第11章 忘れ得ぬ者と名を持たぬ者
◇ 三千年前――繰り返される夜
――また、この記憶だ。
三千年。
眠るたび、油断した瞬間、
私は必ずこの夜に引き戻される。
同じ静けさ。
同じ匂い。
同じ、逃げ場のない感覚。
夜だった。
月は欠け、
海は凪ぎ、
風は、まるで最初から存在しなかったみたいに止まっている。
世界が、呼吸をやめている。
私は、砂の上に立っていた。
足元は冷たく、
湿った砂が、わずかに沈む。
ここは、知っている。
何度も来た場所だ。
そして――
この先で、必ず同じことが起こる。
胸の奥が、ざわついている。
理由は分からない。
怒りでも、恐怖でもない。
なのに、
内側から、抑えきれない衝動が湧き上がってくる。
壊したい。
止めたい。
終わらせなければならない。
その全部が、
整理されないまま、私を押し出す。
「……どうして……」
声が漏れる。
問いの形をしているのに、
答えを受け取る場所が、最初からない。
「……いや……」
否定したつもりだった。
でも、何を否定したのかは、
いつも分からない。
そのとき、
頬に、冷たいものが触れた。
……雨?
違う。
指先で触れて、
ようやく気づく。
涙だ。
いつから流れていたのか、分からない。
悲しいわけじゃない。
苦しいとも、違う。
ただ、
勝手に、溢れている。
拭おうとしても、
次の一滴が、すぐに落ちる。
目の前に、少女がいる。
死祟。
彼女は、砂の上に膝をついていた。
胸元を押さえ、
呼吸のたびに、肩が小さく揺れている。
苦しそうなのに、
その目は、私を見ていた。
責めるでもなく、
怯えるでもなく。
まるで、
私が何をするかを、
もう知っているみたいに。
私は、一歩、近づく。
指が、震えている。
止めたいのか。
振るいたいのか。
その境目が、
もう分からない。
涙が、視界を歪ませる。
それでも、
死祟の姿だけは、はっきり見える。
そのとき――
彼女が、静かに口を開いた。
「……ごめんね」
小さな声。
でも、波の音よりも、はっきり届いた。
責める響きはない。
言い訳もない。
ただ、
「間に合わなかった人」の声。
胸の奥が、ぎゅっと縮む。
どうして、謝る。
悪いのは、私のほうなのに。
そう思うのに、
言葉が、ひとつも出てこない。
涙が、止まらない。
視線を逸らしたくて、
でも、逸らせない。
私は、手を伸ばす。
震えながら、
死祟の頭の上へ。
撫でようとしたのか。
止めようとしたのか。
それとも――
分からないまま、
指先が、触れる直前で――
世界が、
音もなく、途切れる。
◇
白い。
最初に戻ってくるのは、音じゃない。
光だ。
やけに白い朝の光。
瞼の裏に、じんわりと染み込んでくる。
……眩しい。
そう思った瞬間、
自分が呼吸をしていることに気づく。
吸って、吐いて。
胸が上下する。
砂の冷たさはない。
潮の匂いもしない。
頬を濡らしていたはずの涙も、もうない。
――夢。
そう断じるには、
胸の奥が、まだ少し重すぎた。
◇ ルーグ村・朝/市場通り
朝の光は、やけに白い。
白いくせに、冷たくない。
人の声がする。
足音が重なり、
木箱が擦れる音が、少し遅れて耳に届く。
世界は、ちゃんと続いている。
この世界の朝は、
昔からこうだったのかもしれない。
私は知らない。
知る必要も、なかった。
◇
私は、雛という名前で呼ばれている。
それが、“今の私”の呼び方だ。
市場の端を歩きながら、
無意識に、指先を見る。
――何かに触れかけて、
やめたような感覚だけが、残っている。
他にも名前はあった。
確かに、あったはずだ。
でも、
思い出そうとする前に、
胸の奥が、静かに拒む。
だから、もう使わない。
今は、雛でいい。
私は、人の流れの外側を歩きながら、
白い朝の中へ、足を進めていった。
――世界は、
何事もなかったみたいに、動いている。
それだけが、
少しだけ、怖かった。
◇
人が多い。
声が重なって、
どこから来てどこへ流れているのか分からない。
笑い声、呼び声、足音。
全部が同じ高さで耳にぶつかってくる。
……朝から、これは正直きつい。
私は無意識に通りの端へ寄った。
壁際。荷車の影。人の流れの外側。
こうしていれば、ぶつかられにくい。
視線も合いにくい。
昔から、そうやって生きてきた。
「安いよー! 朝採れだよー!」
「そっちじゃない、並ぶのはこっち!」
分かってる。
ここは普通の村で、普通の朝で、
誰も私を気にしていない。
……それでも、落ち着かない。
視線が来るたび、肩に力が入る。
来ていない視線にも、勝手に反応してしまう。
――慣れてないな、と自分で思う。
人の中を歩くのに、いちいち覚悟が要る。
雛は、そういう人間だ。
◇ 林檎
足元を見ながら歩いていると、
ふと、空気が変わった。
甘い匂い。
正確には、香りが「した」というより、
色が先に目に入った。
赤。
朝の光をそのまま閉じ込めたみたいな、
丸くて、つやつやした赤。
……りんごだ。
屋台の上に山積みになっている。
皮に傷も少なくて、形もいい。
たぶん、ちゃんとした農家のもの。
「お姉さん、見るだけでもいいよ」
声をかけられて、びくっとする。
反射的に一歩下がりかけて――止まった。
……逃げるほどじゃ、ない。
そう自分に言い聞かせて、顔を上げる。
年配の店主だった。
穏やかな目。
押し売りする気もなさそうな距離感。
「朝はね、りんごが一番うまいんだ」
そう言って、ひとつ手に取る。
軽く磨いて、こちらに差し出してきた。
「試しにどうだい?」
……困る。
こういう時の正解が、まだ分からない。
断るべきか。
受け取っていいのか。
少し迷ってから、私は小さく頷いた。
「……ありがとうございます」
声が思ったより小さくて、自分で驚く。
りんごを受け取ると、ひんやりしていた。
朝の冷気が、まだ残っている。
一口。
しゃり、と音がした。
――甘い。
酸味もある。
でも、それがちょうどいい。
思わず、もう一口かじる。
……おいしい。
気づいたときには、
頬の力が、少し抜けていた。
自覚して、慌てて口元を引き締める。
……今、緩んでた。
絶対、緩んでた。
誰かに見られていないか、反射的に周囲を確認する。
でも、誰も私を見ていない。
市場は、相変わらず忙しい。
……そうか。
別に、誰も見てない。
私が思うほど、世界は私に注目していない。
りんごをもう一口かじる。
さっきより、少しだけ味がはっきりした。
胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなる。
――あ。
こういうの、久しぶりだ。
何も考えずに、
ただ「おいしい」と思うだけの時間。
私はりんごを持ったまま、しばらくその場に立っていた。
人の流れの外側で。
朝の光の中で。
ほんの一瞬だけ、
この世界にいてもいい気がしていた。
◇ ちょっとした親切
そのとき。
とん、と。
軽い衝撃が、足元に伝わった。
「……っ」
反射的に、身構える。
視線を落とすより早く、細い声が聞こえた。
「ご、ごめんなさい……!」
少女だった。
年は……十にも届かないくらい。
短く切った髪。少し擦り切れた服。
手には、布袋――たぶん、買い物の途中。
私とぶつかった拍子に、足を止めたらしい。
慌てて頭を下げている。
……どうする。
怒っていない。
そもそも、ぶつかられたというほどでもない。
でも、こういうときの言葉が分からない。
「……」
黙っていると、少女がさらに不安そうな顔になる。
目が泳いで、逃げ道を探している。
……まずい。
私は内心で、軽く舌打ちした。
別に相手が悪いわけじゃない。
ただ、私がこういう場面に弱いだけだ。
「……大丈夫」
思ったより、声が出た。
少しだけ、喉が引っかかったけれど。
少女が顔を上げる。
ぱち、と瞬き。
「……え?」
「……怪我、ない?」
言いながら、自分で驚く。
こういう確認、久しぶりすぎる。
少女は慌てて、首を横に振った。
「だ、大丈夫! あの……その……」
言いかけて、少女の視線が止まる。
私の手。
そこにある、赤。
「……りんご……」
ぽつり、と呟く声。
……あ。
私は無意識に、りんごを見た。
さっきまで夢中で食べていたそれ。
半分くらい、なくなっている。
少女はじっとそれを見ていた。
欲しい、というより――
羨ましい、に近い。
……困った。
こういう視線にも、慣れていない。
でも、見なかったことにもできない。
私は一瞬だけ考えてから、
りんごを差し出した。
「……食べる?」
言ってから、少し後悔した。
唐突すぎたかもしれない。
警戒される可能性もある。
でも。
少女は、ぱっと目を輝かせた。
「い、いいの!?」
「……うん」
短く頷く。
少女は両手で受け取って、
少しだけ躊躇してから、かじった。
しゃり。
その瞬間、顔がほどけた。
「……おいしい……!」
……知ってる。
さっき、私も同じ顔をしていた。
たぶん。
少女は夢中で、もう一口かじる。
そして、はっとしたように顔を上げた。
「あ、あの! ありがとう!」
深々と頭を下げる。
……そんなに改まらなくていい。
そう言おうとして、やめた。
代わりに、少しだけ口元を緩める。
「……気をつけて」
「うん!」
少女は元気よく頷いて、
布袋を抱え直し、走っていった。
すぐに、人の流れに溶ける。
私はその背中を、
ほんの一瞬だけ見送った。
――不思議だ。
胸の奥が、さっきより少しだけ温かい。
りんごは、もう手にない。
でも、代わりに残った感覚がある。
……こういうのも、悪くない。
そう思ってしまったことに、
少しだけ戸惑いながら。
私はもう一度、市場の中へ視線を戻した。
人は、相変わらず多い。
音も、視線も、まだ苦手だ。
それでも。
さっきより、ほんの少しだけ――
足が前に出やすくなっていた。
◇ 迫りくる悪寒
りんごを食べ終えるころ、胸の奥の温かさは、すっと引いた。
代わりに来たのは、説明しにくい違和感だった。
寒いわけじゃない。
音が消えたわけでもない。
人も、さっきより増えているくらいだ。
それなのに。
……背中が、ぞわっとした。
理由が分からない。
敵意でも殺気でもない。
もっと曖昧で、もっと嫌なもの。
私はりんごの芯を紙に包み、屋台の端に置いた。
礼を言うべきか迷って、結局、小さく頭を下げるだけにした。
歩き出す。
一歩。
二歩。
そのたびに、違和感が強くなる。
市場の喧騒が、少しだけ遠い。
人の声が、膜一枚越しに聞こえているような感覚。
……おかしい。
立ち止まりそうになるのを、意識して堪える。
こういう時、足を止めるとろくなことにならない。
経験則だ。
視線を落とし、路地へ入る角を探す。
そのとき。
「お嬢ちゃん」
声がした。
少し掠れた、年配の女の声。
反射的に振り向く。
籠を抱えたおばちゃんが立っていた。
市場でよく見る、どこにでもいそうな人。
服も顔も、特別なところはない。
……敵意はない。
それは分かる。
それでも、胸の奥がざわついた。
「これね、渡すように頼まれてさ」
差し出されたのは、薄く折られた紙。
その隙間から、白いものが覗いている。
花だ。
小さくて、白くて、名前を知らない花。
花弁は薄く、光を反射しない。
……知っている。
そう思った瞬間、胸の奥がひくりと鳴った。
「誰から?」
思ったより、普通に声が出た。
自分でも少し驚く。
おばちゃんは肩をすくめる。
「さあねぇ。
若いお嬢ちゃんで白っぽい人だったよ。
静かで、変に丁寧でさ。
場所だけ伝えてくれって」
私は、紙と花を受け取った。
指先が、わずかに震える。
……いつ、見た?
どこで、知った?
答えは浮かばない。
記憶の底に、輪郭だけが沈んでいる。
おばちゃんはもう興味を失った様子で、
「じゃあね」と言って人混みに戻っていった。
私は、その背中が完全に消えるまで動かなかった。
そして、ようやく紙を開く。
文は、ひどく短い。
――市場外れ、旧水路跡にて。
それだけ。
署名もない。
理由もない。
ただ、白い花が一輪、紙に挟まれている。
私は花を指で挟み、じっと見つめた。
……思い出せない。
でも。
「知っている」という感覚だけが、確かにある。
それが、何よりも不気味だった。
私は紙を折り、花ごと懐にしまった。
逃げる選択肢がないわけじゃない。
でも、逃げても、きっと意味はない。
りんごの甘さが、舌の奥にまだ残っている。
その記憶を、無意識に噛みしめながら、
私は路地へ向かって歩き出した。
一歩ごとに、朝のざわめきが遠ざかる。
そして。
世界が、静かになった。
◇ ルーグ村・朝/旧水路跡へ
市場を抜けると、空気が変わった。
音が減る。
人の気配が薄くなる。
足音だけが、自分のものだと分かる距離に戻る。
……楽だ。
私は無意識に、呼吸を深くしていた。
人の少ない場所の方が、ずっといい。
旧水路跡は、村の外れにある。
今はもう使われていない石造りの水路。
草が伸び、ところどころ崩れているらしい。
「らしい」というのは、前に来た覚えがないからだ。
それなのに。
道を選ぶ足取りに、迷いがなかった。
……おかしい。
私は花を懐から取り出した。
名を持たない白い花。
触れると、ひどく軽い。
その瞬間。
ずき、と頭の奥が刺された。
「……っ」
足が止まる。
視界が、一瞬だけ白く滲んだ。
来る。
この感じは、知っている。
無理に思い出そうとした時に起きる、
あの――
断片。
血の匂い。
叫び声。
自分の手が、何かを掴んでいる感触。
「……だれ……」
言葉にしようとした瞬間、頭痛が強くなる。
思考が、途中で引き裂かれる。
――思い出すな。
そう命じられているみたいに。
三千年前。
その言葉だけが、浮かんでは消える。
私が、まだ「雛」ではなかった頃。
世界が今より、ずっと単純で、ずっと残酷だった頃。
何かがあった。
確かに、あった。
でも、核心に触れようとすると――
ずきっ。
「……っ、う……」
こめかみを押さえ、息を止める。
視界が揺れる。
足元の石畳が、遠くなる。
……だめだ。
今は、深く潜るな。
私は花を握りしめたまま、
無理やり思考を切り替える。
目の前。
足元。
呼吸。
一つずつ、現在に戻す。
しばらくして、痛みは引いた。
完全ではないが、歩ける。
……相変わらず、性質が悪い。
記憶そのものが、刃物みたいだ。
触れた瞬間、こちらが切れる。
私は苦笑に近いものを浮かべて、再び歩き出した。
旧水路跡が見えてくる。
崩れた石壁。
乾いた水路。
人の気配は、ない。
……はずなのに。
私は、思わず足を止めた。
白い。
地面が、白い。
水路の縁も、崩れた石の隙間も、
乾いた土の上までも。
名を持たない白い花が、一面に咲いていた。
植えられたものじゃない。
整えられた様子もない。
ただ、そこに「在る」。
風が吹くと、花弁が一斉に揺れる。
ざわり、と音がした気がした。
……嫌な感じだ。
懐の花と、目の前の花。
同じ形。
同じ白。
胸の奥が、じくりと疼く。
「……やっぱり」
ここだ。
最初から、ここに呼ばれていた。
私は、花畑の中央へと歩み出る。
足元で花を踏む感触は、ほとんどない。
柔らかいのに、存在感が薄い。
死んでいるわけでも、生きているわけでもない。
そんな違和感。
私は立ち止まり、静かに言った。
「……出てきなさい」
声は低く、平坦だった。
威嚇でも、挑発でもない。
ただの事実確認。
「わざわざ、こんな場所まで用意したんでしょ」
風が、止まる。
一面の白い花が、ぴたりと揺れを止めた。
そして。
花畑の奥、
水路の影が最も濃い場所で――
確かに、「誰か」がそこに立っていた。
◇
花畑の奥。
崩れた水路の影から、少女が一歩、前に出た。
背は低い。
細い。
武器らしいものは、何も持っていない。
薄灰銀の髪が、朝の白い光を吸い込む。
白磁色の衣装は、清潔すぎて、この場所に不釣り合いだった。
――強い。
見た瞬間、分かった。
理屈じゃない。
本能が、即座に答えを出す。
私の足が、わずかに重くなる。
少女は、私を見て微笑んだ。
柔らかく、上品に。
人に向けるのと、同じ形の笑顔で。
「ご機嫌よう」
声は、驚くほど静かだった。
けれど、その一言が落ちた瞬間。
世界が、すっと沈む。
音が消えたわけじゃない。
ただ、すべての気配が一段、下がった。
――ああ。
私は、理解してしまった。
これは威圧でも殺気でもない。
彼女が“存在している”という事実そのものが、
周囲を黙らせている。
少女は、足元の白い花を一輪、摘み上げた。
力を入れた様子はない。
花は、抵抗もなく折れる。
「この花、覚えがありますでしょう?」
頭の奥が、ひくりと疼く。
映像は浮かばない。
言葉にもならない。
けれど、確かに――
知っている。
私は、ゆっくりと息を吐いた。
逃げ場がないことも、
ここで会う相手の“格”も。
全部、もう分かっている。
少女は、ようやく名乗るという仕草で、
胸元に手を当て、淑やかに一礼した。
「わたくしは、
"遺乃"
と申しますわ」
名が落ちる。
短い。
音も、意味も、軽すぎる。
……測れない。
理解しようとして、失敗する。
記憶にも、知識にも、引っかからない。
――だれだ。
問いが、空気に浮かぶ。
けれど、それを口にする必要はなかった。
私の額を、冷たい汗が伝っていた。
呼吸は乱れていないのに、身体だけが警戒をやめない。
遺乃は、その反応を見て、ほんの少しだけ首を傾げた。
「あら……」
困ったように、けれど楽しげに微笑む。
「あ、こう言ったほうが分かりやすいですの?
―――私は」
その一言で。
世界が、さらに沈んだ。
音が遠ざかる。
視界が、わずかに暗転する。
地面が、重くなる。
遺乃は、淡々と告げた。
『―――原初災厄』
その瞬間。
汗が、止まらなくなった。
背中に流れ落ちる感覚が、やけに遅い。
理解が、追いつかない。
けれど、身体だけが“答え”を出している。
『―――第二災』
逃げろ。
触れるな。
目を逸らすな。
最後に、彼女は静かに名前を落とす。
『―――《無相》』
名が、世界に染み込む。
白い花が、一斉に伏した。
風もないのに、
花畑全体が“跪く”。
……ああ。
私は、ようやく確信した。
これまで“最強”と呼ばれてきた存在たちとは、
根本から違う。
力が強いのではない。
技が優れているのでもない。
世界の側が、彼女に合わせて静かになる。
遺乃は、一歩、前に出る。
それだけで、
足元の花が、音もなく枯れ落ちた。
触れていない。
踏んでもいない。
ただ、近づいただけだ。
――沈黙。
「―――安心しますの
今すぐ、思い出す必要はありませんわ」
優しい声音で、残酷な宣告。
「思い出した瞬間――
あなたは、壊れてしまいますもの」
私は、歯を食いしばる。
……分かってる。
最初から、
これは“勝負”じゃない。
遺乃は、白い花を一輪、摘み上げて言った。
「では」
「三千年ぶりの――答え合わせを」
花弁が、音もなく崩れ落ちる。
「三千年前に狂った計画を
ここで、修正いたしますわ」
―――あなたを、殺すことによって
次の瞬間。
世界は、完全に戦場になった。
◇
私は、地を蹴った。
黒い羽が一斉に開き、身体を空へ押し上げる。
高度を取る。距離を取る。
この女と、同じ地平に立つ気はなかった。
「……っ」
羽を振る。
黒い羽根が、空中でほどけた。
雨のように、静かに、広く降り注ぐ。
黒羽枯雨。
触れたものから順に、
生命活動が、意味を失っていく。
即死じゃない。
逃げ場も、回復の余地も、少しずつ削る――
“枯滅”の基本形。
白い花畑が、ゆっくりと色を失し始めた。
……当たれ。
だが。
遺乃は、動かない。
花畑の中心で、ただ空を見上げている。
黒い羽根が、彼女の周囲に降り注ぐ。
――当たっている。
はずなのに。
羽は、彼女に触れる直前で、
力を失ったように、花の上に落ちた。
枯れない。
削れない。
最初から、対象になっていないみたいに。
羽は、確かに私のものだった。
開く意思もある。
振るう力も、まだ残っている。
――なのに。
“それで殺す”という理由だけが、
頭の中から、すっぽり抜け落ちていた。
何をすればいいのか、
ではない。
なぜ、そうするのかが――
消えている。
飛ぶことはできる。
羽ばたくこともできる。
けれど、次に何を起こすのかが、
自分でも分からない。
……空にいるのに、
戦っている実感がない。
「懐かしいですわ」
遺乃は、ぽつりと呟いた。
「こうして上から、静かに降らせるやり方」
「三千年前も、あなたは同じことをしていました」
ずき、と。
頭の奥が、嫌な痛みを発した。
「その時も――」
遺乃は、視線を逸らさずに続ける。
「あなたは、誰よりも“死を丁寧に扱っていた”」
「急がず、逃がさず、終わりだけを近づける」
……黙れ。
私は、出力を上げた。
黒羽が濃くなり、雨脚が強まる。
それでも。
遺乃の周囲だけ、
世界が一枚、隔てられている。
「ですから」
遺乃は、微笑んだまま言った。
「その技は、よく知っていますの」
そして。
「――縁蓮散華」
その言葉が落ちた瞬間。
私の羽が、ひくりと震えた。
感覚はある。
羽根は、確かにそこにある。
……なのに。
羽ばたく理由が、
ふっと、抜け落ちた。
私は、空に拒まれたのではない。
空に落ちたのでもない。
“飛んでいる私”と、
“地面にいる私”の間の繋がりが、
ただ、切れただけだ。
重力が強くなったわけじゃない。
身体が重くなったわけでもない。
――戻れなくなった。
「……?」
高度が、急に保てなくなる。
空が、遠のく。
「っ――!」
慌てて羽を打つ。
姿勢を戻そうとする。
できる。
……はずなのに。
身体が、空に拒まれた。
次の瞬間。
――落下。
世界が、反転する。
◇
地面に大きく叩きつけられた。
地面が、視界いっぱいに跳ね上がる。
背中から、肺の空気が一気に吐き出された。
「……っ、ぐ……!」
土と砕けた花弁が舞う。
左腕に、鈍く、嫌な感触。
遅れて、激痛が来た。
――折れている。
はっきり分かる。
黒い羽根は、もう私を支えない。
空は、遠い。
「……やって、くれた……」
私は歯を食いしばり、片膝をついた。
その数歩先。
花畑の中央に、遺乃は立っている。
一歩も動いていない。
撃ち落とした直後だというのに、
服の裾ひとつ、乱れていない。
「ふふ……」
小さく、上品に笑う。
「大丈夫ですの?
骨が、少しずれておりますわね」
まるで、転んだ子供を気遣うような口調。
……殺す。
そう思った瞬間、
彼女は、先に言葉を続けた。
「先ほどのは、《縁蓮散華》」
「飛ぶ、斬る、殺す――
そういった“やり方”と、
あなたとの縁を切っただけですの」
私は、顔を上げる。
「……忘れさせた、って顔だね」
遺乃は、楽しそうに頷いた。
「ええ。正確には、“成立しなくした”だけ
行為も、能力も、記憶も……
縁がなければ、ただの"無"ですわ」
◇
白い花が、揺れた。
風はない。
足音も、動きもない。
それなのに、
花畑の一角だけが、さざ波のように揺れる。
骨折の激痛を受けながらも、
私は、その揺れから目を離せなかった。
一輪。
また一輪。
まるで――
何かに気づかれたみたいに。
喉が、ひくりと鳴る。
……いや。
違う。
気づいたのは、私のほうだ。
「この……花って……」
声にしようとして、失敗する。
言葉になる前に、胸の奥が冷え切った。
この花。
この感触。
この、理由のない既視感。
三千年前。
見た。
思い出せない。
けれど、確実に“そこにあった”。
白い花が、また揺れる。
次の瞬間、
私の視界が、ぐっと引き寄せられた。
遺乃の指先。
白い花を、ひとつ摘み上げている。
静かに。
丁寧に。
まるで、壊れやすい記憶を扱うみたいに。
「……ああ」
彼女は、私の反応を見て、小さく息を吐いた。
納得したように。
確認するように。
「お気づきになりましたのね」
その一言で、
嫌な予感が“確信”に変わる。
遺乃は、花を見つめたまま、少しだけ首を傾げた。
―――名を持たない白い花
「この花は、名を持ちません。
というより、持てないのですわ」
一拍。
花畑が、しん、と静まる。
「わたくしの剥識によって――
存在の“縁”を剥がされたものの、残滓ですの」
……来た。
頭の奥が、ずきりと痛む。
「人は、死んでいませんわ
殺しても、いません」
ゆっくりと、言葉を選ぶ。
「ただ」
間。
白い花が、また一斉に揺れた。
「“いた”という事実だけを、
世界から消したのです」
胸の奥が、音を立てて沈む。
だから――
名前がない。
記録がない。
思い出す人もいない。
「縁を失った存在は、
記憶にも、歴史にも、戻れません」
遺乃は、花を落とした。
白い花弁が、地面に触れる。
音はしない。
けれど、確かに――
“何か”が、終わった。
「それでも、完全には消えきれない」
彼女は、花畑を見渡す。
「行き場を失った“縁”が、
こうして、形だけを保つ」
……数が、多い。
気づいてしまった。
気づきたくなかった。
白い花は、
踏んでも、折れても、
“死んだ”感じがしなかった。
生きてもいない。
終わってもいない。
――途中で、放り出されたもの。
だから、名前がない。
だから、記録がない。
……だから、思い出せない。
「……この花の……数だけ……」
声が、かすれる。
遺乃は、否定しない。
ただ、穏やかに微笑んだ。
「そうですわ」
一拍。
「三千年前も――
とても、よく咲いていました」
世界が、遠のく。
思い出せないのに、
胸の奥だけが、覚えている。
この光景を。
この、静かな地獄を。
私は、歯を食いしばった。
怒りが、遅れて、
けれど確実に、形になる。
「……あんた……」
遺乃は、初めて私を真正面から見た。
「別に世界を、壊しているわけではありませんの」
穏やかに。
「世界を“空に戻している”だけですわ」
――ぶつり。
もう、十分だった。
私は、一歩、前へ出る。
黒が、足元から広がる。
「……もういい」
声は、低く。
「私は、それを終わらせる」
空気が、死に始める。
――《生滅終焉》
白い花が、一斉に色を失った。
遺乃は、その様子を見て、
ほんの一瞬だけ――
愉しそうに、目を細めた。
「……ええ」
「それでこそ、ですわ」
次の瞬間。
地上の戦いは、
もはや引き返せない段階へと踏み込んだ。
◇
生滅終焉は、静かに発動した。
爆音も、閃光もない。
ただ――
終わりが、確定する。
地面を這う影が、私を中心に広がる。
色が剥がれ、温度が落ち、
生命という概念そのものが“先へ進めなくなる”。
生きることも、
死ぬことも、
その途中で――止まる。
三千年前、
無数の存在を“終わらせた”領域。
私は、遺乃から目を逸らさなかった。
避けられない。
避けさせない。
ここまで一歩も動かなかった相手だ。
なら――
ここで終わる。
影が、彼女の足元へ届く。
白磁色の衣装の裾が、
終焉に触れる――
その瞬間。
遺乃が、動いた。
ほんの半歩。
踏み出したのではない。
位置が、ずれた。
音もなく。
余白を滑るように。
終焉の境界が、
“そこにいたはずの存在”だけを空振る。
――外れた。
遺乃は、私の背後に立っていた。
距離は、三歩もない。
「……っ」
息を吸うより早く、
理解が、胸を刺した。
避けた?
違う。
終焉が、当たらなかった。
遺乃は、振り返りもせずに言った。
「少しだけ、動かせていただきましたわ」
その声は、相変わらず穏やかで。
「さすがですの」
「“終わり”を確定させる力」
「原初で見ても、そう多くはありません」
私は、歯を食いしばる。
今のは――
確実に、当てるつもりだった。
遺乃は、ようやくこちらを向いた。
「ですが」
一拍。
「それは、“終わりが存在するもの”にしか届きませんの」
背中が、ひやりとする。
「わたくしは――
まだ、その段階に立っておりません」
花畑が、再び揺れた。
生滅終焉の余波で、
白い花の一部が、灰のように崩れている。
それを見て、遺乃は微笑んだ。
「……とても、美しい終末でしたわ」
その言葉が、
何よりも残酷だった。
私は、ゆっくりと構え直す。
初めて、
この戦いで確信した。
――この相手は、
“力で押し切る相手じゃない”。
◇
次に動いたのは、遺乃だった。
――いいえ。
正確には、「次に手番が来た」と言うほうが近い。
彼女は、私を見下ろしたまま、
ほんのわずかに首を傾ける。
その仕草には、
攻撃の構えも、
殺意の高まりもない。
ただ、順番を確認するように。
「……次は、
わたくしの番ですわね」
声は、柔らかい。
丁寧で、穏やかで、
まるで世間話の続きみたいに。
それが――
ひどく、不穏だった。
一歩も動かなかった彼女が、
ほんのわずか、
足先の向きを変える。
それだけ。
重心も変わらない。
腕も上げない。
視線すら、私から外れている。
――見ているのは、
私ではない。
私が、
「私として成立している理由」そのもの。
次の瞬間。
それだけで――
空気が、裂けた。
違う。
裂けたのは、私の人体だった。
「……っ」
声にならない音が、
喉の奥で、押し潰される。
胸の内側で、
何かが――ほどけた。
骨でもない。
肉でもない。
臓器でもない。
もっと奥。
内臓を内臓として成立させていた
“前提”そのものが、
静かに、雑に、引き剥がされる。
遅れて、激痛。
痛みの種類が、分からない。
刺すのか、潰すのか、裂くのか、
判別する前に、次が来る。
口の中が、
一気に鉄の味で満たされた。
「――が……っ」
血を吐いた。
量が、おかしい。
一度では終わらない。
咳き込むたびに、
喉の奥から、肺の底から、
まだ壊れていない場所を探すみたいに、
血が溢れてくる。
息を吸おうとして、
吸えない。
吸ったはずの空気が、
途中で血に押し返される。
視界が揺れる。
赤く、滲む。
地面が、近い。
膝をついた瞬間、
腹の内側で、
何かが――ずるりと落ちた。
支えていた感覚だけが消え、
中身の位置が、合わなくなる。
……分かる。
これは外傷じゃない。
殴られたわけでも、
貫かれたわけでもない。
身体が、
身体である理由を、
一つずつ、失っていく。
少し離れた場所から、
遺乃の声が届いた。
淡々と。
確認するように。
―――《縁起断絶蓮壊》
その名を聞いた瞬間、
何をされたのかは、理解できた。
生命を成立させている因果。
構造。
順序。
繋がり。
それらを、
まとめて断ち切る
無相の奥義。
通常なら――
ここで終わりだ。
苦しむ時間すらない。
ただ、
「壊れた」という結果だけを残して、消える。
……けれど。
私は、まだ――
ここにいる。
理由は一つ。
私は、即座に
“自分自身”を枯らした。
呼吸しようとする衝動。
心臓を動かそうとする力。
再生へ向かう本能。
生きるための出力を、
すべて、使えない状態に落とす。
同時に、
死へ向かう流れも、
同じように枯らす。
壊れた内臓が、
崩壊を続けるための進行。
痛みが、
致命へ変わるための連鎖。
それらすら――
成立しなくする。
だから。
私は、生きていない。
だが、死にも進めない。
心臓は、打とうとしている。
肺も、空気を求めている。
それなのに、
それらが“次へ進む理由”だけが、
どこにも存在しない。
壊れた内臓は、
崩れる途中で止まり。
痛みも、
致命へ変わる直前で凍っている。
……助かってはいない。
ただ、
死ぬという処理が、
完全に停止しているだけだ。
血を吐きながら、
内側が壊れたまま――
私は、ここで止まっている。
◇
遺乃は、その様子を静かに見下ろしていた。
驚きはない。
焦りもない。
ただ、
標本を見るように、
ほんのわずか目を細める。
「……そうですの」
花畑が、微かに揺れた。
「《縁起断絶蓮壊》は
本来、回避も耐久も成立しない奥義ですわ」
淡々と。
事実を並べるだけの声音。
「受けた瞬間に終わる。
苦痛も、意識も、結果として残りませんの」
一拍。
「それを受けて――
なお“止まっている”」
彼女は、ゆっくりと私を見た。
「……本当に、厄介ですわね」
感心ではない。
称賛でもない。
理解したうえでの、
純粋な評価。
私は、血の混じった唾を吐き捨てる。
視界が霞み、指先に力が入らない。
それでも、
意識だけは異様なほど澄んでいた。
――助かってはいない。
死ぬ処理が、凍結されているだけだ。
遺乃が、一歩、近づく。
その足元で、
白い花が一輪――
音もなく伏した。
彼女はそれを踏み越え、
私のすぐ前で立ち止まる。
「この状態で、
まだ“見ている”のですね」
わずかに首を傾げる。
「やはり……」
穏やかな声のまま、
決定的な言葉を落とす。
「あなたも“こちら側”」
「原初災厄の、
生き残りですわ」
――生き残り。
その言葉が、
胸の奥に、重く沈んだ。
遺乃は、
私を見下ろしたまま、微笑む。
「でしたら……」
短い沈黙。
白い花が、
風もないのに、ざわりと揺れる。
「少しばかり、
昔話をいたしましょうか」
それは、提案ではない。
「最期を迎える方への手向けとしては、
ちょうどよろしいですし」
遺乃は、淡々と語り始める。
―――――――――――――――――――――――――
むかしむかし、
あるところに、
二人の少女がいました。
一人は、
触れた命を、
静かに死へ引きずり込んでしまう少女。
もう一人は、
生き続ける余地そのものを、
少しずつ、枯らしてしまう少女でした。
どちらも、
生まれながらに、
死を呼んでしまう力を持ち、
生まれたときから、
人々に、近づいてもらえませんでした。
村にいても、
街にいても、
二人の居場所は、ありませんでした。
それでも、
二人は、
いつも一緒でした。
手を取り合い、
並んで歩き、
眠るときも、
目を覚ますときも、
互いの存在だけを、
確かめ合っていました。
世界が怖いのなら、
二人でいればいい。
世界が遠ざかるのなら、
二人で寄り添えばいい。
――ずっと、一緒にいよう。
けれど、
ある日から、
少しずつ、
違和感が混じり始めました。
片方の少女の目に、
もう一人の少女が、
少しだけ、
遠く見えるようになりました。
触れてはいけない。
近づいてはいけない。
ここにいてはいけない。
理由は、ありませんでした。
ただ、
そう思ってしまうように、
なっていたのです。
それでも、
日々は、続きました。
少女たちは、
同じ場所で眠り、
同じ道を歩き、
同じ空を見上げていました。
けれど、
いつのまにか。
並んでいたはずの歩幅は、
少しずつ、ずれていきました。
声をかける回数が減り、
手を伸ばすことも、
なくなっていきました。
それでも、
二人は、
離れませんでした。
離れ方を、
知らなかったからです。
やがて、
ある夜のこと。
二人は、
いつものように、
並んで立っていました。
月の位置も、
風の匂いも、
変わらない夜でした。
片方の少女は、
手を伸ばしました。
守ろうとしたのか。
止めようとしたのか。
それとも――
何かを、終わらせようとしたのか。
その答えは、
誰にも、分かりません。
ただ、
その瞬間。
二人で在ったはずの場所に、
一人分の気配だけが、
残りました。
もう一人の少女は、
どこにも、
いなくなっていました。
世界は、
何事もなかったように、
動き続けました。
二人だったことを、
覚えている者は、
どこにも、いませんでした。
ただ、
生き残った少女だけが、
理由の分からない重さを抱え、
そのまま、
歩き続けることになったのです。
―――――――――――――――――――――――――
遺乃は、そこで言葉を止めた。
「――以上ですわ」
それは、
昔話を語り終えた者の、
淡々とした締めくくりだった。
「とても、よくあるお話でしょう?」
……まさか。
雛の喉が、かすれる。
「……あんたが……」
遺乃は、微笑んだまま。
「ええ―――
わたくしが、やりましたの」
「…………っ!」
「本来は―――」
遺乃は、続ける。
「二人とも、
あの夜で、
終わるはずでしたの」
「片方の心に、
もう片方へ向けた
殺意が芽生えてしまえば」
「……よくある、形ですわ」
ほんの一瞬、
遺乃の目が細くなる。
「けれど―――」
「忌々しいことに、
あの子には、効きませんでしたの」
「敵意は、向けていましたわ」
「疑いも、恐れも、あった」
「それでも――」
間。
―――石を投げられて
―――罵られて
―――逃げ場すら、与えられなくても
「あの子は、
ただ、隣に立ち続けましたの」
「……友達を、守るために」
「結果として―――
死んだのは、一人だけでした」
「――計画は、失敗しましたわ」
沈黙。
……ああ。
それで、
もう、耐える理由は、
どこにも、なくなった。
◇ 原初還り
白い花が、揺れた。
一本ではない。
二本でもない。
花畑全体が――
内側から押し上げられるように、ざわりと跳ねた。
私は、地面に伏したまま、
その異変を“皮膚の内側”で感じ取っていた。
……怒りじゃない。
憎しみでもない。
もっと古い。
もっと、どうしようもなく根源的なもの。
三千年前。
原初が、まだ「意味」すら持たなかった頃の――
生の残滓。
胸の奥が、軋む。
否。ほどける。
守るために縛っていた理性が、
生き延びるために重ねてきた嘘が、
内臓ごと、静かに解かれていく。
視界が、白く焼けた。
舌が、ひりつく。
呼吸の入れ方が、分からない。
――ああ。
身体が、先に理解している。
これは、
戻れないところまで来た、という感覚だ。
その瞬間。
世界の色が、反転した。
私の瞳が、赤く染まる。
血でも、炎でもない。
三千年分の生と死が逃げ場を失い、
一点に凝縮された色。
遺乃が、目を見開いた。
「……まあ」
初めてだった。
彼女が、“予測より早く”反応したのは。
「それが……《原初還り(げんしょがえり)》」
その声は、まだ穏やかだった。
けれど、世界はもう待たない。
私の背後から、
黒い羽根が噴き上がる。
一枚、二枚という数え方は意味を失う。
それは翼ではない。
死そのものが、形を持って溢れ出した。
次の瞬間。
――爆発的に、広がった。
中心は、私。
半径も、距離も、概念もない。
ただ、
「終わりが成立する領域」が、
世界を塗り潰す。
空気が、剥がれる。
地形が、意味を失う。
白い花は、触れた瞬間、
咲いていたという事実ごと消えた。
そして――
遺乃は、避けきれなかった。
一歩、引こうとした。
正確には、“位置をずらそうとした”。
だが。
死のドームは、
動くものを待たない。
境界が、遺乃の側面を――
一瞬だけ、舐めた。
それだけだった。
だが。
「……っ」
初めて、
遺乃の喉から声にならない音が漏れた。
白磁色の衣装が、
触れた部分から静かに崩壊する。
燃えたのではない。
裂けたのでもない。
“衣装として存在していた縁”そのものが、剥がれ落ちた。
続いて。
彼女の肩口。
鎖骨。
首筋。
白い皮膚に、
赤い亀裂が走る。
遅れて、血。
一滴。
二滴。
血は、落ちない。
境界に触れた瞬間、
“赤”という結果だけを残して、
音もなく、奪われた。
だが、確かに。
遺乃は、
削られた。
彼女の瞳が、はっきりと細くなる。
「……なるほど」
声は平静。
だが、その一言に――
初めて“評価の更新”が混じった。
遺乃は即座に後退した。
半歩。
さらに半歩。
死のドームから、
確実に距離を取る動き。
境界が、
もう一度、外へ脈動する。
遺乃は、今度こそ触れなかった。
触れれば――
次は、成立が削れる。
それが、彼女にも分かっている。
彼女は、剥がれた袖の痕を一瞥する。
そこには、傷はない。
だが――
“無相としての完全性”が、ほんの僅か、欠けている。
「……命を賭した一撃、ですのね」
それは、賞賛だった。
紛れもなく。
遺乃は、私を見る。
「一瞬とはいえ……
触れれば、わたくしでも無事では済まない」
それを、
はっきり認めた。
私の意識が、急速に薄れていく。
生も、未来も、可能性も、
全部、ここで燃やしている。
遺乃は、
完全にドームの外へ下がりながら、
静かに告げた。
遺乃
「……これ以上は、
得策ではありませんわ」
遺乃
「用件は果たしましたし、
ここは引かせていただきます」
撤退。
逃げではない。
“触れてはいけない領域”を理解した者の選択。
彼女は、微笑んだまま言った。
「あなたは――
ここで、終わりですわ」
そして、付け加える。
「ですが」
一瞬だけ、
剥がれた縁の痕を指先でなぞり。
「確かに――
わたくしに、届きました」
次の瞬間。
遺乃の姿は、
白い花の残滓とともに――
静かに、世界から退いた。
残ったのは、
壊れた世界と、
私の命が燃え尽きる音だけだった。
◇
静寂。
あまりにも、急だった。
世界は壊れ、
音も、色も、意味も、
すべてが置き去りにされたまま――
止まっている。
もう動けない。
指一本。
まぶた一枚。
動かそうという意志すら、
身体に届かない。
肺が、空気を欲しがるのをやめる。
心臓が、
「次」を選ぶ理由を、失っていく。
……ああ。
これが、終わりか。
世界は、
壊れたまま静かだった。
白い花は、もうない。
音も、匂いも、風もない。
何も、残っていない。
私は、ただ――
地面に横たわっている。
死の間際。
それなのに。
不思議と、
恐怖はなかった。
怒りも。
後悔も。
叫びたい言葉も。
全部、
もう、使い切ってしまったから。
……ごめん……なさい。
誰に向けた言葉なのかも、
もう、分からない。
親友か。
世界か。
それとも――
まだ見ぬ“次”か。
赤かった視界が、
ゆっくりと白に溶けていく。
思考が、ほどける。
輪郭が、消える。
ああ。
やっぱり――
ここまで、だったんだ。
◇ エピローグ
意識は、
もう形を保っていなかった。
白い。
軽い。
上下も、前後も、存在しない。
浮いているのか、
沈んでいるのかも分からない。
……ああ。
やっぱり、ここまでか。
そう思った、そのとき。
世界が――
静かに、ほどかれた。
壊れた大地でもない。
死の残滓でもない。
世界そのものが、
誰かを迎え入れるために、
自ら道を譲った。
――来た。
考えるより先に、
身体が、魂が、理解してしまう。
ヴォイド様。
音は、なかった。
光も、眩しさもない。
それでも。
その存在が、そこにあるだけで、
歪んでいた空間が、
ゆっくりと“正しい位置”へ戻っていく。
壊れていた世界が、
「大丈夫だ」と言われたみたいに。
「……間に合ったか」
低い声。
淡々としているのに、
なぜか、胸の奥まで届いた。
私は、もう目も開けられない。
指も、声も、動かない。
それでも――
見られている。
それだけで、
張りつめていた何かが、
音もなく、崩れ落ちた。
「本当に……無茶をした」
責める声じゃない。
叱る声でもない。
ただ、
事実を事実として受け止める声。
次の瞬間。
身体に――
触れられた。
枯滅でもない。
原初還りでもない。
世界そのものを、
静かに縫い留める力。
内側で、
もう取り返せないと思っていたものが、
ゆっくり、
本当にゆっくりと――
繋ぎ直されていく。
完全じゃない。
元通りでもない。
それでも。
「死ぬ」という処理だけが、
確かに、解除されていく。
痛みはある。
重さもある。
身体は、まだ壊れたままだ。
それでも――
“耐え続けなければならない理由”だけが、
静かに、消えていった。
◇
治癒が、終わったわけじゃない。
身体は重い。
内臓は完全じゃない。
呼吸も、浅い。
それでも。
死だけは、
確実に、遠ざかった。
ヴォイド様の腕の中で、
私は、かろうじて意識を繋いでいた。
そのとき。
胸の奥で、
何かが――
音を立てて、折れた。
……あ。
分かった。
もう、
耐えなくていい。
その瞬間。
「――っ、ぁ……!」
声が、零れた。
抑えきれなかった。
喉が、勝手に震えた。
「……ぁ、ぁ……っ!」
息が乱れる。
胸が、大きく上下する。
声を上げて、
泣いていた。
自分でも、
信じられないほどの声で。
嗚咽。
悲鳴みたいな、泣き声。
三千年。
一度も、外に出せなかった音。
「……ひ、っ……!」
喉が引きつる。
涙が、滝みたいに溢れる。
止め方が、分からない。
泣くという行為そのものを、
忘れていたみたいに。
「ヴ……ヴォイド様……
わ、たし……」
言葉にならない。
意味も、形も、壊れていく。
ただ、
感情だけが、
一気に、決壊する。
ヴォイド様の胸に、
しがみついた。
指先が震える。
縋るみたいに、布を掴む。
子どもみたいに。
みっともなく。
必死に。
ヴォイド様は、
強く抱き返すこともしない。
突き放すこともない。
ただ、
離さない。
「……そうだ」
低い声が、
すぐ近くで響く。
「泣け」
それだけ。
許可みたいな、
救済みたいな一言。
それで。
もう、完全に、駄目だった。
「――ぁあああっ……!」
声が割れる。
泣き声が、壊れた世界に響く。
胸が苦しい。
息が吸えない。
それでも、
泣くのを止められない。
胸の奥が、
焼けるように痛んだ。
堰き止めていた記憶が、
涙と一緒に、決壊する。
望んだわけじゃない。
思い出そうとしたわけでもない。
ただ――
勝手に、溢れ出す。
笑っていた顔。
何気ない声。
名前を呼ばれた記憶。
並んで歩いた背中。
同じ空を見上げた時間。
疑いもしなかった、未来。
――ああ。
喉が、ひくりと鳴る。
胸が、
壊れる。
私は――
一番近くにいた人を。
三千年前。
親友を
自分の手で殺した。
「……ひ、ひくっ……
わ、わたし……」
すべて正しいと、
信じ込んで。
「……あ、あの子に……
なんてこと……」
誰にも言えなかった。
誰にも、触れられなかった。
ずっと――
独りで。
「……っ、ぅ……っ……!」
肩が震える。
涙が、止まらない。
ヴォイド様は、何も言わない。
ただ、
背中に手を回し、
一定の強さで、抱き続ける。
逃げ場を、作らない。
泣き終わるまで、
ここにいると――
身体で示すように。
やがて。
声が、かすれ。
嗚咽が、途切れ途切れになる。
それでも、
涙だけは、静かに流れ続けた。
「……もう、いい」
囁く声。
「ここにいる」
その一言で。
最後の力が、
すっと抜けた。
私は、
ヴォイド様の胸に顔を埋めたまま、
小さく息を吐く。
……あったかい。
怖くない。
独りじゃない。
意識が、
ゆっくり、沈んでいく。
今度は――
逃げるためじゃない。
次へ繋ぐための、
休息。
ヴォイド様の腕の中で。
私は、
声を上げて泣いたあとの、
静かな世界へ――
そのまま、落ちていった。




