?」
「そんなにだ」
即答だった。
少女は、
ちょっと得意そうに胸を張る。
「そっかぁ……
じゃあさ」
少しだけ、
甘えるみたいに言う。
「あとでまた、撫でて」
「……今やってるだろ」
「今のは心配の撫で方」
「なんだそれは」
「元気になったら、
普通のやつね」
男は、
困ったように息を吐いて――
それでも、
頭に置いた手を離さなかった。
「……分かった」
「うん」
少女は満足そうに目を細める。
「大丈夫だよ」
「……」
「ちゃんと、ここにいるから」
男は答えない。
ただ、
その言葉を確かめるみたいに、
もう一度だけ優しく頭を撫でた。
病室には、
さっきよりも少しだけ、
あたたかい空気が戻っていた。
◇
少女は、ベッドに腰を掛けたまま、
窓の外を眺めていた。
「……雪、降ってるね。
ほら、また大きいの」
男も少しだけ視線を向ける。
「静かだな」
「うん。きれい」
しばらく、二人とも外を見る。
白い粒が、
音もなく落ちていく。
少し間を置いてから、
ふっと思い出したように続ける。
「私さ、雪好きなんだよ」
「知ってる」
「ほんと?
言ったことあるっけ」
「言わなくても分かる」
少女は少し驚いた顔をしてから、
くすっと笑った。
「ほら、名前も"ユキ"でしょ?」
「お父さんとお母さんがね、
つけてくれたんだって」
「寒いのにちゃんと降るし、
触ったらすぐ溶けちゃうけど」
少しだけ、笑う。
「それでも、
きれいだからって」
一拍。
「……はかないところも、
好きなんだってさ」
男の指が、
わずかに動く。
「……いい名前だと思う」
「でしょ」
少し照れたように、
視線を逸らす。
「……それに」
「おにいちゃんが、
名前で呼んでくれるのも」
一拍。
「ちょっと嬉しい」
男は、
すぐには答えなかった。
少女は、
それでも気にせず、
また窓の外を見る。
「だからさ」
「私ね、
この世界のこと
けっこう好きだよ」
男の指が、わずかに強張る。
「寒いし、
痛いし、
怖いことも多いけどさ」
「それでもさ、
ちゃんと生きてるって
感じがするんだ」
一拍。
「でもね」
視線は、まだ外。
「最近、なんとなく分かるんだ」
「この世界……
そろそろ、なくなるかもって」
男は何も言わない。
少女は、ようやく振り返る。
「もしさ」
一拍。
「世界が、
全部止まったら」
男の指が、ぴくりと動く。
「雪も降らなくなって」
「音も時間も、
そのままになって」
少し考えて。
「痛いのも、怖いのも、
これ以上、増えなくなったら」
一拍。
「……それって、
幸せなのかな」
男は答えない。
少女は、横目で男を見る。
「ね、どう思う?」
しばらくして。
「……分からん」
少女は、また小さく笑った。
それでも、どこか満足そうに。
「じゃあさ」
もう一度、
窓の外を見る。
「もし、全てが止まったとしても――」
ほんの少しだけ、
声を落として。
「おにいちゃんだけは」
「ずっと、
私のおにいちゃんで……
いてくれる?」
「……当たり前だ」
短く、確かに。
その瞬間。
少女の目が、
ぱっと見開かれた。
「……ほんと?」
思わず、
聞き返すみたいに。
男は、答えない。
それで十分だという顔をしている。
少女は一拍、
それから――
「そっか」
声が、少しだけ弾む。
「えへへ」
抑えきれないみたいに、
小さく笑った。
「それならさ」
嬉しそうに、
もう一度だけ外を見る。
「雪が降らなくなっても」
一拍。
「……大丈夫かも」
今度は、
確信みたいな声だった。
ゆっくりと、
満足そうに目を閉じる。
窓の外では、
雪が、変わらず静かに降っている。
その言葉が、
名前と世界をつなぐ
最後の会話だったことを――
この時、
誰も、まだ知らなかった。
◇ (半年後)診療所付近の商店街/夕方
あれから、半年が過ぎていた。
少女の様子は、
一見すると変わらなかった。
笑って、甘えて、
他愛ない話をして、
昨日と同じ顔で過ごしている。
けれど――
何の前触れもなく、身体が強張る。
呼吸が乱れ、
指先が冷え、
胸を押さえたまま、言葉を失う。
原因は、分からないまま。
診療所は「経過観察」という言葉を、
変わらぬ調子で繰り返すだけだった。
その半年で――
世界の方は、確実に変わっていた。
街のあちこちで、
歪みが起きているという噂が広がる。
壊れたまま戻らない建物。
途中で止まったまま、流れなくなった川。
理由の分からない事故と、
説明のつかない失踪。
ニュースは、
いつの間にか数字を並べるようになっていた。
《――今年度の出生数は、前年同月比で三割減》
《死亡率は、特定地域において統計誤差を超過》
《原因不明の疾患による長期入院患者が増加しています》
淡々とした声。
感情を排した言い回し。
まるで、
「もう慣れてください」と言われているみたいだった。
それでも――
人は、生活をやめなかった。
診療所の近くの商店街では、
夕方になると、明かりが灯る。
壊れたシャッターの前で、
若い連中がバンド演奏をしている。
音は少し外れているし、
アンプも古い。
それでも、
誰かが足を止め、
誰かが手を叩く。
「こういう時こそ、だろ」
誰かが、
無理に明るい声で笑う。
店先には、
「今日も営業中」の紙が貼られている。
意味があるのかは、
もう誰にも分からない。
男は、
その商店街を抜けて歩いていた。
仕事帰りではない。
ここ数ヶ月、
彼は毎日、同じような場所を回っている。
大学の図書館。
研究棟の資料室。
閉架に近い、古い論文棚。
「非特異性世界同期症候群」
その文字を、
何度も何度も追いかけた。
医学書。
物理学の論文。
因果論、認識論、
世界構造に関する仮説文書。
どれも、
決定的な答えは書いていない。
「前例が少なすぎる」
「統計が成立しない」
「観測不能」
そんな言葉ばかりが並ぶ。
それでも、
男はページをめくり続けた。
――世界で百人。
その数字が、
頭から離れなかった。
夕方、
大学図書館を出ると、
空が妙に赤い。
雲なのか、
歪みなのか、
判別がつかない色。
男は、
紙袋を手にしている。
中には、
少女が好きだった菓子。
もう味が変わったかもしれない。
それでも、
買わずにはいられなかった。
商店街の端にある店のテレビが、
また音を立てる。
《――成立基盤補修計画は、本日をもってフェーズ2へ移行――》
淡々としたアナウンサーの声。
《世界各地で確認されている崩壊兆候に対し、
より強力な介入が行われる予定です》
誰かが舌打ちをする。
誰かが、聞こえないふりをする。
男は、画面を見ない。
袋を握り直し、
歩き出す。
診療所は、
もうすぐそこだ。
世界がどうなろうと、
今日も彼女のところへ行く。
それだけは、
止められなかった。
◇ 街はずれの診療所・入口/夕方
建物の前で、
男は、ふと足を止めた。
診療所は、
いつもと同じ場所にある。
白い壁。
低い屋根。
見慣れた窓。
――なのに。
入口に、
見慣れない色があった。
黄色と黒。
不自然に目立つ、
帯状のテープ。
近づいて、
ようやく意味が分かる。
封鎖。
「……」
一瞬、
理解が追いつかない。
工事か。
事故か。
一時的なものか。
理由を探そうとして、
男は周囲を見渡す。
人の気配が、ない。
受付の灯りも消えている。
駐車スペースは空いたまま。
胸の奥に、
小さな違和感が落ちる。
それは、
ゆっくりと沈んでいって――
嫌な予感に変わった。
「……」
男は、
正面入口から目を逸らす。
無意識に、
一歩、横へ。
正面を避けるように、
建物の裏へ回った。
そこには、
古い勝手口がある。
使われていないはずの、
職員用の扉。
近づくと、
すぐに異変に気づく。
鍵が壊されていた。
乱暴にこじ開けられた跡。
古い木材が、
ささくれ立っている。
胸がわずかに速く鳴る。
男は一度だけ、
深く息を吸った。
――考えるのをやめる。
扉に手をかけ、
そのまま押す。
きい、と
嫌な音がして。
男は中へ入った。
◇
廊下は、
ひどく荒れていた。
書類が散乱し、
棚は倒れ、
床には、いくつもの足跡。
誰かが、
急いで歩き回った痕。
医療器具が、
使われたまま放り出されている。
男は、
無言で歩を速めた。
視線は、
一直線に奥。
二階。
いつもの廊下。
いつもの角。
――いつもの、はずの部屋。
扉の前で、
男は立ち止まる。
一度、
息を吸う。
胸の奥が、
妙に冷たい。
ノブに手をかける。
押す。
扉は、
抵抗もなく開いた。
◇
中は、
異様なほど静かだった。
まず、
布団が目に入る。
――剥がされている。
整えられていたはずの白が、
無残に乱れている。
花瓶は倒れ、
水は乾き、
花は、枯れたまま床に散っていた。
次に、
視線が探す。
ベッド。
窓際。
椅子の影。
――いない。
少女の姿が、
どこにもない。
「……」
男は、
部屋の中央で止まった。
動けなかった。
右手には、
まだ紙袋がある。
菓子屋の袋。
ぎゅっと握られたまま、
紙が、かさりと小さな音を立てた。
その音だけが、
やけに大きく響く。
「……ユキ?」
確かめるような声。
呼びかけた、というより――
否定してほしかった。
返事は、ない。
空気が、
ゆっくりと重くなる。
理解が、
遅れて追いついてくる。
ここにいたはずの少女が。
笑っていたはずの妹が。
――もう、いない。
男の喉が、
ぎり、と鳴った。
息を吸おうとして、
うまく吸えない。
胸の奥が、
ぐしゃりと潰れる。
「……っ」
声にならない音。
それでも、
まだ、信じきれなくて。
次の瞬間。
「ユキィィィィィィ――ッ!!」
名を呼ぶ声が、
部屋を引き裂いた。
壁にぶつかり、
天井に跳ね返り、
それでも足りずに、
床へ落ちる。
返ってくるのは、
自分の声だけだった。
世界は、
何事もなかったように続いている。
夕方は夜へ向かい、
雪は降り、
人は歩き――
どこかで、
テレビの音が流れていた。
《――政府は、特定条件下で発症する新規疾患について、
警戒レベルの引き上げを決定しました――》
淡々とした声。
感情のない言葉。
――そこから。
少女だけが、
きれいに、
世界から切り離されていた。
◇ 《回想おわり》 ???/?
――どすん。
腹に、重たい衝撃が走った。
ヴォイド
「――っ」
息が詰まる。
同時に、耳障りなほど元気な声。
スレイ
「わあああああっ!?」
白羽
「ス、スレイさん!?」
雛
「ちょっと……!」
シオン
「……あ」
ヴォイドの腹の上に、
新しい服を着たスレイが、
きれいに突撃していた。
見事なまでの直撃。
全員、絶句。
数秒の沈黙。
ヴォイドは、
ゆっくりと目を開いた。
腹に、確かな違和感。
……夢の余韻が、まだ残っている。
無言のまま、上体を起こす。
その動きだけで、
場の空気が一段、冷える。
スレイは冷や汗をだらだら流しながら、
ぎこちなく笑顔を作った。
スレイ
「えーっと……」
スレイ
「ゆ、夢は……見れました?」
一拍。
ヴォイドは、腹を押さえたまま、
淡々と答えた。
ヴォイド
「おかげさまでな」
次の瞬間。
――どかっ!!
鈍い音。
スレイの身体が、
景気よく吹き飛ぶ。
スレイ
「ぎゃああああああ!!」
壁に叩きつけられ、
床を転がり、
最終的に、ぴくりと止まる。
静寂。
白羽が、恐る恐る。
白羽
「す、スレイさーん
生きてます?」
雛は腕を組んで即答。
雛
「因果応報ね」
シオンは目を輝かせる。
シオン
「すごい飛んだ」
ヴォイドは何事もなかったように立ち上がり、
腹を軽く叩いた。
ヴォイド
「次は――
果てまで飛ばす」
低く、短く。
床に転がったままのスレイが、
親指を立てる。
スレイ
「わたし、生きてる……!」
スレイ
「生きてるって素晴らしい!!」
誰も否定しなかった。
夢は、完全に途切れていた。
だが――
胸の奥に残る冷たさだけは、
まだ、消えていなかった。
◇ キャンプ・料理場/夜
焚き火のそばで、
鍋がことことと自己主張している。
湯気。
包丁の音。
「生活してます感」が、
必要以上に漂っていた。
スレイは腕まくりをして、胸を張る。
スレイ
「よーし!
本日のメインは私が担当しまーす!」
鍋を、
なぜか気合いだけで混ぜる。
スレイ
「久々の“ちゃんとしたごはん”だよ!
リクエスト、どうぞ!」
雛
「その前振りが、
もう事故の匂いしかしないのだけれど」
スレイ
「はい一人目、雛!
何食べたい?」
雛は少し考え、
必要最低限の感情で答える。
雛
「……栄養が取れて、
保存が利いて、
腹持ちが良いもの」
スレイ
「了解!
“だいたい全部”ね!」
雛
「一つも理解していないわね」
次。
スレイは勢いよく振り返り、
白羽を指差す。
スレイ
「白羽ちゃんは?」
白羽
「え、えっと……」
少し考え、
勇気を振り絞って。
白羽
「……白くて、
ふわっとしてて、
優しい味のものがいいです……」
スレイ
「なるほど!」
なぜか確信の表情。
スレイ
「つまり、
見た目がかわいいやつ!」
白羽
「そ、そういう意味では……」
雛
「料理の定義が崩壊しているわ」
次。
スレイは屈んで、
シオンと視線を合わせる。
スレイ
「シオンは?」
シオン
「……もふもふ」
スレイ
「食・べ・物!」
シオン
「……あったかい、もふもふ」
スレイ
「……煮込めば、
もふもふになるかな……」
雛
「ならないと思うわ」
最後。
スレイは一拍おいて、
ヴォイドを見る。
スレイ
「で、ヴォイドさんは?」
ヴォイドは少し離れた場所で、
焚き火と鍋を同時に見ていた。
いつもなら、
「任せる」で終わる。
だが。
ヴォイド
「……止まってほしくないもの」
一瞬。
鍋のことこという音だけが、
やけに大きく響いた。
スレイ
「……え?」
白羽
「と、止まってほしくない……?」
雛
「料理の条件としては、
相変わらず意味不明ね」
シオン
「……冷めない?」
ヴォイド
「……それでいい」
短く、それだけ。
スレイは数秒、
鍋とヴォイドを見比べてから――
スレイ
「よし、分かった!」
雛
「その“分かった”ほど
信用できない言葉はないわ」
スレイ
「つまり!
冷めない!
止まらない!
考えなくていい!」
雛
「三つ目が一番問題よ」
スレイは勢いよく、
鍋の蓋を開ける。
湯気が、どばっと噴き出す。
スレイ
「完成!
名付けて――」
一拍。
スレイ
「“だいたい希望全部入り・
終わらない鍋”!」
雛
「縁起が悪いわね」
白羽
「で、でも……
いい匂いは、します……」
シオン
「……あったかい」
鍋は、
まだ、ことこと言っていた。
器が配られ、
全員が座る。
その中で、
白羽だけが、ちらりとヴォイドを見る。
……やっぱり、少しだけ違う。
白羽は、一瞬だけ迷ってから、
そっと声をかけた。
白羽
「……ヴォイドさん」
ヴォイド
「なんだ」
白羽は、指先をきゅっと握る。
白羽
「その……」
白羽
「たぶん、ヴォイドさんのことだから」
白羽
「私たちとは、
ぜんぜん違う次元で、
いろんなことを考えているんだと思います」
鍋のことこという音だけが、
間を埋める。
白羽
「でも……」
少しだけ、声が小さくなる。
白羽
「もし、悩んだり……」
白羽
「疲れたりしたら……」
白羽
「その……」
勇気を振り絞るみたいに、
顔を上げる。
白羽
「私たちを、
頼ってください」
一息。
白羽
「いつも、助けられてますので……」
白羽
「少しでも、力になれたら……
嬉しいです」
言い終えた瞬間、
白羽ははっとして、慌てて首を振る。
白羽
「い、いえっ!
すみません……!」
白羽
「なんだか、
えらそうなこと言ってしまって……」
白羽
「今のは、忘れてください……!」
一気に顔が赤くなる。
そのとき。
ヴォイドは、何も言わずに一歩近づき――
白羽の頭に、そっと手を置いた。
なでる、というより、
確かめるような動き。
白羽
「……っ」
驚いて、
それから。
白羽は、にぱっと笑った。
白羽
「……えへへ」
その様子を見て。
スレイは、鍋をかき混ぜながら、にやっとする。
スレイ
「はいはい、ごちそうさまですー」
雛は小さく息を吐いて、目を伏せる。
雛
「……いい光景ね」
シオンは、じっと見つめてから。
シオン
「……あったかい」
ヴォイドは、白羽の頭から手を離す。
一拍。
ヴォイド
「……覚えておく」
短く、それだけ。
鍋の中で、
ちょうどいい音が鳴った。
スレイ
「よーし、できた!」
スレイ
「今日は、ちゃんとみんなで食べよ!」
食卓に、料理が並ぶ。
ほんの少しだけ、
空気が柔らいでいた。
それでも――
ヴォイドの胸の奥に残る冷たさは、
まだ、完全には消えていなかった。
◇
食事が終わり、
器が一つずつ重ねられていく。
焚き火は小さくなり、
赤い光が、白に覆われた大地に滲んでいた。
地面も、木々も、足元も――
何一つ変わらない。
月明かりと、
空から降り積もった白い粒子が反射して、
世界は静かすぎるほどに光っていた。
スレイ
「いや~
食べた食べた」
白羽
「お鍋、洗いますね」
雛
「火の始末は私がするわ」
シオン
「……おさら、つめたい」
水桶に器を沈める。
水面は穏やかで、音も立たない。
その静けさが、
唐突に――破られた。
白羽は、理由もなく顔を上げた。
白羽
「……あれ?」
雛
「どうしたの?」
白羽
「あそこ……
なんか、おかしくないですか?」
指先が、自然と伸びる。
指差す先。
遠く、はるか上空。
星と星のあいだ。
夜空に――
一本の亀裂が走っていた。
稲妻ではない。
光も、音もない。
ただ、
空間そのものが、
裂けてはいけない場所から、
静かに割れている。
広がらない。
閉じもしない。
まるで、
“ずっと縫い止められていた傷”が、
思い出したように口を開いたかのように。
スレイの冗談めいた調子が、消える。
スレイ
「空ってさ……
あんなふうに、割れるもんだっけ?」
シオン
「みたことない」
短い一言。
それでも、視線は逸らさない。
雛は、無言のまま空を見上げていた。
眉一つ動かさず、じっと。
一拍。
雛
「――遺乃の村の方角ね」
確認ではなかった。
淡々とした、断定。
白羽
「え、遺乃……さん?」
一歩、前に出かけてしまう。
白羽
「だったら、助けに行ったほうが……」
声に、焦りが滲む。
雛は、空から目を離さない。
雛
「……大丈夫よ」
慰めでも、希望でもない声。
雛
「遺乃は、強いもの」
一拍。
雛
「それに――」
そこで、ようやく振り返る。
雛
「最終手段も、ある」
白羽
「……最終、手段?」
言葉の意味を測りかねて、声が揺れる。
雛は答えない。
それ以上、説明する気もない。
焚き火が、ぱちりと音を立てた。
そのときだった。
ヴォイドが、
焚き火の前で足を止める。
視線は、
夜空に刻まれた亀裂から離れない。
ヴォイド
「……顕現した」
低い声だった。
焚き火の音に紛れて、
それだけが、はっきりと落ちる。
一瞬、
誰も意味をつかめない。
スレイ
「……は?」
白羽
「え……なにが……?」
ヴォイド
「永い間、
封じられていたものだ」
淡々とした口調。
だが、
その一言で――
雛の表情が変わった。
雛
「“止められていた”……?」
ヴォイド
「……ああ」
短く、肯定。
そして、
余計な間を挟まずに続ける。
ヴォイド
「原初災厄――
プロト・カタストロフだ」
一拍。
空気が、
目に見えるほど冷えた。
スレイ
「は!? 嘘でしょ!」
反射的な声。
スレイ
「原初災厄って……
生きてるのは――」
指を折りながら、
必死に数える。
スレイ
「あんたと、
無相と、
終凍」
スレイ
「その三人だけのはずでしょ!?」
スレイ
「他は、とっくの昔に……
死んだって……!」
白羽
「……そ、そうですよね……?」
白羽は、
自分に言い聞かせるように続ける。
白羽
「だって……
三千年前に……」
ヴォイド
「違う」
きっぱりと。
ヴォイド
「死んではいなかった」
言い切り。
ヴォイド
「彼女らは生きていた。
ただ――」
一拍。
ヴォイド
「生と死の狭間で、
時間ごと凍結されていた」
沈黙。
その言葉が、
ゆっくりと全員に沈んでいく。
雛
「……そんな……」
雛
「そんな話……
成立するはずが……」
ヴォイド
「している」
即断。
ヴォイド
「それを可能にする存在に、
心当たりがある」
一拍。
焚き火が、
ぱち、と弾けた。
ヴォイド
「――終凍だ」
誰も、
すぐには言葉を出せない。
焚き火が、
もう一度、小さく音を立てた。
白羽
「……でも……」
白羽
「まだ……
何も起きてません……」
ヴォイド
「今はな」
ヴォイド
「だが――
“起きてから”では、遅い」
沈黙。
スレイは、
歪んだ空を見上げたまま、
肩をすくめた。
スレイ
「……まあ、でもさ」
全員の視線が集まる。
スレイ
「“原初災厄”って聞くと、
そりゃヤバそうだけど」
スレイ
「意外と――
大したことないのかもよ?」
白羽
「え……?」
スレイは、にやっと笑って、
何でもないことのように雛を見る。
スレイ
「だってさ」
スレイ
「このちんちくりんも、
“原初”の一人なんだし?」
一瞬。
雛は、何も言わない。
本当に、
一言も。
ただ――
無言で、肘。
ぐい。
スレイ
「いっ……!?」
スレイ
「ちょ、雛!?」
スレイ
「それ、地味に痛……くすぐったいんだけど!?」
雛は、
視線を空から外さず、
淡々と。
雛
「……余計なこと言わない」
もう一度。
軽く――
だが確実に。
ぐい。
スレイ
「ごめんごめんごめん!」
スレイ
「冗談! 今のは完全に冗談!」
スレイ
「ちんちくりんとか言ってない!
心の中でも言ってない!」
白羽が、
思わず小さく吹き出す。
白羽
「……ふふっ
仲いいですね」
シオン
「なかよし?」
雛は、
ふっと短く息を吐く。
雛
「……まったく」
スレイは頭をかきながら、
苦笑い。
スレイ
「いやー……ほら」
スレイ
「怖いときほど、
笑っとかないとさ」
その言葉に、
白羽が小さくうなずいた。
白羽
「……はい」
白羽
「私も……
正直、怖いですけど」
白羽
「みなさんと一緒なら、
大丈夫な気がします」
シオン
「シオンも、
ぱぱといっしょなら
がんばれる」
雛は、
一歩だけ前に出る。
雛
「冗談は、ここまでね」
雛
「相手が何であれ、
やることは同じ」
スレイは、
ぐっと拳を握る。
スレイ
「……だね」
スレイ
「やるしか、ないか」
白羽
「……はい」
シオン
「……いく」
スレイが、
勢いよく拳を突き出す。
スレイ
「よし!」
白羽が、
一瞬深呼吸してから、
そっと重ねる。
白羽
「……がんばります」
雛は、静かに。
雛
「確実に、仕留める」
シオンは、小さく。
シオン
「まけない」
最後に。
ヴォイドが、
その上に拳を置いた。
凍てついた地面に沈む、
重く、逃げ場のない重さ。
まるで、この世界そのものを押さえつけるみたいに。
そして――
ゆっくりと、目を閉じる。
柄にもなく、
ほんのわずかに。
ほんのわずかにだけ、笑った。
それは強者の余裕でも、
誰かを安心させるための慰めでもない。
「ここまで来た」と、
誰に言うでもなく受け入れた顔だった。
白羽は何も言わなかった。
言葉にした瞬間、
何かが決定的に壊れてしまう気がしたから。
焚き火だけが、
ぱち、と鳴る。
まるで取り残された命みたいに、
揺れて、
揺れて――
亀裂の入った空が、
そのすべてを見下ろしていた。
もう、後戻りはできないと。
静かに、冷たく、
知っている顔で。
◇
焚き火が、ぱち、と鳴る。
誰も、その夜の終わりを疑わなかった。
疑えるほど、無垢ではなかった。
ヴォイド
(ユキ……)
止められていた時間。
閉じ込められていた存在。
凍りついた記憶。
そして――
再び、動き出した何か。
それは希望か。
それとも、もっと残酷なものか。
答えは、まだない。
ただ。
終凍が眠る場所だけが、
この世界の“さらに奥”で、
誰にも触れられず、
静かに待ち続けていた。
呼ばれるのを。
◇
翌朝。
焚き火は、灰になっていた。
白い大地の上に、
黒い円だけが残っている。
まるで、夜が焼け落ちた跡のように。
空は昨夜と変わらず、
ひび割れたまま。
世界は、何も知らない顔で続いている。
スレイが最初に気づいた。
スレイ
「あれ?」
テントの影。
焚き火の跡。
整然と置かれた荷。
そして、
そこにあるはずの
体温だけがない。
スレイ
「……ヴォイドさんは?」
返事はない。
風が、灰をさらう。
ヴォイドの姿はなかった。
ただ――
一通の手紙だけが、
まるで最初からそこにあったみたいに、
静かに置かれていた。
夜の続きを、
託すように。




