第14章 Forbidden Contact(フォビドゥン・コンタクト)(前編)
◇ スヴォーク湿原/昼
湿った風が、
肌をなぞるように吹き抜けていく。
空気そのものが水気を含んでいて、
呼吸するたび、肺の奥がじっとりと重くなった。
足元は、まともな地面ではない。
一歩踏み出すたび、
ぬちゃりと生々しい音がして、
泥水が靴の縁から跳ね上がる。
白羽のブーツは、
もう元の色が思い出せない。
白羽
「あの……
ここ、本当に道
なんですよね……?」
足を引き抜く。
べとっ。
一瞬遅れて、
泥が名残惜しそうに伸び、
ようやく離れる。
べとっ。
白羽
「うぇぇ……
気持ちわるいよぉ……」
スカートの裾は、
太ももに貼りつく寸前まで湿り、
足首から上へ、
じわじわと冷たさが這い上がってくる。
シオン
「……ぺたぺた……
歩きにくい……」
小さく足を上げ、
確かめるように下ろす。
ぬち。
スレイ
「ね、白羽ちゃん?
シオン?」
楽しそうに、
一歩、前へ。
ずぶっ。
スレイ
「あ、これさ。
完全に捕まってるんだけど」
ニーハイの上、
素肌との境目を指でなぞる。
白羽
「へ、変な言い方しないでください!」
スレイ
「だって事実じゃない?」
脚を引く。
ずるっ、ぬちっ。
泥が、
名残を惜しむように
肌に吸いつく。
白羽
「見せなくていいです!!」
シオン
「……どろ……
いっぱい……」
スレイ
「でしょ?
これ、完全に下半身集中攻撃よ」
白羽
「集中攻撃って……」
さらに悪ノリ。
濡れた脚を、
わざと強調するように前へ。
ずぶ、ぬち。
白羽
「見せないでください!!」
シオン
「……あし……
つかまれてる……」
スレイ
「しかもさ、
歩くたびに、
ぬめっと――」
さらに一歩。
ずぶぶっ。
スレイ
「――っ♡」
白羽
「!?」
スレイ
「ち、違っ……!
今のは、その……」
一瞬、言い淀む。
スレイ
「湿原の吸着力が、
想定以上だっただけだから!」
白羽
「言い訳が全部ダメです!!」
スレイ
「いや、だってほら」
足を引く。
ずるっ、ぬちっ。
スレイ
「これ、完全に
脚から感覚持ってかれるやつよ」
白羽
「説明しないでください!!」
スレイは笑いながら、
ふと白羽を見た。
一拍。
スレイ
「……っていうかさ」
白羽
「な、なんですか……」
視線が、自然に下へ落ちる。
泥で濡れたブーツ。
スカートの裾。
重さに引かれて、太ももに沿う布。
スレイ
「白羽ちゃんも、
今かなり危ない状態じゃない?」
白羽
「は……?」
スレイ
「歩くたびに、
スカートが張りついて」
白羽の足が沈む。
ぬちっ。
スレイ
「音と一緒に、
太ももまで自己主張してる」
白羽
「そ、そんな見方しないでください!!」
慌てて、両手で裾を押さえる。
白羽
「そういうの……
教育に悪いです!!」
きっぱり。
スレイ
「……」
一瞬、間。
スレイ
「教育って……」
くすっ。
白羽
「笑わないでください!!」
スレイは、
まだ止まらない。
ふっと、視線を横に流す。
――シオン。
小さな体。
泥で重くなったスカート。
足元を気にして、動けずにいる。
スレイ
「……じゃあさ、シオ――」
その瞬間。
がしっ。
スレイ
「……あ」
ヴォイド
「……限度を知れ」
次の瞬間。
――投擲。
どっぱぁん!!
スレイ
「ぶはぁっ!?!?」
盛大な水音。
泥水が跳ね、
湿原が一斉にざわめく。
白羽
「スレイさーーん!!」
シオン
「……すごい音……」
スレイ
「げほっ……!
ちょっと!!
今のは完全に人権侵害でしょ!!」
這い上がる。
全身、
ぴったり張り付いた服。
スレイ
「み、見ないで!!
見たら呪うから!!」
白羽
「見なくても目に入ります!!」
シオン
「……すけすけ……」
スレイ
「評価しなくていい!!」
ヴォイドは前を向いたまま。
ヴォイド
「進むぞ」
スレイ
「……あんたねぇ!!」
びしょびしょのまま、
指を突きつける。
スレイ
「あとで絶対、
“泥濘ハラスメント”として
正式に抗議するから覚悟しなさい!!」
白羽
「そんな項目ありません!!」
シオン
「……はらすめんと……?」
スレイ
「ないなら作らせる!!」
霧の向こう、
因果観測第2研究所《サイト2》が、
無言で佇んでいた。
◇ スヴォーク湿原外縁/森道
湿原を抜けた。
――はずだった。
白羽は、
一歩、地面を踏みしめてから、
ゆっくりと息を吐く。
白羽
「……ぬかるみ、
終わりました……よね……?」
足元を見る。
泥。
跳ね。
染み。
もう、
何色だったのか思い出せない。
その横で、
シオンも立ち止まっている。
自分の服を、
じっと見下ろす。
シオン
「……どろ……
いっぱい……」
一拍。
スレイは、
二人の様子を見渡してから――
自分の腕、脚、服、全部を確認して。
そして。
スレイ
「……ねえ」
声が、やけに落ち着いている。
白羽
「は、はい……?」
スレイ
「これさ」
片手を広げる。
スレイ
「客観的に見て、
可愛い女の子三人が
全身泥まみれって状況、
どう思う?」
白羽
「えっ……!?」
シオン
「……シオン、かわいい……?」
スレイ
「そこは自覚しなくていい!」
白羽は、
慌てて自分の袖を見る。
白羽
「い、いえ……
その……
かわいい以前に……」
スレイ
「うん」
即答。
スレイ
「可愛さ、
完全に泥に負けてるわよね」
白羽
「言わないでください……!」
シオンは、
自分のスカートを、
ちょん、と引っ張る。
ぺた。
シオン
「……おもい……」
白羽は、
視線を逸らしながら、
小さく声を絞り出す。
白羽
「あ、あの……
私たち、これから
研究所に行くんですよね?」
スレイ
「行くわよ」
一拍。
スレイ
「この格好でね」
白羽
「……っ」
想像する。
整然とした研究施設。
無機質な入口。
そこで――
泥まみれの三人。
白羽
「第一印象……」
スレイ
「最悪」
即断。
スレイは、
深くため息をついてから、
空を仰ぐ。
スレイ
「はぁ……
なんで私たち、
“可愛い女の子”って属性を
ここで全部捨ててるのよ……」
白羽
「す、捨ててはいません……!
たぶんですけど」
シオン
「……落としたなら、
ひろえばいい……」
白羽
「拾えるものじゃありません!」
そのとき。
前を歩いていたヴォイドが、
足を止めた。
振り返る。
泥まみれの三人。
全員、
手足に重力を感じている。
ヴォイド
「……問題か」
スレイ
「大問題よ」
即答。
スレイ
「今ここにいるの、
武装部隊じゃなくて
“泥に敗北した可愛い女の子三人”だから」
白羽
「言語化しないでください!」
シオン
「……まけた……」
ヴォイドは、
一拍だけ黙ってから。
ヴォイド
「洗えばいい」
スレイ
「今すぐ!?」
ヴォイド
「後でだ」
スレイ
「じゃあ今は!?」
ヴォイド
「進む」
白羽
「強行突破ですね……」
シオン
「……どろ……
つれてく……」
スレイ
「湿原、
最後まで執念深いわね……」
視線の先。
森が途切れ、
霧の向こうに――
灰色の建物が姿を現す。
ぺた。
――可愛い女の子たちは、
まだ、
湿原を引きずっていた。
そしてそれを、
研究所は、
黙って見ていた。
◇ 因果観測第2研究所《サイト2》/正面入口
建物は、
近くで見ると、なお無機質だった。
灰色の外壁。
装飾のない正面扉。
人の出入りを想定していない静けさ。
白羽が、
一歩、近づく。
白羽
「……あの……」
反応は、すぐにあった。
低い電子音。
淡々とした、無機質な声。
《認証が必要です》
扉は、動かない。
スレイ
「……ロック、かかってるわね」
白羽
「研究所なのに……
人、いないんでしょうか……?」
ヴォイドは、
扉を一瞥しただけで、
それ以上近づかなかった。
ヴォイド
「……稼働中だ」
シオン
「……ひと……
いる……?」
ヴォイド
「いる」
断言。
スレイ
「でも、
歓迎されてる感じは
ゼロね」
白羽は、
建物の側面に視線を走らせる。
外壁は続いている。
だが――
白羽
「あ……」
少し離れた位置。
森との境目近くに、
小さな搬入口らしき構造が見えた。
完全には閉じられていない。
内側から、
微かに光が漏れている。
白羽
「……裏、
回れそうです」
スレイ
「点検用かな。
人が使う想定は
されてないけど……」
白羽
「入れないよりは……」
ヴォイド
「……待て」
一拍。
ヴォイド
「この施設には、
明確な悪意がある」
ヴォイド
「もし、戦闘になったら、
確実に回避しろ」
一拍。
ヴォイド
「用心しておけ。」
白羽
「は、はい!」
スレイ
「すぐに戻るって」
白羽とスレイは、
建物の側面へと歩き出す。
背後で、
砂利を踏む音。
シオンが、
振り返った。
シオン
「……ぱぱ……
まってる……?」
ヴォイド
「……すぐだ」
短く。
白羽は、
そのやり取りを背中で聞きながら、
少しだけ胸が軽くなった。
白羽とスレイは、
建物の側面へと歩き出す。
◇
裏手へ回ると、
配管と外壁が複雑に絡み合っていた。
足場は悪く、
照明もない。
スレイ
「これ、
すぐ見つかる感じじゃ
ないわね」
白羽
「点検口……多すぎます」
錆びた扉。
閉じたハッチ。
番号の消えたプレート。
一つ一つ、
確認していくしかなかった。
時間が、
じわじわと削られていく。
◇
ようやく見つけた搬入口は、
建物の影に埋もれるようにあった。
スレイ
「なんとか入れそうね。
ロックは……甘い」
白羽
「じゃあ、
一度正面に戻って――」
スレイ
「合流してから、
こっちね」
二人は、
急ぎ足で正面へ戻る。
◇
だが。
白羽
「……?」
そこに――
二人の姿は、なかった。
ヴォイドも。
シオンも。
扉は、
相変わらず閉じたまま。
白羽
「え?あれ?
い、いない……?」
白羽は、
さっきまでのやり取りを思い返す。
――すぐだ。
その言葉だけが、
胸に残った。
スレイ
「…………」
スレイは一瞬、
きょろきょろと周囲を見る。
スレイ
「ちょっと待って。
もしかしてこれ……」
白羽
「ま、待ってください。
嫌な予感しかしません」
スレイ
「ヴォイドさんとシオン、
幻だった説」
白羽
「そんなわけないでしょう!!」
即ツッコミ。
白羽
「幻があんな堂々と歩きませんし、
シオンちゃんが
あんなに泥まみれになる幻、
聞いたことありません!!」
スレイ
「……確かに」
素直に納得する。
スレイ
「幻にしては、
情報量が多すぎるわね」
白羽
「そもそも
そんな幻、見たくないです……」
二人して、
改めて周囲を見る。
白羽
「じゃあ、
一体どこに……?」
スレイ
「うーん……」
少しだけ、
真面目な顔。
スレイ
「少なくとも、
ここで消えた感じじゃない」
白羽
「……」
スレイ
「正面は相変わらずロック状態。
だったら……」
白羽
「中、ですよね……」
スレイ
「たぶん」
白羽
「ここで、待ちますか?」
小さく。
スレイは、
肩をすくめる。
スレイ
「待ってても、
扉は開かないし」
スレイ
「ヴォイドさんなら、
状況見て勝手に動くでしょ」
白羽
「…………」
否定できない。
白羽は、さっき見つけた
裏手の搬入口を思い出す。
建物の影に隠れていた、あの場所。
白羽
「となると」
白羽
「私たちも、
進むしかない、ですね」
スレイ
「そういうこと」
軽く。
二人は、
再び建物の側面へ向かう。
その背後。
研究所の上階、
ガラス越しの影が、
一つ――
静かに動いたことに、
二人は、
まだ気づかない。
◇ 因果観測第2研究所《サイト2》/待合室
一方、その頃。
研究所の待合室。
白く整えられた空間――
だが今は、
落ち着くという概念が消えていた。
原因は明白。
ソファに座るヴォイド。
その前に、
若い女性研究員が三人。
距離、近い。
誰も下がらない。
女性研究員(距離感バグ系)
「お兄さん、
身体凄くガッチリしてません!?」
言いながら、
自然に――
がし。
腕を掴む。
距離感バグ系
「え、硬っ。
これは……
触らないと分からないやつですね」
女性研究員(しっかり系)
「ちょっと!
それ、ずるい!」
即、
距離感バグ系の手首を掴んで引きはがす。
しっかり系
「独占は禁止です!」
距離感バグ系
「えー、
だってもう掴んでたし!」
女性研究員(おどおど系)
「あ、あの……
お二人とも近いです……!」
でも、
自分も一歩前。
おどおど系
「し、渋い、ですね……
落ち着いてる感じ……
素敵です……」
ヴォイドは、
紅茶を一口。
無反応。
距離感バグ系
「無反応なのがまたいい!」
しっかり系
「分かる。
余裕がある感じが……」
おどおど系
「……安心します……」
距離感バグ系
「ねえねえ、
これ聞いていい?」
一瞬、
しっかり系を見る。
距離感バグ系
「……聞くよ?」
しっかり系
「ちょっと待って!」
距離感バグ系
「ご結婚、
されてます?」
即。
しっかり系
「あんた、それ!!
抜け駆け!!」
おどおど系
「えっ、
い、今それ聞くんですか!?」
ヴォイド
「していない」
一拍。
距離感バグ系
「……え」
しっかり系
「……ちょっと待って」
おどおど系
「……い、今の……?」
距離感バグ系
「待って待って、
処理が追いつかない」
しっかり系
「答えが軽すぎるんですけど!」
距離感バグ系
「じ、じゃあ……」
距離感バグ系
「彼女は?」
しっかり系
「だから聞きすぎだって!」
ヴォイド
「いない」
一瞬の沈黙。
距離感バグ系
「それって……」
しっかり系
「今、全員に可能性が発生しましたよね?」
おどおど系
「…………」
一拍。
距離感バグ系
(自分にも、ワンチャン……?)
しっかり系
「あんた、顔に出てるって!」
おどおど系
(……心の……
準備がまだ……)
その横。
小さなソファに、
ちょこんと座るシオン。
両手でカップを包み、
ごく。
シオン
「あったかい」
三人の視線が、
一斉にそちらへ。
距離感バグ系
「なにあれ」
しっかり系
「……反則」
おどおど系
「……かわいい……」
シオンは立ち上がり、
ヴォイドのコートを掴む。
ぎゅ。
シオン
「ちなみに」
さらに。
ぎゅっ。
シオン
「……ぱぱは、
シオンの……」
距離感バグ系
「……あ」
しっかり系
「……はい、終了」
おどおど系
「……勝てません……」
ヴォイドは、
否定しない。
ただ、
自然にシオンの頭に手を置く。
ぽん。
距離感バグ系
「……詰んだ」
しっかり系
「完敗です」
おどおど系
「……尊死……」
そのとき。
ヴォイドの視線が、
ふと――
廊下の奥へ向く。
少女の影。
一瞬。
紅茶を静かに置く。
騒がしさの中で、
ただ一人、別の気配だけを捉えていた。
◇ 因果観測第2研究所《サイト2》/裏手搬入口
建物の裏側は、
正面とは違って静かだった。
森に面した壁。
配管と換気口。
人の導線とは思えない位置に、
搬入口が半開きになっていた。
白羽
「……本当に、
ここから入るんですか……?」
スレイ
「正面が開かない以上、
選択肢は一つでしょ」
白羽
「……それは……はい……」
金属扉に触れる。
冷たい。
きぃ、と小さな音を立てて、
扉が開いた。
中は薄暗く、
非常灯だけが等間隔に点いている。
スレイ
「搬入口ね。
人が通る前提じゃない」
白羽
「……余計に不安です……」
スレイ
「こういう場所ほど、
派手な罠はないわ」
白羽
「地味なのはありますよね……?」
スレイ
「あるわよ」
白羽
「即答……」
二人は中へ入る。
足音が、
妙に響いた。
白羽
「……スレイさん」
スレイ
「なに?」
白羽
「……ヴォイドさんたち、
本当に大丈夫でしょうか……」
スレイ
「平気よ」
即答。
スレイ
「あの二人が、
研究員に囲まれたくらいで
どうにかなるなら、
とっくに世界終わってる」
白羽
「……それも、
そうですね……」
そのとき。
非常灯の光が、
一瞬――揺れた。
誰かが、
通り過ぎたように。
音はない。
スレイ
「……先客がいる」
白羽
「研究員……
なのでしょうか?」
スレイ
「分からない。
でも、歓迎はされてない」
白羽
「も、戻りますか……?」
スレイ
「戻らない」
迷いなし。
スレイ
「こういう時に戻ると、
もっと面倒になる」
白羽
「分かりました……」
二人は、
視線を合わせる。
スレイ
「行くわよ」
白羽
「は、はい!」
二人は、一歩前へ踏み出した。
◇ 因果観測第2研究所《サイト2》/内部・管理区画
搬入口の先は、
思っていたよりも――普通だった。
無機質な通路。
白い壁。
天井に走る配線。
足元には清掃用のライン。
床に油や血の跡はない。
白羽
「……あれ……?」
思わず、声が漏れる。
白羽
「もっと……こう……
怪しい感じかと……」
スレイ
「分かる。
でも、ちゃんと研究所ね」
通路の脇に、ロッカーが並んでいる。
白衣。
研究用の上着。
サイズもばらばらだ。
誰かが、
ここで着替えている。
スレイ
「生活動線が生きてる。
稼働中なのは間違いないわ」
白羽
「じゃあ……
本当に研究、してる人たちが……」
スレイ
「ええ。
“悪意のない人間”も、たぶんいる」
白羽は、
歩きながら視線を巡らせる。
壁に貼られた注意書き。
簡素な掲示板。
メモ書きの走り書き。
《実験後は必ず遮断確認》
《ゼロ因子関連資料は閲覧禁止》
白羽
「……ゼロ因子……」
小さく、呟く。
白羽
「スレイさん……
X-0マテリアルって……
どんな形、なんでしょう」
スレイ
「資料でしか見たことないけど」
一拍。
スレイ
「鉱石状、って扱いね。
でも、性質的には“物”ってより
記録媒体に近い」
白羽
「……記録……?」
スレイ
「七災を観測した時に、
因果の痕跡だけが沈殿した試料。
災厄そのものじゃないし、
能動的に何かするわけでもない」
白羽
「それなら……」
スレイ
「それでも危険よ」
白羽
「どうして……?」
スレイ
「中身が、世界にとって
“扱いきれなかった情報”だから」
白羽
「情報……」
スレイ
「成立条件、挙動、歪み方……
災厄が“どうしてそう在ったか”の断片。
人が安易に覗いていいものじゃない」
白羽
「こ、怖いですね」
スレイ
「ええ。
壊れるのは、触れた物じゃなくて、
理解しようとした人間のほう」
白羽
「それを、
持ち出した人がいる……」
白羽の足取りが、
少しだけ重くなる。
白羽
「一体、どんな人なんでしょう」
スレイ
「内部の人間。
しかも、最深部に近づける立場」
白羽
「研究者……?」
スレイ
「可能性は高い」
白羽
「世界のために、
研究してた人、かもしれないのに……」
スレイ
「だからこそよ」
白羽を見る。
スレイ
「“世界のため”って言葉は、
一番、危ない」
白羽
「……」
休憩所に出る。
簡素なテーブル。
椅子。
自販機。
使いかけの紙コップ。
ぬるくなったコーヒーの匂い。
白羽
「誰か、
さっきまでいたみたいですね……」
スレイ
「日常の途中、って感じ」
白羽
「……」
白羽は、
無意識に胸元を押さえる。
白羽
「私、ちょっとだけ
安心してしまいました」
スレイ
「そうね、それでいい」
即答。
スレイ
「一旦“安心できる場所”を見ておかないと、
ここからが持たないから」
白羽
「ここから?」
スレイは、
視線を前に向ける。
通路の先。
管理用のエレベータ。
無機質な扉。
認証端末。
《地下研究区画》
スレイ
「真実は、下にあるわけ」
白羽
「…………」
エレベータの表示灯が、
静かに点いた。
その横。
誰かの気配が――
近づいてくる。
◇ 因果観測第2研究所《サイト2》/研究区画・通路
「……ところで」
声がかかる。
ヴォイドの正面。
先ほどまで待合室にいた、女性研究員の一人だった。
女性研究員(しっかり系)
「私たちの研究成果について、
ご興味はありませんか?」
ヴォイドは、
答えない。
だが、視線は外していない。
興味がないわけではない。
ただ――
判断していない。
その横。
シオンが、
一瞬だけ研究員を見て、
すぐにヴォイドを見上げた。
(これ……)
(依頼のやつ……?)
胸の奥で、
小さく警戒が鳴る。
シオン
「……ぱぱ」
裾を、きゅっと掴む。
シオン
「……いこ……?」
女性研究員は、
その様子を見て、
にこりと微笑んだ。
女性研究員(距離感バグ系)
「大丈夫大丈夫。
怖い研究じゃないですよ?」
そう言いながら、
自然に――
がし。
ヴォイドの腕を掴む。
距離感バグ系
「こっちです。
すぐそこなので」
引かれる。
ヴォイドは、
抵抗しない。
ただ、
シオンの手を離さない。
◇ 因果観測第2研究所《サイト2》/実験室
女性研究員(距離感バグ系)
「大丈夫大丈夫。
怖い研究じゃないですよ?」
そう言いながら、
自然に――
がし。
ヴォイドの腕を掴む。
距離感バグ系
「こっちです!
すぐそこなので」
引かれる。
ヴォイドは、
抵抗しない。
ただ、
シオンの手を離さなかった。
◇
実験室は、
思ったよりも狭かった。
白い壁。
低い天井。
逃げ場のない距離感。
中央には、
金属製の椅子と固定具。
用途の分からない装置。
空気が、
冷たい。
背後で――
がちゃん。
扉が閉まる。
続けて、
ロック音。
完全に、
閉じ込められた。
シオンが、
息を詰める。
シオン
「……ぱぱ……
シオン、こわい……」
声が、
震えている。
ヴォイドの袖を、
ぎゅっと掴み、
離そうとしない。
女性研究員たちは、
扉の前に並んでいた。
さっきまでの、
軽さはない。
距離も、
表情も、
一斉に切り替わっている。
しっかり系
「記録、開始しましょう」
おどおど系
「は、はい……」
端末を操作する手が、
小さく震える。
距離感バグ系は、
ヴォイドの腕を掴んだまま、
低い声で囁いた。
距離感バグ系
「動かないでくださいね」
その声音は、
優しい。
だが、
逃がす前提が存在しない。
ヴォイドは、
室内を一瞥する。
配置。
装置。
天井の構造。
シオンは、
完全に怯えていた。
小さな身体が、
ぶるぶると震える。
シオン
「……やだ……」
掠れた声。
ヴォイドは、
静かにその頭に手を置く。
ぽん。
何も言わない。
何も動かない。
しっかり系
「想定範囲内です」
淡々と。
しっかり系
「貴方たちは―――」
一拍。
しっかり系
「これで終わりです」
シオンの指が、
きゅっと強く縮む。
しっかり系
「さようなら」
その瞬間。
実験室の奥で、
低い駆動音が鳴る。
天井のノズルが、
ゆっくりと開いた。
◇ 因果観測第2研究所《サイト2》/エレベータ前・管理区画
軽い足音。
急ぐでもなく、
警戒するでもなく。
白羽が、
思わず振り返る。
白衣姿の女性が一人、
通路の奥から歩いてきていた。
年齢は十八歳前後だろうか。
淡いピンク色の髪は肩にかかるくらいで、
きちんと整えられてはいるものの、
どこか柔らかく、気の抜けた印象がある。
白衣の下は私服。
膝丈の、ゆるく揺れるスカート。
研究施設には少しだけ不釣り合いだ。
両腕には、
段ボール箱と器具ケース。
いかにも、
雑用を任されている職員の風体だった。
女性
「あ、よかった~」
間の抜けた、
のんびりした声。
女性
「そのエレベータ、
今ちょうど下りるところだったんです」
白羽
「え……?」
女性は、
にこっと笑う。
女性
「地下、行きたいんですよね?」
スレイ
「……ええ」
女性
「よかった~。
私も用事あって」
自然な仕草で、
エレベータの前を譲る。
女性
「あ、自己紹介してなかったですね。
百音っていいます」
軽く会釈。
百音
「研究員……というよりは、
庶務とか雑用担当、ですね~」
スレイ
「庶務?」
百音
「はい。
最近、人手足りなくて。
運び物とか、片付けとか、
地下の整理とか」
抱えていた箱を、
軽く持ち直す。
白羽
「あ、えっと……
白羽、です」
少し慌ててから、
ぺこりと頭を下げる。
白羽
「こちらは……
スレイさんで……」
スレイ
「どうも。
ちょっと用事があって来たの」
百音
「そうなんですね~」
にこにこ。
疑う様子は一切ない。
白羽
「あの……
正面入口のほうで、
大人の男性と女の子を
見ませんでしたか……?」
百音
「大人の男性と女の子ですか~?」
少し考えて、
首を傾げる。
百音
「うーん……
今日はあんまり人、
見てないですね~」
白羽
「……はぐれちゃった、のかな……」
百音
「かもですね~。
この研究所、
意外と広いですし」
スレイ
「因果観測第2研究所って、
普段はどんなことしてるの?」
百音
「ん~……」
少しだけ言葉を探して。
百音
「観測データの整理とか、
過去の研究記録の保管とかですね」
百音
「今は新しい実験より、
残ってるものをまとめてる感じです」
白羽
「……危ない研究とかは……?」
百音
「ないですよ~」
即答。
百音
「少なくとも、
私が触ってる範囲では」
ちょうどそのとき。
エレベータの扉が、
低い音を立てて開いた。
百音
「あ、どうぞどうぞ」
三人で乗り込む。
扉が閉まり、
静かに下降が始まる。
白羽
「ち、地下研究区画って、
ちょっと緊張します……」
百音
「分かります~。
名前がもう怖いですよね」
くすっと笑う。
百音
「でも実際は、
倉庫とか、
使われなくなった実験室が多いですよ」
スレイ
「じゃあ、
拍子抜けするかもね」
百音
「かもです~」
一拍。
百音
「あ、そういえば」
白羽
「……?」
百音
「さっき探してた人たち、
大事な人なんですか?」
白羽
「は、はい……」
少し照れたように、
視線を落とす。
スレイ
「ヴォイドさんもシオンも、
放っておくと
何するか分からないしね」
百音
「へぇ~」
柔らかく目を細める。
百音
「白羽ちゃんもスレイちゃんも、
その二人のこと、
大切に想ってるんですね~」
白羽
「そ、そんな……」
百音
「私にも、
そういう人、いるんです」
スレイ
「上司とか?」
百音
「はい。
いつも私のこと、
すごく大事にしてくれて」
白羽
「…………」
百音
「毎日一緒にいますし~」
一拍。
百音
「夜も……
激しくて、
全然眠らせてくれなくて~」
きゃっ、と
口元を押さえる。
白羽
「――っ!?」
一瞬で、
耳まで真っ赤になる。
白羽
「えええ!?」
スレイ
「!?」
思わず視線を逸らす。
頬が、はっきり赤い。
スレイ
「ま、待って。
それ、仕事の話よね?
深夜残業とか……」
百音は、
にこにこしたまま。
答えない。
白羽
「ど、どっちですか……?」
声が、
かすれる。
百音
「ふふ~」
意味ありげに、
首を傾げるだけ。
スレイ
「ちょっと!
そこで黙らないで!」
百音
「え~?
黙ってるつもり、
ないんですけど~?」
白羽
「それ、
完全にどっちにも
取れるやつじゃないですか!」
二人とも、
顔が赤いまま。
エレベータ内に、
妙な沈黙が落ちた。
下降音だけが、
やけに大きく聞こえる。
――そのとき。
低く、
減速する音。
《地下研究区画》
表示が切り替わり、
エレベータが静かに停止した。
百音
「あ、着きました~」
まるで、
何事もなかったかのように。
扉が開く。
ひんやりとした空気が、
足元から流れ込んできた。
百音
「じゃあ、
案内しますね」
自然な足取りで、
歩き出す。
白羽とスレイは、
まだ少し顔を赤らめたまま。
けれど、
今さら話題を戻すこともできず――
その背中についていった。
◇ 因果観測第2研究所《サイト2》/地下研究区画・格納庫前通路
エレベータを降りると、
地上とは違う空気を感じた。
冷たい、というほどではない。
ただ、地上よりも少し乾いていて、
音が遠くまで響く。
通路は広い。
人が二列ですれ違えるほどの幅。
天井には白い照明が等間隔に並び、
影を落とさないよう、均一に照らしている。
白羽
「……ひろ」
思わず、声が小さくなる。
スレイ
「地下って、
もっと狭いと思ってたけど」
百音
「ここ、昔は使われてた区画なので~」
前を歩きながら、
のんびりとした調子で答える。
百音
「大型機材とか、
実験素材を置く前提だったみたいです」
百音
「今はほとんど、
倉庫ですね~」
足音が、
三人分、規則正しく響く。
白羽は、
通路の壁に並ぶ扉を見た。
番号。
用途不明のプレート。
使用停止の札が貼られたものも多い。
白羽
「……ここ、
誰も使ってないんですか?」
百音
「ん~……
ほとんど使ってないですね~」
百音
「たまに、
整理とか、確認とか」
肩をすくめる。
百音
「だから、
庶務が来ることが多いんです」
スレイ
「なるほどね」
納得したように頷く。
警戒の色は、もうほとんどない。
通路の突き当たり。
少し開けた空間が見えてきた。
金属製のシャッター。
天井の高い区画。
床には、レール状の溝。
百音
「ここが、
地下格納庫です~」
白羽
「……格納庫……」
百音
「使われなくなった機材とか、
回収待ちの物とか、
そういうのを置いてる場所ですね」
そう言って、
シャッター横の操作盤に近づく。
白羽とスレイは、
自然と足を止めた。
――広い。
――静か。
――でも、不思議と怖くはない。
百音
「ちょっと、
中、暗いかもです」
百音
「照明、
点けますね~」
操作盤に手を伸ばした、そのとき。
百音が抱えていた荷物が、
わずかに傾いた。
がたっ。
白羽
「あっ――」
段ボール箱の底が、抜けた。
ばらばら、と
中身が床に散らばる。
金属音。
プラスチック。
書類の束。
それらに混じって――
かつん、と
ひとつだけ、異質な音がした。
白羽の視線が、
反射的にそちらへ向く。
白い。
床に転がったのは、
人の腕の形をした――白骨。
関節は完全に乾き、
肉の痕跡はない。
白羽
「―――き」
一拍。
白羽
「きゃあああああっ!!」
悲鳴が、
天井に反響する。
白羽
「な、なに……!?
なに、これ……!?」
足がもつれ、
後ずさる。
スレイも、
一瞬だけ息を呑んだ。
だが――
次の瞬間。
白骨の下から、
もう一つ、転がり出る。
紺の布切れ。
袖口。
肩章の跡。
縫製の癖。
スレイは、
それを“確認する”ようには見なかった。
見た瞬間に、
分かった。
スレイ
「……っ」
目が、
鋭くなる。
スレイ
「それ、管理局の……」
言葉が、
そこで止まった。
――制服。
それも、
現行の。
スレイ
「まさか……」
白羽
「……え……?」
スレイ
「あんた、
タナトスロアの先遣隊を……!」
空気が、
一段階、重くなる。
百音は、
散らばった床を見下ろしていた。
「あ」
小さく、
本当に気の抜けた声。
百音
「……あ~」
困ったように、
首を傾げる。
百音
「やっぱり、
バレちゃいましたか~」
白羽
「……も、
百音さん……?」
百音は、
ゆっくりと顔を上げる。
さっきまでと同じ、
柔らかい笑顔。
おっとりした声。
百音
「あ~……
もうちょっと、
上手くやるつもりだったんですけど~」
百音
「先生に、
怒られちゃいますね~」
へにゃ、と
肩を落とす。
百音
「ごめんなさい~」
――そして。
百音は、
白衣の襟元に手をかけた。
ゆっくりと。
ためらいもなく。
ばさっ。
白衣が、
床に落ちる。
それだけで、
空気が変わった。
中に現れたのは、
動きやすさだけを優先した私服。
柔らかい布地。
だが、無駄のないライン。
――“雑用係”の皮が、
完全に剥がれ落ちた。
百音
「でも……」
一歩。
百音が前へ出た瞬間。
――空気が、沈んだ。
床が軋むわけでもない。
音が鳴るわけでもない。
ただ。
肺の奥が、
重く押し潰される。
白羽
「ひっ……」
息がうまく吸えない。
スレイも反射的に身構える。
だが身体が遅れる。
百音
「バレちゃったなら、
ここで終わりにするしか
ないですよね~」
その言葉と同時に。
――“何か”が、場に満ちた。
殺気ではない。
敵意でもない。
圧力だ。
存在そのものが、
この空間の主導権を握った感覚。
白羽は、
膝が笑いそうになるのを必死で堪える。
(なに、これ……)
(近づいてきてる……
何もしてないのに……)
スレイ
「……っ」
歯を食いしばる。
本能が、
はっきりと告げていた。
――勝てない。
二人がかりでも。
正面からでは、
話にならない。
百音は、
そんな二人を見て、にこっと笑う。
百音
「大丈夫ですよ~」
百音
「なるべく、
痛くないようにしますから」
背後で。
がしゃん――
重い音。
シャッターが、
ゆっくりと降りてくる。
白羽
「え……?」
完全に閉じる。
逃げ道が、
消えた。
百音
「あなたたちは、
これで終わりです」
声は、
最後まで穏やか。
百音
「さようなら~」
その瞬間。
白羽は、
はっきりと理解した。
――ああ。
――この人は。
最初から、
自分たちを“殺す側”だった。
――前編・了




