第12章 ただの女の子になりたい(前編)
◇ 目覚め
最初に戻ってきた感覚は、冷たさだった。
けれどすぐに、
それが冷たいのではなく、
ただ空気に触れているのだと分かる。
胸がかすかに上下していて、
それは意志とは関係なく続いていた。
私は息をしている。
その事実に気づいた瞬間、胸の奥がひどく痛んだ。
吸うたびに肺がきしみ、
吐くたびに身体の内側が現実を思い出していく。
私は、まだここにいる。
――生きている。
そう理解するまでに、
身体が追いつくのを待つ必要があった。
指先が痺れ、脚が重い。
まるで自分の身体じゃないみたいで、
動かそうとしてやめた。
今は無理に確かめるのが怖かった。
目を開けると視界が滲み、光が強く、形が定まらない。
それでも少しずつ輪郭は戻ってくる。
天井。
木の板。
古い染み。
……屋内だ。
ここは戦場ではない。
旧水路でもない。
あの崩れかけた場所でもない。
私は横になっていて、下には布の感触がある。
硬すぎず、柔らかすぎない。
ベッドだ。
その事実に遅れて喉が震えた。
「……ぁ……」
声が出た。
ちゃんと音になっている。
掠れてはいるけれど、確かに私の声だった。
その瞬間、胸の奥がきゅっと縮む。
……ああ。
私は確実に死ぬはずだった。
それを理解しているからこそ、
この状況がうまく飲み込めない。
視線を動かすと、部屋は簡素で、
必要なものだけがあり、余分なものはない。
ただ、その中に――違和感があった。
壁際に、小さな椅子がある。
明らかに大人用ではない。
床には擦れた跡が残り、
何度も行き来したような痕がある。
喉が、また鳴る。
……生活の痕跡だ。
視線を巡らせて、もう一度、部屋を確かめる。
部屋の隅に、小さな机があった。
古い木製で、角は丸く削れている。
その上に、紙が何枚か重ねられている。
文字はない。
代わりに、線だけが引かれている。
短い線が、いくつも。
数は……七つほどだろうか。
その周囲を囲むように、歪んだ円。
閉じきっていない輪が、何度も描き直されている。
強くなぞられた跡と、途中で消された線。
考えながら、迷いながら描いたものだと、なぜか分かった。
――意味は、分からない。
けれど、それが「飾り」でも「落書き」でもないことだけは、
はっきりしていた。
誰かが、ここで何かを形にしようとしていた。
それだけが、静かに伝わってくる。
私はそれ以上、近づかなかった。
◇
誰かがここで生きていた。
眠って、起きて、当たり前の時間を過ごしていた。
その場所で、私は目を覚ましている。
その事実が、胸の奥をじわりと熱くした。
怖い。
安心している。
どちらでもある。
そして、部屋の外。
扉の向こうに、揺るがない存在を感じる。
気配だけで分かる。
……ヴォイド様。
私をここまで運んだ人。
確実に死ぬはずだった私を、「ここ」に繋ぎ止めた人だ。
声をかけようとして、やめる。
今は、何を言えばいいのか分からない。
助けてくれて、ありがとう。
生きていて、ごめんなさい。
どれも、違う。
私はただ毛布をぎゅっと握った。
その感触が、確かに現実だった。
……生きている。
それを、ようやく少しだけ、
受け入れられた気がした。
◇
目を覚ましてから、どれほど時間が経ったのかは分からない。
眠っていたのか、
ただ横になって考え事をしていたのか、
その区別すら曖昧だった。
ただ、胸の奥で上下する呼吸が、
意識とは関係なく続いていることだけが確かで、
それが止まっていないという事実に、
何度も何度も引き戻されていた。
身体を動かそうとすると、重い。
だが、動かせないほどではない。
死に向かっていたときの、
力が抜け落ちていく感覚とは明確に違う。
私はゆっくりと上体を起こし、
足を床に下ろした。
冷たい。
木の感触だ。
その感覚が、ひどく現実的で、
思わず息を詰めた。
確かに、立っている。
それだけのことが、
どうしてこんなにも怖いのか、自分でも分からなかった。
私は確実に死ぬはずだった。
終わるところまで行っていた。
その記憶だけは、まだ鮮明で、
だからこそ、今のこの状態をどう受け取ればいいのか
判断できずにいる。
そのとき、扉の向こうで足音がした。
静かで、迷いのない歩き方。
考えるより先に、
それが誰なのか分かってしまう。
扉が開き、ヴォイド様が入ってきた。
相変わらずの無表情で、
けれど私を見る視線だけが一瞬、確かにこちらに留まった。
それだけで、胸の奥がわずかに軋む。
私は、この人の腕の中で意識を失った。
泣いて、縋って、
最後には何も考えられなくなっていた。
その記憶が、今になって
現実味を伴って押し寄せてくる。
「起きていたか」
低い声。
いつも通りの調子。
特別な感情は、そこにはない。
だからこそ、余計に胸が苦しくなった。
「……はい」
答えた声が震えていることに、自分で気づく。
抑えようとしたが、うまくいかなかった。
ヴォイド様はそれ以上何も言わず、
部屋の中に入り、
距離を詰めすぎることも、
離れすぎることもなく、
ちょうどいい位置に立った。
その立ち方が、どうしてかとても落ち着く。
「痛むところはあるか」
「……少しだけ」
嘘ではない。
痛みはある。
でも、それは生きている身体の痛みで、
死へ引きずられる感覚とは別物だ。
「そうか」
短い返事のあと、
彼は棚に置かれていた木椀を手に取った。
中から立ち上る湯気を見て、
私は一瞬、思考が止まる。
食べ物だ。
飲み物だ。
生きている人間に向けられる、
ごく当たり前の配慮。
「飲め」
差し出され、
少しだけ迷ってから受け取る。
指先が触れた瞬間、
確かに伝わる温度があった。
椀も、中身も、彼の体温も。
私は恐る恐る口をつけ、
熱さにわずかに息を止めながらも、
ゆっくりと飲み下す。
喉を通って、
身体の奥へと流れ込んでいく感覚が、
あまりにもはっきりしていて、
胸の奥が耐えきれずに軋んだ。
「……ヴォイド様」
名前を呼んだ声が、思っていたより幼い。
彼は何も言わず、
ただこちらを見ている。
「……私……
死んだと、思っていました」
それだけ言うのが、精一杯だった。
助けてくれてありがとうとも、
生きていてごめんなさいとも言えなかった。
ただ、その事実だけが、
どうしても伝えたかった。
ヴォイド様は少しだけ目を伏せてから、
「そうだろうな」と短く答えた。
否定も、慰めもない。
ただ事実として受け止める声音だった。
私は木椀を握りしめ、
もう一度口をつける。
「……でも……
ここに、います」
生きている、と言い切る勇気はまだなかった。
それでも、彼は静かに
「……ああ」と返した。
温かい。
怖くない。
私は、もう一口、湯を飲みながら、
その感覚を確かめるように息をした。
◇ 静けさ
そのまま、しばらく何も起こらなかった。
言葉もなく、視線も交わらない。
ただ同じ空間に、同じ温度があり、
私の呼吸と、
彼の気配だけが静かに重なっている。
湯を飲み終えると、木椀の中は空になっていた。
もう一度口をつける必要はないのに、
私はしばらくそれを両手で包んだまま動けずにいた。
離した瞬間、
この感覚まで失ってしまう気がして。
ヴォイド様は、急かすことも、
何かを言うこともなく、
ただそこに立っていた。
見守っている、という言葉とも少し違う。
ただ、離れずにいる。
それだけで十分だった。
「……体は、まだ休ませろ」
ややあって、そう言われる。
命令でも忠告でもなく、
淡々とした声音だった。
「……はい」
返事をしてから、少し遅れて気づく。
自分の声が、
さっきよりも安定していることに。
喉の奥の震えが、
ほんのわずかに引いていた。
彼は木椀を受け取ると、棚に戻した。
動作は無駄がなく、静かで、音も立てない。
その一つ一つが、
ここが戦場ではないことを、
繰り返し私に教えてくる。
「……ここは」
問いかけようとして、言葉を選ぶ。
「……昔、使っていた場所だ。
安全は保障する。」
私の意図を察したのか、
先に答えが返ってきた。
その一言で、
身体の奥に残っていた緊張が、また少しだけ解ける。
完全ではない。
けれど、確実にほどけていく感覚があった。
「……俺は、
しばらく、ここにいる」
期限は告げられない。
理由も、説明されない。
けれど、不思議と不安はなかった。
この人が言う「しばらく」は、
私を放り出すための時間ではないと、
なぜか分かってしまう。
私は、ゆっくりとベッドに体重を戻した。
背中に布の感触が広がり、
天井が、さっきよりもはっきり見える。
目を閉じると、まだ眠りには落ちない。
ただ、身体が休もうとしているのが分かった。
「……ありがとうございます」
小さく、そう言う。
さっき言えなかった言葉が、
今度は自然に出た。
完璧な形じゃない。
でも、嘘でもない。
ヴォイド様は、ほんの一瞬だけ、
こちらを見たような気がした。
「……ああ」
それだけ。
彼は部屋を出ていき、
扉が静かに閉まる。
完全に一人になったはずなのに、
独りだという感覚はなかった。
扉の向こうに、確かに人がいる。
その事実が、今は心強い。
私は、深く息を吸って、
ゆっくりと吐いた。
胸は、まだ少し痛む。
身体も重い。
けれど、そのすべてが――
生きている証だった。
今度こそ、意識が穏やかに沈んでいく。
逃げるためでも、終わるためでもない。
目を閉じながら、私は思った。
……明日も、きっと、ここにいる。
それだけで、十分だった。
◇ 朝/拠点 転んだ朝
次に目を覚ましたとき、部屋は少し明るくなっていた。
朝なのか、昼なのか。
判断がつかない。
けれど、さっきよりも胸の痛みが和らいでいて、
呼吸が、少しだけ深くなっているのが分かる。
……眠っていたらしい。
私はゆっくりと上体を起こし、周囲を見回した。
変わらない部屋。
変わらない静けさ。
けれど――
微かに、音がした。
かちゃり。
木と木が触れる音。
何かを置く、乾いた気配。
……外。
私はベッドから足を下ろし、慎重に立ち上がる。
昨日より、少しだけ楽だった。
ふらつきはあるけれど、倒れるほどではない。
……大丈夫。
たぶん。
そう判断して、扉へ向かう。
一歩。
二歩。
その瞬間。
「……っ」
足が、もつれた。
思っていたより、床が遠い。
重心がずれて、身体が前に傾く。
――まずい。
そう思ったときには、もう遅かった。
どん。
鈍い音。
膝と手のひらが、床に触れる。
痛みは、ない。
ただ、驚きの方が大きかった。
……あ。
私は、そのままの姿勢で固まった。
「……何をしている」
頭上から、低い声。
ゆっくり顔を上げると、
扉の向こうにヴォイド様が立っていた。
手には、木の盆。
その上に、簡素な食事。
……見られた。
「……い、いえ」
反射的に、取り繕う。
「少し、歩こうと……その……」
言い訳が、うまく続かない。
床に手をついたままの姿勢では、説得力が皆無だった。
ヴォイド様は、一瞬だけ私を見下ろし、
「……まだ早い」
それだけ言った。
そして、何事もなかったように、私の横を通り過ぎる。
「……?」
疑問に思った次の瞬間。
「座れ」
短い指示。
私は、言われるまま、近くの椅子に腰を下ろした。
ヴォイド様は盆を机に置き、淡々と続ける。
「動くなら、声をかけろ」
「……はい」
返事をしてから、少し遅れて気づく。
……叱られている。
でも、怒られてはいない。
責められてもいない。
ただ、「まだだ」と判断された。
それだけ。
◇ 食事
机の上には、湯と、簡単な食事。
香りが、はっきりと分かる。
……お腹が、鳴りそうになる。
気づかれないよう、そっと息を止めた。
「……食べられるか」
「……たぶん」
自信はない。
けれど、嘘でもない。
私は箸を取ろうとして、止まった。
……箸。
知っているはずだった。
持ち方も、使い方も、理屈としては。
でも――
実際に「日常として」使った記憶が、どこにもない。
指先が、わずかに迷う。
ヴォイド様は何も言わない。
ただ、こちらを見ている。
……見られている。
その事実に、手が余計にぎこちなくなる。
結果。
箸が、落ちた。
からん、と乾いた音。
……。
一拍の沈黙。
私は、ゆっくりと顔を上げる。
「……すみません」
小さく、そう言った。
ヴォイド様は、ため息もつかず、
落ちた箸を拾って、置き直した。
「……慣れていないな」
「……はい」
正直すぎる返事になった。
「三千年、眠っていましたので」
言ってから、少し後悔する。
重い。
絶対に、重い。
けれど、ヴォイド様は特に気にした様子もなく、
「……そうか」
とだけ返した。
それが、少しおかしかった。
私は箸を持ち直し、今度は慎重に口へ運ぶ。
味がする。
温度がある。
……おいしい。
思わず、目を瞬いた。
その反応を見ていたのか、見ていなかったのか。
ヴォイド様は、いつもの調子で言う。
「無理はするな」
「……はい」
「今日は、それだけでいい」
それだけでいい。
その言葉が、胸の奥に、すっと落ちた。
……何もできなくても。
転んでも。
箸を落としても。
今日は、それでいい。
私は、もう一口、食事を口に運んだ。
不思議と、少しだけ笑っていた。
◇ 湯は敵ではない
食事を終えて、少しだけ時間が経った頃。
身体の内側が、じんわりと温かい。
さっきまでの重さが、確実に薄れている。
完全では無いけれど。
私は椅子に座ったまま、ぼんやりと息をしていた。
すると。
「……風呂を準備する」
不意に、ヴォイド様が言った。
「……お風呂、ですか」
「ああ」
短い肯定。
……風呂。
その言葉だけで、頭の奥が一瞬白くなる。
思い出そうとする。
最後に、身体を洗ったのはいつだったか。
……思い出せない。
戦場に、風呂はない。
眠りにつく前の三千年も、もちろんない。
つまり――
私は、風呂というものを、ほとんど知らない。
「……問題があるか」
黙り込んだ私を見て、そう聞かれる。
「い、いえ……!」
反射的に否定した。
「問題は……ありません……
たぶん……?」
自分で言っていて、語尾が怪しい。
ヴォイド様はそれ以上追及せず、奥の方へ向かった。
ほどなくして、水を汲む音がする。
火の、微かな気配。
……準備してくれている。
その事実に、少しだけ胸が落ち着いた。
しばらくして。
「……使え」
そう言われて、案内されたのは、
簡素な仕切りの向こうだった。
木桶。
湯気。
ほんのりとした、石と木の匂い。
……湯だ。
私は、その場に立ったまま、動けなくなった。
熱そう。
いや、熱い。
でも、入らないといけない。
……服。
ここで、ようやく気づく。
「……あの……」
「何だ」
「……どこまで、脱げば……」
口にした瞬間、後悔した。
言い方。
完全に、間違えた。
一瞬の沈黙。
ヴォイド様は、こちらを見ずに答える。
「……全部だ」
「……っ」
心臓が、変な跳ね方をした。
慌てて続ける。
「い、いえ……!
そ、その……意味は、分かります……!
ただ……その……!」
言い訳が、まとまらない。
ヴォイド様は、ようやくこちらを見て、
「……気にするな。
俺は外に出る」
そう言って、すぐに背を向けた。
扉が閉まる音。
……一人。
私は、深く息を吸った。
……落ち着け。
ただの湯だ。
敵じゃない。
ぎこちなく服を脱ぎ、桶の前に立つ。
まずは、手。
湯をすくって、指先にかける。
……あ。
熱い。
でも、痛くない。
次に、腕。
肩。
首。
じわ、と。
身体の奥まで、温度が染みていく。
「……っ……」
思わず、声が漏れた。
気持ち、いい。
それに気づいた瞬間、
胸の奥が、急に苦しくなる。
……生きている。
こんな感覚を、知覚できている。
私は、恐る恐る湯船に足を入れ――
「……っっ!?」
熱さに、反射で引っ込めた。
熱い。
思っていたより、ずっと。
「……ゆ、湯は……敵では……」
意味の分からない独り言が出る。
もう一度。
今度は、慎重に。
ゆっくり。
ゆっくり。
膝まで。
腰まで。
「……は……」
息が、抜けた。
身体が、ほどけていく。
肩まで浸かったところで、
私は、完全に動けなくなった。
……だめだ。
これは。
力が抜ける。
思考が、溶ける。
「……危険……」
ぽつりと呟いた。
湯船の中で、私は目を閉じる。
重い。
でも、嫌じゃない。
胸の痛みが、
少しだけ遠のいていく。
――どれくらい、そうしていただろう。
「……雛」
外から、声。
はっとして、目を開ける。
「……はいっ!」
勢いよく返事をして、
その反動で、少し湯をこぼした。
一瞬、視界が揺れる。
「……のぼせていないか」
「……え……?」
言われて、ようやく気づく。
頭が、少し重い。
身体が、ふわりと浮いているような感覚。
「……た、たぶん……だいじょ――」
言い終わる前に、言葉が途切れた。
私は慌てて湯船を出ようとして――
「……っ」
足に、力が入らない。
ぐらり。
「……雛」
扉の向こうで、気配が動く。
「だ、大丈夫です……!」
慌てて言ったが、
声に、自分でも分かるくらい力がない。
結局。
私は、ふらふらのまま、
桶に掴まりながら着替えを終えた。
外に出ると、
ヴォイド様が、いつもの位置に立っている。
視線は合わない。
けれど、確実に把握されている。
「……言っただろう」
低い声。
「……はい……」
「無理はするな」
その一言で、
なぜか、少しだけ笑ってしまった。
今日は、
転んで。
箸を落として。
湯に負けて。
……散々だ。
それでも。
「……あの」
私は、ぽつりと口を開く。
「お風呂、気持ちよかったです」
言ってから、少し恥ずかしくなる。
ヴォイド様は、ほんの一瞬だけ間を置いて、
「……そうか」
それだけだった。
けれど。
私は、その一言で十分だった。
◇ 言えなかったこと
湯から上がると、身体がふわふわしていた。
火照りはもう引いているはずなのに、
頭の奥が、ゆっくりと揺れている。
「……のぼせたか」
近くから、声。
「い、いえ……たぶん……」
そう答えたつもりだったけれど、
自分の声が少し間延びして聞こえて、内心で焦る。
私は壁に背中を預けたまま、ぼんやりと天井を見上げた。
視界の端に、
ヴォイド様の気配がある。
近すぎず、遠すぎず。
でも、ちゃんとそこにいる。
それだけで、
さっきまであった緊張が、
また一段、溶けていく。
「……疲れたなら、もう寝ろ」
低くて、静かな声。
「……はい……」
返事はしたけれど、
身体が言うことを聞かない。
瞼が、重い。
さっきまで、
ちゃんと起きて話していたはずなのに、
思考が、ふわりと途切れ途切れになる。
……このまま、
ここで眠ってしまっても、
きっと危なくない。
そんな考えが、
当たり前みたいに浮かんでしまう。
(……だめ……)
慌てて意識を引き戻す。
「……あの」
呼びかけた声は、
思ったより小さかった。
ヴォイド様が、こちらを見る。
「……何だ」
言おうとした。
一緒に、寝てほしい。
ここに、いてほしい。
目を閉じても、いなくならないでほしい。
――でも。
喉の奥で、言葉が止まった。
それを口にしてしまうのが、
少し怖かった。
子供みたいで。
重たくて。
この静けさを、壊してしまいそうで。
「……いえ……なんでも……」
誤魔化すようにそう言うと、
自分でも分かるくらい、声が弱い。
ヴォイド様は、
しばらく何も言わなかった。
ただ一拍置いてから、
「……寝ろ」
短く、そう言った。
それだけなのに、
不思議と突き放された感じはしなかった。
私は、ベッドに戻る。
布に包まれると、
身体の重さが、すっと下に預けられる。
視界の端で、
ヴォイド様が扉の方へ向かうのが分かった。
……行く。
分かっている。
分かっているはずなのに。
胸の奥が、きゅっと鳴る。
(……言えば、よかった……?)
そんな後悔が浮かぶより早く、
意識が、また沈み始めた。
扉が閉まる音は、聞こえなかった。
ただ、
外に人の気配が残っているのだけは、
なぜか分かる。
それで、十分だった。
私は、
言えなかった言葉を胸にしまったまま、
静かに眠りへ落ちていった。
◇ 服がない
目を覚ましてから、数日が経った。
胸の痛みは、まだ残っている。
けれど、昨日のように息をするたび世界が遠のく感じはない。
身体は重い。
それでも、確かに――ここにある。
私は、ゆっくりと上体を起こし、
自分の身体に視線を落とした。
「……」
着ているのは、
目覚めたときから変わらない――いつもの服。
黒を基調とした、装飾の少ないドレス。
動きを妨げない、戦うための形。
世界と切り合うために用意された、私の姿。
布の端を、指先でつまむ。
汚れてはいない。
破れてもいない。
不都合があるわけでもない。
けれど。
この場所で過ごすには――
少しだけ、違った。
眠る。
起きる。
食べる。
外に出る。
そういう「生活」を、
この服のままで想像してみて。
私は、わずかに眉を寄せた。
「……」
言葉にならない違和感。
足りない、というよりも、
合っていない。
「……この服しか、無いわね……」
ぽつりと呟いてから、
自分でその言葉を反芻した。
そうだ。
私は、これしか持っていない。
着替えもない。
普段着という概念もない。
選ぶという経験自体、ほとんどない。
あるのは、
戦うための装いと、
生き延びてしまったという事実だけ。
(……困った。とても……)
小さく息を吐く。
これは、
枯滅の力ではどうにもならない。
原初還りも、
死の奔流も、
何の解決にもならない。
ただ、
生きていくために必要なものが、
足りていないだけだ。
私は、しばらくその場で考えてから、
部屋の外に意識を向けた。
……いる。
扉の向こうに、
変わらない気配。
揺らがない存在。
一度、深呼吸してから、
私は扉を開けた。
「……ヴォイド様」
呼びかけると、
彼はすぐにこちらを見る。
視線が合う。
それだけで、
胸の奥が、わずかに跳ねた。
「どうした」
短い問い。
「……あの……」
一瞬、言葉を選ぶ。
こんな理由で声をかけるのは、
些細すぎる気もした。
でも――
生活というのは、
こういう些細なところで詰まる。
「……着る服が……ありません」
正確には、
“あるけれど、これでは足りない”。
けれど、そう言い換える余裕はなかった。
ヴォイド様は、
私を一度だけ上から下まで見て、
「……そうだな」
と、事実を確認するように答えた。
驚きも、困惑もない。
ただ、
当然の結論として受け止めている。
「村に行く」
その一言で、
意味はすぐに理解できた。
「……え」
思わず、声が漏れる。
村。
人のいる場所。
視線と、声と、生活がある場所。
「……よろしいのですか?」
自分でも、少し弱い声だと思った。
ヴォイド様は、
ほんのわずかに首を傾ける。
「服は、そこにある」
理屈として、完璧だった。
反論の余地はない。
私は、数秒だけ迷ってから、
小さく頷いた。
「あ、ありがとうございます!」
胸の奥が、
わずかにざわつく。
戦いのためではない外出。
生き延びるためでもない理由。
ただ、
“暮らすため”に外へ出る。
それは、
今までの私にはなかった行為だった。
立ち上がり、
もう一度、自分の服を見る。
いつもの服。
変わらない姿。
それでも。
「……行ってきます」
そう言った自分の声は、
思っていたよりも、ずっと静かだった。
隣に並ぶ、
大きな背中。
その距離が、
少しだけ近く感じられて。
私は理由も分からないまま、
指先を、きゅっと握った。
――服を買いに行くだけ。
そのはずなのに。
胸の奥が、
少しだけ、落ち着かなかった。
◇ 村へ
村までは、歩いて行ける距離だった。
仮拠点を出て、緩やかな坂を下る。
舗装されていない道。
踏み固められた土と、草の匂い。
人の暮らしが、
少しずつ近づいてくる感覚。
私は、ヴォイド様の隣を歩いていた。
歩けてはいる。
けれど、胸の奥にはまだ鈍い重さが残っていて、
一歩ごとに、身体が「今は借り物だ」と訴えてくる。
動けることと、戻ったことは、違う。
それだけは、分かっていた。
馬車は使わない。
隠す必要も、急ぐ理由もない。
その判断が、
ここが「安全な場所」なのだと、
改めて教えてくる。
歩調は自然だった。
私が遅れれば、
彼は何も言わずに速度を落とす。
合わせている、というより、
最初からその距離で歩いているような感覚。
肩が触れるほど近くはない。
けれど、一歩以上は離れていない。
その距離が、
どうにも落ち着かない。
◇ 昼/拠点近くの村 ざわめき
村が見えてきた。
家屋。
洗濯物。
立ち話をする人々。
音が、急に増える。
「……」
無意識に、背筋が伸びた。
いつもの服。
戦うための装い。
村の中では、
やはり浮いている。
けれど。
ヴォイド様の隣にいると、
それが「異物」ではなく、
「そういう二人」に見えている気がして。
その認識が、
妙に、落ち着かない。
理由は分からない。
分からないまま、
胸の奥が、少しだけ熱を持つ。
ヴォイド様は、変わらない。
周囲を警戒する様子もなく、
説明もなく、
ただ歩いている。
ここにいていい。守られている。
そう感じてしまう自分が、
少しだけ、不思議だった。
村の通りに入る。
店が並び、
人の声が近くなる。
――ここに、服がある。
それだけのはずなのに。
私は、指先をきゅっと握りしめながら、
次に起こる「何か」を、
まだ知らないまま歩いていた。
◇ 誤認
通りを進んでいると、
前から一人の女性が歩いてきた。
籠を腕に下げ、
買い物帰りらしい様子。
すれ違いざま、
こちらに軽く視線を向け――
そのまま、何気ない調子で声をかけてきた。
「……あらあら」
一瞬、足が止まる。
女性は、
ヴォイド様を見てから、
私を見る。
それから、少しだけ笑って、
「その子、娘さん?
可愛いわね~」
その一言だった。
「……」
頭が、止まった。
娘。
私は、
ヴォイド様の――
一拍遅れて、
理解が追いつく。
年齢差。
体格差。
落ち着いた佇まい。
……そう見えるのは、
自然だ。
「……」
否定の言葉が、出てこない。
出てこない、というより――
出す必要があるのか、分からない。
私は反射的に、
ヴォイド様の方を見る。
彼は、特に表情を変えずに。
「……違う。」
女性は、
その空気を気にした様子もなく、
「あ、ごめんなさいね」
と軽く笑い、
「でも、とっても仲がよさそうだから」
と付け足す。
その言葉に、
胸の奥が、ひくりと揺れた。
仲がいい。
……そう、見えるのか。
女性はそのまま歩き去る。
ほんの数秒の出来事。
なのに。
「……」
私は、
足を動かせずにいた。
娘。
その言葉は、
思っていたよりも、胸の奥にやさしく落ちた。
私は反射的に、否定しなかった。
できなかった、のかもしれない。
娘という呼び方は、
役割を求められない呼び名。
守られるだけで、何もしなくていい存在。
その響きが、
思っていたよりも、心を軽くした。
そう思った瞬間、
胸の奥が、じんわりと温かくなった。
安心してしまったことを、
少しだけ恥ずかしく思いながら。
◇ 服屋
扉を押し開けた瞬間、
空気が変わった。
布の匂い。
新しい糸と、少し古い木材が混ざった、やわらかな匂い。
店の中は思っていたより広く、
壁沿いにも、中央の棚にも、服がびっしりと並んでいる。
足首まで届く、ロングスカート。
裾がふわりと広がるドレス。
胸元に細かな刺繍が入ったものもあれば、
飾りを極力省いた、静かな形のものもある。
色も様々だった。
深い紺。
落ち着いた灰。
淡い水色。
夕暮れみたいな赤。
光を含んだ白。
私は、思わず一歩、店の奥へ進んでいた。
「……すごい……」
声が、自然に零れる。
布が、ちゃんと“服”として並んでいる。
戦闘用でも、儀式用でもない。
生きるための、当たり前の選択肢。
私は、恐る恐る一着を手に取った。
薄い生地のロングスカート。
腰紐で留めるタイプで、
動けば裾が揺れそうだった。
次は、胸元に小さな花の刺繍があるワンピース。
派手ではないけれど、
縫い目が丁寧で、触ると少しだけ安心する。
気づけば、両手に服を抱えていた。
「……これも……」
さらにもう一着。
淡い灰色のドレス。
長袖で、首元は詰まりすぎず、
裾は足首の少し上で止まる。
鏡の前に立ち、
自分の身体に重ねるように持ってみる。
……私が、こういう服を着る?
胸の奥が、くすぐったくなる。
「……雛」
名前を呼ばれて、はっと振り向く。
ヴォイド様は、少し離れた場所から、
棚に掛けられた服を見ていた。
その中から、一着を引き抜く。
濃すぎない紺色のワンピース。
布はしっかりしているけれど重くなく、
腰の位置で自然に切り替えが入っている。
上に羽織れる、短めの上着も一緒に。
「これだ」
即断だった。
「……え?」
思わず、間の抜けた声が出る。
ヴォイド様は、こちらに服を差し出しながら言った。
「丈が長すぎない。
裾が邪魔にならない。
動いても引っかからない」
いつもの、戦場の判断みたいな口調。
「色も、目立たない。
だが、沈みすぎない」
私は、服を受け取り、
しばらくそれを見つめた。
確かに、派手じゃない。
でも、ちゃんと“人の中にいる”色だ。
「……着て、みても?」
「ああ」
更衣室は、小さなカーテンで仕切られていた。
中に入り、
今着ている服を脱ぐ。
新しい布に腕を通した瞬間、
思わず息が止まった。
……軽い。
身体に沿うのに、
縛られていない。
スカートが、膝の動きに合わせて、
自然に揺れる。
上着を羽織り、
深呼吸してから、カーテンを開けた。
「……」
ヴォイド様は、一瞬、言葉を失ったように見えた。
ほんの、ほんの一瞬。
それから、いつも通りの声で言う。
「……問題ない」
でも。
視線は、私から逸らさなかった。
「……似合っている」
低く、短く。
それだけなのに。
胸の奥が、
熱くなる。
「……ありがとうございます……」
声が、少し震えた。
私は、そのまま裾をつまんで、
小さく一礼してしまった。
店を出ると、
外の光が、服の色を少しだけ明るく見せた。
歩くたびに、
布が、ちゃんと“今の私”についてくる。
借り物じゃない。
戦うためだけでもない。
私は、胸の奥で思う。
……この服で、
今日を、歩いていく。
その隣には、
変わらずヴォイド様がいる。
それだけで、
胸が、少し誇らしかった。
◇ 甘い匂い
服屋の扉を出ると、外の空気が一気に広がった。
通りは相変わらず人が多くて、
声と足音と、生活の匂いが混じっている。
私は、歩き出してからもしばらく、
スカートの裾を無意識に掴んでいた。
揺れる。
ちゃんと、揺れる。
布が足にまとわりつかず、
歩くたびに軽く波打つ。
……落ち着かない。
隣を見ると、ヴォイド様はいつも通り歩いている。
変わらない姿勢。
変わらない歩幅。
けれど、気づくと自然に、
私の速度と合っていた。
それだけで、胸の奥がそわつく。
そのとき。
甘い匂いが、ふわっと鼻に届いた。
焼き菓子。
砂糖と油と、熱を持った小麦の匂い。
思わず、そちらを見てしまう。
屋台だった。
鉄板の上で、丸い菓子が焼かれている。
表面はこんがり色づいて、
蜜のようなものがとろりとかかっている。
「……」
見ているだけのつもりだった。
――本当に、それだけ。
「……」
ヴォイド様が、私の視線に気づいたらしい。
一拍置いて、
何も言わずに屋台の前へ歩いていく。
「二つ」
短い注文。
金属の音。
焼ける音。
私は、慌てて言いかける。
「い、いえ……あの……」
「そんな……」
でも、もう遅かった。
紙に包まれた菓子を渡される。
「……座るか」
屋台の横に置かれた、低い木の腰掛け。
言われるまま、並んで腰を下ろす。
距離は、近すぎず、遠すぎず。
けれど、さっきより確実に、近い。
渡された菓子は、まだ温かかった。
指先に、じんわり熱が伝わる。
恐る恐る、一口かじる。
さく。
中が、柔らかく崩れる。
「……っ」
甘い。
思ったより、ずっと。
「……おいしい……」
思わず、声が漏れる。
言ってから、
少し恥ずかしくなって、口を閉じる。
ヴォイド様は、特に反応せず、
自分の分を一口食べただけだった。
その沈黙が、なぜか心地いい。
菓子を食べながら、
通りの人の流れを眺めていると――
屋台の店主が、にこにこしながら声をかけてきた。
「いいねえ」
「並んで甘いもん食べるの」
そして、何気ない調子で。
「カップルさん?」
――っ。
その言葉を聞いた瞬間、
頭より先に、胸が反応してしまった。
娘じゃない。
守られるだけの存在でもない。
ヴォイド様の隣に、
“並んで立つ誰か”として見られた。
それが、
どうしようもなく、嬉しかった。
嬉しいと認めてしまうのが怖くて、
私は慌てて言葉を探した。
「ち、ちが……っ!!」
「い、いえ……その……!!」
顔が、一気に熱くなる。
耳まで、じわっと。
「ち、違います……!」
「わ、私たちは……!!」
言葉が絡まる。
声が裏返る。
自分でも、何を言っているのか分からない。
店主は一瞬きょとんとしてから、
「ああ、ごめんごめん」と笑った。
「でも、そう見えたよ」
「初々しいからさ」
……そう、見えた。
その一言で、
頭の中が真っ白になる。
私は俯いて、
手に持った菓子を見つめるしかなかった。
心臓が、うるさい。
隣を見る勇気が、ない。
ヴォイド様は、特に何も言わない。
否定も、説明も、からかいもない。
ただ、変わらない姿勢で、
残りの菓子を食べている。
それが、余計に。
◇ 夕/拠点近くの村 特別な日
菓子を食べ終えて、
腰掛けを立つ頃には、夕方の光が差し始めていた。
通りに伸びる影が、
自然と二つ並ぶ。
私は、その影を見て、
胸の奥で小さく息をした。
……今日は。
服を買ってもらって。
甘いものを食べて。
親子とかカップルだと、間違えられて。
ただそれだけなのに。
娘だと呼ばれたことも、
カップルだと笑われたことも。
新しい布の感触も、
甘い菓子の温かさも。
私は、その全部が、
嬉しかったのだと、ようやく気づいた。
ヴォイド様の隣で過ごす時間が、
思っていたよりも、
ずっと心地よかったから。
私の中では、
知らなかった感情が、
いくつも芽を出していた。
顔の熱が引かないまま、
私は、何も言えずに歩き出す。
ヴォイド様の隣で。
その距離が、
今は少しだけ、特別に感じられた。
――この時間が、続けばいい。
災厄でもなく、
兵器でもなく、
ただの女の子として。
――前編・了




