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第12章 ただの女の子になりたい(後編)

◇ 昼/拠点 豪雨


ヴォイド様と一緒に生活を始めて、

3日が経過した頃―――


雨音が、屋根を叩き続けている。

一定の間隔で、逃げ場を塞ぐみたいに。


私はしばらく、目を開けたまま動かなかった。


今日は外へは出られない。

それは不便で――

けれど、ここは好き。

だって、1人じゃないから。


私は起き上がり、仮拠点の中を見回した。

暮らしに向いた場所じゃない。

それでも、今の私には必要な場所だった。


ここで私は、立ち止まっている。


逃げるためじゃない。

戻らないためでもない。


――これから、どう在りたいか。

それを、見失わないために。



扉の向こうから足音がした。

迷いのない、淡々とした歩き方。


扉が開く。


ヴォイド様は濡れていた。

外套の縁から、水が静かに滴っている。


何かを確かめに行っていたんだろう。

言わないけど、分かる。


「豪雨だ。

 今日はもう出歩けん」


正しい判断。

この人はもう、今日という一日の“外”を把握してる。


ヴォイド様は室内に入り、火の具合を確かめ、桶を引き寄せる。

水の準備。

いつも通りの、生活の動き。


その背中を見て、私は小さく息を吸った。


何度もあった。

言おうとして、やめた朝。


でも今日は、違う。

雨が、足を止める理由をくれてる。


私は、はっきりと口を開いた。


「ヴォイド様」


彼が振り返る。


視線が合う。

逸らさない。


「ここにいる間だけで、構いません」


一拍置いて、続ける。


「私は

 ただの女の子で、いたいんです」


胸の奥が、静かに震えた。


――言えた。

ちゃんと、誤魔化さずに。


ヴォイド様はすぐには答えない。

私を見て、ほんの一拍。


「条件がある」


「はい」


迷いはなかった。


「ここにいる間、

 枯滅の力は一切使うな」


胸の奥が、きゅっと締まる。


命令じゃない。

選択肢を、線で区切られただけ。


私は目を伏せずに、頷いた。


「分かりました。約束します」


ヴォイド様は、それ以上踏み込まない。


「できることからだ」


「はい」


少しだけ、声が軽くなった。


雨音は変わらない。

でも、室内の空気は確かに変わった。


ヴォイド様が、桶のそばに布類を集め始める。

水を汲む音。

布の擦れる音。


――洗濯からだ。


私は袖をまくり、一歩近づいた。


「では、私も」


ここで、止める。



◇ 洗濯/それは、私がやりますから!


ヴォイド様は、桶の横に布類をまとめていった。

濡れた外套。

使い古した布。

そして――


荷物の奥から、

黒い布が、するりと引き抜かれる。


(あっ)


それ。

それは。

それだけは。


ヴォイド様は気にした様子もなく、

そのまま広げて確認する。


「汚れているな」


「ま、待ってください!」


反射だった。


声が出たあとで、

一番驚いたのは私自身。


ヴォイド様の手が止まる。


「何だ」


「そ、それは」


言葉が出ない。


(どう言えばいいの!?

 長年着倒した戦闘服で、

 ちょっと生活臭あるかも、なんて)


「洗う必要がある」


「そ、それは……そうなんですけど……!」


私は一歩踏み出して、

思わず両手をぶんぶん振る。


「で、でも

 それは

 わ、私がやりますから!」


「?」


完全に分かってない顔。


「洗濯だ。

 誰がやっても同じだろう」


「ち、違います!」


即否定。


「同じじゃ

 同じじゃないんです!」


「?」


首の傾げ方が、さらに深くなる。


(なんでこんな説明しづらいの……)


私は両手を胸の前で握りしめ、

覚悟を決めた。


「に、匂いとか

 ついてるかも……ですし……」


――言った。


(ああもう!!

 何言ってるの私!!)


沈黙。


雨音だけが、元気。


ヴォイド様は数秒考えてから、

真顔で言った。


「匂いは、洗えば落ちる」


「そ、そういう話じゃなくて!」


頭を抱えたい。


「触られるのが

 ちょっと……」


「嫌か」


「い、嫌というか!

 ああもう!」


完全に詰み。


ヴォイド様は、私とドレスを見比べて――


「分かった」


助かった。


と思ったら、そのまま差し出してくる。


「任せる」


「っ!?」


慌てて受け取る。


「は、はい!」


黒い布は、思ったより重い。


(……懐かし……)


――違う違う!


私は首をぶんぶん振って、

急いで桶の前にしゃがみ込んだ。


「で、では

 洗濯をします!」


顔が、まだ熱い。


私は何も考えないようにして、

ドレスを水に沈める。


ごし。

ごしごし。


(もう……

 見ないでください……)


必死に、黙々と、

ひたすらごしごし。


洗濯は、

とても静かに、

そして必死に、

私の手で進んでいった。



◇ 服の確認/視線


雨音は、まだ一定だった。


干した布の中で、

私の黒いドレスが、ほとんど乾いた状態で揺れている。


私は、それを手に取って――

すぐに、指を止めた。


(……短く、見えない……?)


丈は、変わっていない。

戦うために何度も着た、慣れた長さ。


それでも、

今はなぜか、視線がそこに落ちる。


裾。

腰。

身体の線。


(……見られるって、こういう……)


今まで、

誰かの前で「どう見えるか」を考えたことがなかった。


敵か、味方か。

脅威か、そうでないか。


それだけだった。


私は、無意識に裾を引いてから、

はっとして、手を離す。


(……引いても、意味ないのに……)


胸のあたりも、気になる。


露出しているわけじゃない。

きちんと布はある。

隙間も、乱れもない。


なのに――

そこに「自分の身体がある」と意識してしまう。


(……だめだ……)


私は一度、深く息を吸ってから、

扉の方を見た。


「……ヴォイド様」


すぐに返事がある。


「何だ」


いつもと同じ声。

それが、逆に逃げ場をなくす。


私は、ドレスを胸元で軽く押さえたまま言った。


「……着替えたら……」

「少しだけ、見ていただけますか……」


言った瞬間、

耳まで熱くなる。


理由を説明していない。

でも、自分が何を求めているかは分かっている。


ヴォイド様は、少し間を置いてから、


「構わない」


と答えた。


私は衝立の向こうで、

ぎこちなくドレスを着る。


布が、身体に沿う。

締めつけてはいないのに、

“線”をなぞられる感覚が、落ち着かない。


裾を直す。

胸元を整える。

意味もなく、何度も。


(……見られる……)


それだけで、

指先が落ち着かなくなる。


「……できました」


声は、自然と小さくなった。


衝立から出る。


ヴォイド様の視線が、

一度、私の全体を捉える。


頭。

肩。

胸。

腰。

裾。


――止まらない。

でも、じっと見ない。


その“測るような視線”が、

余計に意識を刺激する。


私は、思わず両手を前で重ね、

背筋を伸ばしすぎてしまった。


(……変……)


「……問題はない」


いつもの評価。


「丈も、布の状態も適切だ」

「乱れはない」


私は、ほっとしかけて――

それでも、耐えきれずに言った。


「……あの……」


「何だ」


「……見えて、ませんか……?」


言い終わる前に、

自分が何を言っているのか分かって、

顔が熱くなる。


「……はしたなく、とか……」


声が、ほとんど消えた。


ヴォイド様は、

一拍、確実に考えてから答えた。


「見えていない」


即答。


「その心配は、不要だ」


断言だった。


私は、

その一言で、胸の奥がすとんと落ちるのを感じた。


「……そ、そうですか……」


「ただ」


続く言葉に、肩が跳ねる。


「気にしすぎると、動きが硬くなる」

「それは、目立つ」


――そっち。


私は、思わず俯いた。


「……はい……」


「自然にしていろ」


それだけ言って、

ヴォイド様は視線を外す。


それ以上は、何も言わない。


でも。


“見えていない”

“問題はない”


その言葉だけが、

胸の奥で、じわじわ効いてくる。


私は、その場でしばらく動けなかった。


裾も、

胸元も、

何も変わっていないのに。


意識してしまった自分が、

ひどく、恥ずかしかった。



洗濯が終わったころには、

雨は相変わらず屋根を叩いていた。


干した布は、室内の梁に並んでいる。

黒いドレスも、外套も、

水を吸って、静かに重さを手放していく。


私は少し離れたところで、それを眺めていた。


(洗濯だけで、こんなに疲れるんですね)


腕はだるいし、手も冷たい。

それでも、不思議と嫌じゃない。


ヴォイド様は、洗濯道具を片付けると、

いつものように次の動作へ移った。


荷の奥から、小さな革袋を取り出す。


紙と、筆記具の音。


私は、自然と目で追っていた。


「それは……?」


ヴォイド様は、手を止めずに答える。


「手紙だ」


その言葉に、胸の奥がわずかに跳ねた。


「誰に、ですか」


「知人だ」


短い答え。

けれど、紙の扱いは丁寧だった。


私は、干された布と、

机代わりの箱の上に広げられた紙を見比べる。


洗うことも、

書くことも、

どちらも生活の一部なんだと、遅れて気づく。


さっきまで、

触られたくない服に慌てていた私。


今度は、

誰かに向けて書く文字を、

少しだけ羨ましく思っている。


気づけば、一歩近づいていた。


「それ……どうやって書くんですか」


ヴォイド様の手が止まる。

視線が、こちらを向く。


「書いたことは」


「あります。

 記録とか、名前とか」


口にしてから、

それが違うことは自分でも分かっていた。


ヴォイド様は、ほんの一瞬考えてから、

紙を一枚、こちらへ差し出す。


「なら、教える」


胸の奥が、きゅっと鳴る。


洗濯の次は、文字。


役割でも、戦いでもない。

誰かに向けて、自分として書くもの。


私は、その紙を受け取った。


(女の子っぽいかも)


雨音は、まだ強い。


それでも、この仮拠点の中で、

私の一日は、確かに別の形へ進み始めていた。



机代わりの箱の前に、紙を広げる。

私は背筋を伸ばし、ペンを持った。


……持ったまま、止まる。


(女の子の手紙って、何を書くんだろ)


「……ヴォイド様」


「何だ」


「女の子は……

 どんな手紙を書くものなんでしょうか」


ヴォイド様は、少しも迷わず答えた。


「要点を簡潔にまとめる」


さらに。


「余計な情報は省く」


さらにさらに。


「感情表現は、必要最低限でいい」


私は真剣に頷いた。


「……なるほど。

 さすがヴォイド様です」


私は、胸の奥でひとつ頷いた。


感情を書かなくていい。

無理に、気持ちを言葉にしなくていい。


それはつまり――

私は、今まで通りでいい、ということだ。


女の子になるために、

何かを足さなくてもいい。


そう思えたことが、

なぜか、とても安心だった。


(知らなかった……

 女の子って、意外と合理的なんだな)


完全に信じている。


ヴォイド様は、

なぜか少し自信ありげに続けた。


「相手が知りたいのは、

 事実と近況だ」


「例えば――」


彼は紙を引き寄せ、さらさらと文字を書く。


本日も問題なし。

体調良好。

雨が続いている。

以上。


……以上。


私は、その文面を食い入るように見つめた。


(すごい……

 無駄が一切ない……)


「これで十分だ」


「……はい……!」


疑いが一ミリもない返事。


(なるほど……

 これが“大人の女の子”……)


「では、書いてみろ」


「はい」


私は素直にペンを走らせる。


お元気ですか。

こちらは、雨です。


短い。

感情も、ほぼない。


「いいぞ。」


「ほ、本当ですか……?」


「情報が整理されている」


私は、ほっと息をついた。


(よかった……

 女の子、できてる……)


ペン先は、そのまま次の行へ進む。


私はまだ知らない。

“女の子の手紙”の正解を。


でも今は、

信頼できる人の言葉をなぞりながら、

必死に「そうなろう」としている。


それだけで、

この時間は、確かに前に進んでいた。



私は、書き終えた紙をそっと差し出した。


「できました……!」


ヴォイド様は、それを受け取り、

無言で目を通す。


視線は速い。

迷いも、引っかかりもない。


一行。

二行。

三行。


……以上。


彼は、紙から顔を上げた。


「問題ない」


即答。


「必要な情報はすべて入っている」


私は、思わず息をつめていたのを吐き出す。


「ほ、本当ですか……?」


ヴォイド様は、

よくかけていると小さく頷いた。

その仕草が、やけに満足そうだった。


「これなら、相手も状況を正確に把握できる」


私は、胸の前で両手を握った。


(よかった……

 ヴォイド様に褒められた…)


「女性の手紙としても、問題ない」


その言葉に、私は背筋を伸ばした。


「ありがとうございます……!

 とても、勉強になりました……!」


深く、丁寧に頭を下げる。


ヴォイド様は、それを当然のように受け止め、

もう一度、満足げに頷いた。


「一つ成長したな。」


私は、元気よく返事をした。


「はい!」


疑いは、ゼロ。


こうして――

女の子の手紙講座は、

誰一人として間違いに気づかないまま、

大成功のうちに終了した。



それから、時間はゆっくりと流れた。


外に出られない日は、

仮拠点の中で過ごす時間が増えた。


私は、家事を覚え始めた。


掃除。

最初は、ほうきを動かすたびに埃が舞った。


(……逃げてる……)


追いかける。

逃げられる。

最終的に、埃と一緒に自分も咳き込む。


それでも、

次の日は少しだけ舞わなくなった。


洗濯。

水の量が多すぎたり、少なすぎたり。

干す位置を間違えて、乾かなかったり。


(太陽……思ったより移動するな)


学習する。

次は、少し早く乾く。


料理。

切った大きさが全部違う。

鍋に入れる順番も分からない。


見た目は、かなり不安。


でも、

ヴォイド様は何も言わずに食べて、

「……問題ない」とだけ言った。


私は、それを

すごく褒められた気がしてしまう。


手紙。

何枚も書いた。


書き出しで止まり、

書いては消し、

消しては書く。


字は、だんだん丸くなった。


(前より、ちょっとだけ

 かわいい……?)


自分でそう思って、

慌てて首を振る。


そんなことを考えるのは、

慣れていなかった。


服の扱いも、少し変わった。


汚れを気にするようになって、

皺を伸ばすようになって、

着る前に、少しだけ迷う。


(これ、変じゃない……?)


誰に聞くわけでもないのに。


夜は、静かだった。


ランプの明かり。

雨音。

紙をめくる音。


役割を思い出さない時間。


私は、

「何者か」である前に、

ここで“生活している”。


それが、少しずつ当たり前になっていった。


気づけば、

仮拠点で迎える最後の日が近づいていた。


朝は晴れて、

昼は穏やかで、

時間だけが、静かに進んでいく。


私は、窓の外を見て、

深く息を吸った。


(まだ、全部は分からない……)


でも。


掃除も、

洗濯も、

料理も、

手紙も。


最初よりは、確実にできている。


何より――

「やろう」と思えるようになっている。


それが、

私にとっての変化だった。


そして、

気がつけば、静かに、

別れの日を迎えていた。



◇ 最終日の朝


朝の空気は、少し冷えていた。

豪雨が嘘みたいに、地面は静かだ。


私は火の前にしゃがみ込み、

いつも通り、鍋に水を入れる。


……いつも通り。


その言葉が、今日は少しだけ胸に引っかかった。


「今日で、ここを畳む」


背後から、ヴォイド様の声。


淡々としていて、

それ以上でも以下でもない。


私は手を止めて、振り返った。


「……今日で、ですか」


「……そうだ。」


短い。

でも、十分だった。


私は少し考えてから、言った。


「……あの子達のところへ、

 戻られるんですね」


白羽。

スレイ。

シオン。


名前は出さなかったけど、

分かっている。


ヴォイド様は否定も肯定もしない。

ただ、短く頷く。


それだけ。


私は、もう一度火を見る。


「……そう、ですよね」


声は、ちゃんと出た。

ちゃんと、笑えていたと思う。


でも、胸の奥が、ほんの少しだけ沈んだ。


(……そっか)


寂しくないと言えば嘘になる。

でも、引き止めたいとは思わなかった。


ここは、仮の場所だ。

最初から、ずっと。


それでも――

一緒に過ごした時間が、

ちゃんと“生活”だったことだけは、

胸に残っている。



それからの時間は、驚くほど静かだった。


洗濯物を干す。

もう、水の量を間違えない。


布を絞る力も、ちゃんと分かっている。


(……昨日より、うまい)


ちょっとだけ、誇らしい。


昼の準備をする。

切る、煮る、待つ。


味見をして、首を傾げる。


(……多分……大丈夫)


ヴォイド様は何も言わず、食べる。


一拍。


「……旨いな。」


その一言で、全部報われる。


私は、無言でガッツポーズをした。


そのあと、

手紙を書き直したり、

書きかけでやめたり。


字を整えて、

一行消して、

また戻す。


(……今じゃない、かな)


紙を畳んで、しまう。


午後、道具を片付ける。


荷物は少ない。

増えたのは、生活の癖だけ。



◇ 夜/拠点


火は、もう落としてあった。


最後の食事は、静かだった。

特別なものはない。


いつも通りで、でも――

それが最後だと、互いに分かっている。


器を洗い終え、

私は外で、干していた布を取り込んでいた。


夜の風は、冷たい。

草の匂いが、濃い。


(……もうすぐだ)


何が、とは言わない。

言わなくても、分かっている。


「雛」


ヴォイド様が、外から呼んだ。


闇に混じる声。

昼よりも低く、はっきりしている。


「付いて来い。」


短い言葉。


私は、布を抱えたまま、一瞬だけ立ち止まり――

それから、静かに頷いた。


「……分かりました」


布を置く。

袖を整える。


深呼吸を、ひとつ。


(……大丈夫)


私は、ここでちゃんと過ごした。

能力を使わず、

役割に戻らず、

ただの女の子として。


そう思いながら、

私は夜の野へ向かって歩き出した。



◇ 夜/拠点近くの丘


拠点を離れると、空気がはっきり変わる。


草はまだ湿っていて、

踏むたびに、小さく音を立てた。


雨上がりの匂いが、低く残っている。


夜空は、思ったより明るい。

雲が切れ、星がいくつも瞬いていた。


私は、少し前を歩くヴォイド様の背中を見ながら、

無言でついていく。


呼び出された理由は、聞かなかった。

聞かなくても、分かる気がしたから。


ほどなくして、

丘の上に出る。


拠点が見下ろせる、なだらかな場所。


ヴォイド様は、そこで立ち止まった。


振り返らないまま、言う。


「ここでいい」


私は、足を止めた。


風が、草を揺らす。

虫の声が、遠くでひとつ、途切れる。


夜は、完全だった。


沈黙。


それを破ったのは、

ヴォイド様の声だった。



◇ 評価と助言


「……よく、俺との約束を守った」


低い声。

迷いのない断定。


私は、少しだけ驚いてから頷いた。


「……はい」


胸の奥が、じんわりと熱くなる。


褒められることに、慣れていない。

でも、否定されなかった。


それだけで、十分だった。


ヴォイド様は、

ゆっくりとこちらを向く。


月明かりが、横顔を薄く縁取っていた。


「この数日、枯滅は使っていない」


確認じゃない。

事実を並べているだけ。


「衝動も、焦りも、抑えた」

「人としての生活を優先した」


私は、目を逸らさなかった。


「……はい」


短く、答える。


ヴォイド様は、一拍置いてから続けた。


「だから、今なら話せる」


夜空を見上げたまま、言う。


「遺乃に負けた理由だ」


その名前に、

胸の奥が、静かに波打つ。


でも、もう逃げなかった。


「力が足りなかったわけじゃない」

「判断が遅れたわけでもない」


淡々とした声。


「お前は、枯滅を

 “終わらせる力”としてしか見ていなかった」


私は、息を詰める。


殺すための力。

奪うための力。


言葉が、静かに重なる。


「それは間違いじゃない。

 だが、それだけでは、

 無相には届かない」


私は、無意識に拳を握っていた。


「無相は、意味を持たない―――

故に、終わりも始まりも区別しない」


だから、とヴォイド様は言う。


「お前が“役割”として力を振るった瞬間、

 枯滅は、読まれていた」


静かな断言。


私は、ゆっくり息を吐く。


――思い当たることが、ありすぎる。


「この数日……

 お前は、枯滅から離れた」


「殺さず、

 守ろうともせず、

 ただ、普通に生きた」


風が、丘を渡る。


星が、さらに増えていた。


「それが、お前なりの"受け止め方"だ」


ヴォイド様は、はっきりと言った。


「力を抑えたから、

 弱くなったわけではない。」


「使わなかったから、

 鈍ったわけでもない。」


そして、私を見る。


―――今なら分かるはずだ。と。


答えは、求められていない。

確認でもない。


委ねられている。


私は、しばらく黙っていた。


草の揺れる音。

夜風。

照らす月明り。


胸の奥で、

何かが、静かに形を変えていく。


「分かった……気がします」


それだけ、答えた。


ヴォイド様は、もう何も言わなかった。



◇ 覚醒 ―― 夜の丘


夜の丘は、静まり返っていた。


風はある。

草も揺れている。

けれど、音だけが、どこか遠い。


私は、一歩踏み出した。

湿った草を踏む感触が、靴越しに伝わる。


丘の上。

月が、ちょうど真上にあった。


白い光が、地面を均等に照らしている。


「今だ」


短い言葉。


「力を解放しろ」


胸の奥が、わずかに跳ねる。


でも、怖さはなかった。


――約束は、守った。

最後の日まで、使わなかった。


だから今、ここで。


私は、目を閉じた。


枯滅を呼び起こす。

けれど、押し出さない。

振りかざさない。


終わらせようとしない。


ただ、

“そこにあるもの”として、認識する。


次の瞬間。


空気が、きし、と鳴った。


音じゃない。

圧だ。


目に見えない波が、私の足元から広がっていく。


草が、一斉に伏せた。


風に押されたわけじゃない。

何かに、触れられたように。


丘の表面をなぞるように、

淡い、暗色の揺らぎが走る。


ほんの一瞬。

一呼吸にも満たない時間。


けれど、確かに――

世界が、「終わり」という概念を思い出した。


月明かりが、わずかに歪む。


雲でも、影でもない。

光そのものが、引き伸ばされたように揺れた。


私は、息を呑んだ。


(……あ……)


力は、暴れていない。

飲み込まれてもいない。


ただ、

世界と同じ高さに、置かれている。


その感覚が分かった瞬間――


背中に、重みが生まれた。


ぱき、と。

空気が割れるような、乾いた音。


羽根が、開いた。


黒いはずのそれは、

夜の中ではっきりと輪郭を持つ。


月明かりが、羽根の縁をなぞる。


光を受けて、

その一瞬だけ。


――白く、輝いて見えた。


色が変わったわけじゃない。

黒は、黒のまま。


でも、闇を拒まない黒が、

光を映して、白く見えただけ。


私は、思わず息を吐いた。


(……きれい……)


それは、

殺すための形じゃなかった。


終わらせるためだけの力でもない。


ただ、

背中にあって、支えるもの。


その場で、

ヴォイド様が、わずかに重心を移した。


一歩、でも半歩でもない。

ただ、風の向きを読むような、最小の動き。


――認識した。


それだけで、十分だった。


「……合格だ。」


低い声。


責めるでも、驚くでもない。


待っていた者の、言葉。


私は、目を開ける。


月。

星。

夜。


全部が、ここにある。


羽根は静かに揺れていた。

影が草の上に柔らかく落ちる。


力は収まっている。

世界も元に戻っている。


でも確かに。


――何かが、揃った。


私は、ゆっくり息を吸った。


「……はい!」


それだけ、答えた。


ヴォイド様は、もう何も言わない。


夜は、

すべてを受け入れるみたいに、静かだった。



◇ 星の下


気づいたとき、

私は地面に倒れていた。


仰向けだ。


背中に、冷えた土の感触。

湿った草が、首元に触れている。


(……あ……)


体は、動く。

息も、ちゃんとできている。


でも、起き上がろうとは思わなかった。


理由は、すぐに分かった。


空が――

あまりにも、澄んでいた。


雲がない。

豪雨に洗われた夜の空。


星が、びっしりと広がっている。

隙間がないくらいに。


(……こんな……)


言葉にしようとすると、

全部、軽くなってしまいそうで。


私は、ただ瞬きをした。


視界の端に、人影がある。


ヴォイド様だった。


私の少し横、

低い岩に腰をかけている。


剣も抜かず、

構える様子もない。


同じように、

星空を見上げていた。


しばらく、沈黙が続く。


風が、草を揺らす音。

遠くで、虫が一度鳴いた。


私は、空を見たまま、口を開く。


「……きれい、ですね」


声は、小さかった。

でも、消えなかった。


ヴォイド様は、すぐには答えない。

一拍置いてから、短く言った。


「……ああ、そうだな。」


それだけ。


でも、その一言で分かる。


――一緒に、見ている。


(……私……)


今日まで、

この人と、同じ時間を過ごしてきた。


洗濯をして。

手紙を書いて。

失敗して。

怒られもしないで。


ただ、

“人並みの生活”をして。


そして、今。


枯滅の力は、まだここにある。

消えてはいない。


でも、

暴れてもいない。


(これが……)


胸の奥が、静かに落ち着いている。


(私なりの……受け止め方)


私は、ゆっくり息を吐いた。


「……ヴォイド様」


呼ぶと、

彼は視線を動かさずに応じる。


「何だ」


「本当に……

 ありがとうございます」


それだけ言うのに、

少しだけ、喉が詰まった。


理由は、説明しない。

説明しなくても、

この人には伝わる気がした。


夜空は、変わらず静かだ。


ヴォイド様は、

しばらく黙ってから言った。


「……よく、たどり着いた」


私は、大きく頷いた。


「……はい!」


そして、

もう一度、星を見上げる。


(絶対に……忘れない)


この夜も。

この空も。

ここで過ごした時間も。


私は、星の下で、静かに目を閉じた。


――そして


同じ時刻、

別の場所で、

また別の誰かもこの空を見上げていた。



◇ そして、別れ


しばらく、星を見たままの時間が続いた。


風が、丘をなでる。

草が、静かに擦れる。


私は、そっと上体を起こした。

地面に手をつき、膝を立てて、座る。


……ヴォイド様は、まだ星空を見ている。


今なら、分かる。

この人は、待っている。


「……ヴォイド様」


呼ぶと、

ようやく、こちらを見た。


視線が合う。


私は、言葉を探して、少しだけ視線を彷徨わせた。


(……ちゃんと……言わないと)


もじもじと、指先が動く。

自分でも、落ち着きがないのが分かる。


「……私」


一度、区切る。


「三千年前のこと……

 ずっと……引きずっていました」


声は、震えていない。

逃げていない。


「弱かったんです。

 強くあろうとして……

 役割に、しがみついて」


視線を、逸らさずに続ける。


「……誰かに向き合うのが、怖くて……

 だから……死祟しづく


喉が、少しだけ詰まる。


「……いえ、白羽からも

 逃げていました」


言い切った瞬間、

胸の奥が、すっと軽くなる。


「でも、ここで……」


私は、周囲を見回す。

丘。草。星。夜。


「洗濯して、

 手紙を書いて、

 料理をたくさん失敗して……」


小さく、息を吐く。


「何も終わらせない時間を、

 ちゃんと過ごして」


視線を戻す。


「……やっと、分かったんです」


「私は……

 災厄でいる前に、

 ただ、女の子として

 生きていたかったんだって」


ヴォイド様は、何も言わない。

でも、否定もしない。


「……だから」


私は、少しだけ背筋を伸ばす。


「次は、白羽と向き合えます

 そして、今までのことを謝ります。

 逃げずに、ちゃんと」


それは、誓いだった。


一拍、沈黙。


風が、間を通り抜ける。


「……ヴォイド様」


最後に、呼ぶ。


「私に、

 “生活する時間”をくれて」


「災厄じゃなく、

 一人として……扱ってくれて」


言葉が、追いつかなくなる。


「ただの女の子に……してくれて」


「本当に……

 ありがとうございました」


頭を下げてお礼をする。


胸の奥が、ぎゅっと締まる。


(……もう……)


(……抑えられない……)


私は、立ち上がった。

一歩。

もう一歩。


気づけば――

ヴォイド様の前にいる。


一瞬、ためらって。


それから。


私は、

ぎゅっと――抱きついた。


腕が、勝手に動いた。

理屈じゃない。


縋っているわけじゃない。

離れるための、温度だった。


額が、彼の胸元に当たる。


(……あ……)


温度が、ある。


ヴォイド様は、すぐには動かなかった。


けれど、

拒まなかった。


一瞬、

ためらうような間があって。


そのあと、

静かに、私の背に手が置かれる。


抱き返す、ほどでもない。

でも、離そうともしない。


それで、十分だった。


私は、深く息を吸って、

ゆっくり、吐いた。


「私……

 そろそろ、行きますね」


そう言うと、

ようやく、腕を離す。


一歩、下がる。


ヴォイド様は、私を見て、

いつもの声で言った。


「……ああ。」


それだけ。


でも、その一言は――

背中を押すには、十分だった。


そして、最後に。


「雛」


「お前はもう―――

 大丈夫だ」


「……っ!

 は、はい!!」


私は、小さく頷いて、

もう一度だけ、星空を見上げた。


そして、

前を向いた。



◇ エピローグ/手紙


夜が、完全に深まっていた。


拠点の中は、もう静かだ。

火は落とされ、風の音だけが、壁の外を通り過ぎていく。


ヴォイドは、淡々と荷をまとめていた。

必要なものだけ。

余分なものは、最初から持たない。


外套を畳み、

武具を確認し、

最後に、小さな袋を手に取る。


……その中で。


指先に、紙の感触が触れた。


「……?」


取り出す。


折り畳まれた、一通の手紙。

見覚えのある、少し不揃いな文字。


宛名は、ない。


ただ、彼に向けて書かれたものだと、

一目で分かる。


ヴォイドは、しばらくそれを見つめてから、

静かに、紙を開いた。


──────────────────────────────

 ヴォイド様


  ここを出てから、書きました。

  直接言うと、きっと泣いてしまうので。


  この場所で過ごした時間は、

  私にとって、とても大切なものでした。


  洗濯も、手紙も、

  うまくできないことばかりでしたけど、

  それでも、楽しかったです。


  何も終わらせなくていい日々が、

  こんなに、あたたかいなんて知りませんでした。


  教えてくれて、ありがとうございます。

  信じてくれて、ありがとうございます。


  次は、逃げません。

  白羽と、ちゃんと向き合います。


  また、どこかで会えたら。

  その時は、少しは成長した姿でいられたら、嬉しいです。


 雛


──────────────────────────────


読み終えても、ヴォイドは動かなかった。


紙を畳み、

しばらく、そのまま手に持っている。


紙を通して伝わってくるものがある。

文字の揺れ。

言い直した痕。

削って、書き直した跡。


それは、

整理されていない代わりに、

選ばれた言葉だった。


「……なるほど」


低く、独り言のように呟く。


「こういう伝え方もある……

 ということか」


――教えたつもりで、

教えられている。


そんな感覚が、

一瞬だけ、胸の奥をかすめた。


手紙を、ゆっくりと畳む。


これは、

近況報告ではない。

指示への返答でもない。


――別れ際に残す文面だ。


「……悪くない」


そう言って、

ヴォイドは手紙を袋に戻した。


荷を背負い、

扉の前で、一度だけ立ち止まる。


外は、まだ夜だ。

だが、空は澄んでいる。



ヴォイドは、何も言わずに外へ出た。


夜空には、星があった。

二つとも、はっきりとした光を放っている。


ひとつは、

別れを選び、

この夜空へ辿り着いた星。


もうひとつは、

生き延びることを選び、

同じ夜を越えてきた星。


今は、互いに触れない。

だが――

夜が明ければ、

その違いは、ただの道のりになる。


背中に、

確かに残ったもの――

言葉にはしなかった温度を抱えたまま。


ヴォイドは、

二つの星が並ぶ朝へ向かって、

歩き出した。


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