第13.5章 外伝 〜受け継がれた場所で、今日を生きる〜
◇ タナトスロア・長官居室/朝
目が覚めて、天井を見る。
白い。装飾も影もない、機能だけで塗られた色だ。
しばらく瞬きをしてから、息を吐く。
……朝。
身体を起こすと、寝具が控えめに音を立てた。
パジャマの袖が手首に引っかかる。
軽い。考えなくていい服だ。
そのまま脱いで、制服を手に取る。
重い。
布の重さというより、着たあとに来るものの重さ。
袖に腕を通し、留め具を一つずつ留めるたびに、
背中が勝手に伸びていく。
……はいはい。
分かってる。
洗面台へ向かい、鏡を見る。
淡い銀灰色の髪が、肩に触れている。
前より少しだけ長い。
櫛を取る。
毛先から、ゆっくり。
一度。
二度。
引っかからない。
この長さも、問題ない。
それはもう、分かっている。
——確認は、終わっている。
それでも、櫛を動かす指が一瞬だけ止まった。
こちらを見て、
一拍おいて、
短く、肯定される。
それだけ。
理由も説明もない。
それで十分で、
思わず、口元が緩む。
……えへ。
小さく息が漏れて、すぐに気づく。
何してる。
朝だ。鏡の前だ。
今のは、なし。
櫛を置き、表情を整える。
さっきとは違う形で、口角を上げる。
これでいい。
今の立場には。
一息。
切り替え。
今日も一日が始まる。
◇ タナトスロア・回廊/午前
長官居室を出て、回廊に足を踏み出す。
磨かれた床が、靴音を整えて返す。
前方から、足並みの揃った気配。
女性隊員が数名、規律通りの間隔で進んでくる。
こちらに気づいた瞬間、
全員の動きが、きれいに止まった。
「おはようございます、長官!」
声が揃う。
背筋が伸び、視線は正面。
私は足を止め、軽く頷く。
「おはようございます。
各自、持ち場を優先してください。」
短く、淡々と。
いつも通り。
「はいっ!」
返答も揃う。
一分の隙もない。
すれ違う。
距離は適正。
視線は逸らさない。
——問題なし。
数歩進んだ、その背後で。
「……ねえ、今の」
「近くで見ると、やっぱり強そう」
「というか、強い」
声はまだ抑えめ。
でも、熱は隠れていない。
「かっこいいよね」
「ちょっと厳しいけど、そこがいい」
「憧れる……」
歩調は変えない。
聞こえていない前提。
……前提。
「彼氏……絶対いるよね?」
「いないわけないって」
——ぐっ。
胸の奥で、鈍い音。
……ない。
いたことも、ない。
私の基準はずっと―――
あの人で止まっている。
……いや、今それ考える?
回廊の角を曲がる。
声が、はっきり弾む。
「でもさ、あの雰囲気だよ?」
「絶対、一途」
「分かる……」
一息。
……落ち着け。
長官だ。
取っ手に手をかける前に、背筋を正す。
表情を切り替える。
さっき向けたのとは、別の顔。
評価も噂も、関係ない顔。
扉を開ける。
今日も仕事だ。
◇ タナトスロア・長官室/午前
扉を閉めると、回廊の気配が遠のいた。
長官室は相変わらず静かで、仕事以外の感情を置いていく場所みたいだ。
執務机に向かい、端末を起動する。
今日の予定が、整然と並ぶ。
定例報告。
訓練状況の確認。
補給申請の承認。
どれも問題ない。
数字の上では。
指を滑らせ、次の項目を見る。
外部関係者視察。
名前を確認して、視線が止まる。
ガルド。
私の育ての親。
……今日だったか。
視察対象は、
タナトスロアの各施設。
時刻は、午前中。
私は小さく息を吐いた。
事前連絡なし。予定表に名前だけ。
相変わらずのやり方だ。
「……お父様らしい」
そう思った、その瞬間。
コン、コン。
短く、遠慮のないノック。
私は顔を上げる。
間。
一拍。
心の準備が追いつく前に、理解だけが先に来た。
——早い。
「あっ」
声が、先に出た。
慌てて立ち上がり、姿勢を正す。
喉を整える暇もなく、表情を引き締める。
「……どうぞ」
扉の向こうには、
もう中に入る気でいる気配があった。
◇ タナトスロア・長官室/午前
「……どうぞ」
扉が開くより早く、空気が変わった。
どすどす、という足音。
遠慮も躊躇もない。
次の瞬間、視界いっぱいに影が迫る。
「うおおおおおっ!
レイファよぉ!
元気にしてたかぁ!?」
「え、ちょっ——」
返事をする前に、両腕が伸びてきた。
がしっと、遠慮なく。
抱きしめられる。
厚手の服の上からでも分かる力。
懐かしい、というより、相変わらずの圧だ。
「お、お父様!?
は、離れてください!
暑苦しいです!」
じたばたと腕の中でもがくが、びくともしない。
「何言ってやがる!
久しぶりだぞ!?
こういうのは体で確かめるもんだ!」
「確かめなくていいです!
それと、ここは長官室です!
見られたら——」
「ん?
誰が見るって?」
周囲を見回すお父様。
誰もいない。
「ほら、問題ねぇ」
「問題しかありません!」
ようやく力が緩み、解放される。
一歩下がり、深く息を吸う。
……暑い。
本当に暑い。
「まったく……。
相変わらずですね、お父様は」
そう言うと、
お父様はにやりと笑った。
「おう。
お前もな」
その視線は、
長官の肩章でも、制服でもなく、
その奥を見ている。
「で?
ちゃんと食ってるか?
寝てるか?
無茶してねぇか?」
……来た。
私は姿勢を正す。
今度は、長官としてではない。
「問題ありません。
ご覧の通りです」
「そうかぁ?」
疑うような声。
でも、目は柔らかい。
お父様は腕を組み、
室内をぐるりと見回した。
「まあ、見た感じは元気そうだな」
軽い調子。
けれど、どこか確かめるような視線。
「今日は視察、だったな」
独り言みたいに言ってから、
こちらに視線を戻す。
「……ま、その前に」
一拍。
「少し、話す時間くらいはあるか?」
私は一瞬だけ考え、
それから小さく頷いた。
「ええ。
少しでしたら」
「よし」
それだけで満足そうに笑う。
そう言って、
いつもの癖みたいに、
私の頭に手を伸ばしかけて——
「……お父様」
ぴたり、と止まる。
「ここは、長官室です」
一瞬きょとんとしてから、
お父様は肩をすくめた。
「おっと。
そうだったな」
……分かっているくせに。
「では、座ってください。
お茶を用意します」
「おう。
相変わらず気が利くな」
私は視線を逸らしつつ、
机の方へと向かった。
視察は、もう少し後だ。
◇
カップに注いだコーヒーを、私は一口含んだ。
苦味。温度。いつもの味。
お父様は椅子にどっかと腰を下ろし、
背もたれに体重を預ける。
「で」
唐突に、切り出す。
「この前、
隊長がここに来ただろ」
え、なんで知ってるの?
「手紙で知ったんだけどよ、
そりゃ驚いたもんだ。
なんせ、お前と会うのは10年振りだろ?」
私はカップを口に運んだまま、瞬きをした。
「で、どうだ?」
一拍。
「告白できたか?」
ぶっ!?
反射的に、吹き出した。
「ちょっ……!?
お、お父様っ……!!」
咳き込みながら、慌てて口元を押さえる。
机の端に、コーヒーが跳ねた。
「……っ、な、何を——」
「違うのか?」
短い。
落ち着いた声。
逃げ場がない。
「ち、違いますっ!
そもそも告白っていうのは、
そう簡単にするものじゃなくてですね!?
気持ちの整理とか、相手の状況とか、
タイミングとか、雰囲気とか、
それにヴォイドさんの気持ちもありますし!
無理に言うのも悪いというか、
迷惑っていうか、その……!」
止まらない。
自分でも分かる。
早口すぎる。
「つまりですね!
今はそういう段階じゃないといいますか!
仕事もありますし、立場もあります!
もっと、慎重になるべきだと思うんです!」
一息で言い切って、
ようやく止まる。
……はっ。
お父様は腕を組み、
じっとこちらを見ていた。
表情は、変わらない。
「お前」
低い声。
「隠す気、どっか行ったな」
……。
私は視線を逸らし、
机を拭くふりをする。
こ、こほん。
「お父様。
ここは、終徴管理局です」
「知ってる」
即答。
「だから、今聞いた」
……本当に、容赦がない。
深く息を吸って、
ゆっくり吐く。
「……告白、なんて
簡単にできるものじゃありません」
小さな声。
お父様は少しだけ目を細め、
それから、ふっと息を吐いた。
「だろうな」
短く、それだけ。
空気が、少し変わる。
からかう色が、引く。
椅子に深く腰を掛け直す音。
「なあ、レイファよ」
声のトーンが落ちる。
「はい?」
「隊長と俺が、お前と会ったのは
……もう何年前だったか」
一拍。
私は、手を止めた。
正確な年数は出てこない。
でも、情景だけは、はっきり浮かぶ。
「最初は、今みたいな顔じゃなかったな。
目つきがずっと尖ってた」
……言わなくてもいい。
「生きるか、折れるか。
そんな場所だった」
お父様は天井を見上げる。
白いだけの天井を。
「しかし、まぁ。
よくついてきたもんだ」
私は、何も言えない。
「……覚えてるか?」
問いかけというより、確認。
私は、ゆっくりと頷いた。
覚えている。
忘れられるはずがない。
ここから先は、
今の話じゃない。
少し身を乗り出す。
「じゃあ―――
少し、昔話をしようか」
その一言で、
部屋の時間が、静かに巻き戻り始めた。
◇ 《回想》出会い ~約二十年前~
戦地は、夜だった。
空は低く垂れ、
煙が星を覆い隠している。
焼け落ちた建物の骨組みが、
闇の中で黒く歪んでいた。
火は、まだ点々と残っている。
赤い光が、脈打つように揺れ、
そのたびに、熱と鉄の匂いが空気を撫でた。
地面には、
踏み荒らされた痕跡と、
回収されなかった死が、そのまま残っている。
灰鳴旅団は、
すでに前線を抜けていた。
背後では、
戦線そのものが崩れていた。
誰が勝ったのか。
誰が負けたのか。
それを数える意味は、
もう失われている。
勝敗は、
彼らが決めるものではない。
生き残るかどうか――
それだけが、戦場の答えだった。
そして、
その答えは、
常に同じ場所にあった。
「……隊長」
低い声が、背中に届く。
灰鳴旅団副隊長。
ガルドだった。
槌を下げたまま、視線だけを瓦礫の奥へ向けている。
「こっちだ」
崩れた建物の影。
壁が半ば落ち、内部が剥き出しになっている。
そこに、
小さな身体が倒れていた。
少女。
伏せるように倒れ、
細い腕が、力なく地面に伸びている。
服は裂け、
煤と乾いた血に染まり、
肌には、黒い蝕みが走っていた。
災厄。
それ以上でも、
それ以下でもない。
周囲には、誰もいない。
足跡も、声も、抵抗の痕跡も――
すでに、すべてが終わっている。
ここで、
選ばれなかった命だ。
ヴォイドは、
歩みを止めない。
状況を測ることもなく、
警戒を広げることもない。
膝をつき、
少女の前に身を落とす。
触れる前から分かる。
体温が、限界まで落ちている。
それでも――
まだ、消えていない。
額に、
静かに手を伸ばす。
指先が触れた瞬間、
黒い蝕みが、わずかに脈打った。
拒絶。
最後の反射。
ヴォイドは、
何も言わない。
力を示すこともなく、
名を告げることもない。
ただ、
世界へ触れた。
次の瞬間。
音が、途切れた。
燃え残っていた火が、
一拍、揺らぎを失う。
風が、止まる。
熱が引き、
空気が、静かに整えられていく。
黒い蝕みは、
剥がれることも、
焼き払われることもなく――
意味を失ったように、ほどけた。
そこに在った理由が、
消えた。
少女の胸が、
小さく跳ねる。
次に、
深く、大きく上下した。
息。
生が、
ここに戻った。
ガルドが、
短く息を吐く。
「……助かったか」
ヴォイドは、
答えない。
少女の身体に腕を回し、
静かに抱え上げる。
軽い。
人の重さではない。
生き延びた“結果”だけが、
腕の中に残っているような軽さだった。
少女の指が、
わずかに動く。
何かを掴もうとして、
何も掴めず、
また、力が抜ける。
それでも。
確かに、
生は――
この場に、残った。
◇
―――1週間後
「ヴォイドさん!
私をつれていって!」
声は、
はっきりしていた。
迷いも、
震えもない。
拠点の朝。
外はまだ薄暗く、
焚き火の名残が、かすかに匂っている。
ヴォイドは、
装備の確認をしていた。
刃の欠け。
革紐の擦れ。
いつも通りの動作。
その背に、
少女の声が重なる。
「私も一緒にいきたい!」
振り返る。
寝台の上に、
少女が座っていた。
灰色の髪は少し短めに
切り揃えられている。
名は、
レイファ・クローディアと言うらしい。
包帯は外れ、
顔色も、ようやく人のものになっている。
それでも、
体はまだ細い。
戦地の夜が、
完全に抜けきったわけではない。
ヴォイドは、
すぐには答えない。
少女を見る。
その奥を見る。
「……ここは、死に近い場所だ」
声は低く、
拒絶でも、説得でもない。
「常に、人が死ぬ。
生き残る保証はない」
事実だけを並べる。
それに対して、
レイファは――
少しだけ首を傾げた。
「……知ってるよ」
あっさりと。
一拍。
それから、
視線を落とす。
「お父さんも、お母さんも――」
言葉を選ばない。
選ぶ必要がないからだ。
「ここで、死んだもの」
一瞬の沈黙。
「ねぇ。
わたしを―――守って?」
それだけだった。
泣きそうな声でもない。
震えてもいない。
ただ、
既に起きた事実を置いただけの声音。
ヴォイドは、
言葉を失う。
理屈ではない。
覚悟とも、少し違う。
“現実を受け取ったまま、選んでいる”。
その視線だった。
「……子どもが居る場所じゃない」
ようやく、
そう言った。
だが、
先ほどよりも、
声の芯が揺れていた。
レイファは、
その言葉を受け止めてから――
にこっと、
笑った。
それは、
戦地で初めて目を覚ましたときと、
よく似た笑い方だった。
「じゃあ」
一拍。
「置いていかれる方が、いや」
少し離れた場所で、
腕を組んで見ていた男が、
短く息を吐いた。
「なぁ……隊長。
助けたなら」
ガルドだった。
視線は外に向けたまま、
独り言のように続ける。
「その先も、
見る責任があるだろ?」
責める口調ではない。
促すでもない。
ただ、
現実を一段整理しただけの言葉。
ヴォイドは、
何も返さない。
否定もしない。
肯定もしない。
ただ、
沈黙が落ちる。
火が、ぱちりと鳴る。
レイファは、
ヴォイドから目を離さない。
逃げようと思えば、
逃げられる距離。
それでも、
一歩も下がらない。
ヴォイドは、
静かに歩み寄った。
近い。
思った以上に、近い。
そして――
むにっ。
両手で、
レイファの頬を包む。
痛くはない。
だが、甘さでもない。
ぐに。
むに。
口の形だけが、
少しずつ変えられていく。
その間。
泣かない。
怒らない。
噛みつかない。
ただ、
目を逸らさない。
むにー。
「……えへっ」
押しつぶされたまま、
小さく、息みたいに漏れる。
誰かに向けた声じゃない。
笑おうとしたわけでもない。
ただ、
そこに居ることが、
こぼれただけの音。
数秒。
誰も、何も言わない。
火が、もう一度、
ぱちりと鳴る。
その沈黙に耐えきれず、
横から声が飛んだ。
「……お、おい隊長」
ガルドだった。
「何やってんだ、それ。
面白い顔になってるぞ」
それでも、
レイファは目を逸らさない。
ヴォイドは、
一拍だけ置いて――
静かに、手を離した。
レイファは、
頬を擦りもしない。
ただ、
同じ目で見上げ続ける。
ヴォイドは、
外套に手を伸ばしながら言った。
「ガルド。
俺は、
世界は単純であるべきだと思う。」
ガルドは、
髭を触りながら答える。
「……ああ。
俺もそう思うよ、隊長」
ヴォイドは暫く目を閉じる。
そして、
ゆっくりとレイファの方を見る。
手を頭の上に乗せる。
「……歩けるか」
レイファは、
一瞬きょとんとしてから――
勢いよく、
頷いた。
「うん!」
その笑顔は、
もう、答えだった。
◇ 《回想終わり》タナトスロア・長官室/午前
……。
お父様の声が、
少し遠くから聞こえた気がした。
私は、カップに視線を落とす。
いつの間にか、すっかり冷めている。
一息。
——戻ってきた。
でも、
さっきの光景は、
まだ胸の奥に残っていた。
椅子から立ち上がる。
「……一旦。
ここまでにしようや」
それだけ。
終わらせるでも、
続けるでもない言い方。
「レイファ、行くぞ。
視察だ」
私は、頷く。
「は、はい!」
立ち上がるとき、
足元が少しだけ重かった。
……たぶん、
あの頃の感覚が、
まだ離れていない。
◇ タナトスロア・訓練区画/昼
訓練区画は、昼の光に満ちていた。
白線で区切られた床。
壁際に並ぶ装備。
空気には、汗と金属の匂いが混じっている。
私は、並んで歩く。
歩調は、自然に揃っていた。
視線の先では、
若い女性隊員たちが模擬訓練を行っている。
構え。
踏み込み。
回避。
動きは悪くない。
だが、どこか噛み合わない。
こちらに気づいた隊員の一人が、
少し緊張した様子で声をかけてきた。
「し、失礼します、長官」
「……こちらの方は?」
視線が、隣に立つ人物へ向く。
私は足を止め、
一拍おいて答えた。
「こちらは、
終徴管理局の創設者、
ガルド卿です」
余計な説明は、しない。
隊員の目が見開かれる。
「えっ……!?」
次の瞬間、
慌てて姿勢を正す。
「し、失礼しましたっ!」
「おうおう、固くなるな」
片手をひらりと振る。
「肩書きなんざ、
ここじゃ関係ねぇ」
そのまま、訓練区画を見渡す。
「お前たちもさ」
「世界のために、強くなろうとしてるんだろ?」
隊員たちが、息を呑む。
「だったらよ」
「それは、何よりも立派じゃねぇのか?」
静かな声。
でも、芯がある。
一瞬の沈黙。
――次の瞬間。
「……っ」
「かっこいい……」
小さな声が、連鎖する。
「創設者なのに
全然、偉そうじゃないし……」
「むしろ、すごく優しい……」
当人は気にした様子もなく、
頭を掻いていた。
「別に、特別なこと言ってねぇよ。
強くなろうとしてるなら、
しっかりと胸を張れ」
「きゃ~!!」(※黄色い声)
私は、
その横顔を見ていた。
ふふっ……。
……少しだけ、
誇らしい。
だって、
自慢の父親なんですから。
それを表に出さないまま、
視線を訓練へ戻す。
◇
「調子はどうですか?」
声をかけると、
先ほどの隊員が、正直に答えた。
「正直……
うまくいってません」
「どこがです?」
「踏み込んだあと、
相手に、置いていかれてしまって」
私は、少しだけ観察する。
「貴方。目がいいですね」
隊員が、きょとんとする。
「え……?」
「相手の動きを、よく見ているのですね。
だから、反応が早い」
一拍。
「でも―――
“合わせにいこう”としている」
隊員は、はっとする。
「自分の間合いを、
相手に預けてしまっています」
私は、一歩前に出る。
「踏み込みの深さは、そのままでいい。
無理に、詰めなくていいです」
構えない。
威圧もしない。
ただ、立つ。
「相手が動いた“あと”ではなく、
動く“前”を見てください」
隊員が、息を整える。
踏み込む。
私は、止めない。
弾かない。
距離に入る。
指先が、
相手の額に触れる。
ほんの、一瞬。
「……今のです」
声は、穏やかだった。
「あなたの強みは、
"反応の速さ"」
一歩、距離を取る。
「その強みを、信じてください」
隊員の胸が、
大きく上下する。
「……はい!
ありがとうございました!」
その声は、
迷いがなかった。
少し離れた場所で、
お父様が、訓練の様子を見ていた。
そして、
静かに。
何かを思い出しているように、
目を伏せる。
視察は、続いている。
だが、
その意識は、
すでに別の時間へと、
滑り始めていた。
◇ 《回想》 速さのその先に
レイファが灰鳴旅団に所属してから、
一年が経とうとしていた。
剣を振る音が、
乾いた空に響いている。
軽い。
だが、速い。
幼いレイファは、
何度も前に出る。
踏み込み。
斬り上げ。
斬り返し。
迷いはない。
恐れもない。
ただ――
届かない。
刃は、
いつも、
あと一歩のところで止められる。
ヴォイドは、
動かない。
必要な分だけ、
位置を変え、
必要な分だけ、
剣を出す。
それだけで、
すべてが終わる。
「……どうして」
息を切らしながら、
レイファが言った。
「どうしたら……
ヴォイドさんみたいになれるの?」
視線は真っ直ぐだ。
憧れを、
そのまま言葉にしている。
ヴォイドは、
少しだけ考える。
そして、
首を振った。
「俺には、なれん」
即答だった。
否定ではあるが、
突き放す響きはない。
「お前は、
お前の強みを磨け」
レイファは、
瞬きをする。
「私の……強み?」
ヴォイドは、
彼女の足元を見る。
踏み込みの跡。
地面に残る、
細かく、深い線。
「"速さ"だ」
短く、
そう言った。
「速さを、極限まで高めれば――
あるいは」
その先は、
語られなかった。
それからだった。
レイファは、
何度も、
同じ距離で負け続けた。
速く振った。
もっと踏み込んだ。
呼吸を削った。
足が、悲鳴を上げても。
掌が、裂けても。
剣を、握り直した。
追いつけない。
理解するたびに、
一拍を、
削ろうとした。
踏み出す前の、
ためらい。
斬る前の、
意識。
それらを、
意志で潰した。
次の瞬間。
距離が、
一気に詰まる。
レイファは、
反射で剣を振る。
――が。
視界が、
反転する。
気づいたときには、
地面が近かった。
背中から、
どさりと倒れる。
剣が、
手から離れる。
空を見上げるレイファの視界に、
ヴォイドの影が落ちる。
近づいてきて――
額に、
軽い感触。
「とん」
指で、
軽く突かれた。
「……まだまだだな」
その声は、
いつも通りだった。
悔しい。
はずなのに。
レイファは、
歯を食いしばり、
それでも、
笑った。
「……うん、
もっと早くなんないと!」
次は、
もっと削る。
次は、
もっと速く。
そんなやり取りを、
少し離れた場所で、
ガルドが見ていた。
腕を組み、
口元に、
わずかな笑み。
戦闘も、
判断もない時間。
灰鳴旅団にとって、
それは、
ほんの束の間の――
だが確かに、
未来へ続く、
平和な日常だった。
◇ 《回想終わり》 タナトスロア・訓練区画/昼
……。
お父様はしばらく、
目を閉じたまま、動かなかった。
ほんの数秒。
けれど、
周囲の音が一段、遠のいた気がした。
私は、その横顔を見る。
深く刻まれた皺。
動かない肩。
組まれたままの腕。
——何を、思い出しているんだろう。
訓練の音。
剣が触れ合う乾いた響き。
若い声。
それらは、確かにここにある。
それでも、
その意識は、
今とは違う場所にあるように見えた。
やがて、
小さく息を吐いて、
目を開ける。
視線が戻る。
訓練区画へ。
隊員たちへ。
そして、
私へ。
一瞬だけ、目が合う。
何も言わない。
何も、聞かない。
でも、
その目に映っているものが、
“今”だけじゃないことは、
分かった。
……そういう顔だ。
私は、何も言わず、
視線を訓練へ戻す。
「次、行きましょう」
長官としての声。
彼はゆっくりと頷いた。
◇
視察は、そこからも淡々と進んだ。
訓練区画を抜け、
整備区画へ。
補給線の確認。
管制室での短い報告。
質問には答え、
指摘は記録し、
必要な修正点だけを残す。
私は長官として歩き、
彼は創設者として隣にいる。
会話は少ない。
けれど、沈黙が重くなることはなかった。
立ち止まれば、
同じ方向を見る。
歩き出せば、
自然と歩幅が揃う。
——昔から、そうだった。
気づけば、
通路に差し込む光が変わっていた。
白かった床に、
橙色の影が伸びる。
夕方だ。
「今日は、ここまでですね」
そう告げると、
お父様は小さく息を吐いた。
「おう。
十分だ」
短い言葉。
それだけで、区切りになる。
視察は、
無事に終わった。
◇ タナトスロア・外周通路/夕方
通路を抜けると、
風が、少し強くなった。
昼とは違う匂い。
乾いた金属と、冷え始めた空気。
視察を終えた人の流れが、
ゆっくりと解けていく。
その先で、
視界がひらけた。
高い位置。
外周壁の上。
タナトスロアの旗が、
夕空を背に揺れている。
深い色。
重みのある布。
風を受けるたびに、
低く、鈍い音を立てる。
思わず、足が止まった。
……毎日、見ている。
朝も、昼も。
それでも、
今は、違って見える。
陽は傾き、
空は、淡く色を変えている。
旗は、
その中で、
変わらず掲げられていた。
隣で、
お父様も立ち止まっているのが分かる。
同じものを、
同じタイミングで見ている。
言葉は、ない。
ただ、
風の音と、
布の揺れる音だけがある。
胸の奥で、
何かが、静かに引っかかった。
理由は、分からない。
私は、
視線を外そうとして——
もう一度だけ、旗を見る。
……考えるのは、
このあとでいい。
「行きましょう」
長官としての声で、
そう言った。
お父様は、
一拍置いてから、
静かに頷く。
歩き出す。
旗は、
背後で揺れ続けていた。
◇ 《回想》閉じた輪と閉じてない輪
室内は、静かだった。
灰鳴旅団の仮拠点。
簡素な壁に、一枚の布が掛けられている。
七つの短い線。
不揃いな配置。
それらを囲もうとする、途切れた輪。
完全な円ではない。
レイファは、
その前で立ち止まり、
しばらく見上げていた。
やがて、首を傾げる。
「……ねえ、ガルドさん」
ガルドが視線を向ける。
「この印って、なに?」
「灰鳴旅団の印だ」
「……でも、
みんな持ってる形、違うよ?」
布だけでなく、
金属片や革紐。
似た印が、それぞれに刻まれている。
「決まり、ないの?」
「ない」
即答だった。
「同じ形である必要もない」
レイファは、
もう一度、布を見る。
「……じゃあ、この線は?」
七つの短線を指す。
「……七災だ」
「……敵?」
「そう呼ぶ連中は多い」
一拍。
「嵐を見りゃ、
全部まとめて
敵だって言いたくもなる」
レイファは、
眉を寄せる。
「……この丸は?」
輪をなぞる。
レイファは、
輪を見て、
首を傾げた。
「守るなら、
閉じたほうが、
いいんじゃない?」
「閉じちまえば、
楽だろうな」
一拍。
「囲って、鍵かけて、
外に出さなきゃ済む」
レイファは、
少し考える。
「だがな」
視線を布に戻したまま。
「それやった瞬間、
中にいるもんまで、
一緒に腐り始める」
「……だから、
閉じてないの?」
「そうだ。
逃げ道がなきゃ、
生き物は長持ちしねぇ」
レイファは黙り込む。
やがて、
床に座り、
紙と鉛筆を取った。
布と紙を見比べて、
線を引く。
七つの短い線。
不揃いな並び。
それを囲む輪。
切れ目を残したまま、
鉛筆が止まる。
「……こんな感じ?」
ガルドは覗き込み、
鼻で笑った。
「上手いじゃねぇか」
そのとき。
影が、
紙の上に落ちた。
ヴォイドだった。
何も言わず、
鉛筆を取る。
レイファが「え」と声を漏らす前に、
線が一本――足される。
輪の切れ目が、
ふさがる。
途切れていた線が、
止まることなく、
円を成した。
たったそれだけで、
印象が変わった。
目を見開く。
「ヴォイドさん、
なんで、そこ……
閉じたの?」
ヴォイドは答えない。
少しだけ、
紙を見たまま。
ガルドが、先に息を吐いた。
「閉じりゃ、
逃げ道は消える」
一拍。
「風も入らねぇ。
中は楽になる」
「……楽?」
「その代わり、
出られなくなる」
ヴォイドが、
ようやく短く言った。
「囲うのと、
縛るのは違う」
レイファは、
閉じた輪と、
自分が描いた開いた輪を見比べる。
同じ形。
同じ七本線。
なのに、
違う。
「……どっちが、正しいの?」
ヴォイドは、
視線を上げ、
レイファを見る。
一拍。
「この違いが
分かるようになったとき―――」
レイファが息を呑む。
「お前は、
世界を背負う場所に、立てる」
◇ 《回想終わり》
◇ タナトスロア・食堂区画(私室)/夕方
湯気が、ゆっくりと立ち上っていた。
派手さのない食事。
保存の利くスープと、焼いた肉。
野菜は少なめで、味付けも濃くない。
それでも、
懐かしい匂いだった。
「……相変わらず、
質実剛健って感じだな」
向かいに座ったお父様が、
匙を動かしながら言う。
「管理局の食事ですから」
「贅沢は控えています」
そう返すと、
「はは」と短く笑った。
「昔からだな」
「お前は、無駄を嫌う」
……それは、
誰に教えられたのか。
答えは分かっているから、
口にはしない。
しばらく、
食器の音だけが続く。
静かだ。
訓練区画の喧騒が嘘みたいに。
「……そういや」
お父様が、
何でもない調子で言った。
「お前の部屋もな」
「まだ、十年前のままにしてあるぞ」
私は、
ほんの一瞬だけ動きを止めた。
「たまに整理してるとよ」
一拍。
「お前のこと、
思い出すんだ」
それだけ。
続きを言うつもりは、
最初からないみたいだった。
十年前の部屋。
置いたままの棚。
閉じたままの引き出し。
……時間が、
そこだけ、
静かに残っている。
「……ありがとうございます」
小さな声。
聞こえたかどうか分からないまま、
お父様は、また匙を動かす。
しばらくして。
「……なぁ」
今度は、
ほんの少しだけ、
声の調子が変わった。
一拍。
「たまにはよぉ」
言いかけて、
そこで止まる。
箸を置く、
かすかな音。
「灰の里に、
帰ってこいや」
私は、
すぐには顔を上げられなかった。
「今はな」
続く声は、
少しだけ柔らかい。
「隊長がな。
小さい子供ばかり
連れてきて―――」
また、間。
「昼間は、賑やかだぞ」
がははと豪快に笑う。
一拍。
「……けどな。
夜は、
静かだ―――」
「特にな」
灰の里。
土の匂い。
火の名残。
夕方になると、風が抜ける場所。
――話しかける相手がいない静けさ。
そこにいた自分を、
思い出そうとして――
うまく、重ならない。
「もうな」
ぽつりと、続く。
「お前は、
あそこに居た頃とは、
違う場所に立ってる」
責めるでもなく、
誇るでもなく。
ただ、
事実を言う声。
「終徴管理局の長官として、
帰れって言ってるんじゃねぇ」
視線が、
こちらに向く。
「俺が、呼びたいのは――」
一拍。
「俺の娘として、だ」
胸の奥で、
何かが、はっきりと鳴った。
「……考えておきます」
それだけ言うのが、
精一杯だった。
お父様は、
「おう」と短く返して、
それ以上、何も言わない。
食事は、
静かに終わった。
重い話も、
答えも、
ここには置かない。
今はただ、
この時間があればいい。
私は、
最後にもう一口、
スープを飲んだ。
温かい。
帰る場所が、
まだ、消えていないことを、
思い出すくらいには。
◇
食事を終えて、
部屋を出る。
照明は落ち着いた明るさで、
昼間の喧騒は、もう残っていない。
「さて」
背後から、
やけに元気な声。
「腹も膨れたしよ。
風呂、行こうや」
……来るとは思っていた。
「お父様」
即座に振り返る。
「まさかとは思いますが」
「ん?」
きょとんとした顔。
「一緒に、入るつもりですか」
一拍。
「当たり前だろ」
即答だった。
「昔はよく入ったじゃねぇか。
湯船でよ。
今日の訓練がどうとか、
剣の振りがどうとかよ」
指を折りながら数え始める。
「背中流してやったことも――」
「ありません!!」
反射で遮った。
「仮に―――
あったとしても、
今は違います!!」
ぴたり、と足を止める。
「ここは!」
「終徴管理局で!」
「私は!」
「長官です!!」
息を吸って、
吐く。
「それに――
私はもう……
身体も、色々……」
言いかけて、
詰まる。
お父様は、
一瞬だけ考えて――
「ああ?
筋肉の話か?」
即、違う。
「肩回りは確かに付いたな!
湯でほぐした方がいいぞ!」
「ち、違います!!」
お父様は、
一瞬だけ目を丸くして――
次の瞬間、
腹を抱えた。
「はははははっ!」
大声。
「お前、顔赤いぞ
昔と変わんねぇな!」
「か、変わってます!!」
思わず声が裏返る。
「昔はですね!」
「お父様が勝手に湯に沈めて!」
「私が溺れかけて!」
「それを“鍛錬だ”って――」
「はっはっは!
覚えてる覚えてる!」
「覚えてるなら反省してください!」
……もう。
言い合いながら、
ふと、胸の奥が緩んだ。
昔。
灰の里。
湯気と笑い声。
水をかけ合って、
怒られて、
それでも楽しかった時間。
「……お父様ったら」
小さく漏れる。
気づいたときには、
笑っていた。
「仕方ありません」
ため息をついて、
肩をすくめる。
「今日は、別々です」
「ちぇ、なんだよ」
露骨に不満そうな声。
「じゃあ、せめて
隣の時間にしてくれ」
「それもダメです」
即答。
「――五分後なら、許可します」
一拍。
「おう!」
即返事。
「じゃあ先行くぞ!」
どすどすと、
遠ざかる足音。
……本当に。
私は額に手を当てて、
もう一度、ため息をついた。
でも。
口元は、
少しだけ、緩んだままだった。
◇ タナトスロア・正門前/夜
夜風が、冷たい。
灯りに照らされた門の前で、
私は足を止めた。
「……今日は、
泊まっていかれては?」
言ってから、
少しだけ後悔する。
お父様は、
荷を背負い直して、
肩を回した。
「悪いな」
「ガキどもの面倒、放っとけねぇ」
軽い調子。
でも、迷いはない。
「なるべく早く、
里に戻らねぇとよ」
そういうところが、
本当に――
「……そういうところが、
好きなんです」
ぽろりと、
本音が落ちた。
お父様は一瞬だけ目を丸くして、
それから、鼻で笑う。
「急に何言ってやがる」
「本当です」
即答。
「ちゃんと帰って」
「ちゃんと面倒見て」
「ちゃんと、次に進んでる」
「……いい父親だと思います」
少しだけ笑ってから、
「私の、
自慢の父親です」
一拍。
「へっ」
照れたのか、
誤魔化すように視線を逸らした。
「褒めたって、
何も出ねぇぞ」
それでも、
歩き出そうとはしなかった。
私は、
門の向こうを見る。
高く掲げられた、
タナトスロアの旗。
夜の風を受けて、
静かに揺れている。
……あのときも、
こんなふうに見上げていた。
◇ 《回想》 設立の日
夕暮れだった。
灰鳴旅団は、
その日をもって解散した。
誰もが疲れていて、
それでも、
どこか安堵していた。
「これで、
終わりだな」
ガルドが言い、
ヴォイドは頷いた。
その隣で、
私は――
半壊した施設を見ていた。
灰鳴旅団の拠点―――
崩れた壁。
錆びた門。
それでも、
風は、確かに通っている。
「……ここ」
ぽつりと、声が出た。
「ここから、
始めたい」
自分でも、
驚くほど静かな声だった。
「終わりを見届けて」
「次に渡すための場所」
言葉は、
まだ形になっていない。
私は、
ただ、
そこに立っていただけだった。
ヴォイドが、
一歩、前に出る。
施設を見渡し、
門を見る。
そして――
私を見た。
「……名前が要るな」
低い声。
私は、
息を止める。
「終わりを管理する場所」
「それでいて、
次へ繋ぐ場所」
一拍。
「終徴管理局」
短く、
確定する言葉。
「《タナトスロア》だ」
その瞬間、
胸の奥が、きゅっと鳴った。
――私のために、
作られた場所。
そう、分かってしまった。
旗を掲げたのは、
三人でだった。
◇
布が風を孕み、
ゆっくりと揺れる。
その下で、
しばらく、
誰も口を開かなかった。
夕暮れの色が、
少しずつ、濃くなっていく。
ヴォイドが、
ガルドの方を見る。
ほんの一瞬。
それだけだった。
言葉はない。
だが、視線だけで、
十分すぎるほどだった。
ガルドは、
ゆっくりと息を吐き、
短く頷く。
「……ああ」
それだけ。
ヴォイドは、
もう一度だけ、
旗を見る。
それから、
踵を返した。
歩き出す。
止める理由は、
なかった。
私は、
その背中を見て――
ようやく、気づいてしまう。
ああ。
ここまでなんだ。
呼び止めなかった。
声が、出なかった。
代わりに、
ガルドの腕が、
静かに肩に回る。
抱き寄せられる。
強くはない。
守るみたいな、
ゆっくりした動き。
私は、
そのまま、
ヴォイドの背中を見送っていた。
夕暮れの中へ、
溶けていくのを。
呼び止めれば、
届いたかもしれない距離。
それでも、
足は動かない。
視線だけが、
追いかけていた。
その下で――
思わず、声が漏れた。
「ヴォイドさん!」
叫んだ、というより、
こぼれ落ちた声だった。
一拍。
背中は、止まらない。
だから、
言葉を選ぶ。
「いつか、
私が強くなって」
一拍。
「灰鳴旅団の皆みたいに、
誰かを、守れるようになって」
喉が鳴る。
「……それでも、
あなたに勝てたら」
一拍。
「そのときは―――」
息を吸って、
「……けっ……」
言葉が、止まる。
一拍。
「……一緒に、
いてくれる?」
夕暮れの風が、
一瞬だけ、強くなる。
ガルドが、
わざとらしく咳払いをした。
ヴォイドは、
すぐには答えなかった。
振り返らない。
それでも――
「……ああ」
短く、
確かに。
それだけを残して、
歩き続ける。
その一言で、
私は理解した。
前に進むのは、
私のほうだ。
◇ 《回想終わり》
「……」
私は、
無意識に拳を握っていた。
「まだまだだな」
背後から、
低い声。
振り返ると、
お父様が、
私を見ていた。
全部、
知っている目だ。
「隊長には、
流石にまだ届かねぇだろう―――」
否定ではない。
事実を言う声。
「でもよ」
一歩、
近づく。
「俺も、隊長も」
一拍。
「ずっと、
お前を見守ってる」
胸の奥が、
きゅっと縮む。
「だからな」
お父様は、
私の額を、
軽く指で突いた。
「お前は、
お前のやりたいことをやれ」
それだけ。
私は、
ゆっくりと息を吐いた。
「……はい」
夜風が、
旗を揺らす。
お父様は踵を返し、
門を出る。
「気ぃ抜くなよ、
長官」
振り返らずに、
そう言った。
「はい」
今度は、
長官として。
「いってらっしゃい、
お父様」
足音が、
遠ざかる。
私は、
もう一度、
旗を見上げた。
ここは、
終わりの場所。
でも――
私は、まだ、ここに立っている。
◇ エピローグ
こうして、
のドタバタな一日は終わった。
部屋に戻り、
扉を閉める。
静かだ。
照明を点けると、
白い壁と机が、いつもの顔で迎えてくる。
制服を脱ぎ、
椅子に掛ける。
……やっと、一人だ。
私は机に向かい、
引き出しを開け――
その手が、ふと止まった。
机の上。
写真立てが、いくつか並んでいる。
一枚目。
灰鳴旅団のみんなと写ったもの。
泥だらけで、
笑っていて、
誰が誰の肩を組んでいるのかも曖昧で。
それでも、
全員が生きていた頃の顔。
二枚目。
終徴管理局を設立した日の写真。
半壊した門の前。
まだ新しい旗。
三人で、並んで立っている。
少し緊張した私と、
腕を組んだお父様。
そして――
変わらない顔で立つ、隊長。
三枚目。
先週、撮ったばかりの写真。
ヴォイドさん。
白羽さん。
他のみんなも。
今の服。
今の立場。
今の距離感。
それでも、
ちゃんと、笑っている。
そして――
一番新しい写真。
今日。
さっき。
門の前で撮った、
お父様とのツーショット。
二人とも少し照れていて、
構図も雑で、
完璧とは言えない一枚。
……でも。
私は、
写真から目を離せなかった。
時間が、
全部、そこにあった。
失ったもの。
続いているもの。
新しく重なったもの。
全部が、
同じ机の上にある。
私は、静かに息を吸い、
ノートを取り出した。
日記。
ペンを取って、
少しだけ考える。
今日は、
書きたいことが多すぎる。
だから――
一行だけ。
『私は、
ちゃんと、受け継いでいる』
それだけ書いて、
ペンを置く。
間違っていない。
迷ってもいない。
私はベッドに腰を下ろし、
天井を見る。
白い。
朝と同じ天井。
でも、
胸の奥は、温かい。
……明日も、
やることは山ほどある。
長官として。
一人の人間として。
そして、
あの人たちに繋がる者として。
私は、目を閉じた。
遠くで、
風が旗を揺らす音がした気がした。
それを、
心地いいと思えるくらいには――
今日は、
本当に、
いい一日だった。




