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第2章 白羽が生まれた夜

◇ 白い朝、ひとつだけの一日


森の朝は冷たかった。

小屋の隙間から差し込む光は薄く、どこか灰色がかっている。


少女は薪の前にしゃがみ込んでいた。

まだ体は痛む。

背中を曲げるたび、じくりと傷が主張し、足には鈍い痺れが残っている。


それでも、その痛みは昨日より“まし”だった。


膝まで隠れる黒いシャツの裾を踏まないよう気をつけて、少女は火打ち石を震える手で持ち上げる。


「えい」


ぱち、と火花が散る。

だが、薪はなかなか火を噴かない。


もう一度やろうとして──


「角度が甘い。貸せ」


低い声が、すぐ後ろから落ちてきた。


少女が振り返るより早く、ヴォイドが彼女の左横へしゃがみ込む。


顔が近い。

だが不自然さはない。

火をつけるためだけの距離だった。


それでも少女は息を呑む。

肩越しに落ちる影に、緊張と、わずかな安心が混ざる。


「こうやる」


カチリ、と音。

生まれた火が薪の端に落ち、じわりと橙色が広がった。


火が灯った瞬間よりも、彼の横顔が離れていく瞬間のほうが、胸がざわついた。


「あ、ありがとう、ございます」


「礼はいらん」


ぶっきらぼうなのに、不思議と刺さらない声だった。



◇ 濡れた布と、すれ違う息


「葉を洗え。水は外にある」


少女は頷き、ゆっくりと小屋の外へ向かう。

足をかばい、壁に手をつきながら歩いた。


外気はひんやりとしている。

桶の水は、指を入れただけで震えるほど冷たい。


葉を洗い、戻ろうとした、そのとき。


裾を踏んだ。


「あっ──」


体が傾く。

水差しが手から滑り、冷たい水がシャツの裾に広がった。


ただの水。

ただの事故。


それでも少女は、慌てて裾を押さえてしまう。


(ぬ、濡れた……!

透けては……ない?

ない、ですよね……?)


恥ずかしさと、自分への呆れが混ざる。


「なにをしている」


ヴォイドは鍋に材料を入れながら、視線だけをよこした。


「す、すみません

あの、こぼして……」


「拭け。風邪をひく」


怒ってはいない。

軽蔑もない。


村なら、この程度で怒声が飛んでいた。

物が投げられていたかもしれない。


胸が、きゅっと縮む。


(どうして

なんでもないみたいに

言えるんでしょう)


「濡れたまま動くと転ぶぞ」


「だ、大丈夫です」


そう答えた瞬間、足元が揺れた。


「っ──」


腕を掴まれる。

立ったまま、肘を軽く受け止めただけ。


それだけで、倒れずに済んだ。


「前がよく見えていないんだろう」


「あ、えっと

すこしだけ……」


「無理するな」


それ以上は聞かれない。

だが、拒まれる気配もない。


弱い部分を見せても、

彼は何も変えなかった。


それが、どれほど救いだったか。



◇ 少しの太陽、少しの痛み、少しの幸福


昼すぎ。

ヴォイドは狩りの準備を始め、小屋の前の空気が動き始めた。


少女も外に出て、壁に背を預けて座り込む。

まだ長く立てない。

けれど、太陽が当たるとほんのりあたたかい。


ヴォイドの背中は陽光を受けてわずかに白く輝き、

銀髪がさらりと揺れた。


(きれい……です)


その一言が胸を満たした。


「外に長くいると疲れるぞ」


「だいじょうぶです」


「嘘をつくな。息が上がってる」


「……あ」


言われて初めて気づく。

自分の呼吸が少し荒いことに。


(ちゃんと見てくれる……

 危ないところも、

 気づいてくれる……)


胸が、また温かくなる。



◇ 火の音と、言葉にならない幸福


夜になり、薪がぱちぱちと音を立てる。

少女は布団に半身を沈め、ヴォイドは椅子に座って目を閉じている。


怖くない。

静かなだけで、安心する。


村で眠るときは「明日が来なければいい」と思っていた。

でも今は違う。


(明日も……火の前に座れるかな……

料理、手伝えるかな……

ヴォイドさん……帰ってくるかな……)


名前もない自分なのに、

そんな期待を抱いてしまった。


(……こんなの……へん……)


でも、へんでもなんでもいい。

だって、こんな気持ちを知ったのは生まれて初めてだった。



◇ そして朝――静かな破壊


翌朝。

少女の動きは昨日よりずっとよかった。

火起こしもできた。

立つ動作も少し安定した。


ヴォイドはそれを見て、

何かを確認するように一度だけ瞬きをした。


そして告げた。


「……もう動けるな」


「……はい。

昨日より、痛くありません」


嬉しさが混じった声だった。

褒めてもらえると思っていた。


「出ていけ」


一拍。


「ここにいれば、いずれ人が来る。

俺のそばにいれば、お前はまた狩られる」


世界が止まった。


「えっ!?」


胸の奥で何かがきしむ。

苦しいほどの静寂が耳を塞ぐ。


「……ここはお前の居場所じゃない」


一拍。


「回復したなら、自分の場所へ戻れ」


淡々とした声。

何の情も、自分への興味も感じられない声。


(……いや……いやだ……)


「わ、わたしには行く場所がありません」


少女の喉が震え、足がふらつく。


(昨日まで……やさしかったのに……

火をいっしょに見て……

外で……声をかけてくれたのに……

それなのに……)


「……少しだけ、ここにいさせてください」


必死だった。

涙がこぼれそうだった。


けれどヴォイドの表情は、石のように動かない。


「……出ていけ」


名前すらない少女に向けて、

その言葉はあまりにも冷たかった。



◇ ここに……もっといたい


ヴォイドはそれ以上何も言わなかった。

まるで、それ以上話す価値もないと言わんばかりに、

コートを羽織ると、扉を無造作に開けて外へ出る。


足音も気配も、すぐに森へ溶けた。


小屋には、火のはぜる音だけが残った。


少女はただ立ち尽くし、

さっきまで微かに感じていた温度が

すとん、と胸の奥で死んだように消えていくのを感じた。


震える指が、椅子の背をそっとつかむ。


(……わたし……いらない……)


声は出ない。

涙も出ない。

ただ心臓の位置だけが、

きゅう、と痛んだ。


歩くつもりもなかったのに、

足は勝手に玄関のほうへ向かう。


そこで、気づいた。


扉の横に、黒いリュックがひとつ置かれている。

持ち手が古く、金具は鈍く光っている。


そっと開けると──中には乾いたパン、水袋、薬草、薄い毛布。

どれも、数日は生きられるだけの量が入っていた。


(……わたしが……

死なないように……)


ヴォイドは何も言わなかった。

ただ無言で置いていった。


突き放しながらも、ギリギリの生存だけは渡す。

彼らしい、乱暴で不器用な優しさ。


それが逆に胸に刺さった。


(……いやだ……

ここから出たくない……)


小屋の空気も、

昨夜の火の匂いも、

ヴォイドの立っていた場所の残り香も、

全部が初めて知ったあたたかさだった。


少女は胸を押さえ、

こらえきれず一歩、外へ足を踏み出した。


(行っちゃう……

 行かないで……)


その足取りはふらついている。

まだ完治していない体は痛む。


けれど──追わずにはいられなかった。


森の奥へ続くヴォイドの気配を追って、

少女は小さな影を揺らしながら進んでいく。


その先に、

赤い髪と刃を持つ死が待っているとも知らずに。



◇ 赤い刃の笑み


森は、昼だというのに薄暗かった。

木々が生い茂りすぎて、光が地面に届かない。


少女は息を切らしながら歩いていた。

体はまだ完治していない。

それでも――行かなくてはと思った。


(……ヴォイドさん……)


置いていかれるのが怖かった。

拒絶されたことが胸に刺さって、息を吸うだけで痛む。

けれど、それでも足は前へ出る。


そのとき。


ふと気づいた。


──音がしない。

昨日より、静寂が濃い。


鳥の声も、風も、草の揺れる気配すらもない。


(……なんで……)


胸の奥がざわついた瞬間だった。


「……あれぇ?

 こんなところに子ども?」


ひらりと赤い影が視界を切った。


鮮烈な赤髪。

燃えるようなツインテール。

黒いニーハイ、引き締まった太もも。

その笑顔は柔らかいのに、背筋が冷えた。


少女は反射的に後ずさった。


「あは、逃げた。かわいい♡」


赤髪の少女はひと回りしてから、

遊ぶ前の準備運動みたいに腰をひねる。


「やっほ、迷子ちゃん?

 ねぇ、こんな森の奥にいるなんて危ないよ?」


甘い声。

けれど、その奥は甘くない。


少女はかすれた声で答えた。


「……あの……どいて……」


「いやだよ?」


赤髪の少女は一礼してみせる。


「私は、スレイ・スカーレット」


終徴管理局タナトスロアの処理官。

 まあ簡単に言うと、災厄を殺す係ってやつ?」


少女の心臓が止まりかけた。


(……災厄……)


自分のことだ。


だって、いつもそうだった。

村でも、旅の途中の町でも、出会う誰もが。


―――化け物

―――疫病の元

―――世界の敵


男でも女でも関係なかった。

誰も近寄らない。

誰も助けない。

誰も生かしておこうとしない。


そして今、この女も。


「ねぇ、あんた。

 死んだ空気の匂いがするんだよね」


スレイの瞳が細まる。


「ちょっと試してみよっか」


指が弾かれた。


ヒュッ。


「──っ!」


少女の腕をかすめてナイフが抜けた。

皮膚が裂け、赤が滲む。


「反応いいね。

 処理しがいあるじゃん」


もう一本。


ヒュッ。


「痛っ……!」


太ももに傷。

逃げ道を塞ぐような、正確すぎる軌道。


「もっと逃げてよ。

 追う側ってさ、楽しいんだから」


少女はよろよろと走る。

視界が滲む。

足が痛い。

息が焼ける。


木の根にひっかかり、転んだ。


スレイの声が弾む。


「転んじゃった」


その瞬間、

影が落ちて、

少女の身体にスレイが跨った。


「ねぇ、見せて?」


スレイの指が少女の頬に触れる。

涙を拭うように。


「泣きそうな顔、ほんと可愛いよね。

 壊す前に見るとさ、最高なんだ」


「や……やめ……」


「やめませーん♡」


少女の右腕を掴む。

骨の位置を確かめるみたいになぞる。


「細いね。これ、すぐ折れるやつでしょ」


ボギッ。


「っっ……あああ……!」


叫ぶ少女を見て、スレイの呼吸が震えた。


「やば、かわいい!

 ねえ、もっとかわいくなろ?」


今度は左脚。


「や……来ないで……!」


「行くよ。

 だって、まだ足りないでしょ」


バキッ。


「あ……っ……!」


少女の声が途切れ、呼吸が乱れる。

痛みが脳を焼いて、涙が止まらない。


スレイはその涙を親指で掬う。


「ねぇ知ってる?

 こういう顔、ほんと好きなんだよね」


こんな女にも嫌われる。

やっぱり自分は、世界中の敵。


(……どうして……

 どうしていつも……)


でも。


(ヴォイドさん……

 だけは……)


あの男だけは、

触れても殴らず、

名前を呼ばれれば返事をし、

食事を作ってくれた。


この世界でただひとり、

自分を人として扱ってくれた。


(……行きたい……あの場所に……)


その一筋の光ごと、

スレイは無慈悲に踏み潰す。


「じゃ、終わりにしよっか」


スレイはゆっくりナイフを抜き出した。


「死ぬ前のキス、してあげる」


少女の顎を掴み、引き寄せる。

冷たいキスが落ちる。


印をつけるだけの儀式。


「かわいい絶望。

 じゃあ、バイバイ」


刃が振り上げられた。


(……いや……いやだ……

 ヴォイドさん……)


刃が落ちかけた、その瞬間。


森が沈黙した。


風が止まり、木々が固まり、

生き物の息が凍る。


「……なに?」


スレイが初めて、表情を曇らせた。


影が近づいてくる。

重い足音が、世界を押しつぶすように響く。


一歩。

また一歩。


スレイの顔から色が消える。


少女の視界に、黒いコートが揺れた。


「……っ……

 ヴォイドさん……」


少女は泣きながら呟いた。


スレイは無意識に後退る。


男は少女の前に立ち、静かに言った。


「離れろ」



◇ 沈黙の怒り


少女に向けられた刃が止まったのは、

空気そのものが「やめろ」と命じられたかのような、

そんな瞬間だった。


スレイは本能で跳ね上がった。

ナイフを握りしめ、後ろへ軽く跳ぶ。


(……なに、この圧……)


赤い瞳が鋭く揺れる。

森が、音のない轟音で満ちていた。


木々が震えているわけでもない。

風も吹いていない。


ただ――そこに立つ“男ひとり”が、

世界の重心をずらしていた。


黒いコート。

銀灰の髪。

夜の影のように無音で歩く。


ヴォイド。


その男の視線は、スレイではなく――

少女の折れた腕と脚、血のついた頬に落ちていた。


ゆっくりと視線が上がる。


スレイは背筋に氷柱を突き立てられたように感じた。


(……なに、この目……)


怒鳴らない。

叫ばない。

表情さえ変わらない。


――なのに、“殺す”が空気より濃くあった。


ヴォイドは少女に触れるように膝をつき、

そっと抱き上げた。


その動作さえ、静かで丁寧だった。


ぽつりと、低い声が落ちた。


「……よく生きたな」


少女の意識は朧げだったが、

その声に触れた瞬間、涙がひとすじ落ちた。


「ヴォ……イド……さん……」


名を呼ばれた男は、ほんの一瞬だけ目を細める。


そして、立ち上がる。


その腕の中に少女を抱えたまま――

スレイへ視線を向けた。


「……お前か」


スレイは笑みを作ろうとしたが、喉が震えた。


「な、なにそれ。

 保護者気取り?

 災厄なんて――」


言い終える前に、視界が消えた。


違う。

ヴォイドが“消えた”。


(……え?)


気づいた時には、すぐ目の前にいた。


距離が詰まったことにも気づけない。

反応できない。

殺気の匂いすらないのに、怖すぎる。


「やっ――!」


振り下ろしたナイフは、

途中で失速した。

腕が、意思ごと縫い止められたかのように動かない。

刃は届くはずの距離で、行為そのものが成立しなかった。


「……軽いな」


低く吐かれた言葉に、スレイの顔が歪む。


「な、なに……あんた……」


次の瞬間。


ヴォイドの掌が、ゆるくスレイの顔に触れた。

殴りつけるような力じゃない。

ただ、振り払うような――軽い動作。


にもかかわらず。


ドゴッッッ!


乾いた衝撃音とともに、

スレイの身体は横へ吹き飛び、

地面を数回跳ね、木に叩きつけられ、そのまま崩れ落ちた。


身体は痙攣している。

意識は完全に飛んでいた。


(……なに……いま……の……)


生物として理解できない衝撃。

自分が死にかけたことすら理解できず、

スレイの瞼は閉じたまま微動だにしない。


ヴォイドは一瞥もくれず、

腕の中の少女へ視線を戻す。


「帰るぞ」


少女は泣きながら、弱く頷いた。


ヴォイドは静かに歩き出す。

倒れ伏すスレイの横を、風のように通り過ぎて。


その背中は、炎より熱く、

氷より静かだった。



◇ 帰路、凍える息の中で


ヴォイドの腕の中は、不思議なほど安定していた。

少女の折れた腕と脚はひどい角度のまま、力なく揺れている。


痛みは意識の端でちらついているのに、

怖くなかった。


(……ヴォイドさん……)


その名前だけで涙がまたにじんだ。


「泣くな。揺れる」


「……っ、ご、ごめんなさい……」


謝る声は震えているのに、

抱え上げるヴォイドの腕は一度も揺れなかった。


歩くたび、彼の胸板がかすかに上下し、

その振動が少女の鼓動と重なる。


胸が、痛みとは違うもので熱くなる。


(……置いて、行かれたくない……)


さっきまで、死ぬほど怖かった世界が、

ヴォイドの足音に合わせて静かに後ろへ遠ざかっていく。


森が見慣れないほど優しく思えた。



扉を蹴って開け、ヴォイドは少女をそっと寝かせた。

簡易ベッドに横たわる瞬間、少女がかすかに震える。


ヴォイドは折れた腕と脚を一度だけ確かめると、

薬草を噛み砕き、布に包んで静かに固定した。


「動かすな。熱を逃がすな。

 数日は歩けないが、命に別状はない」


手当ては最低限だったが、迷いはなかった。


ヴォイドは薪をひとつくべ、火を強めた。

焚き火の光が彼の頬の傷跡と影を浮かび上がらせる。


「折れているのは、腕と脚だ。

 痛むぞ。」


「は、はい……

 だ、大丈夫……です」


「大丈夫なら泣くな」


「泣いて、ません……」


言いながら、涙がぽたぽた落ちた。


ヴォイドはため息をついた。


「無理に喋るな。

 動くな。

 寝てろ。」


短い言葉なのに、

少女は胸の奥がぎゅっと温かくなる。


だって――

“自分のために使われた言葉”なんて、

生まれて初めてだったから。



◇ 白羽と呼ばれた少女


小屋の炎は静かに揺れていた。

折れた腕と脚の痛みはまだ強くて、

少女は息を整えるのにも苦労していた。


けれど、目はヴォイドの背中だけを追っていた。


彼は薬草を刻んでいた。

無駄のない動作。

余計な音を立てない手つき。


その背中は、なぜか胸の奥をぎゅっと掴んで離さない。


痛みに震える指先で毛布を握りしめる。


(……呼びたい……)


ただ、それだけだった。

理由なんてなかった。

名前で呼びたい。

呼ばれたい。

そう思うだけで胸が熱くなる。


けれど、自分には“名前”がない。


世界に生まれてからずっと。

誰にも呼ばれたことがない。

呼んでほしいと願ったことさえ、一度もなかった。


なのに今は――

たった一人の男に、呼んでほしい。


だから少女は、震える唇で言葉を絞り出した。


「……あの、ヴォイドさん……」


薬草の砕ける音が、ぴたりと止まった。


「なんだ。」


それだけで胸が跳ねる。


少女は痛む体を震わせながら、

勇気を振り絞った。


「わ、わたし、

 名前……

 ほしい……です……」


炎の音だけが返った。

ヴォイドは動かない。


少女は、胸がつぶれそうになりながら続けた。


「ヴォイドさんに……呼んで……ほしい……

 わたし……その……

 ひとりの……人として……」


言いながら、涙が頬をつたった。


泣きたくて泣いてるんじゃない。

でも、止められなかった。


「……呼ばれたくて……

 こんな気持ち……初めてで……」


言った瞬間、震えが広がる。

体が痛むのに、胸のほうがもっと痛かった。


「おねが……い……です……

 名前……ください……」


自分でも驚くほど、弱い声だった。


ヴォイドはしばらく何も言わなかった。


本当に、何も。


少女は耐えきれず目を伏せる。


(……やっぱり

 言うんじゃなかった……)


そのとき。


椅子が静かに軋む音がした。


ヴォイドが立っていた。

こちらへゆっくり歩いてくる。


少女の心臓が音を立てる。

近づく気配に、呼吸さえ忘れる。


ヴォイドはベッドのそばに腰を落とし、

少女の視線の高さに目を合わせた。


弱視の瞳が必死にピントを合わせる。


彼の輪郭が滲む。

でも、その眼だけは見えた。


静かで、深くて、どこか優しい光。


ヴォイドは言った。


「……白い羽だと思った。」


少女は瞬きをした。


「……え?」


「お前を拾った時だ。

 落ち葉の中で、白い羽が見えたと思った。

 実際は、血と泥にまみれたお前だったが――

 ……それでも白い羽に見えた。」


胸が熱く染まる。

涙があふれる。


ヴォイドは続けた。


「羽は軽い。

 折れやすく、すぐ消える」


「お前を見たとき、そう思った」


でも、と彼は言葉を区切り、


「白い羽は、“選ぶ者”が持つものでもある。」


「……え……?」


「白羽の矢。

 本来は、不幸の象徴だ。

 ……だが、逆に選ばれたという意味にもなる。」


少女の呼吸が止まった。


「だから――“白羽”。

 それがいい。」


目から涙が落ちる。

止まらない。


「し……ら……は……」


少女は震えながら、胸に手を当てた。


「……シラハ……

 わたし……シラハ……?」


ヴォイドは小さく頷いた。


「気に入らないなら言え。変えてやる。」


「……ううん……!」


少女は全身で首を振った。


「気に入らないわけ……ないです。

 だって、だって……」


涙で声が震える。


「生まれてからずっと……

 わたし……誰にも、名前を……

 呼んでもらえなくて……」


ぼろぼろ泣きながら、必死に言葉を絞る。


「ヴォイドさんが……

 初めて……わたしにくれた……」


ヴォイドはそれを静かに見ていた。

慰めの言葉も、抱きしめることもせず。


ただ“受け止めるように”見ていた。


少女はその視線に触れながら、

泣きながら笑った。

挿絵(By みてみん)

「……わたし……

 シラハになりたい……

 ヴォイドさんがくれた名前で……

 生きたい……」


ヴォイドはほんの一瞬だけ目を細めた。


そして、低く、静かに呼ぶ。


「――白羽。」


その名前は、

火の音より温かく、

森の光より柔らかかった。


「っ……はい……!」


白羽は泣きながら答えた。

世界で一番幸せそうに。


それは、

彼女の人生で初めて“人間として”呼ばれた声だった。



◇ 赤髪の処理官は静かに墜ちる


──冷たい土の匂いが鼻をかすめた。


「……ん、ぅ……」


かすれた息が漏れる。

首筋がじん、と痺れている。


頬の片側は腫れて熱を帯び、

打撲の痛みが脈打つたびに思い出させてくる。


殴られた。


それも、“人間に殴られた”という感触じゃない。


圧倒的な、掌握の一撃。


思い出した瞬間、心臓がどくりと震えた。


スレイはゆっくり上体を起こす。


ミニスカの裾が乱れ、

ツインテールがほどけかけて肩に散っている。

土に倒れた拍子に片方のニーハイがずれて、

膝のあたりまで落ちていた。


けれど──

そんなことはどうでもよかった。


呼吸を整えながら、唇の端をゆっくり吊り上げる。


「……っは……はは……

 ほんとに……負けたんだ、わたし……」


足が震える。

痛みでではない。

恐怖によるものだった。


処理官として災厄を何十も殺してきた。

泣き叫ぶ少女たちを、潰すように仕留めてきた。


それなのに──


彼の前では、ただの一度も立てなかった。


(……殺されるって、

 本当に……

 ああいう感じなんだ)


首筋をさすった瞬間、全身がひくりと震えた。


殴られた痛みが、怖い。

逃げられない絶望が、怖い。


でも──


(……なのに、なんで)


胸の奥が、じわり、と熱くなる。


怖いのに、惹かれる。

敗北したのに、奪われたくなる。

あの無表情で殴り捨てられた瞬間が、忘れられない。


スレイは自分でも信じられないほど弱い声でつぶやいた。


「……ヴォイド……

 って、呼んでいたよね」


あの少女が意識を失いながら呼んでいた名前。

その響きが、ひどく胸に刺さる。


(……あの子……

 あの子には、

 触れるんだ……あの腕で)


静かに嫉妬が滲む。

爪が土を掴んだ。


「……あの人のことをもっと知りたい」


自分で言って、ふっと笑った。


こんな感情、知らなかった。

自分より弱い男は興味もなかった。

誰かに優しくされたいなんて思ったことはない。


でも──

あの圧倒的な強者に殴り伏せられた瞬間、


 “この人になら壊されてもいい”

 そんな感覚が全身を支配した。


「もうタナトスロアには戻れない。

 でも、それでいい。」


「あの人の下なら……

 わたし……

 もっと深く堕ちても……構わない……)


羨望か、恋か、屈服欲か。

自分でも判別できない。


ただ、はっきりしているのは一つ。


あの人のそばにいたい。


理由は知らない。

知る必要もない。

気づけば、胸の奥に棘のように刺さっていた。


よろりと立ち上がり、

ぐらつく足で森の奥を見つめる。


「……行かなきゃ……

 置いていかれたく、ない……」


かすれた声でそう呟いた瞬間、

スレイの頬にひとすじの紅い笑みが戻った。


「……待っててね、ヴォイド。

 あなたに拾ってもらえるまで……

 何度でも……行くから……」


夜風が赤いツインテールを揺らす。

その姿は、傷だらけなのに楽しげで──

ひどく危うい恋に落ちた少女そのものだった。



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