第21章 忘れ去られた村と、白い花の少女
◇ 遺乃の屋敷(ボロ家)/朝
――こと。
何かが天井から落ちた音で
目が覚めた。
遺乃は目を閉じたまま、
呼吸だけ続けていた。
……こと。
もう一度、音。
遺乃は一度だけ瞬きをした。
遺乃
「……風ですわね」
結論が早い。
遺乃は、
ゆっくりと上体を起こした。
軋む床。
それに合わせて、
天井の布がふわりと揺れる。
枕元には、
白磁色のワンピースが、
きちんと畳まれて置いてあった。
遺乃はそれを両手で持ち上げ、
立ち上がる。
いつものように、
袖を通し――
――びりっ。
乾いた音。
遺乃
「……あら」
腰のあたり。
ほんの少し、布が裂けている。
切れ目は小さい。
でも、はっきり分かる。
遺乃は、しばらくそのまま固まった。
一拍。
遺乃
「……」
視線が、ワンピースと自分の腰を往復する。
遺乃
「……この一着しか、ありませんのに」
ぽつり。
文句でも、嘆きでもない。
ただの事実確認。
それから、ふっと息を吐いた。
遺乃
「仕方ありませんわね」
どこか楽しそうに。
遺乃はワンピースを丁寧に脱ぎ、
棚の下から、小さな裁縫箱を引っ張り出した。
中身は少ない。
糸、針、端切れが少し。
遺乃は床に座り、
裂けた部分を指先で揃える。
その間、鼻歌が始まった。
♪~
♪~
音程は曖昧。
でも、楽しそう。
針に糸を通し、
ちく、ちく、と縫っていく。
遺乃
「……」
途中で一度、指に刺さる。
遺乃
「……」
無言で、指を口に入れる。
一拍。
遺乃
「……気をつけませんと」
それでも、鼻歌は止まらない。
♪~
♪~
少し歪だけど、
裂け目は、ちゃんと塞がった。
遺乃は、満足そうに頷く。
遺乃
「これで……大丈夫ですわ」
再びワンピースを着る。
腰の切れ目は、よく見ないと分からない。
遺乃
「……ふふ」
小さく笑って、胸元を指先で払った。
◇
部屋の隅に立てかけてある
姿鏡の前へ移動した。
枠は歪み、
鏡面には、斜めに大きなひびが入っている。
いくつかの欠片は、もう失われたまま。
映るのは、
全身ではない。
肩から上と、腰から下が、
少しずれて繋がっている。
遺乃は、それでも気にしない様子。
慣れた様子で、
鏡の前に立った。
鼻歌が、まだ小さく続いている。
少し、首を傾ける。
遺乃
「……今日は、こちらの角度ですわね」
理由はない。
なんとなく、そう決めた。
遺乃は、棚の上から櫛を取る。
歯の欠けた、古い櫛。
ゆっくりと、髪をとかす。
しゃり。
しゃり。
引っかかるたびに、
少しだけ力を抜く。
髪を整え終えると、
今度はワンピースの裾を、
両手で軽くつまむ。
ひらり。
もう一度。
ひら、ひら。
補修した腰のあたりを、
ちら、と確認してから――
わざと、もう一度だけ揺らした。
遺乃
「……ふふ」
音は立てない。
でも、確かに楽しそう。
遺乃は、
少しだけ背筋を伸ばす。
顎を引き、
肩の位置を直し、
胸元の布を、指先で払う。
割れた鏡の中で、
ワンピースが、ずれて揺れた。
遺乃
「……よろしいですわ」
小さく、満足そうに頷く。
それから――
ほんの一瞬だけ。
遺乃は、
自分の頬を、両手で包んだ。
遺乃
「……ちゃんと」
遺乃
「お嬢様、してますわね」
誰に聞かせるでもなく。
すぐに手を離し、
何事もなかったように、
櫛を元の場所へ戻す。
遺乃は、
割れた姿鏡に、
きちんと一礼した。
……少しだけ、照れたまま。
◇
台所――と呼ぶには、少し簡素な空間。
棚は歪んでいる。
器は揃っていない。
でも、置き方だけは几帳面だ。
遺乃は小さな袋を取り出し、
中から豆を少しだけ出す。
数える。
正確に。
遺乃
「……十分ですわ」
鍋に水。
豆を入れる。
火をつける。
ぱち、という音。
湯が温まるまでの間、
遺乃は何もせず、立ったまま待つ。
その間も、鼻歌。
♪~
♪~
豆が煮える匂いが、
ゆっくりと部屋に広がる。
遺乃は器によそい、
腰を下ろした。
一粒。
噛む。
遺乃
「……」
もう一粒。
遺乃
「……うん」
満足そう。
食べ終えると、器を洗い、
水を切って、元の位置へ戻す。
音は、最小限。
◇
遺乃は、壁に立てかけてあるほうきを取った。
床。
一定のリズムで、掃く。
しゃっ。
しゃっ。
隅。
柱の影。
布の天井から落ちた細かな塵。
途中で、小さな蜘蛛が逃げる。
遺乃
「……そこは後で」
声音はやさしい。
蜘蛛は、分かっているみたいに梁へ消えた。
掃き終えると、
ほうきを元の場所へ。
遺乃は、家の中央で一度だけ立ち止まる。
見回す。
補修だらけの壁。
布の天井。
歪んだ床。
そして――
さっき縫ったばかりのワンピース。
遺乃
「……問題ありませんわ」
今度は、少し誇らしげに。
◇
戸に手をかける。
一拍。
遺乃
「よし」
声に、少しだけ張りが入る。
遺乃
「今日も――」
戸を開ける。
朝の光が、差し込む。
遺乃
「がんばりますの!」
外の空気が、やわらかく迎えた。
忘れ去られた村の朝は、
今日も、静かに始まっている。
縫い直したワンピースを揺らしながら、
遺乃は、鼻歌まじりに歩き出した。
◇ 忘れ去られた村/午前
戸を閉めると、
朝の光がやわらかく降ってきた。
遺乃は一歩、外へ出る。
ワンピースが、
風に、ほんの少し揺れた。
遺乃
「……良いお天気ですわ」
畑では鍬の音。
洗濯場では水音。
井戸の滑車が、きゅ、と鳴る。
そして――
子どもたち。
「おねえちゃん!!」
一声で、
三方向から走ってくる。
遺乃
「あら」
一拍。
遺乃
「転ばないように――」
言い切る前に、包囲された。
女の子
「きょうは、なにするの!?」
女の子
「べんきょう!」
遺乃は、少しだけ目を瞬かせる。
遺乃
「……勉強、ですの?」
女の子
「うん!」
女の子
「おねえちゃんの、
わかりやすい!」
遺乃の頬が、わずかに緩む。
遺乃
「まあ……」
遺乃
「では、少しだけですわよ?」
歓声。
完全に、先生役が確定した。
遺乃は地面にしゃがみ、
小石を拾って並べ始める。
●●●
●●●
●●●
遺乃
「ここに、九つ」
子どもたちが、ぐっと身を乗り出す。
「さわる!」
「かぞえる!」
遺乃
「一つずつですわ」
その瞬間――
ぐいっ。
背後から、服を引っ張られた。
遺乃
「……?」
次の瞬間。
ぐい、ぐいっ。
女の子
「こっちでやろ!」
女の子
「ちがう! こっち!」
遺乃
「ま、待ちなさい……!」
腰に、
嫌な感触。
遺乃
(……あ)
――びりっ。
はっきりした音。
静かすぎる村の午前に、
やけに響いた。
遺乃
「………………」
時が止まる。
遺乃は、ゆっくり視線を下げる。
腰のあたり。
朝、丁寧に縫った場所。
そこに――
再び、切れ目。
しかも。
ちょっとだけ、
品位が揺らいだ。
遺乃
「――――――っ!!」
顔が、
一気に真っ赤になる。
耳まで赤い。
遺乃は反射で、
両手で腰を押さえた。
遺乃
「み、見ては……!」
声が、完全に裏返る。
遺乃
「見ては、いけませんわ!!」
子どもたち。
女の子
「やぶれた!」
別の子
「おねえちゃん、あかい!」
遺乃
「そ、それはですね……!」
遺乃
「服というものは、
消耗品でして……!」
意味不明な言い訳。
遺乃
「決して、
だらしないわけでは――」
言い切る前に、
また、ぐい。
遺乃
「ひゃっ!?」
完全に防御不能。
遺乃は、必死に姿勢を正し、
威厳を保とうとする。
遺乃
「……きょうの勉強は」
一拍。
遺乃
「ここまで、ですわ!」
女の子
「えー!」
遺乃
「“えー”ではありませんの!!」
声が震える。
遺乃
「おねえちゃんは、
今、とても……」
遺乃
「とても、困っておりますの!!」
正直すぎる告白。
子どもたちは顔を見合わせ――
「いまのは、まずいやつだ」とでも言うように、
なぜか、きれいに整列した。
子ども
「またね!」
子ども
「楽しかったー!」
子ども
「こんどは、やぶれないやつで!」
遺乃
「……努力いたしますわ」
小さく、うなだれる。
◇
子どもたちが去ったあと。
遺乃は、その場に立ち尽くしたまま、
しばらく動かなかった。
腰を押さえたまま。
遺乃
「………………」
それから。
小さく、ため息。
遺乃
「……二回目は、想定外ですわ」
でも。
遺乃は、背筋を伸ばす。
遺乃
「……帰ったら、また縫いますの」
顔は、まだ赤い。
それでも――
遺乃は、村の中を見回した。
畑。
洗濯場。
井戸。
やることは、まだ残っている。
遺乃
「……がんばりますの」
白磁色のワンピースは、
また一つ、遺乃の努力を刻む。
忘れ去られた村の朝は、
今日も、容赦なく続いていた。
◇ 忘れ去られた村/昼
昼の村は、
動きがゆっくりになる。
日差しは強いけれど、
風は通る。
無理をしない時間帯。
畑の端で、
おじいちゃんとおばあちゃんが並んでいた。
鍬は地面に立てかけられ、
洗濯桶は半分、水を張ったまま。
二人とも、休んでいる。
――休みすぎている。
遺乃は、その前で足を止めた。
遺乃
「……お二人そろって、
どうなさいましたの?」
おじいちゃん
「昼だ」
即答。
おばあちゃん
「休憩さね」
“休憩”というには、
少し長い。
遺乃は何も言わず、
畑と洗濯場を一度に見回した。
鍬。
桶。
水。
土。
遺乃
「では、少しだけお借りしますわ」
おじいちゃん
「おい」
遺乃
「待ちません」
即答。
鍬を取る。
ざく。
ざく。
土が、きれいに返る。
間を置かず、
洗濯桶へ。
布を持ち上げ、
ぱん、ぱん、と叩く。
それから、軽く絞る。
水が素直に落ちた。
遺乃は息を整えない。
“戦うより簡単”みたいな顔で、
次の作業へ移る。
おばあちゃん
「……手が早いねえ」
遺乃
「力ではありませんの」
遺乃
「順番ですわ」
三鍬。
二枚。
それだけで、
空気が変わる。
遺乃は鍬を戻し、
桶を元の位置へ。
遺乃
「ふぅ。
これで終わりですの」
おじいちゃん
「……ありがとな」
おばあちゃん
「ほんと、助かったわ」
遺乃
「当然ですわ」
即答。
おばあちゃんは、
少しだけ目を細めた。
おばあちゃん
「……お礼しなきゃね」
遺乃
「そんな……」
即答しかけて――止まる。
おばあちゃんが、
布に包んだものを差し出した。
三角。
遺乃
「……これは」
おばあちゃん
「おにぎりよ」
一拍。
遺乃
「……お米」
言葉が、少し遅れる。
遺乃
「お米を、いただくのは……」
考える。
思い出そうとする。
遺乃
「……最後は、いつでしたかしら」
おじいちゃん
「細かいこたぁいい」
おばあちゃん
「昼だよ」
遺乃は、しばらく迷ってから、
両手で受け取った。
遺乃
「……では、ありがたく」
包みを開く。
白い。
ちゃんと白い。
遺乃は一口、噛んだ。
――間。
遺乃
「……」
もう一口。
遺乃
「……!」
顔が、ぱっと明るくなる。
遺乃
「おいしいですわ!!」
声が、素直。
遺乃
「……なんて、力強い味」
おばあちゃん
「大げさだねえ」
遺乃
「いいえ」
即答。
遺乃
「豆も、好きですけれど」
遺乃
「お米は……特別ですわ」
おじいちゃんは、
畑を見て、空を見て、
小さく息を吐いた。
おじいちゃん
「……嬢ちゃん、無理しすぎだ」
遺乃
「はい」
即答。
おじいちゃん
「否定しろ」
遺乃
「できませんわ」
おばあちゃんが、ふふ、と笑った。
おばあちゃん
「そういう子だよ」
遺乃は、
おにぎりを大事そうに持ったまま、
一歩下がる。
遺乃
「……元気、出ましたの」
きちんと頭を下げる。
その仕草だけが、
やけに丁寧だった。
遺乃が去ったあと。
おばあちゃん
「……放っとけないね、あの子」
おじいちゃん
「放っといたら、倒れる」
二人は、同時に頷いた。
忘れ去られた村の昼は、
白いごはんの匂いと一緒に、
少しだけ、あたたかくなっていた。
◇ 忘れ去られた村/昼下がり
昼の光が、少しずつ柔らぐ。
遺乃は――
気づけば、あちこちにいた。
柵を直し、
桶を運び、
迷子の手を引く。
呼ばれていない。
でも、止まらない。
遺乃
「問題ありませんわ」
それだけ言って、次へ。
気づけば、
「困ったら遺乃」の流れができていた。
そして、時間は過ぎる。
◇ 小さな丘/夕方
村を見下ろせる、小さな丘。
遺乃は、そこに腰を下ろしていた。
スカートの裾を整え、
両手を、きちんと膝の上に置く。
――ふぅ。
声には出さない。
けれど、肩がほんの少しだけ落ちる。
下では鍬の音。
子どもの笑い声。
炊事の煙が、ゆっくり立ちのぼっている。
遺乃は、目を細めた。
遺乃
「……今日も、平和ですわね」
誰に言うでもなく。
この村は静かだ。
名も呼ばれず、
記録もされず。
世界から数えられなくても、
それでも――
ちゃんと、暮らしている。
風が丘を撫でる。
遺乃の髪が、
ふわりと揺れた。
しばらく、何も言わずに眺めてから。
遺乃は、小さく息を吸う。
遺乃
「……わたくし」
誰かに聞かせる言葉ではない。
確認するような、独り言。
遺乃
「この村が、好きですの」
感情を飾らない。
迷いも、照れもない。
ただの、事実。
遺乃
「誰も、何者かにならなくてよくて」
遺乃
「呼ばれなくても、生きていて」
遺乃
「……それで、ちゃんと笑っている」
夕陽が、村を赤く染めていく。
遺乃は、膝の上で指先を、そっと握った。
遺乃
「だから――」
一瞬だけ、声が低くなる。
遺乃
「ここは、わたくしの場所ですわ」
誓いではない。
使命でもない。
最初から、
そう在ると決まっている者の言い方。
遺乃は、ゆっくりと立ち上がる。
遺乃
「……さて」
そのときだった。
風が、止まる。
正確には――
止まったように「感じた」。
遺乃の眉が、わずかに寄る。
遺乃
「……?」
空気が変わったわけではない。
音も、匂いも、変化はない。
けれど――
“外側”が、触れた。
村の外。
境界の、そのさらに向こう。
遺乃は、目を閉じる。
数える。
一つ。
――いや。
遺乃
「……二つ、ですわね」
質が違う。
重なっていない。
どちらも、この村のものではない。
けれど――敵意は、薄い。
遺乃は、ほんの少しだけ考えてから、
小さく息を吐いた。
遺乃
「……迷子、という顔ではありませんわね」
丘の下。
村へ続く道を、一度だけ見下ろす。
鍬。
洗濯。
走る子ども。
遺乃の表情が、自然に柔らぐ。
遺乃
「……大丈夫ですわ」
誰に向けた言葉かは、分からない。
遺乃
「わたくしが、少し見てきます」
言い訳のない口調。
遺乃は、丘を下り始める。
足取りは早くない。
けれど、迷いがない。
村の端を抜け、
踏み固められていない草地へ。
境界へ向かうにつれて、
“外”の感触が、はっきりしてくる。
二つの気配は、動いていない。
逃げてもいない。
隠れてもいない。
遺乃
「……待っている、ですのね」
遺乃は、境界線の手前で一度だけ立ち止まる。
振り返らない。
村は、背中で守れる。
そして、再び歩き出す。
夕陽が、完全に沈む前に。
村の外。
世界と、この場所の“あいだ”へ。
そこで――
遺乃は、彼女たちと出会うことになる。
◇ 村の外縁/夕暮れ
丘を下り、
遺乃は村の外へ向かっていた。
理由は、はっきりしている。
境界の向こうに――
「数えられない気配」が、二つ。
村に入れるには、
まだ早い。
遺乃は、境界の線で一度足を止めた。
ここから先は、
世界が“曖昧”になる。
しばらく歩く。
草が途切れ、
土の色が変わり、
空気が一段、薄くなる。
そこで――
二人が、立っていた。
言葉はない。
だが、視線は合う。
遺乃は、
一人ずつを見る。
片方は、
白衣の名残をまといながら、
もう“肩書き”を失っている。
もう片方は、
刃を握っていたはずの手が、
今は何も掴めていない。
遺乃は、
小さく息を吐いた。
遺乃
「……そうでしたのね」
一歩、近づく。
距離は詰めるが、触れはしない。
遺乃
「分かりましたわ」
一拍。
遺乃
「選ばされたのではなく、
選んだ――」
遺乃
「そういう経緯、ですのね」
返事はない。
けれど、
沈黙の輪郭が、少しだけ和らぐ。
理解された、
と感じさせる沈黙。
遺乃は、
白衣の方へ視線を向ける。
遺乃
「調べて、確かめて……」
遺乃
「納得してしまったからこそ、
引き返せなくなった」
責める調子ではない。
かといって、肯定でもない。
“経路をなぞる”声。
遺乃
「世界の真実は……」
一拍。
遺乃
「それほどに重い……
ということですわね」
視線を移す。
刃の名残を宿す方。
遺乃
「役割を失っても、
それでも、隣に立つことを選んだ」
遺乃
「命令ではなく、
従属でもない」
遺乃
「……随分と、重い選択ですわね」
ほんのわずか、
声が低くなる。
遺乃
「人としては――
理解できます」
だが、そこで止める。
遺乃
「けれど」
遺乃
「理解できることと、
許されることは、別ですわ」
風が、境界を撫でる。
遺乃
「同情はしません」
遺乃
「ですが、
踏み躙るつもりもありませんの」
視線が、静かに定まる。
遺乃
「ここで終わらせるのは――」
一拍。
遺乃
「あなた方を裁くためではなく」
遺乃
「世界に、これ以上の歪みを
残さないためですわ」
風が吹く。
村の音は、
まだここまで届かない。
遺乃は、
二人の間に立つ。
遺乃
「ここから先は――」
遺乃
「世界が数えるのをやめる場所ですわ」
遺乃
「名前も」
遺乃
「記録も」
遺乃
「罪も、功績も」
ゆっくりと。
遺乃
「持ち越せません」
一拍。
遺乃
「それでも――」
視線を合わせる。
遺乃
「来ますの?」
返事はない。
けれど、
一歩。
そして、
もう一歩。
遺乃は、
その動きを見て、
小さく笑った。
遺乃
「……ええ」
遺乃
「でしたら」
両手を、胸の前で重ねる。
儀式ではない。
ただの、所作。
遺乃
「受け入れましょう」
意味が、剥がれる。
存在が、
“成立していない相”を取り戻す。
遺乃
「――無相蓮華空相・顕現」
それは、
誰かを消すための言葉ではない。
世界に向けて、
「そうであった意味」を返すための宣言。
空気が、ほどける。
二人を縛っていた輪郭。
名前。
役割。
それらが、
音もなく、剥がれ落ちていく。
否定はない。
破壊もない。
ただ、
“それらが、最初から存在しなかったかのように”
世界が処理を終える。
風が止み、
夕暮れの光が戻る。
そして――
二人は、そこに立っていた。
姿は変わらない。
呼吸も、重さも、確かにある。
ただ、足元にだけ、
静かに咲いていた。
二輪の、
名を持たない白い花。
縁を失った。
それでも――
踏みつけられることのない痕跡。
遺乃は、
その花を一度だけ見下ろす。
遺乃
「……では」
ゆっくりと、顔を上げる。
二人を見る。
裁かない。
責めない。
遺乃
「案内いたしましょう」
一拍。
遺乃
「忘れ去られた村に」
差し出された手。
白衣の裾がわずかに揺れ、
刃を失った手が躊躇いがちに伸びる。
指先が触れ、
握られる。
もう一方の手も。
遺乃は、確かめるように、
きちんと握り返した。
遺乃
「足元、気をつけてくださいまし」
三人で歩き出す。
白い花は、
その場に残ったまま。
名も、
罪も、
役割も、
すべてを失った場所の印として。
村の灯りが、
少しずつ近づいてくる。
世界は、
何事もなかったように続いている。
けれど――
確かにこの夜、
“数えられない二人”が、
遺乃に連れられて、
村へ向かっていた。
◇ 遺乃の屋敷(ボロ家)/翌朝
朝の光は、やわらかかった。
遺乃は目を覚ましてから、
しばらく布の天井を見ていた。
……静かだ。
村は、まだ完全には起きていない。
遺乃
「……」
一拍。
遺乃
「……今日は」
小さく、確認するように。
遺乃は起き上がり、
台所へ向かった。
棚の上。
いつもは空に近い場所。
そこに、
昨日――村の人たちから分けてもらったものがある。
包みを、そっと開く。
米。
少しだけ。
野菜。
曲がっているけれど、瑞々しい。
味噌。
香りの強い、手作りのもの。
遺乃は、しばらくそれを見つめてから、
胸の前で、手を重ねた。
遺乃
「……今日だけ、ですわね」
言い聞かせるように。
遺乃
「いつも通りに戻るための……今日だけ」
鍋を出す。
水を張る。
野菜を、丁寧に切る。
大きさは揃えない。
食べやすさだけを考える。
包丁の音。
とん。
とん。
遺乃は、いつものように鼻歌をこぼした。
♪……
けれど、湯が鳴りはじめた瞬間。
鼻歌はすっと消えた。
遺乃は湯の音だけを、
じっと聞いていた。
味噌を溶く。
ふわり、と。
懐かしさみたいな香りが立ちのぼる。
遺乃の指が止まる。
遺乃
「……あ」
声が、少しだけ震えた。
米を研ぐ。
水を替える。
その一粒一粒が、
やけに白く見える。
鍋に火を入れる。
ぱち。
遺乃は、その前に立ったまま待った。
急がない。
今日は、急がない。
やがて。
湯気。
匂い。
音。
すべてが、そろう。
遺乃は器を二つ並べた。
一つは米。
一つは味噌汁。
席に着く。
背筋を、自然に伸ばす。
遺乃
「……いただきます」
声は、小さい。
まず、米。
一口。
――間。
遺乃
「……」
噛む。
甘い。
粒が立っている。
もう一口。
遺乃
「……っ」
喉の奥が、きゅっとする。
次に、味噌汁。
野菜。
柔らかい。
でも、芯がある。
味噌の塩気が、
身体の奥へ、すっと染みていく。
遺乃
「……おいしい……」
今度は、はっきり。
遺乃
「……なんて……」
言葉が、続かない。
箸を持つ手が、
少しだけ震えた。
遺乃は、もう一口、米を食べる。
味噌汁を飲む。
その繰り返し。
気づけば、
器の中が、空に近い。
遺乃は、一瞬だけ迷ってから――
遺乃
「……今日だけ、ですわよ?」
自分に言い訳して、
米を、もう一膳よそった。
おかわり。
頬が、自然に緩む。
遺乃
「……ふふ」
二膳目は、もっとゆっくり食べた。
噛んで。
味わって。
逃がさないように。
その途中で――
遺乃
「……」
ぽろり。
一滴。
遺乃は、
驚いたように瞬きする。
遺乃
「……あら」
もう一滴。
遺乃
「……平気、ですわ」
その声が、
いちばん平気じゃなかった。
遺乃
「……おいしすぎて……」
喉が、詰まる。
遺乃
「……幸せすぎて……」
涙は、拭わなかった。
落ちるままにして、
それでも食べ続けた。
全部食べきる。
器をそっと置く。
しばらく、
そのまま動かなかった。
それから――
遺乃は、ぐっと背筋を伸ばした。
遺乃
「……元気、出ましたわ!」
声に、張りが戻る。
遺乃
「今日は……」
少し考えてから、
くすっと笑う。
遺乃
「いつもの、三倍は――」
遺乃
「頑張らないと、ですわね!」
立ち上がる。
器を洗い、
水を切り、
元の位置へ。
戸に手をかける。
朝の光が、
遺乃を迎える。
忘れ去られた村の朝は、
静かに、続いている。
ほんの少しだけ、
遺乃が、満たされたまま。
◇ 《エピローグ》忘れ去られた村・学校
あれから、さらに数日。
村の朝に、紙の匂いが混じるようになった。
小屋の中は――
静か、とは言い難かった。
「せんせー!」
「ひっぱるなー!」
「それ、あたしのえんぴつ!」
床が鳴る。
机がずれる。
埃が舞う。
助手
「ちょ、ちょっと待ってください~!」
スカートの裾を両手で押さえながら、
小屋の中を半周していた。
原因は明白だ。
子供
「せんせー!」
子供
「こっちきてー!」
左右から引っ張られている。
助手
「順番です~!
引っ張ると伸びます~!」
言いながら、もう一人に捕まる。
助手
「あっ、だめです、
それはスカートです~!」
次の瞬間、反対側からも引っ張られる。
助手
「あれ?
人数、増えてません~!?」
一歩踏み出して、つんのめる。
助手
「わっ――!」
子供
「せんせー、だいじょぶ?」
助手
「だいじょぶです~!
回避しました~!」
言いながら、床の埃で足が滑る。
助手
「回避の反動で――っ」
先生
「助手ちゃん?
それ授業じゃないです!」
黒板代わりの板の前で、
炭を握ったまま叫ぶ。
先生
「座って!
全員、まず座ってください!」
誰も聞いていない。
子供が机に乗る。
別の子が椅子を引きずる。
一人が床に転がる。
助手
「はいはい~
一列ですよ~」
助手
「座れたらえらいです~」
完全に保育。
先生
「……」
先生は一度、深呼吸した。
先生
「……では」
炭で、板に線を書く。
先生
「――静かに(最終通告)」
にっこり。
一瞬。
……一瞬だけ、静かになる。
子供
「これ、なに?」
子供
「線だ」
子供
「へんなの」
先生
「いいですか。
これは“かたち”ではありません」
助手が、
子供を一人ひざに座らせる。
助手
「落ち着きましょうね~」
先生
「音を残すための記号です」
子供
「おと?」
子供
「きこえるやつ?」
先生
「はい。
でも、今はもう聞こえません」
子供
「え?」
先生
「さっき言った“あ”は、
もう消えました」
子供たちがざわつく。
助手
「しゃぼん玉みたいなものです~」
助手
「ぱちって消えます」
ぱち。
子供
「やりたい!」
助手
「やらなくていいです~!」
先生
「ですが」
先生は、板の文字を指す。
先生
「こうして書くと、
あとから来た人に
“ここで何かがあった”と伝えられます」
子供
「すごい!」
子供
「じゃあ、かいたらずっとある?」
先生
「……いいえ」
即答。
子供
「えー!」
先生
「消えることもあります」
助手
「先生、言い方が厳しいです~」
先生
「事実です」
揺るがない。
先生
「でも、書かなければ」
先生
「最初から“なかった”ことになります」
子供たちが、少し黙る。
助手
「だから、書きます~」
助手
「忘れないためじゃなくて」
助手
「忘れられない“かもしれない”を
残すためです」
子供
「……?」
助手
「……分からなくていいです~!」
即フォロー。
助手
「今日は、まねするだけです!」
子供たちが一斉に板へ向かう。
線は歪み、
ぐねぐねで、
太さも方向も自由。
でも、楽しそうだ。
その様子を、
小屋の入口で遺乃が見ていた。
少し離れた位置。
邪魔にならない距離。
しばらく眺めてから、
手に持っていた包みを掲げる。
遺乃
「……失礼しますわ」
声は柔らかい。
全員が、振り向く。
子供
「お姉ちゃんだ!」
子供
「なに?」
子供
「おやつ?」
遺乃は微笑んだ。
遺乃
「差し入れですの」
布を開く。
焼き菓子。
素朴だけど、甘い匂い。
遺乃
「甘いものを少し。
授業の後は、糖分が必要ですわ」
一瞬で空気が変わる。
助手
「……!」
先生
「……助かります」
子供たちに配り、
次に、二人へ。
遺乃
「どうですか?」
遺乃
「無理は、していません?」
さらに一拍。
遺乃
「……この生活は、合ってます?」
先生は少し考えてから、笑った。
先生
「とても……楽しいです」
先生
「教えるの、
好きだったんだなって
思い出しました」
助手は、即答だった。
助手
「毎日、楽しいです~」
助手
「子供も可愛いですし、
追いかけられるのも
慣れました」
先生
「それは教育課程にありません」
遺乃は、くすっと笑う。
助手
「それに……」
助手
「住む場所も用意してくださって、
本当にありがとうございました」
深く頭を下げる。
先生も続く。
先生
「本当に……
助かっています」
遺乃は、首を振った。
遺乃
「いいんですよ」
遺乃
「こちらも、
助かってますから」
視線を、子供たちへ。
文字を書く手。
笑う顔。
菓子を頬張る口。
遺乃
「それに――」
遺乃
「この子たちの顔を見たら」
ほんの少しだけ、
声が柔らぐ。
遺乃
「これが正解だったって」
遺乃
「そう、思えますの」
笑顔。
小屋の中が、また少し騒がしくなる。
炭の擦れる音。
机を引く音。
子どもたちの、揃わない声。
どれも、取るに足らない。
だからこそ――
確かに、ここに在る。
遺乃は入口の影で、それを一つぶんだけ聞いた。
一拍。
遺乃
「……ふふ」
胸の奥が、ほどける。
名も呼ばれず、
意味も問われない。
それでも朝が来て、
笑い声が生まれて、
甘いものに目が輝く。
――それで、十分。
遺乃は静かに背を向ける。
ワンピースの裾が、風に揺れた。
縫い目は新しい。
また裂けるかもしれない。
それでも、直せる。
戸の向こうで、声が弾む。
「できた!」
「みて!」
遺乃は振り返らない。
忘れ去られた村は、
今日も、変わらず進んでいる。
――遺乃が、いる限り。




