第18章 禁忌の先に立つ者(後編)
◇ タナトスロア・外縁第三区画/夜
風が落ち着いていた。
裂けていた空気は戻り、
幻影災厄の気配は――もう、ない。
区画には、荒い呼吸と汗の匂いが残っている。
剣を支えに立つ者。
瓦礫に腰を下ろし、空を見上げる者。
緊張が解けた瞬間、足から力が抜けた。
タナトスロア隊員
「……はぁ……」
――ドン。
重い音。
巨大な槌が、地面に置かれる。
区画の中央に、
ガルドが平然と立っていた。
ガルドは全体を見渡し、
鼻で笑った。
ガルド
「……おう。終わったぞ」
それだけで、張りつめていた空気が緩む。
ガルド
「約束通りだ」
一拍。
ガルド
「全員、生きてる」
誰かが、ほっと息を吐いた。
別の誰かが、笑い声を漏らす。
タナトスロア隊員
「……ほんとに……」
タナトスロア兵
「……全員、立ってる……」
ガルドは一歩前へ出て、
槌の柄を、こん、と軽く叩いた。
ガルド
「よく聞け」
間を取る。
ガルド
「俺らは――守り切った」
短く、はっきり。
ガルド
「――俺たちの勝利だ」
その瞬間。
歓声というより、笑いが弾けた。
タナトスロア隊員
「……っ、うわぁ……!」
タナトスロア隊員
「勝った……!」
タナトスロア兵
「はは……! やったな……!」
泣く者はいない。
叫ぶ者も少ない。
ただ、
「生きてる」
その実感が、じわじわ広がっていく。
ガルドはその様子を見て、
満足そうに息を吐いた。
ガルド
「いい顔だ」
一拍置いて、にやっとする。
ガルド
「全員、ちゃんと腰引けてたな」
ガルド
「逃げ腰じゃねぇ、“生き残る腰”だ」
軽口だが、評価だ。
ガルド
「……ただし」
声が少しだけ締まる。
ガルド
「へたれ込むのはいいが」
ガルド
「先に治療しようや」
◇
順番も、肩書きもない。
近くにいる者から、必要なところへ。
切り傷。
擦り傷。
打撲。
深いものはない。
“やばい傷”は、ひとつもない。
ガルド
「次。腕出せ」
ガルド
「がはは。
お前、それは勲章だな。
同僚に自慢するといい」
ガルド
「歩けるなら無理すんな。座れ」
兵の処置は、手早く終わる。
消毒して、巻いて、叩いて終わり。
ガルド
「ほら、これで十分だ」
ガルド
「明日になって痛ぇって泣くなよ」
兵
「……多分、泣きます」
ガルドは豪快に笑う。
◇
そのまま、次の腕。
差し出されたのは、
浅い裂傷と、擦れ。
ガルド
「……ほら。手、出せ」
消毒液を含ませた布を当てる。
じゅっ。
タナトスロア隊員
「……っ!」
肩が跳ねる。
ガルド
「お、いてぇか?」
一拍。
ガルド
「すまねぇ。ちょい強かったな」
距離が、近い。
声も、手も。
胸が、変な跳ね方をする。
痛みじゃない。
タナトスロア隊員
「い、いえ!」
即答。
タナトスロア隊員
「そ、そうではなくて……!」
タナトスロア隊員
「痛いのは……平気です……!」
視線が、ガルドの手元から離れない。
心臓の音が、やけにうるさい。
ガルドは気にせず、包帯を巻く。
ガルド
「ほう」
一拍。
ガルド
「なら、ちゃんと治せ」
ガルド
「次も前に出る気ならな」
留め具を留めて、軽く叩く。
ガルド
「よし」
タナトスロア隊員
「……ガルド卿」
呼びかける声は、まだ少し震えている。
タナトスロア隊員
「私……怖かったです」
タナトスロア隊員
「途中で、頭が真っ白になって……」
ガルドは、手を止めずに答える。
ガルド
「そりゃそうだ」
ガルド
「初めての数だ。怖ぇに決まってる」
一拍。
ガルド
「でもな」
顔を上げる。
ガルド
「白くなったまま、足止めなかった」
ガルド
「ちゃんと周り見て、下がる時は下がった」
短く、頷く。
ガルド
「今日、ひとつ覚えたな」
ガルド
「“自分がどこまで出ていいか”だ」
その言葉に、隊員の呼吸が整う。
タナトスロア隊員
「はいっ!」
ガルド
「それが分かりゃ、次は楽だ」
一拍。
ガルド
「強さってのはな」
ガルド
「前に出る勇気と、下がる判断だ」
◇
手当は終わり、
区画に笑い声が戻る。
ガルドは槌に手を置き、
全体を見渡した。
ガルド
「……覚えとけ」
ガルド
「生きて帰ったのは、運だけじゃねぇ」
一拍。
ガルド
「お前たちが、考えて動いた結果だ」
にやっと笑う。
ガルド
「――悪くねぇ、夜だった」
もう一度、笑いが広がった。
戦いは、確かに終わった。
◇
やがて、ガルドの周りに人が集まる。
敬意と好奇心が、自然と輪を作る。
タナトスロア隊員
「ガルド卿って……」
誰かが切り出すと、
すぐに別の声が重なる。
タナトスロア隊員
「さっきの一撃……」
タナトスロア隊員
「前線にずっといたって……」
言葉は断片的だが、熱は隠れていない。
ガルドは槌にもたれ、腕を組んだまま鼻で笑った。
ガルド
「おいおい。
人気者だな、俺は」
くすりと笑いが起きる。
ガルド
「まぁいい。
今日は敵もいねぇ」
一拍。
ガルド
「無礼講だ」
ガルド
「なんでもいい。
気になるなら、聞けや」
そしてニヤりと。
ガルド
「レイファのことでもいいぞ?」
歓声が上がる。
ガルドは周囲を見回し、低く続けた。
ガルド
「ただし――」
ガルド
「話は酒があってからだ」
顔を上げ、声を張る。
ガルド
「誰かここに酒、持ってこい
祝宴といこうや!」
小さなどよめきと、笑い声。
戦場だった区画に、
ようやく“夜”が戻ってきた。
ふと、誰かが空を見上げる。
星は静かで、何事もない顔をしている。
——同じ夜の下で。
まだ、終わっていない場所があることを、
この場の誰も知らない。
◇ 街道・サイト1視界圏(廃墟輪郭)/夜
――消えた。
雛の視界から、百音の輪郭だけが抜け落ちる。
足音もない。
気配も、熱も、殺意も――一拍だけ「数えられない」。
百音
「誰もいなくなった」
その言葉が成立した瞬間、
雛の背中を、冷たいものが這った。
“いない”のではない。
“最初から、存在として数えられていない”。
理屈は分かる。
だが、身体の反応が一拍遅れる。
――来る。
雛は、
背中の黒羽を一枚、
強く弾いた。
羽根が一直線に空間を切り裂く。
進路そのものを断つ、
迎撃用の一閃。
だが。
その“断線”の外側から、刃が滑り込んだ。
キン――。
視認した時点で遅い角度。
いや、見えていても、反応が追いつかない角度。
雛の頬が、浅く裂ける。
雛は眉一つ動かさない。
血が、細い線になって落ちた。
雛
「……へぇ」
百音
「痛いですか?」
声は柔らかい。
距離が、異様に近い。
雛のすぐ横。
“触れられる距離”。
百音はすでに、次の工程に入っている。
《もう一度、貴女に》。
攻撃ではない。
距離が成立した瞬間、
抵抗や回避という“前提”そのものを奪う。
雛の身体が、わずかに強張る。
雛
「……面倒な技ね」
百音
「でも、優しいですよ」
百音
「痛みって、余計ですから」
雛は、笑わない。
雛
「……優しさの使い方が、歪んでる」
黒羽が、背中で開いた。
その瞬間、
場の温度が落ちる。
黒羽常枯。
触れていない。
それでも、周囲の“継続”が薄くなる。
呼吸。
筋肉の回復。
技を成立させるための余地。
すべてが、静かに枯れていく。
百音は一歩引いた。
引いたのに、距離が離れない。
雛の視線は、百音を捉え続けている。
雛
「白羽が言ってたわ」
雛
「ここまで強い人間は、珍しいって」
百音
「……」
雛
「たしかに、間違ってない」
雛
「あなたのこの能力、
世界にとって危険すぎる」
百音は、首を傾げた。
百音
「どうでもいいです」
百音
「私には、先生の“よしよし”があれば」
一拍。
百音
「それだけで、十分なので」
雛
「……つまらない答え」
百音
「褒められるの、好きなんです」
次の瞬間。
百音が踏み込む。
完全な殺しの間合い。
雛は即座に後退――
否、上昇した。
黒羽が一気に展開され、
身体が宙へ浮く。
地面との距離が、決定的に開く。
雛
「……その距離は、もう危険ね」
次の刹那。
黒羽枯雨。
無数の黒い羽根が、夜空から降り注ぐ。
逃げ場を削るように、隙間なく。
百音は、当たらない。
跳び。
転がり。
瓦礫を蹴り、影を使い、
致命域から外れ続ける。
だが。
回避するたび、
百音の呼吸が、確実に重くなる。
枯れている。
雛は、空中から百音を見下ろす。
雛
「……限界が近いわ」
百音は答えない。
代わりに。
百音は、ナイフを――
自分の腹部に突き立てた。
ざくり。
百音
「……うっ」
躊躇はない。
深く。
確実に。
血が、噴き出す。
さらに、腕。
腿。
肩口。
自分の身体を、必要な量だけ壊していく。
地面に落ちる血の量が、
明らかに異常になる。
雛の目が、細くなる。
雛
「……自傷で条件を揃える気?」
百音
「はい」
息は荒いが、声は揺れない。
百音
「あなた相手だと、血が足りないので」
百音
「でも――」
百音
「これで、必要分は揃いました」
血が、溜まる。
空気が、歪む。
《血の雨が降った》。
百音が言い切るより早く、
“赤”が、世界の前提を塗り替えた。
――ぱた。
最初の一滴は、雨音みたいに小さい。
だが次の瞬間。
ぱた、ぱた、ぱた、ぱた、ぱた。
雨粒が増えるのではない。
空間そのものが、血の色を覚える。
夜の闇が、赤に沈む。
地面の砂利も、瓦礫の影も、空気の膜も――
ぜんぶ、血で濡れた“結果”として存在し直す。
雛の視界が、一拍遅れて赤に染まった。
(……視界じゃない)
雛は理解する。
これは“見えている”のではなく、
そうなっている。
血の匂いが、肺の奥まで差し込む。
呼吸をするたび、鉄の味が増える。
そして――
雛は、瞬きをした。
その瞬間。
視界の端に、
白羽と、倒れたままのスレイが映る。
――まずい
思考が形になる前に、
身体が前へ出ていた。
背中の黒羽が、弾けるように広がる。
次の瞬間、
世界が裏返った。
落下の感覚はない。
衝撃だけが、結果として来る。
――ごん。
雛は、地面に叩きつけられた。
雛
「――っ、あ゛……!!」
声にならない叫びが漏れる。
全身が、血で“打たれている”。
噴き出したのではない。
裂けたのでもない。
皮膚の内側から、
最初からそうだったかのように、
血が滲み出てくる。
腕。
腹部。
太腿。
背中。
雛の全身から、同時に血が溢れた。
殺害が“すでに成立した空間”。
呼吸が詰まる。
筋肉が、命令を受け付けない。
それでも――
意識は、沈まない。
雛の背中は、
白羽とスレイの前に落ちていた。
黒羽常枯が、大きく揺らぐ。
枯らすはずの“継続”が、逆に削られていく。
百音が、ゆっくりと近づいてくる。
赤い世界の中で、足音だけが乾いている。
百音
「……この技を受けて」
一拍。
百音
「まだ生きているなんて」
百音
「本当に、驚きです」
百音
「でも、守るものがある人って――」
一拍。
百音
「弱いですね」
声音は柔らかい。
けれど言葉は、鋭い。
雛は、血に濡れたまま顔を上げた。
目は冷たい。
揺れていない。
雛
「……羨ましいなら、真似すればいい」
百音
「別に羨ましくはないです」
即答。
百音
「私は、先生だけいればいいので」
雛
「なら――」
雛は、
息を整えるように小さく吐く。
血の雨の世界で、
その吐息だけが白く見えた。
雛
「あなたは、最後まで“ひとり”ね」
百音の瞳が、ほんの一瞬だけ細くなる。
だが、すぐ戻る。
百音
「ひとりでも、殺せますよ?」
百音のナイフが、赤に濡れた光を返す。
距離は、もう“触れられる距離”。
雛は、立ち上がれない。
それでも、背中の黒羽が――静かに“形”を変える。
黒が、わずかに白へ反転しはじめる。
白い羽根が、灯りみたいに浮かび上がる。
夜を照らすというより、
夜を終わらせる白。
雛は視線を逸らさないまま、
静かに目を閉じる。
雛
(……ヴォイドさん)
ここにいない相手へ。
雛
(枯滅のこの力――
大切なものを、守るために使います)
白い羽根が、さらに広がる。
赤い世界の上に、白い静寂が重なる。
血の雨が音を失った。
匂いが薄れる。
赤が意味を失い始める。
雛
「生滅終焉――」
声が落ちる。
雛
「《白夜》」
――白。
音が、消えた。
赤かったはずの世界が、
輪郭だけを残して色を失っていく。
血は、そこにある。
だが、匂わない。
流れない。
痛みへと、繋がらない。
百音は、その場に立ったまま、
一歩も動けずにいた。
百音
「……っ……」
息を吸おうとして、喉が鳴る。
だが、肺まで届かない。
胸の奥が、焼けるように重い。
視界が、わずかに揺れた。
白夜の中で、
百音の存在だけが、取り残されている。
力が出ない。
技が、組み上がらない。
血を呼ぶ感覚が――
もう、どこにもない。
百音
「……は……っ……ぁ……」
膝が、かすかに折れる。
倒れない。
だが、踏みとどまれない。
――続けられない。
殺せない。
避けられない。
終わらせることすら、できない。
百音は、そこで理解した。
これは攻撃ではない。
防御でもない。
「この場で、これ以上は何も起きない」
――その状態そのものが、確定している。
指先から、力が抜けた。
かちん、と。
ナイフが、地面に落ちる。
百音
「力が……うまく……」
拾おうとして、手が動かない。
握力がない。
感覚が、戻らない。
白夜は、何も奪わない。
だが――
力が使える“先”がなくなった。
百音は立っている。
だが、それだけだ。
白夜の残滓が、空気に薄く漂う。
赤も、黒も、意味を失ったまま。
百音は、浅く、短く呼吸を繰り返す。
吸っているのか、
吐いているのかも曖昧なほどに。
百音
「……は……っ……」
一歩、下がる。
膝が、わずかに揺れた。
生きている。
だが――
“続けられない”。
それが、はっきりと分かる。
百音
「……参りました」
その声には、初めて余裕がなかった。
負けを認める声音でもない。
ただ、
これ以上は“無理だ”という、事実の確認。
百音は、夜を見渡し、
そして、雛を見る。
百音
「……守るために、終わらせない」
息を吸おうとして、失敗する。
百音
「……なるほど……」
小さく、笑ったようにも見えた。
百音
「それは……ずるいですね……」
視線が、かすかに揺れる。
百音
「……これにて――」
一拍。
肺が、悲鳴を上げる。
百音
「……終幕、ですね……」
そう呟きながら、
百音は震える手で、小さな筒を放った。
地面に転がる。
――ぱん。
白い煙が、一気に広がった。
視界が、完全に遮断される。
白夜の白とは違う、
現実の、逃走のための白。
数秒。
煙が、風に引き裂かれる頃には――
そこに、百音の姿はなかった。
血の匂いも、
気配も、
呼吸の痕も――残っていない。
夜が、完全に戻っていた。
雛は、しばらくその場に立ったまま、
百音が消えた方向を見ていた。
――勝った。
追撃は必要ない。
もう、続けられないことは分かっている。
雛は、静かに視線を動かし、
白羽の方を向いた。
一歩、踏み出す。
その瞬間、身体が大きく揺れた。
膝から力が抜け、
前へ倒れそうになる。
白羽
「雛……!」
白羽が駆け寄り、
崩れる前に抱き留める。
雛の身体は軽く、
力がほとんど残っていない。
白羽
「……無茶、しすぎ……」
責める声ではない。
ようやく追いついた者の、遅れた実感。
雛は、白羽の腕の中で、
わずかに首を振った。
雛
「……大丈夫」
声は小さいが、はっきりしている。
白羽
「……嘘」
短く。
それでも、どこか安堵が混じっていた。
返事はそれきりだったが、
雛は意識を失っていない。
浅い呼吸が、腕の中で続いている。
白い羽根が、音もなく消えていく。
黒い羽も、力を失い、影のように薄れる。
枯滅は、完全に沈黙した。
白羽は、雛を抱いたまま、
腕にそっと力を込める。
強くはしない。
だが、離さない。
前と同じだ。
スレイを支えたときと、同じ力加減。
世界は、確かに動き出していた。
血は血として地面に落ち、
風は風として吹き抜け、
夜は、ただの夜に戻る。
雛は、白羽の腕の中で、
最後にもう一度だけ視線を巡らせた。
白羽。
スレイ。
――生きている。
それを確認してから、
深く、息を吐く。
雛
「……守れた……」
勝利宣言ではない。
誇示でもない。
ただ、
ここで終わらせなかったという事実。
それが、
この戦いの結論だった。
夜空は高く、
星は何事もなかったように瞬いている。
戦いは、終わった。
そしてこの夜は、
雛にとって、確かな“勝利”として
静かに残り続けていた。
◇ 因果観測第1研究所《サイト1》/地下研究区画・第一研究室
白い室内は、白いままだった。
天井も、壁も、床も。
均一で、清潔で――
だからこそ、
片づけの音だけが、やけに目立つ。
中央の台座。
歪な鉱石に刺さっていたケーブルは、
もう一本もない。
脈動していた光も、
薄い残光になって消えかけていた。
モニタには、最後のログ。
再生成フェーズ:終了。
因果固定:解除。
外部投射:停止。
――すべて、終わった。
研究員は五名。
誰もが黙々と器具を戻し、
端末を閉じてケーブルを束ねていく。
癖みたいに、手だけが動く。
リゼは机に端末を置いた。
画面には、振込完了の通知が並ぶ。
研究員A
「……全員分、確認しました」
研究員B
「報酬、確かに入ってます。これ……」
研究員C
「……局長。金額、やりすぎです」
研究員D
「口止め料って言われても納得しますよ、これ……」
リゼは、くすっと笑った。
怒られたのに、ちょっと嬉しそうに。
リゼ
「口止めじゃないですよ」
一拍。
リゼ
「“最後まで付き合ってくれた報酬”です」
研究員E
「……最後、って」
その一言で、
白い部屋の温度が、すこしだけ下がる。
リゼは否定しない。
でも、怖がらせる言い方もしない。
リゼ
「ここから先は、危ないんです」
リゼ
「だから、ここで解散」
言い切って、間を置く。
“作業指示”じゃなくて、
“区切り”になるように。
リゼ
「……今まで、本当にありがとうございました」
深く頭を下げた。
局長の礼じゃない。
ひとりの人間の礼。
研究員たちは、視線を散らした。
照れと、悔しさと、
それから――たぶん、寂しさ。
研究員B
「……局長、ずるいですよ」
研究員C
「こういう時だけ、ちゃんと大人の顔する」
研究員A
「俺ら、どこまで知ってる扱いでいいんですか」
リゼは顔を上げて、笑う。
リゼ
「何も知りませんでいいです」
リゼ
「あなたたちは、雇われて、働いて、帰った」
リゼ
「それだけ」
研究員D
「……じゃあ、局長は?」
リゼは少しだけ考えるふりをして、
指を一本立てた。
リゼ
「私は……後始末係です」
軽い調子。
でも、誰も笑わない。
研究員E
「……百音さんは」
リゼは、一拍だけ黙って。
リゼ
「……戻ってきます」
即答じゃない。
でも、迷いはない。
リゼ
「大丈夫。あの子は強いから」
研究員B
「……」
研究員B
「局長」
言いかけて、飲み込む。
代わりに、紙袋を差し出した。
研究員B
「これ。非常用の医療キットと、水と……甘いの」
リゼは受け取って、袋の中を覗く。
目を細めた。
リゼ
「甘いの、助かります!」
研究員C
「そこなんだ」
研究員D
「局長、糖分で生還率上がるタイプです?」
リゼ
「ええ。私、糖分で動くので」
研究員A
「人類の進化、間違ってません?」
ようやく、笑いがこぼれる。
張りつめていた肩が、ほんの少し落ちる。
研究員A
「……局長、お願いです」
研究員A
「……生きてください」
リゼは、一瞬だけ目を丸くして。
それから、いつもの顔で笑った。
リゼ
「当然ですよ」
リゼ
「生きて、次の実験しないと」
リゼ
「だって――研究者ですから」
研究員D
「局長、最後までそういう言い方する」
リゼ
「私らしいでしょ?」
研究員C
「……でも、そうだからこそ、
ここまで付いてきたんです」
研究員E
「私もです!」
今度は、ちゃんと笑えた。
泣かないための笑いじゃない。
ただ、同じ時間を過ごした人間の笑い。
研究員E
「……じゃあ、失礼します」
一人が頭を下げると、
連鎖して全員が下げる。
儀式みたいに。
でも、それが彼らの区切りだった。
リゼも頭を下げる。
リゼ
「お気をつけて」
リゼ
「みなさん、ありがとう」
扉が開く。
白衣の背中が、順に消えていく。
最後に、研究員Bが振り返った。
研究員B
「局長」
リゼ
「はい」
研究員B
「……百音さんに、よろしくお願いします」
リゼは、ほんの一瞬だけ口元を緩めて。
リゼ
「もちろん!」
研究員B
「……それと」
言い直すみたいに。
研究員B
「局長も。ちゃんと、帰ってください」
リゼ
「…はい!」
短く。
今度は、ふざけなかった。
扉が閉じる。
静かに。
完全に。
白い部屋に残ったのは、
片づいた机と、
消えかけの残光と――
リゼの手の中の紙袋だけだった。
◇ 因果観測第1研究所《サイト1》/地下研究区画・主電源制御室
次の部屋は、白くない。
金属の匂い。
油と熱の、残り香。
壁一面の制御盤と、太いケーブルの束。
リゼは端末を接続し、淡々と操作する。
迷いのない手つき。
〈主系統:停止準備〉
〈補助系統:遮断〉
〈残留因果ログ:消去〉
〈データ保全:完了〉
リゼ
「……うん」
ひとつ、深呼吸。
そして、最後を選ぶ。
〈主電源:物理遮断〉
停止じゃない。
二度と戻らないように切る。
工具箱から、小型の熱切断器。
刃先が、淡く赤く灯った。
リゼ
「ごめんね、サイト1」
独り言。
研究所に向けたのか、
過去の自分に向けたのか。
ケーブルに刃を当てる。
じゅっ。
火花。
短い焦げ臭さ。
太い線が、一本ずつ、命を失っていく。
最後の一本を切った瞬間――
低い駆動音が、ぷつりと途切れた。
世界が、少し軽くなる。
リゼ
「……これで本当に終わり」
制御盤の表示が消え、
非常灯だけが赤く点る。
残処理は、まだある。
それでも、いちばん大きいものは終わった。
リゼは床に座り込み、紙袋から水を出す。
キャップを回して、一口。
喉が痛いほど乾いていたことに、いま気づく。
リゼ
「……百音ちゃん」
小さく名前を呼ぶ。
返事はない。
静寂。
その向こうで――
かす、っと。
何かを引きずるような音。
リゼはすぐ立ち上がる。
刃物は持たない。
ただ、視線だけを鋭くする。
制御室の扉。
閉じているのに、気配が近づいてくる。
足音が、一定じゃない。
ふらついている。
擦れる音。
そして。
扉が、ぎぃ、と開いた。
薄暗い非常灯の向こうに、影が立つ。
――百音。
血で汚れた制服。
髪は乱れ、頬に乾いた跡。
足も、腕も、震えている。
そして何より――
あの気配がない。
刃の温度がない。
血の匂いが、武器になっていない。
百音は、扉の縁に手をついて、
やっと立っていた。
リゼ
「百音ちゃん……!」
駆け寄ろうとして、止まる。
怖いからじゃない。
崩れたら、受け止めきれないと思ったから。
百音は、やっと笑おうとして。
百音
「……せん、せい……」
声が掠れて、途中で途切れた。
一歩、踏み出す。
でも、膝が持たない。
百音は、その場で、へたり込んだ。
座るというより、落ちた。
そして――
堰が切れたみたいに、涙が出た。
百音
「……っ……」
百音
「わたし……」
喉が鳴る。
呼吸が追いつかない。
百音
「……もう……先生の役に、立てません……」
涙が落ちて、床の金属に小さな点を作る。
百音
「……なんにも、できない……」
両手を見下ろす。
震えているだけの手。
血を呼べない手。
刃を成立させない手。
百音
「……ごめんなさい……」
百音
「ごめんなさい、先生……っ」
その瞬間。
リゼは、考えるより先に動いていた。
膝をつき、百音の前に落ちる。
そして、抱きしめる。
強く。
でも、壊さない。
リゼ
「いいの……!」
声が震える。
理屈じゃない震え。
リゼ
「いいの、百音ちゃん……!」
百音の背中が跳ねた。
初めて“抱き返す”みたいに、
指がリゼの白衣を掴む。
リゼ
「百音ちゃんが、生きてくれた……」
リゼ
「それだけで……私……」
言葉が続かない。
喉が詰まる。
それでも、抱く腕だけは離さない。
非常灯の赤い光が、
二人の影を床に落としていた。
研究所は死にかけている。
でも、この瞬間だけは――まだ、温度があった。
◇
非常灯の赤が、静かに瞬いている。
リゼは、百音を抱いたまま動かなかった。
急かさず、言葉も足さず、
ただ背中を、一定のリズムで撫でる。
ぽん。
ぽん。
よしよし、というより、
「ここにいるよ」と確かめるみたいに。
百音の呼吸が、少しずつ落ち着く。
肩の震えが、間を空けて止まっていく。
しばらくして、
百音が小さく息を吸った。
百音
「……先生」
リゼ
「なあに」
百音は、すぐには続けなかった。
撫でられている感触を、確かめるように、
一拍、間を置く。
百音
「……先生の、よしよし……」
百音
「……好きです」
とても小さな声。
でも、はっきりした言い方だった。
リゼの手が、一瞬だけ止まって、
すぐに、また同じリズムに戻る。
百音は、白衣をきゅっと掴んだまま続ける。
百音
「……私、もう……
能力は、ありませんけど……」
百音
「それでも……
先生のために尽くしたいです」
百音
「勉強が必要なら……しますし……
仕事とかも……また見つけて……」
言い訳でも、取り繕いでもない。
“残った自分”を、そのまま差し出すみたいに。
リゼ
「……百音ちゃん」
それから、ようやく顔を上げて、
リゼの白衣を見つめたまま、聞いた。
百音
「……先生の、目的は……」
百音
「達成、できましたか……?」
リゼは、答えに詰まる。
ほんの一瞬だけ目を泳がせて、
困ったように、半分だけ笑った。
リゼ
「……どうでしょうね」
その笑いは、誤魔化しでも嘘でもなくて、
“まだ途中”の顔だった。
百音は、その表情を見て、
静かに理解する。
百音
「……そう、ですか」
それでも、視線を落とさずに続けた。
百音
「でも……」
百音
「生きてたら……
また、やり直せますよね……」
リゼは、一拍置いてから、
今度ははっきり頷いた。
リゼ
「うん」
リゼ
「それだけは、間違いない」
リゼは、もう一度だけ百音の頭を撫でる。
最後のよしよし。
それから、ゆっくりと体を離した。
リゼ
「行きましょうか」
百音
「……はい」
肩を貸して、
歩幅を合わせて。
二人は、非常灯の通路を進む。
緑色の出口表示が、
遠くで静かに光っていた。
背後で、
サイト1は、完全に沈黙している。
それでも――
二人は、外へ向かった。
◇ 因果観測第1研究所《サイト1》外縁/夜
外は、夜だった。
非常灯の赤が届かない場所。
瓦礫と影と、冷たい空気。
リゼは、立ち止まった。
百音の歩調が乱れた瞬間、
迷いなく、一歩前に出る。
庇うように。
守るように。
百音の前に、白衣の背中。
百音
「……せ、先生……?」
その声に、振り返らない。
前方。
闇の中に、
一人の女が立っている。
レイファ。
剣は抜かれている。
構えは低い。
だが――迷いがない。
“裁く側”の立ち姿。
空気が、張り詰めた。
リゼは、静かに息を吸う。
リゼ
「……私が、全て指示したことです」
一拍。
リゼ
「ゼロ因子の持ち出し」
リゼ
「違法研究」
リゼ
「因果干渉」
言い訳はしない。
数え上げるみたいに、淡々と。
リゼ
「すべて、私の判断です」
百音の肩が、びくっと跳ねる。
百音
「……せ、先生……?」
リゼは、少しだけ首を振った。
リゼ
「百音ちゃんは、関係ありません」
リゼ
「彼女は、私の指示に従っただけ」
一歩、前へ。
白衣の裾が、夜風に揺れる。
リゼ
「命が必要なら――」
リゼ
「私を、どうぞ」
その言葉が落ちた瞬間。
百音
「……っ!?」
百音
「や……やだ……!」
足がもつれる。
リゼの背中に、縋りつこうとして。
百音
「先生、やめて……っ!」
百音
「私……!」
声が、震える。
百音
「先生がいないの、いやです……!」
リゼは、振り返らない。
ただ、ほんの少しだけ――肩を落とす。
レイファが、歩み寄る。
靴音。
一歩。
また一歩。
剣を、わずかに持ち上げる。
百音
「――やめてぇぇぇぇ!!」
叫び。
次の瞬間。
――閃光。
風を切る音。
鋭く、短く。
百音は、目を閉じた。
そして――
何も、起きなかった。
衝撃も。
血の匂いも。
恐る恐る、目を開ける。
そこにあったのは――
リゼの白衣。
胸元。
対災厄適応局 局長の紋章だけが、
きれいに切り取られている。
レイファの手の中に、それがあった。
金属片が、静かに鳴る。
リゼは、立ったままだ。
一歩も、動いていない。
百音
「……せん、せい……?」
声が、かすれる。
百音は駆け寄る。
白衣を掴む。
確かめるみたいに。
リゼ
「……大丈夫よ」
小さく。
でも、はっきり。
レイファは、剣を収める。
そして、淡々と告げた。
レイファ
「――通告します」
一拍。
レイファ
「リゼ・アウレリア」
レイファ
「あなたを、タナトスロアより除名」
レイファ
「全階級、全権限、即時失効」
紋章を、軽く掲げる。
レイファ
「これは、その証」
夜風が、吹き抜けた。
百音は、まだリゼに縋ったまま、
状況を飲み込めずにいる。
リゼは――
静かに、目を伏せた。
生きている。
けれど、もう戻れない場所がある。
その境界線が、
今、はっきりと引かれた。
◇
夜風が、瓦礫の間を抜けていく。
リゼは百音を背に庇ったまま、動かない。
白衣の胸元に、もう紋章はない。
レイファは、
二人に背を向けたまま、
静かに口を開いた。
レイファ
「本来であれば」
レイファ
「貴女達はここで処刑されるべき大罪人です」
リゼ
「……ええ」
否定しない。
言い訳もしない。
レイファ
「ですが――」
一拍。
レイファ
「今から私は、罪を犯します」
百音が、息を呑む音がした。
百音
「……え……?」
レイファ
「大罪人を目の前にして見逃す、
裁定者として最低の行為です」
リゼは、わずかに目を伏せる。
リゼ
「レイファちゃん……」
一瞬、間が空く。
その間に、夜の音だけが流れ込む。
レイファは、まだ背を向けたまま。
声だけが、ほんの少し低くなる。
レイファ
「……ここに来る直前に、
お父様に言われました」
レイファ
「『友達を、救ってこい』って」
言葉が落ちた瞬間、
リゼの呼吸が、ほんの少しだけ止まる。
リゼ
(……ガルド卿)
百音は、意味を追いきれないまま、
白衣の背中を見つめた。
レイファ
「……私は、友達のあなたを、
ここで終わらせたくない」
レイファ
「……それだけの理由で、見逃します」
レイファ
「だから、私も共犯」
リゼ
「……」
その沈黙が、答えになった。
レイファ
「……覚えていますか?」
空を見上げるレイファ。
レイファ
「まだタナトスロアが
立ち上がってすぐの頃」
レイファ
「訓練明けにお腹が空いてしまって」
レイファ
「食堂に忍び込んで、
勝手に料理を盗んだ事件」
リゼ
「……はい。
しっかりと覚えてます。
あれは、あなたが見張り役でしたね」
レイファ
「ええ。それで、盛大に失敗して、
二人して油まみれで捕まりました」
ほんの一瞬。
声が、少しだけ柔らぐ。
レイファ
「あのとき、私ね。
“規則通りに注意しなきゃ”って思ってたのに」
レイファ
「笑いそうになって、必死でこらえて」
レイファ
「……あなたのイタズラに、
加担しちゃったんですよね」
リゼ
「あの時のレイファちゃん、
すごくノリノリでしたけどね」
レイファは、短く息を吐いた。
レイファ
「昔からあなたは
規則よりも、
“確かめる”方を選ぶ人でしたね」
リゼ
「……それって、褒めてます?」
レイファ
「いいえ」
一拍。
レイファ
「叱ってます」
即答。
でも、そこで終わらない。
レイファ
「……でも、叱れるのは」
レイファ
「今も、友達だと思ってるからです」
百音の肩が、びくりと揺れる。
百音
「……とも、だち……」
レイファは、ようやく振り返らないまま続けた。
レイファ
「ここに来る前、
ヴォイドさんとすれ違いました」
百音が、びくりと肩を揺らす。
レイファ
「あなたが、なぜそこまでしたのかを
聞きました」
リゼは、何も言わない。
ただ、黙って受け取る。
レイファ
「私は、あなたのやったことに
賛同するつもりはありません」
きっぱりと。
レイファ
「ですが」
レイファ
「この世界には、
必要な人だと思っています」
リゼ
「……ずいぶんな賭けですね」
レイファ
「ええ」
一呼吸を置いて。
レイファ
「影と陽、表と裏」
レイファ
「どちらかだけで
世界が回ると思っている人は――」
レイファ
「現場を知らない」
リゼ
「……」
レイファ
「あなたは、現場で、確かめた」
レイファ
「だから――」
レイファ
「生きて、続きをやりなさい」
一拍。
レイファは、肩越しに、ほんの少しだけ笑う。
レイファ
「本当に……
私も悪い女ですよ」
そこで、ようやく振り返った。
レイファ
「こちらをどうぞ」
差し出される、小さなケース。
レイファ
「ヴォイドさんから預かりました」
レイファ
「行くところがなかったら、そこへ」
百音
「先生……」
レイファ
「それから」
視線が、鋭くなる。
ここだけは、長官の目に戻る。
レイファ
「今後、民衆に軽々しく顔を見せないように」
レイファ
「公には――
貴女たちは処刑したことにします」
レイファ
「恨みを持っている人も多いでしょう」
百音
「………」
声を上げかけて、喉で止まる。
リゼは、ゆっくりと息を吐いた。
リゼ
「……レイファちゃん。ありがとう」
レイファ
「感謝される筋合いではありません」
一歩、後ろへ。
レイファ
「ただの、罪ですから」
そして、最後に。
レイファ
「……また世界が、めぐり合わせたら」
ほんの一瞬だけ、微笑んだ気がした。
レイファ
「どこかで、会うかもしれませんね」
視線が、二人を順に捉える。
レイファ
「では――」
レイファ
「リゼ、
そして、百音」
一拍。
レイファ
「さようなら」
そのまま、闇へ。
足音は遠ざからず、
最初から存在しなかったみたいに、
ただ“いなくなった”。
夜だけが、残る。
百音は、震える息を吸って、リゼの白衣を掴んだ。
百音
「……先生……」
リゼは、何も言わずに百音の頭を抱き寄せる。
よしよし、と。
いつもより、少しだけ強く。
世界は、確かに回った。
残酷に。
でも――止まらなかった。
二人は、まだ生きている。
◇ エピローグ
夜は、静かだった。
戦いの痕も、判断の重みも、すべてが地面に沈み、
今はただ、空だけが等しく広がっている。
◇◆◇ ガルド ◇◆◇
焚き火は、まだ消えていない。
火を囲むように、
隊員たちが思い思いに腰を下ろしている。
鎧を脱ぎ、武器を脇に置き、
鍋を囲み、酒を分け合い、
誰かが大げさに身振りを交えて話せば、
周囲から笑い声と野次が飛ぶ。
ガルドは、その輪の少し外に腰を下ろし、
肘を膝に乗せて様子を眺めている。
隊員の一人が、身振り手振りで戦闘の真似をし、
別の者が「盛りすぎだ」と突っ込み、
それにまた別の者が噛みつく。
くだらなくて、
どうでもよくて、
それでも――生きている証みたいな時間。
ふいに、誰かが空を見上げた。
次々に視線が連なり、
焚き火の赤が、顔を照らす。
夜空を、流れ星が横切った。
歓声が上がり、
慌てて手を合わせる者、
目を閉じる者、
何を願うかで揉める者。
ガルドは、その様子を見て、
喉の奥で、低く笑った。
守ったものが、
ちゃんと“ここにある”。
そう思える夜だった。
◇◆◇ 白羽 ◇◆◇
瓦礫の上。
冷えた石に、三人は近い距離で立っている。
最初はただ空を見ていた。
だが、気づけば――距離が近すぎた。
白羽の左右で、
二人の視線が、正面でぶつかる。
静かな火花。
次の瞬間、
同時に白羽の腕を引いた。
体勢が崩れ、
白羽は一歩よろける。
困ったように手を振るが、
二人は聞く気がない。
もう一度、引き合い。
さらに、引き合い。
白羽は、とうとう足を止める。
小さく息を吐き、
両手を、それぞれの胸に突き出した。
衝撃。
二人の身体が、同時に宙を舞う。
瓦礫の上に、派手に転がる。
白羽は肩を落とす。
やれやれ、という仕草。
――だが。
数秒もしないうちに、
二人は何事もなかったように起き上がり、
また白羽の左右へ戻ってくる。
白羽は、もう諦めたように空を見上げた。
そのとき。
夜空を、流れ星が走った。
三人の動きが、ぴたりと止まる。
競うような気配は消え、
同時に空を仰ぐ。
誰が言い出すでもなく、
三人とも、手を合わせた。
星は、あっという間に消える。
それでも、
しばらくそのまま、空を見上げていた。
◇◆◇ ヴォイド ◇◆◇
夜の街道。
瓦礫の影を縫うように、
二つの影が並んで伸びている。
一つは大きく、
もう一つは、その肩の上で揺れていた。
ヴォイドの歩幅は一定だ。
その上で、
小さな身体が景色を見下ろしている。
肩車。
慣れた重さ。
もう何度も、そうしてきたみたいに。
高い位置から、
小さな手が、時折、
ヴォイドの髪を撫でる。
よしよし、というより、
そこにあることを確かめる仕草。
足音は一つ。
呼吸は二つ。
どちらも、穏やかだ。
その静けさを破ったのは――
蹄の音だった。
風を切るように、
一頭の馬が駆けてくる。
ヴォイドが足を止めるより早く、
その背から、人影が跳ぶ。
勢いのまま、
ヴォイドの胸に――抱きついた。
腕が回り、
顔が埋もれ、
震えが、そのまま伝わってくる。
ヴォイドは、
肩の上の重さを崩さないまま、
もう一方の腕で、静かに受け止めた。
高い位置から、
小さな手が伸びる。
頭を撫でる。
少し不器用に。
それでも、はっきりと。
大丈夫、と言う代わりに。
やがて、
胸元に埋もれていた顔が、ゆっくり上がる。
その視線の先で、
夜空を、流れ星が横切った。
肩の上と、
胸の中。
二つの小さな手が、
ほとんど同時に合わせられる。
ヴォイドは、
その重さと温度を感じながら、
静かに目を閉じた。
願いではなく、
今を、確かめるために。
◇◆◇ リゼ ◇◆◇
夜の森。
小さな焚き火が、静かに燃えている。
百音は火のそばにしゃがみ込み、
簡素な食材を刻んでいた。
焚き火の明かり。
慣れない刃物。
リゼは少し離れた場所から、
その手元を見ている。
視線が落ち着かない。
指先が動くたび、
無意識に一歩近づいてしまう。
百音は気づいて、
ほんの少しだけ手の動きをゆっくりにした。
やがて、
素朴な料理が出来上がる。
百音が差し出し、
リゼが受け取る。
湯気の向こうで、
一口。
一瞬の間。
それから、
リゼの表情がほどけた。
「……おいしい」
思ったよりも、
ずっと素直な声。
百音は驚いたように瞬きして、
次の瞬間、にこっと笑った。
飾りのない、
安心した笑顔。
リゼはその表情を見て、
なぜか少しだけ照れたように視線を逸らす。
二人並んで腰を下ろし、
焚き火の前で食べる。
そのとき、
森の上を一筋の光が走った。
流れ星。
百音は顔を上げ、
胸の前で手を組む。
迷いのない目。
それは祈りではなく、決意の色。
リゼは何も言わず、
その横で夜空を見つめている。
星が消えたあと、
百音はそっと、リゼに身体を預けた。
リゼは受け止める。
自然な動作で。
焚き火が、
静かに燃え続けている。
二人は、もう、
歩き出す準備が整っていた。
◇
同じ夜。
同じ空。
それぞれの場所で、
それぞれの形で、
同じ流れ星を見上げていた。
世界は、続いていく。
優しくはない。
それでも。
この夜を越えた者たちは、
確かに――前へ進んでいた。
タナトスロア編・完結




