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第22章 無相蓮華空相・顕現(後編)

◇ 遺乃の屋敷(ボロ家)前/夕方


雛は、家の前で一度だけ足を止めた。


夕方の光は、すでに傾いている。

村の中は静かで、人の気配がない。


――いない。


あの少女の気配も、

昼に感じていた生活のざわめきも。


あるのは、

家そのものが持つ、

薄く張り詰めた静けさだけだった。


(ここにいるのは……

 遺乃だけ)


それを確認した瞬間、

背中を伝って、汗が一筋落ちる。


雛は小さく息を吐き、戸に手をかけた。


ぎぃ、と軋む音。


中に入る。



◇ 遺乃の屋敷(ボロ家)/夕方


屋敷の中は、相変わらずだ。


布の天井。

歪んだ床。

補修だらけの壁。


それでも――

昼に来たときとは、空気が違う。


雛は、靴音を殺して進む。

居間へ。


そこに、いた。


遺乃が、背を向けて座っている。


小さな背中。

白磁色と灰青を重ねたワンピース。

膝の上には、布と裁縫箱。


針が、静かに動いている。


ちく。

ちく。


雛は、一瞬だけ立ち止まった。


(……やっぱり、いる)


逃げない。

戻らない。


雛は、一歩踏み出す。


そのとき。


遺乃は、

こちらを振り返らないまま言った。


遺乃

「あなた……」


遺乃

「わたくしの村で、

 一体何をしたいのですの?」


声音は、柔らかい。

いつもの、丁寧な口調。


だが――

村人に向けるそれとは、

決定的に違う。


雛の喉が、わずかに鳴る。


「……話をしに来た」


一拍。


「聞いてほしい――」


その言葉が、

最後まで空気を震わせる前に。


――消えた。


遺乃の姿が。


「――っ」


次の瞬間。


背後。


とんでもない圧。


腕を取られ、

関節を逆に折り曲げられ、

視界が天地逆転する。


どんっ。


顔面から床。


衝撃。


鼻の奥が熱くなり、

すぐに、生温かいものが垂れる。


「……っ」


鼻血。


息を吸おうとした、その瞬間。


背中に、膝。


逃げるための動作が成立する前に、

体重が、正確に落とされた。


腕は完全に極められ、

関節の可動域そのものを、否定される。


抵抗の余地は、ない。


(……重い)


重さ、というより――

逃げるという選択肢が、最初から用意されていない感覚。


技巧でも、速度でもない。

雛がどんな判断をしても、

その“先”をすでに踏み潰している力。


世界の側が、

遺乃の立ち位置を正解としている。


遺乃は、雛の耳元へ顔を寄せた。


吐息が、触れる距離。


声は低く、

丁寧で、柔らかいまま。


遺乃

「……村の人は、もういませんわ」


囁き。


確認でも、警告でもない。

ただの現状説明。


遺乃

「ですから――」


背中に乗る膝が、

ほんのわずか、沈む。


遺乃

「あなたを、“いつでも”殺せますの」


その言葉に、感情はない。


脅しではなく、

優位を誇るでもなく、

“事実を教えている”だけの口調。


雛の視界が、じわりと暗む。


酸素が足りないのではない。

理解が、先に追いついたからだ。


それでも――

雛は、声を荒らげなかった。


「……それでも」


血の混じった息を、静かに整える。


「私の話を……聞いてほしい」


一拍。


遺乃の体重が、完全には抜けないまま、

“止まった”。


殺せる姿勢のまま、

殺さない選択を取った、という停止。


遺乃

「……聞くだけ、ですわよ?」


声は、まだ耳元。


遺乃

「あなたとわたくしの力の差――

 まだ、埋まっていません」


指先が、わずかに力を込める。

思い出させるように。


遺乃

「戦えば、必ず」


遺乃

「あなたは、死にますわ」


淡々と。


遺乃

「それを、忘れないでくださいまし」


床に押さえつけられたまま、

雛は、ゆっくりと頷いた。


理解しているからこその動き。


「……それで、いい」


声に、迷いはない。


この場で必要なのは、

勝つことでも、抗うことでもない。


“聞かせる時間を、もぎ取れた”

それだけで、十分だった。


――ここから先は、言葉の戦いだ。



まず、息を整えて。

まずは――村の話から。


「ここ……良い村ね」


遺乃の膝が、ほんの少しだけ止まる。


――笑い声があって

――畑があって

――水があって

――火がある


「皆、過去の話をしないのに……

 幸せそうだった」


ここまで言って、

雛は一拍置く。


遺乃の声が、

耳元で静かに尖る。


遺乃

「……言いたいことは、

 それだけですの?」


「違う」


即答。


「ここからが本題」


言葉を、さらに慎重に選ぶ。

ここで“責め”に聞こえたら終わりだ。


「村には、白い花が咲いてた」


遺乃

「……」


「あなた、前に私に言ったわよね。

 世界から消した人間の痕跡――

 縁を剥がされた存在の残滓だって」


「それが、この村のあちこちに咲いてた」


一拍。


「それと、村の人たち」


「名前を持たない。

 過去を知らない。

 それを、不自然だとも思ってない」


遺乃は答えない。

だが、圧は変わらない。


「だから、最初は思った」


「この村の人たちは――

 あなたが消した人たちなんだって」


少し、間を置く。


「……でも、それだとおかしい」


声が、わずかに低くなる。


「畑を耕して、

 喧嘩して、

 子どもを叱って」


「みんな、“消された人”の顔じゃない――

 幸せそうだった」


その瞬間――

遺乃の声が、落ちてきた。


遺乃

「……それが、何か?」


囁くように。


遺乃

「消す価値もない者たち。

 ですが、完全に消すのも少し味気ない」


遺乃

「だから、置いてあげているだけですわ」


淡々とした口調。

裁定者の声。


雛は、即座に返さなかった。


それから、静かに言った。


「……嘘」


遺乃の気配が、

わずかに強まる。


「あなたは、気まぐれで人を消してない。

 ましてや、情けでもない」


「全部、向こうから頼まれたのよね?」


――私を、“消してほしい”って


遺乃の沈黙が、重くなる。


「あなたは、それを――

 引き受けただけ」


「それが、あなたのやり方」


遺乃

「何を根拠にそんな――」


ここで、

雛はようやく手を動かした。


ドレスの内側。

畳まれた一枚の紙。


遺乃

「……そ、それは!」


「ごめんなさい。

 あなたの家で散らばった紙、

 一枚だけ預かっておいたの」


「これは、顕現記録。

 あなたが、引き受けた人の一覧」


紙を床に滑らせる。

カサ、と軽い音。


遺乃

「……」


沈黙。


一拍。


――遺乃の膝が、ほんのわずかに緩む。


優しさじゃない。

反射だ。


極めたままの腕が、一瞬だけ迷い、

遺乃の視線が紙へ落ちる。


遺乃

「……それは」


声が、かすかに擦れる。



――"本人の希望による"



「あなたは、消したんじゃなく

 受け取った」


遺乃

「……黙りなさい」


それでも、雛は続ける。


「だから、この村は」


「……逃げ場のない人たちを、

 “それでも生かす”ための場所」


「あなた自身が、

 全部を背負うために」


雛は、床に伏せたまま、

視線だけで前を見た。


「それが、あなたの“消し方”」


空気が、張りつめる。


遺乃が、

何を言うか。


何を否定するか。


――それが、

次の一手になる。



一拍。


遺乃の体重が、わずかに引いた。


完全には離れない。

極めた腕も解かれない。

けれど――

“今すぐ殺す”という圧だけが、消える。


遺乃

「……勘違いなさらないで」


囁きは、相変わらず耳元。


遺乃

「あなたの命は、

 今もわたくしが握ってますの」


雛の腕に、軽く力が戻る。

逃がさないという意思表示。


遺乃

「それを――

 ゆめゆめお忘れなきよう」


そう言ってから。


遺乃は、ようやく雛から離れた。


雛の体が、床に残される。

押さえつけられていた分だけ、

世界が一瞬、軽くなる。


雛は、仰向けのまま息を吸った。


……痛い。


鼻の奥が、じんと熱い。


遺乃は何事もなかったように立ち上がり、

棚の方へ歩く。


布を一枚取る。

使い古しだが、清潔なもの。


それを、雛のそばへ落とした。


遺乃

「……それで、お拭きなさいな」


雛は一瞬だけ迷ってから、

その布を受け取る。


鼻を押さえる。


じわ、と赤が滲む。


遺乃はもうこちらを見ていない。

そのまま台所へ向かい、

湯を沸かす音がする。


雛は、床に座り直し、

背中を壁に預けた。


布越しに、息を吐く。


ふぅ……


(……ギリギリ)


心の中で、そう呟く。


(ほんとに、ギリギリつなぎとめたわね)


湯の沸く音。

器が触れ合う、乾いた音。


そのどれもが、

さっきまでの殺意と地続きだ。


雛は、鼻を押さえたまま、

目を閉じた。


休憩じゃない。

猶予だ。



◇ 遺乃の屋敷(ボロ家)台所/夕方


湯の音。

焚き火じゃない、家の火の音。


その間に――


ぐぅ。


小さいのに、やけに堂々とした音。


一瞬、遺乃の背中が止まる。

止まっただけで、振り返らない。


「……遺乃?」


遺乃

「……」


間。

次の瞬間。


遺乃(口で)

「ぐぅ」


「いや、無理ありすぎ」


「腹の音を口で上書きするの、初めて見た」


遺乃

「……今すぐに、忘れなさいな」


「無理」


遺乃

「……では、記憶ごと消しますわよ?」


「今、忘れた」


遺乃

「……そうですの」


ほんの一瞬だけ、悔しそうな沈黙。


「……食事は?」


遺乃

「あなたに言う必要ありまして?」


いつもの調子で切る。


ぐぅ。


でも、腹は正直だ。

遺乃は下を向いている。


雛は黙って立ち上がった。

鼻を押さえたまま、台所へ。


遺乃

「……何をする気ですの」


「台所、借りる」


遺乃

「却下ですわ」


「却下されても、やる」


遺乃

「……」


雛は棚を開けた。


豆。

干し野菜。

そして――小さな壺。


味噌。


雛がそれに指を伸ばした瞬間。


遺乃

「それは、ダメですの」


声が、少しだけ低い。

怒鳴ってないのに、刃。


雛は手を止める。


「お味噌、あるのに使ってないの?」


遺乃

「そんなの、贅沢ですわ」


“村のため”と言わない。

“自分のため”とも言わない。

どっちも正解だから。


雛は一拍置いて、言い方を変えた。


「じゃあ、私が使う」


遺乃

「は?」


雛は鞄を開けた。


中から出したのは、

小さな乾物の包み――昆布。


「これを出汁用に使う」


「そうすれば、

 味噌を薄くしても、

 ちゃんと“食事”になる」


遺乃

「……勝手に台所を」


「止めるなら殺して」


遺乃

「……っ」


「殺さないなら、火を貸して」


遺乃は返さない。

返さないが――火は消さない。


雛は鍋に水。


昆布を沈め、豆を入れる。

干し野菜を戻して刻む。


遺乃の家の“几帳面さ”に合わせるみたいに、

動きも無駄がない。


湯気が立つ。

雛は味噌壺を見て、遺乃を見た。


「一匙だけちょうだい」


遺乃

「……」


遺乃の指が、ほんの少しだけ動く。

壺の蓋を開ける。


遺乃

「……一匙だけですわよ」


「うん」


味噌が溶ける。

香りが、狭い家に広がった。


遺乃のおなかが、

もう一回だけ――小さく鳴った。



鍋の中で、静かに湯が揺れている。


雛は、火を弱めてから器を三つ並べた。


一つは味噌汁。

豆と戻した野菜、昆布の出汁。

濁りは薄いが、香りはしっかり立っている。


もう一つは、煮豆。

味付けは最小限。

水と塩だけで、柔らかく煮ただけのもの。


最後は、干し野菜の和え物。

戻して刻んで、少しの塩。

噛むための一品。


遺乃は、それを見て、ほんの一瞬だけ眉を寄せた。


遺乃

「……三つも?」


「あるものだけ。

贅沢はしてない」


遺乃

「……」


反論しようとして、やめる。



◇ 遺乃の屋敷(ボロ家)居間/夜


器の配置が、妙に整っている。

遺乃の“几帳面さ”を、無意識に踏襲した並べ方。


遺乃は腰を下ろし、背筋を伸ばした。


遺乃

「……いただきます」


声は小さい。

でも、きちんとしている。


まず、味噌汁。


一口。


――間。


遺乃

「……」


表情は変えない。

変えないが、瞬きが一度だけ遅れる。


次に、煮豆。


一粒。


噛む。


遺乃

「……」


もう一粒。


今度は、野菜の和え物。


しゃく。


歯ごたえがある。

味は淡い。

けれど、噛むほどに甘みが出る。


遺乃は、何も言わない。


雛も言わない。


器の音だけが、一定の間隔で続く。


しばらくして。


遺乃

「……合理的ですわね」


ぽつり。


「何が」


遺乃

「噛むものがあると、

 身体が落ち着く」


「うん。

生きてる感じする」


遺乃

「……」


一瞬、視線が揺れる。


遺乃は、また味噌汁を飲んだ。


今度は、少し多めに。


遺乃

「……」


そして、つい。


遺乃

「……おいしい、ですわ」


言い切ってしまった。


一拍。


遺乃

「……っ」


すぐに口を閉じる。


遺乃

「今のは……

 味の評価ではなく……」


「どっちでもいい」


遺乃

「……」


誤魔化すように、豆をもう一粒。


噛む。


遺乃

「……」


間。


遺乃

「……やっぱり……」


小さく。


遺乃

「……おいしいですわ……」


今度は、否定しない。


雛は、何も言わない。

笑いもしない。


ただ、同じ速度で食べている。


遺乃は最後に、味噌汁を飲み干した。


器を置く。


遺乃

「……ごちそうさまでした」


完全に無意識。


言ってから、少しだけ目を見開く。


遺乃

「……習慣ですわ」


苦しい言い訳。


「いい習慣」


遺乃

「……」


否定しない。


代わりに、深く息を吐いた。


遺乃

「……今日は」


遺乃

「……体が、軽いですわ」


それ以上は言わない。


夕方の光が、布の天井を通して滲む。

外は、まだ静かだ。


三つの器は、きれいに空になっていた。



器が、静かに重ねられる。


雛は立ち上がり、流しへ向かった。

鼻血を拭く布は、もう脇に置いている。


「洗うね」


遺乃

「……お願いしますわ」


拒まない。

立ち上がりもしない。


遺乃は、椅子の背に掛けてあった籠を取り、

中から編みかけの布を引き出した。


毛糸は、くすんだ生成り。

何度もほどかれ、また編まれた跡がある。


雛が水を張る音。

器が触れ合う、控えめな音。


その背中を、遺乃は見ない。

指先だけが、規則正しく動く。


きゅ。

きゅ。


編み目は揃っていない。

でも、乱れてもいない。


雛は洗い終えた器を伏せ、

布で水気を拭いた。


「お茶、入れる」


遺乃

「……どうぞ」


言い切り。

許可というより、事実の承認。


雛は湯を沸かし、

残っていた茶葉を少しだけ使う。


香りは淡い。

でも、ちゃんと“お茶”だ。


二つの湯呑みが置かれる。


雛は腰を下ろし、

遺乃の向かいに座った。


一口。


静か。


遺乃も、同じタイミングで飲む。


編み針が、止まる。


遺乃

「……不思議ですわね」


「なにが」


遺乃

「こうしていると……

 あなたへの殺意が薄れてきますわ」


「それはよかった」


遺乃

「……皮肉ですの?」


「事実」


遺乃

「……」


否定しない。


しばらく、

お茶の温度が下がるのを待つみたいな沈黙。


雛は、湯呑みを置いた。


「……ねえ、遺乃」


呼び方が、少し柔らかい。


遺乃

「……何ですの」


編み物は、再開されない。


「さっきの続き」


一拍。


遺乃は、毛糸を指に巻いたまま、止まった。


遺乃

「……随分と、早いですわね」


「今なら、聞いてもらえる気がした」


遺乃

「……気のせい、かもしれませんわよ?」


「それでも、今がいい」


「ご飯のあとで、

 お茶飲んで、編み物してる今」


「殺し合いの途中より、

 ずっと話しやすい」


遺乃

「……」


少しだけ、視線が落ちる。

毛糸を指に巻いたまま、動かない。


一つ息を吸ってから、

さらりと言う雛。


「必要ならもう一回、

 押さえつけてもらってもいい」


遺乃

「……は?」


今度は、はっきりと間。


「……平気だから」


遺乃は、ゆっくり瞬きをした。


それから――

小さく、鼻で息を吐く。


遺乃

「……遠慮しますわ」


遺乃

「そんな趣味、ありませんの」


きっぱり。

一切の含みもない。


雛は、一瞬だけきょとんとして――

次の瞬間、ふふっと笑った。


「……よかった」


遺乃

「?」


「あなたが、

 そんな変な趣味なくて」


「ちょっと、安心した」


遺乃

「……」


「だって、あったら怖いでしょ。

 世界を簡単に壊せる人が、

 拘束プレイ嗜んでるとか」


遺乃

「……変な妄想はおやめなさいな」


「ごめん、もう浮かんだ」


一拍。


遺乃

「……話す気が失せますわよ?」


「冗談だって」


「でも――」


少しだけ、声を落とす。


「ちゃんと“話す側”でいてくれるなら、

 それでいい」


遺乃は、毛糸から指を外し、

編み物を静かに脇へ置いた。


遺乃

「……勘違いなさいませんように」


声は落ち着いている。


遺乃

「情が移ったわけでも、

 考えを変えたわけでもありません」


「うん、それでいいわ」


雛は、湯呑みを両手で包んだ。


「ちゃんと聞いてもらえるなら、

 それで十分」


しばらく、沈黙。


湯呑みの中の湯気が、細く立つ。

遺乃は、湯呑みを一口。


そして、深く息を吐いた。


遺乃

「……では」


遺乃

「“どこまで”知りたいのかしら」



「どうして――」


「あなたは、私を殺そうとするの?」


一切の装飾がない。

逃げ道も、感情の逃避もない問い。


遺乃は、間を置かず答えた。


遺乃

「あなたが、災厄だからですわ」


「……それだけ?」


遺乃

「それ以上でも、以下でもありません」


一拍。


「……三千年前も?」


ここで、遺乃の目がわずかに細くなる。


遺乃

「同じですわ」


遺乃

原初災厄プロト・カタストロフも――」


一瞬、言葉を選ぶような間。


遺乃

「それこそ、

 わたくし自身だって」


遺乃

「世界にとって、

 “残せない歪み”でしたの」


「だから、

 災厄同士で殺し合わせた」


「一度、すべてをゼロにして――

 世界を、作り直すために」


遺乃

「ええ。そうですわ」


淡々と。

誇りも、悔恨も混ざらない声。


遺乃

「……その先には」


遺乃

「わたくし自身が、

 消える未来も含まれていましたの」


「……」


遺乃

「災厄を抹消する以上、

 例外を作るわけにはいきませんわ」


一拍。


空気が、少しだけ重くなる。


遺乃

「……ですが」


遺乃

「その計画は――

 成功しなかった」


遺乃

「"2つの問題"によって」


雛は、何も言わない。

続きを、待つ。


遺乃

「一つ目は、

 死祟しづくの介入」


遺乃

枯滅こめつ――

 あなたを庇い続けた」


遺乃

「枯滅の分まで代価を払い、

 衰弱し続けた」


遺乃

「その結果、

同士討ちは成立せず、

 あなたは生き延びましたの」


事実の列挙。

評価はない。


遺乃

「そして――二つ目」


一拍。


遺乃

「第一災《終凍しゅうとう》の存在」


その名だけで、

場の密度が変わる。


遺乃

「第ニ災のわたくしですら、

 その姿を見たことはありません」


遺乃

「……知っているのは」


遺乃

「“格が違う”

 という事実だけ」


「……無相よりも、上」


遺乃

「ええ。間違いなく」


遺乃

「わたくしの判断は、

 そこで初めて“届かなかった”」


短い沈黙。


「……それでも」


「あなたは、

 あの時と同じことを

 繰り返そうとしている」


遺乃

「ええ」


即答。


遺乃

「一度、失敗したからといって」


遺乃

「判断そのものが、

 誤りだったとは思ってませんの」


遺乃

「計画は、

 まだ終わってませんわ」


遺乃

「だから――」


遺乃

「わたくしは、

再び目覚めた、

あなたの前に現れた」


視線が、雛をまっすぐ捉える。


遺乃

「世界を、

 元に戻すために」



雛は、否定しなかった。

肯定もしない。


ただ、静かに鞄を開ける。


紙の束。


雛はそれを、

卓の上に置いた。


「あなたは、

 災厄は“生まれつき”だと思ってる」


「だから、災厄をゼロにすれば、

 世界は戻るって」


遺乃

「その通りですわ」


雛は、首を振らない。


ただ、一言。


「本当に……そうかしら?」


遺乃の指が、

わずかに止まる。


「これを、読んでみて」


それ以上、言わない。


遺乃は、

紙束に視線を落とした。


最初のページ。


──────────────────────────────

《成立基盤補修計画》

《試行回数:97》

《被験者識別子:欠損》

──────────────────────────────


(……成立基盤補修計画)


(……九十七回?)


ページをめくる。


──────────────────────────────

《最終更新日時:三千二百五十年前》

──────────────────────────────


(……っ)


時間が、噛み合う。


原初災厄プロト・カタストロフ

が生まれて、死んだ、あの時代。


偶然ではない。


──────────────────────────────

《世界干渉ログ》

《因果・認識・連続性応答:確認》

──────────────────────────────


遺乃の指が、

紙の上で止まる。


《成立応答破綻地点:検出》

《特異点記録:7》


(……特異、点……?)


呼吸が、

一拍、遅れる。


頭の奥で、

過去の違和感が浮かび上がる。


――記憶がない。

――最初から“無相”だった。

――それなのに、時々見る夢。


普通の少女。

名を呼ばれて、

何者でもない生活。


遺乃

「………」


ページを、

めくる。


雛は、止めない。


ただ、

一行だけを指で示した。


──────────────────────────────

《特異点発生以前:災厄反応なし》

──────────────────────────────


遺乃は、

その一文を見て――


動かなくなった。


もう一度、読む。

三度、読む。


遺乃

「……そんな……」


声が、震える。


もし、これが事実なら。

災厄は、生まれたものじゃない。


特異点の“後”に、

成立してしまった反応。


遺乃

「……なるほど」


笑わない。

怒らない。


ただ、

理解する声。


遺乃

「記憶がないのも……」


遺乃

「最初から、

 “無相”だったのも……」


遺乃

「知らない少女の記憶が、

 時折浮かぶのも……」


すべて、繋がる。


遺乃

「研究の過程で、

 "成ったもの" だったから」


声が、

初めて揺れる。


そして――


遺乃

「このレポートが正しいとすると……」


遺乃

「災厄を消しても、

 世界は……戻らない」


沈黙。


長い、静かな沈黙。


遺乃

「……」


そして、

とても小さく。


遺乃

「世界は、

 思っていたより……」


遺乃

「壊れていましたのね」



沈黙が、落ち着いたあと。


遺乃は、

胸に抱えていた紙束を、

そっと卓に戻した。


そして――

初めて、それを裏返す。


一番下。

一番最後のページ。


表紙。


そこに、名前があった。


《作成者:リゼ・アウレリア》


遺乃

「……この方」


小さく、息を吸う。


遺乃

「先日、わたくしが匿った……

 研究者ですわね」


雛は、

その反応を見てから、短く聞いた。


「……信じるの?」


遺乃は、即答だった。


遺乃

「ええ」


一切、迷いがない。


「どうして?」


遺乃は、紙束に視線を落としたまま、言う。


遺乃

「この研究……

 世界から“消える”前提で

 書かれていますわ」


雛は、何も言わない。


―― 評価される前提もない


―― 名が残る保証もない


―― 生き延びる想定すらない


一拍。


遺乃

「それでも、書いた」


遺乃

「ならこれは――

 嘘をつくための研究ではありませんの」


紙束に、そっと手を置く。


遺乃

「自分が消えると分かっていて、

 なお“残す”ことを選んだ」


遺乃

「十分、信じるに足りますわ」


雛は、それ以上聞かなかった。


遺乃は、

もう一度だけ、レポートの表紙に視線を落とした。


それは“答え”ではない。

三千年分の時間が、

一枚の紙に畳まれているだけのもの。


遺乃は、ゆっくりと目を閉じる。


遺乃

「……わたくしが死ねば、

 すべてが元に戻ると――」


遺乃

「そう信じて、歩いてきましたの」


声に、揺れはない。

だが、どこか――遠い。


遺乃

「誰かを切り捨てれば、

 世界は少しずつ良くなると」


遺乃

「それが、

 “正しい犠牲”なのだと」


一拍。


遺乃

「三千年……」


それは、後悔の数ではない。

誇りでもない。

ただ、費やした時間の重さ。


小さく、息を吐く。


遺乃

「世界を良くしようとしたのに……

 “良くなると信じる形”しか

 見ていなかった」


遺乃の声は、静かだった。

折れてはいない。


ただ――ほどけていた。



◇ 遺乃の屋敷(ボロ家)/夜


雛は湯呑みを持ち上げ、

一口だけ飲む。


温度が下がったお茶が、

喉を通る音だけが部屋に落ちた。


そのとき。


とん、とん。


戸が鳴った。


遺乃の背筋が、条件反射のように伸びる。

声は、整える前提で出た。


遺乃

「……どなたですの」


外から返る声は、年老いた、穏やかな調子。


おばあちゃんの声

「お嬢ちゃん、起きてるかい」


続いて、少し低く、ゆったりした声。


おじいちゃんの声

「灯りが見えたもんでな」


返事を待たず、戸の前で足音が止まる。


おばあちゃん

「遅くにごめんねぇ」


遺乃の指が、レポートから離れた。

ほんの一瞬だけ、迷う顔。


雛はそこで、初めて、視線だけで言う。


――出なよ。


遺乃は何も言わず立ち上がり、戸へ向かう。

床が鳴る。

家が、いつもの調子で自己主張する。


ぎぃ……と戸が開く。


夜の空気。


そこに、籠がいくつか置かれていた。

土の匂いのする野菜。

形の揃っていない大根。

小さな芋。

豆の入った布袋。


どれも豪華ではない。

けれど、選んで持ってきた手つきが分かる。


おばあちゃんが、遺乃の顔を見ると、

しわだらけの目を細めた。


おばあちゃん

「今日もね、ありがとう」


おじいちゃんも、ゆっくり頷く。


おじいちゃん

「昼間のあれ、助かったよ」


別の村人

「いつも、気にかけてくれてるだろ」


遺乃

「……当然のことですわ」


言い慣れた言葉。

でも、今日は少しだけ、声が軽い。


おばあちゃん

「そう言うと思った」


否定を求めていない声。

“知ってる”という調子。


おばあちゃんは、籠の取っ手を整えてから、

そっと地面に置いた。


おばあちゃん

「これは、お礼ね」


おばあちゃん

「受け取ってくれなきゃ、こっちが落ち着かないの」


押しつけるでも、見返りでもない。

感謝を、形にしただけ。


おじいちゃん

「夜は冷えるからな」


おじいちゃん

「ちゃんと、身体を大事にしろよ」


それだけ言って、

彼らはもう踵を返している。


おばあちゃん

「じゃあ、また」


おじいちゃん

「無理はするな」


背中は、軽い。

用事を済ませた人の背中だ。


戸の前に、籠だけが残った。


遺乃は、しばらく動けなかった。

手のひらに、籠の重みが残る。


それは、

“与えられた重さ”じゃない。


“ありがとう”が、

形になった重さだった。



その背後から、もう一人。


少女の母親だった。

前に遺乃の家へ来た、

あの少女の――母。


母親は、頭を下げる。

深く、深く。


母親

「……今日は娘を、ありがとうね」


遺乃

「……当然ですわ」


言い慣れたはずの言葉なのに、

今日は声が薄い。


母親は、言い足す。


母親

「あの子、あなたのことが好きでね」


母親

「“お姉ちゃんはすごい”って、

 毎日言ってるのよ」


遺乃の喉が、わずかに鳴った。


遺乃

「……すごくありません」


母親

「ふふっ。謙遜しちゃって」


否定を許さない調子じゃない。

“知ってる”って言い方。


母親は籠の取っ手を、

遺乃の手にそっと掛ける。


母親

「これお礼。食べて」


母親

「倒れたら、困るのはこっちだから」


それだけ言って、去っていく。

背中があっさりしている。

恩を売りに来た人の背中じゃない。


戸の前に、籠だけが残った。


遺乃は、しばらく動けない。

籠の重みが手に残る。


そして、戸がもう一度鳴った。


とん、とん、とん。


今度はノックが小さくて、急いでいる。


遺乃が戸を開けると――


あの少女がいた。


遺乃を「いつも通り」で

連行できる距離の子。


少女は遺乃の手元の籠を見て、

満足そうに頷く。


少女

「やっぱり来てた」


遺乃

「……あなた、こんな時間に」


少女

「お母さんがね、“言い忘れた”って」


少女は一歩入って、

遺乃を見上げる。


少女

「……お姉ちゃん」


遺乃

「何ですの」


少女は答えず、近づいた。


そして。


ぽん。

ぽんぽん。


遺乃の肩を叩く。


少女

「いつも、私達のためにありがとう」


その瞬間。


遺乃の顔が、崩れた。


遺乃

「――っ……」


息を吸うのに失敗したみたいに、喉が詰まる。

上品な言い方が、間に合わない。


遺乃

「……やめ……なさい……」


止める声が震えて、命令にならない。


少女は止めない。

止める理由がない。


少女

「だって本当だもん」


遺乃は、耐えるみたいに視線を落とす。

でも、落ちた先で涙が先に落ちる。


ぽた。

ぽた、ぽた。


遺乃

「……わたくし……」


声が、子どもみたいに掠れる。


遺乃

「……間違えて……」


続きが言えない。

言えば、三千年分の後悔が、

全部こぼれる。


少女は、少しだけ首を傾げて――

遺乃の袖を掴んだ。


少女

「間違えてても、いいよ」


少女

「お姉ちゃんがいるから、

 ここがあるんだもん」


遺乃の涙腺が、そこで完全に切れた。


遺乃

「……っ、……ぁ……っ」


声が、漏れる。

堪えるものじゃない。

ちゃんと、壊れた音。


遺乃はしゃがみ込まない。

けれど、立ってはいられず、

壁に手をついた。


指先が、震える。


呼吸が、うまくできない。

吸っているのに、足りない。

吐いても、追いつかない。


――しばらく。


ただ、泣く。


言葉にならないまま、

音だけが、零れ続ける。


少女は、何も言わない。

ただ、そこにいる。


時間が、少しずつ戻ってくる。


遺乃は、

何度か、深く息を吸い――

ようやく、泣く音を抑えた。


まだ、顔は上げられない。


袖で、目元を押さえる。

乱れた呼吸を、整える。


もう一度。

もう一度だけ、深く。


……大丈夫。


そう言い聞かせるみたいに、

ゆっくり、顔を上げる。


視界は、まだ滲んでいる。


部屋の奥。

割れた鏡。

低い棚。

影の溜まる場所。


――そこに。


雛の姿を、探してしまう。


そして。


そこには、もういなかった。


扉は開いていない。

窓も鳴っていない。


ただ、

“いない”。


遺乃

「……っ」


名前を、呼びかけて――やめる。

呼んだら、きっと追いかけてしまう。


遺乃は唇を噛む。

泣き声を抑えようとして、

でも、うまくいかない。


肩が、小さく震れる。


そのとき。


ぽん。


一度だけ、

遠慮がちな重さ。


遺乃は反応しない。


少し間があって――


ぽん。

ぽんぽん。


今度は、さっきより近い。

確かめるみたいな、同じ高さ。


少女

「お姉ちゃん」


呼ぶ声は、静か。


少女

「だいじょぶだよ」


遺乃は、返事ができない。

顔も上げられない。


代わりに――

手にしていた籠を、ぎゅっと抱き寄せた。


野菜が、布越しに当たる。

土の匂い。

重さ。

冷たくない現実。


逃がさないように、

腕に、力を込める。


遺乃の喉から、

声にならない音が零れた。


夜の村は、変わらず続いている。


灯りは消えず、

人の気配も、遠ざからない。


その中心で。


遺乃は、

はじめて“守られている場所”で、

声を出して、泣いていた。



◇ 街道脇・野営地/エピローグ


焚き火は、小さく、安定して燃えている。

夜は深く、風は冷たい。


白羽は地面に腰を下ろし、

外套を縫っていた。

針は迷わず、一定のリズムを刻んでいる。


シオンはその隣で、

ナイフを研いでいる。

しゃっ、しゃっ、と乾いた音だけが続く。


――落ち着いているのは、その二人だけだった。


スレイは、理由もなくうろうろしている。


白羽の後ろに立ち、

銀髪を一本つまむ。


くい。


反応はない。


もう一本。


くい。


それでも白羽は、縫い目から視線を上げない。


スレイは場所を移し、

シオンの横でしゃがみ込む。


ナイフの動きを少し眺めてから、

そのまま、頬に指を伸ばす。


むに。


砥石の音は、止まらない。


もう一度。


むに。


シオンは、手を止めない。


スレイは一瞬、首を傾げて――

なぜか、"自分のお腹"を触った。


むに。


間。


むに、むに。


白羽の針が、ぴたりと止まる。


白羽

「……今の流れで、

 そっち行きます?」


スレイ

「え?」


白羽

「自分のお腹、触ってますよ」


スレイは、

自分のお腹を見下ろす。


スレイ

「……あ」


スレイ

「まちがえた」


何を、とは言わない。


シオンは、砥石を替える。

音だけが、少し変わる。


シオン

「無意識に、おなかのお肉

 気にしてる」


一拍。


スレイ

「……今、それ言う?」


声は軽い。

でも、いつもより張りがない。


しばらく、

焚き火の音だけ。


静かに時間が流れる。


空を見上げたまま、ぽつり。


スレイ

「……落ち着かない」


白羽

「珍しいですね」


少し間があって。


スレイ

「……あいつ、

 ちゃんと帰ってくるといいけど」


白羽は何も聞かず、

針を進める。


焚き火が、ぱち、と鳴った。


その向こうで、

ヴォイドが空を見ている。


ヴォイド

「……そろそろだ」


空気が、変わる。


星の位置が、わずかに歪む。

風が、止まる。


ヴォイドが顔を上げる。


ヴォイド

「――来た」


夜空に、黒い影。


羽音はない。

落下でもない。


雛が、そこにいた。


雛は、空から降りた――

その瞬間だった。


足が地面に触れたのに、

次の一歩が出ない。


羽はもう畳まれている。

けれど、身体の奥だけが、

まだ空に置き去りのまま。


「……ヴォイド様……」


名前を呼んだ、その途端。


張り詰めていたものが、

一気にほどけた。


「……っ……!」


声になる前に、身体が動く。


雛は、ほとんど転ぶみたいに前へ出て――

そのまま、ヴォイドに抱きついた。


ぎゅっと。

しがみつく、という方が近い。


「私……こわかった……!」


震えが、隠せない。


「すごく……こわくて……!」


胸に顔を押しつけたまま、

言葉が途切れ途切れになる。


「でも……」


一度、息を吸う。

うまく吸えなくて、喉が鳴る。


「ヴォイド様の言う通りにして……

 逃げなかった……」


「ちゃんと……

 最後まで……」


そこで、声が詰まる。


「……頑張りました……」


その背に、腕が回る。


強くはない。

抱き返す、というより――

逃げないための重さ。


ヴォイド

「そのようだな」


低く、確かな声。


ヴォイド

「よく、やり遂げた」


その一言で。


雛の身体から、力が抜けた。

縋るように抱きついたまま、

小さく、息を吐く。


――帰ってきた。


白羽が、すぐそばまで来ていた。

何も言わず、雛の頭に手を置く。


撫でるというより、

「ここにいる」と伝えるみたいに。


少し遅れて、シオンも。

指先だけで、同じ場所に触れる。


雛は、何も言えない。

言えないまま、ヴォイドに抱きついている。


スレイ

「……まったく……」


わざとらしく肩をすくめてから。


スレイ

「今日は……」


一拍。


スレイ

「今日は許すわ」


焚き火の明かりの中で、

はっきり言う。


スレイ

「よく頑張ったね、雛」


その言葉に、

雛の指が、少しだけ強く服を掴んだ。


焚き火が、ぱち、と鳴る。


夜はまだ冷たい。

けれど、その中心には――


確かに、

帰ってきた温度があった。



雛は、まだその場から動けなかった。


焚き火の音は聞こえている。

けれど、それが“今”の音だと認識するまで、

少し時間がかかる。


――帰ってきたはずなのに。


そのとき。


夜の空気が、

一段だけ、深く沈んだ。


音はない。

だが、そこに――

“在ってはいけない格”が立った。


ヴォイドが、先に気づく。


ヴォイド

「……無相」


その一言で、空気が切り替わる。


白羽とシオン、スレイが、

反射で半歩前に出る。


白羽

「……え」


スレイ

「待って……

 それ、あの“無相”……?」


シオン

「……第二災」


誰も、それ以上は言わない。


焚き火の明かりの縁から、

少女が一人、歩み出てくる。


遺乃だった。


威圧はない。

殺気もない。

ただ――世界が一人、来ている。


遺乃は、雛を見つけると、

迷いなく歩み寄り、

数歩手前で止まった。


そして。


深く、頭を下げる。


それだけで、

白羽たちの呼吸が一瞬止まった。


遺乃

「……雛さん」


声は、揺れていない。


遺乃

「今回の件……

 わたくしに、気づかせてくださって」


遺乃

「本当に、ありがとうございました」


それは命令でも、裁定でもない。

世界が、個人に向けて差し出した礼だった。


雛だけが、少し困ったように笑う。


「……私はただ、

 答え合わせをしただけよ」


遺乃は顔を上げ、

一瞬だけ、視線を逸らす。


それから、はっきりと言った。


遺乃

「計画は、破棄しますわ」


迷いはない。


遺乃

「もう、あなた達の命を

 狙うことはありません」


一拍。


遺乃

「それより……」


遺乃

「これまでとは、

 違う理由で」


遺乃

「わたくしは、

 あの村を守ることにしますの」


雛は、何も言わない。

続きを、待つ。


遺乃

「……あの村は」


遺乃

「消えたいと願った者、

 忘れられたかった者、

 それでも生き続けてしまった者――」


遺乃

「様々な思いが、

 重なり合って、留まっている場所ですわ」


遺乃

「逃げ場であり、

 居場所であり、

 選び直すこともできないまま

 立ち止まった人たちの場所」


言葉を探すように、ほんの一瞬だけ間が空く。


遺乃

「……ですが」


遺乃

「それでも、あそこには

 確かに“日々”がありました」


遺乃

「笑いも、怒りも、

 感謝も、期待も……」


遺乃

「他者へ向けられた思いが、

 確かに、交わっていましたの」


視線が、夜の向こう――

村のある方角へ向く。


遺乃

「わたくしは、

 それを“残滓”として扱ってきました」


遺乃

「ですが……」


遺乃

「今は、違いますわ」


きっぱりと。


遺乃

「混じり合った思いがあるからこそ、

 あの村は、在り続けている」


遺乃

「ならば、わたくしがすべきことは――」


遺乃

「消すことでも、

 裁くことでもありません」


遺乃

「あの村と、

 そこに生きる人々を」


遺乃

「……守ることですわ」


それが、

遺乃自身の“選択”だった。


言い切ったあと、

遺乃は言葉に詰まる。


視線が揺れ、

指先が、わずかに空を探す。


遺乃

「あ、あの……」


雛はその仕草を見て、

先に言った。


「ねえ、遺乃」


「あなたの村……

 また、遊びに行ってもいい?」


一瞬。


それから――

遺乃の顔が、子どもみたいに明るくなる。


遺乃

「……!」


遺乃

「はい、もちろんですわ!」


即答だった。

迷いも、逡巡もない。


遺乃

「いつでも……

 お待ちしていますの」


その声が、夜に溶ける。


次の瞬間。


遺乃の姿は、

焚き火の明かりと影の境目で、

すぅ、と輪郭を失った。


音はしない。

空気も乱れない。


何も壊さず、

何も奪わず、

ただ――“役目を終えた世界”だけが、そこにいなくなる。


しばらく、誰も言葉を出せない。


やがて。


シオンが、

消えた場所に向かって、

ほんの少し遅れて、手を振った。


シオン

「……ばいばい」


それだけ。


夜は、何事もなかったかのように戻ってくる。

冷たく、静かで、いつもの夜だ。


焚き火が、静かに揺れる。


それは、形を持たない。

名を与えることもできない。


救いと呼ぶには、あまりに小さく、

奇跡と呼ぶには、あまりに静かだ。


けれど――


確かにそこに、

無相のまま、蓮華のように、

空なる相として、現れていた。



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