第1章 名を棄てた男が拾った少女
◇ 逃走
街道から外れた位置に、広大な森林地帯が広がっている。
人はそれを、グレイヴェルの森と呼ぶ。
森の入口を越えたとき、
少女はすでに正気を保っていなかった。
痛い。
寒い。
苦しい。
その三つだけが胸の中で渦を巻き、
ほかの思考はすべて押し流されていた。
裸足の足裏は土と石で裂け、
踏み出すたび、血がにじむ。
衣服は原型を留めず、
布切れと呼ぶのもためらわれるほどに破れていた。
肩や肘の細い骨が、
皮膚の下から浮き上がって見える。
背中には、いくつもの暴行の痕が残っていた。
棒で叩かれた腫れ跡。
縄で擦れた赤い線。
逃げる途中で飛んできた矢がかすめた裂傷。
乾ききらず、黒ずんだ血が、
皮膚に貼りついている。
それでも、少女は走るのをやめない。
呼吸はとっくに悲鳴に変わり、
肺が潰れそうなほど息が吸えない。
それでも脚だけは、前へ出続けていた。
「止まったら死ぬ」
その朧げな直感だけが、
少女を前へ押し出している。
視界は霞んでいた。
木々が揺れて見えるのは、
目が潤んでいるせいなのか、
自分がふらついているせいなのか、
もう分からない。
森の奥へ進むにつれて、
空気が奇妙な冷たさを帯びていく。
風が吹いているわけではない。
冷気が、地面の下から這い上がってくるような、
そんな不自然な寒さだった。
(……いや)
声にならない声が、
喉の奥で溶ける。
涙は出なかった。
殴られたときに散々泣かされたせいで、
涙腺はすでに乾ききっている。
何度も足をもつれさせながら、
少女は森のひらけた場所へ飛び込んだ。
そこで、ついに糸が切れたように膝をつく。
周囲には、
倒れた小鳥。
野兎。
それどころか、馬の死骸まで横たわっていた。
どうしてこうなっているのか。
考える余裕は、残っていない。
(……たすけ……)
その言葉だけが、
胸のどこかでかろうじて形になり、
少女はそのまま地面に倒れ込む。
そして――
何も考えられないまま、
闇へ沈んでいった。
◇ 男の帰路
森の外れを歩く男は、
夕暮れの名残が消えかけた空を見上げた。
黒いロングコートの裾が、
わずかな風に揺れている。
銀色の髪は肩を越えるほどに伸び、
後ろへ流れるように撫でつけられていた。
無精ひげが頬に薄く残り、
彫りの深い顔立ちは、人を寄せつけない静けさを湛えている。
この男は、
森での狩りと日課の巡回を終えたところだった。
獣の気配。
人の痕跡。
風向きの変化。
この森で暮らす彼には、
それらすべてが分かる。
だからこそ、
今この瞬間、
森全体の“ざわめきのなさ”が異常だと分かった。
音が、途絶えすぎている。
風もなく、
虫も鳴かず、
生き物の気配が、ごっそり抜け落ちたような静寂。
男は歩みを止めた。
胸の奥に、
小さな違和感が引っかかる。
理由は分からない。
危険かどうかも、まだ判断できない。
それでも、
「このまま家に戻るのは気持ちが悪い」
という感覚だけは残った。
男はため息を一つつき、
家とは逆方向――
森の奥へ足を向けた。
黒いコートが木々の間をすり抜けるたび、
風のない森で、
彼の足音だけが淡く響く。
しばらく進むと、
死の匂いが鼻をかすめた。
生き物の死体は珍しくない。
だが、
これほど密度の高い死の匂いは、
久しく嗅いでいなかった。
茂みを押し分け、
視界が開ける。
落ちている小鳥。
痙攣した姿のまま固まった野兎。
ひと抱えもある馬の死骸。
そして、そのすぐそばに――
人間の、小さな影が倒れていた。
銀色の髪。
泥にまみれた肌。
血と埃でぐしゃぐしゃになった布切れ。
痩せた手足。
折れそうなほど細い。
少女だった。
年は十代半ばほど。
生きているのが奇跡のような状態。
男は、ゆっくりと近づく。
草木の間を抜けても、
鳥が飛び立つ気配も、
獣の逃げる音もない。
生き物が、一匹もいなかった。
地面には、少女の血が点々と落ちている。
矢傷らしい裂け目。
棒で殴られた痕。
引きずられたような泥の筋。
暴力の跡だと、
一目で分かった。
少女は、かろうじて呼吸している。
肩が、わずかに上下しているだけ。
体温は驚くほど低く、
触れれば折れそうなほど軽い。
男は、しばらく黙って少女を見下ろした。
このまま放置すれば、
間違いなく死ぬ。
だが、
助ける理由もない。
ただ――
この森で嗅いできたどんな死とも違う匂いが、
少女の体から、じわりと漏れている。
男は、少女から視線を外した。
周囲を一度、見回す。
倒れた小鳥。
野兎。
馬。
それから、
再び少女を見る。
男は、腰を落とした。
指先が、
少女の首筋に触れる。
脈は弱いが、
途切れてはいない。
男は立ち上がり、
少女を抱き上げた。
驚くほど、軽かった。
◇ 暴走
腕の中の体は、ほとんど重さを感じさせなかった。
骨と皮だけで形を保っているような軽さだ。
森の外れへ向けて歩き出して、
男はすぐに違和感を拾い上げる。
空気が、冷えている。
風は吹いていない。
だが、肌に触れる感触だけが変わった。
硬く、逃げ場のない冷え方だ。
男は視線を落とす。
腕の中の少女は目を閉じたまま、動かない。
意識はない。
それでも、
その胸の奥から、何かが滲み出している。
足元の枯れ草が、踏みしめた覚えもないのに崩れた。
乾いた感触が、靴底越しに伝わる。
次の瞬間、
小さな虫が地面に仰向けになっているのが目に入った。
動かない。
森の奥で、
木が一本、耐えきれないように軋んだ。
枝先の葉が、
音もなく色を落とし始める。
冷気ではない。
生き物を区別せず、
まとめて押し潰すような圧。
男は歩みを止め、
少女を地面に横たえた。
体が触れた草が、
わずかに沈む。
指を首筋に当てる。
脈は弱いが、続いている。
周囲に広がる変化は、
少女を中心に、静かに広がっていた。
波紋のように。
男は短く息を吐き、
少女の首根っこを片手で掴み、持ち上げた。
宙に浮いた体から力が抜け、
足がだらりと垂れる。
喉を圧迫されているはずだが、
表情は変わらない。
意識は深く沈んだままだ。
その瞬間、
集まっていた“何か”が、一気に男の掌へ流れ込んだ。
皮膚の下を、
冷たいものが走る。
――本来なら、
そこで終わるはずだった。
心臓へ届き、
身体の中枢を止める。
だが、
男の動きに変化はない。
流れ込んだものは、
皮膚の上で霧のようにほどけ、
触れたそばから形を失っていく。
男の周囲だけ、
その現象が成立しない。
理由を探す様子はない。
確認もしない。
「……やめろ」
低く、短い声。
その直後、
森を締め付けていた圧が、
目に見えないまま引き戻される。
枯れかけていた葉は、
そこで変化を止めた。
すでに倒れた小動物は動かない。
だが、それ以上は増えない。
「ここまでだ」
男は手を離し、
再び少女を腕に抱き上げる。
森を締め付けていた圧は嘘のように消え、
残ったのは、夜の冷えだけだった。
男は歩き出す。
足元の草が、
一歩遅れて元の形に戻る。
腕の中で、
少女は浅い呼吸を繰り返している。
何が起きていたのかを、
知らないまま。
◇ 小屋の朝
鼻先に、木の匂いがした。
少女は、ゆっくりとまぶたを開く。
ぼやけた視界が、少しずつ形を結び、
見知らぬ木の天井があることに気づいた。
(……ここ……どこ……)
息を吸い込もうとした瞬間、
胸と背中に、鋭い痛みが走る。
「……っ……!」
声にならない音が、喉で潰れた。
腕をわずかに動かしただけで、擦り傷が焼けるように痛む。
背中の打撲は、呼吸のたびに軋んだ。
ここまで痛覚がはっきりしている。
――まだ、生きている。
その事実が、すぐには受け入れられなかった。
布団の上で、しばらく呼吸を整える。
震える手で、上半身を起こそうとした。
脇腹がきしみ、
身体が折れるように崩れた。
(……いた……っ……)
それでも、少しずつ体を起こす。
ようやく、周囲を見る余裕が生まれた。
小さな木造の部屋。
壁には古い傷が多く、生活の跡が残っている。
道具は無造作に置かれているが、
どれも使い込まれ、整っていた。
混乱しているはずなのに、
妙に、落ち着いた空気があった。
そして──
自分が着ている服に気づく。
だぼだぼの黒いシャツ。
袖は手の甲まで隠れ、
裾は膝に届きそうだ。
明らかに、自分のものではない。
(……わたしのじゃ……ない……)
自分の服は、
あの村で千切られ、
泥と血で重くなったまま、失われたはずだった。
着替えさせられた、という事実に、
胸の奥が、きゅっと縮む。
誰が。
どうして。
何のために。
疑問が浮かぶたび、
脳裏に、過去の光景が差し込む。
石を投げられ、髪を掴まれた日。
何度も繰り返された「化け物」という声。
井戸に突き落とされ、
必死に縁を掴んだ夜。
縄を首に掛けられ、
――それでも、自分だけが死ななかった瞬間。
恐怖を含んだ怒号。
倒れていく人影。
泣き叫ぶ声。
逃げる足音。
(…………いや)
思考が、そこで途切れた。
胸の痛みが、記憶を押し戻す。
少女は、ふらつく足で床に降りる。
まだ、しっかりとは立てない。
壁に手をつき、部屋の中を見回した。
──少し離れると、輪郭がぼやける。
近くの木目は見える。
だが、奥の棚や道具は、影の塊にしかならない。
(……やっぱり……よく、見えない……)
物心ついた頃から、世界はずっとこうだった。
遠くは霞み、
片方の視界の端は、ところどころ欠けている。
それでも、
ここが“村の小屋”ではないことだけは分かる。
扉は、半分開いていた。
外の空気が、わずかに流れ込む。
冷たさが、頬に触れた。
(……外……)
確かめなければならない。
ここに自分を運んだ誰かが、
敵なのか、それとも違うのか。
少女は、扉の方へ一歩踏み出す。
その瞬間、
視界が、ふっと揺れた。
「わ──」
床板の段差に気づかず、つま先が引っかかる。
身体が前へ傾く。
壁を掴もうと伸ばした手は、空を切り──
代わりに、固い感触にぶつかった。
胸板だった。
扉を開けて入ってきた男の胸に、
少女は、そのまま倒れ込む形になる。
ぐらりと揺れた身体を、
男は片手だけで受け止めた。
「……」
距離が近すぎて、顔がよく見えない。
鼻先に、外の冷たい空気と、
血と煙の混じった匂いが届く。
「……前が見えていないのか。」
低い声が、頭上から落ちてきた。
「ひゃっ……!」
少女は慌てて離れようとして、
足に力が入らず、その場にへたり込む。
「あ、あのっ……す、すみません……っ……
その……ぶつかって……」
「別にいい。」
男は、それだけ言って手を離した。
「歩けないなら、無理に立つな。」
少女は、膝立ちのまま顔を上げる。
近くでも、輪郭は少し滲んでいる。
それでも、
黒いロングコートと、肩まで流れる銀髪、
鋭い目だけは分かった。
年齢の読みづらい、無表情な男。
村人たちのような、
憎悪や軽蔑の色は、その目にない。
(……この人が……)
自分を、ここまで運んできた人なのだろうか。
男は少女を一瞥し、
短く言った。
「起きたか。」
◇ 触れても死なない人
男はウサギを肩に担ぎ直し、
部屋の中へ一歩足を踏み入れた。
「体力が戻るまではここに置く。
動けるなら、ベッドに座れ。」
言い切るだけの口調だった。
怒鳴りも、突き放しもない。
少女は小さく頷き、
よろよろとベッドへ腰を下ろす。
その拍子に、胸の奥がざわりと揺れた。
(……あ)
遅れて、思い出す。
自分に触れた人は、死ぬ。
村人も、
処刑人も、
たまたま近づいただけの子どもも。
みんな、倒れた。
(……じゃあ……この人は……)
顔色が変わる。
少女は両手を胸に引き寄せ、
震える声を絞り出した。
「あ、あのっ……!」
男が振り向く。
「……なんだ。」
「わ、わたし……さっき……
あなたに……触りました……!」
「……ああ。」
「だ、だめです……!
離れて……! 死んじゃ……!」
後ずさろうとして、痛みで崩れる。
その瞬間、男は一歩だけ前に出た。
「動くな。」
低く、静かな声。
「そこにいろ。」
逆らえない響きだった。
少女は固まったまま、息を詰める。
「し、死ぬ……っ……
あなた……死んじゃう……!」
男は立ち止まり、淡々と言う。
「……どこも、なんともない。」
「……え……?」
「お前に触られても死なない。」
少女は言葉を失った。
「……うそ……」
「事実だ。」
男は少女の手首を軽くつまみ、
自分の掌を重ねる。
触れた感覚が広がる。
あの嫌な気配が、確かにある。
だが――
それは、皮膚の上でほどけ、
何事もなかったように消えた。
男の顔色は変わらない。
「……問題ない。」
「……」
「触れている。
俺は、生きている。」
少女の目が、ゆっくり滲んだ。
恐怖でも、驚きでもない。
信じられない現実が、
胸の奥の硬くなったものを、
少しずつ溶かしていく。
「……っ……ひ……」
涙が、止まらなくなった。
「……し、知らない……っ……
そんなの……初めて……」
押さえきれない本音だった。
“触れても死なない人”。
その存在を、
初めて知った。
男は泣く少女を見下ろし、
表情を変えずに言う。
「泣くな。
傷が開く。」
面倒そうな声音だった。
けれど、
少女はその一言に、
どんな慰めより救われた。
◇ 食事
少女の涙が落ち着いたのを確認すると、
男は何事もなかったかのようにウサギを台に置いた。
すでに血抜きされている。
包丁ではなく、指先で関節を押し込み、
ほとんど音を立てずに分解していく。
皮を引き、骨を外し、肉をそぎ落とす。
動きに、余計な力も迷いもない。
その静かな手つきを、
少女はぼんやりと見つめていた。
(……すごい……
怖くない……
でも……強い人……)
村の男たちとは違う。
怒鳴り声も、憎悪も、軽蔑もない。
ただ、生きるための作業だけが、そこにあった。
鍋に冷たい水が張られ、
ウサギの肉と選ばれた野草が入れられる。
火にかけると、ふつふつと湯気が立ち上り、
木造の小屋に、あたたかい香りが満ちていった。
少女の胸が、きゅっと鳴る。
(……あ……)
次の瞬間──
ぐぅぅぅ~~~。
静けさを破って、
少女の腹が、はっきりと音を立てた。
「…………」
「…………」
少女は一瞬固まり、
それから、真っ赤になる。
だぼだぼのシャツの裾を、
ぎゅっと握りしめた。
「す、すみません……っ……
その……お、お腹……で……」
「知っている。」
男は、それだけ言った。
「~~~っ……!」
恥ずかしさに、耳まで熱くなる。
男は気にする様子もなく、
皿にスープをよそい始めた。
肉は柔らかく崩れ、
野草は色を淡く落としながら香りを立てる。
「食え。」
少女の前に、皿が置かれた。
立ち上る湯気が、頬をなでる。
(……あったかい……)
少女は震える手でスプーンを持ち上げる。
だが、ふと動きを止めた。
(……また……
わたしが触ったら……
この人……)
喉が、ひゅ、と締まる。
自分の【呪い】は、
人だけでなく、“食器”にも及ぶことがあった。
村の者が倒れたとき、
自分の皿を使っていたこともある。
指先が強張り、
スプーンが小さく震えた。
「あ、あの……っ……
わたしが……食べたら……
あなたまで……」
「死なない。」
男は鍋をかき混ぜたまま言う。
「……見てろ。」
男は自分の皿から肉を摘み、
少女の皿に触れたスープを、
ひと口、そのまま口に運んだ。
何も言わない。
「……ほ、ほんとに……?」
「生きてる。」
それだけだった。
その短い言葉が、
胸の奥の、見えない氷を
静かに溶かしていく。
少女はスプーンをぎゅっと握り、
意を決して、口へ運んだ。
温かい。
柔らかい。
苦くない。
なにより──
「……っ……おいしい……」
言った瞬間、
涙が、ぽろりと落ちた。
「あ……」
慌てて、袖で拭う。
男は無言で自分の皿を口に運び、
ぽつりとだけ言った。
「こぼすな。」
「は、はいっ……!」
少女は背筋を伸ばし、
必死にこぼさないよう、スープをすくう。
温かい。
生きている。
死なせてしまわない。
それだけで、
胸の奥が、少しずつ満たされていった。
男は少女が食べ終わるまで、
急かすこともなく、
ただ黙って待っていた。
◇ 名前のない少女と、名を捨てた男
皿のスープが、きれいになくなる。
少女はスプーンをそっと置いた。
「ごちそうさまでした……」
まだ声は細いが、
さっきよりは、はっきりしている。
男は皿を受け取り、
短く頷いた。
「……そうか。」
それだけ言って、流しへ向かう。
水を汲み、皿を洗う音が、
静かな小屋に響いた。
少女は、しばらくその背中を見つめていたが、
やがて、おそるおそる口を開く。
「あの……」
「なんだ。」
「その……あなた……」
言いかけて、慌てて言い直す。
「い、いえ……っ……
あの……その……
お名前、って……あるんですか……?」
言葉が、ぽとんと落ちる。
男は手を止めた。
ゆっくりと振り返り、
少女を見下ろす。
「……どうしてだ。」
「えっと……その……」
少女は袖の先でもじもじと指を動かす。
「“あなた”って呼ぶの……変で……
もし……お名前があったら……
ちゃんと……呼びたいなって……(ごにょごにょ)」
最後は、自分でも聞こえないほど小さな声になる。
男は、しばらく黙っていた。
沈黙が、重く落ちる。
「聞いちゃ、
ダメ……でしたか……?」
「……好きに呼べ。」
「え……?」
「名は、不要だ。」
それだけだった。
少女は困ったように目を瞬かせる。
「で、でも……っ。
わたし……呼びたいです。」
「助けてくださって、
ご飯も……くれて……」
言いながら、
胸の奥が、そわそわと落ち着かなくなる。
誰かを、名前で呼びたいなんて、
考えたことがなかった。
男は、小さく息を吐いた。
「……ヴォイド。」
「……え?」
「呼ぶなら、それでいい。」
少女の瞳が、ぱちぱちと瞬く。
それから、ゆっくりと口が動いた。
「……ヴォイド……さん……」
確かめるように。
けれど、どこか嬉しそうに。
男──ヴォイドは、
それ以上、何も言わない。
黙って椅子に腰を下ろした。
少女は胸の前で、
ぎゅっと手を握りしめる。
(……ヴォイドさん。
呼べた……)
それが、
彼女の人生で初めての、
「誰かの名を呼んだ瞬間」だった。
◇ 変なの。
食後、ヴォイドは少女をちらりと見た。
「立てるか。」
「えっと……少しなら……」
少女は布団から腰を上げ、
そっと足を床に下ろす。
背中の奥が、ずきりと痛んだ。
「……っ」
顔をしかめたのを見て、
ヴォイドは淡々と言う。
「無理だな。横になっていろ。」
「だ、大丈夫です。少しくらいなら──」
「寝ろ。」
短く、それだけ。
怒鳴るでも、突き放すでもない。
少女は反射的に背筋を伸ばし、
そのまま布団へ戻った。
「……わかりました。横になります。」
自分でも、不思議だった。
「いやだ」と思う前に、体が従っていた。
村の大人に命じられたときとは違う。
恐怖で固まる感じではなく、
従ったほうが、落ち着く。
ヴォイドはコートに腕を通し、
扉へ向かう。
「外に出る。
お前は、ここで寝ていろ。」
「……はい。
あの、ヴォイドさん。」
理由は分からない。
ただ、何も言わずに出て行かれるのが、
少しだけ、嫌だった。
「なんだ。」
「えっと……その……」
言葉を探して、結局、
小さく頭を下げる。
「い、いってらっしゃい」
自分でも驚くほど、
自然に出た言葉だった。
ヴォイドは一瞬だけ目を細め、
何も返さず扉を開ける。
「出るなよ。」
「出ません。」
扉が閉まり、
小屋に静けさが戻った。
少女はしばらく天井を見ていたが、
やがて、そっと体を起こす。
「……ちょっとだけ……」
窓際までなら、と自分に言い聞かせ、
壁に手をついて歩く。
痛みはあるが、さっきよりは軽い。
小さな窓から外を覗くと、
少し離れた空き地に、
ヴォイドの姿があった。
コートを脱ぎ、黒いシャツ姿。
鍛えられた背中と腕の線が、
ぼやけた視界でも分かる。
ヴォイドは静かに息を吐き、
構えを取った。
足が地面を踏み、
体重が流れ、
拳が空を切る。
「わぁ……」
思わず、声が漏れた。
動きは速い。
だが、荒さがない。
音も立てず、
決まった動きを淡々と繰り返している。
拳が振るわれてから、
空気が震える音が届くまで、
わずかに、ズレがあった。
(す、すごい……!)
怒鳴る強さ。
殴る強さ。
押さえつける強さ。
そういうものは、知っている。
でも、これは違う。
誰かを威圧するためでもなく、
誰かを傷つけるためでもない。
ただ、積み重ねられた強さ。
胸の奥が、
少しだけ落ち着いた。
「……ヴォイドさん……」
聞こえないほど小さく、
名前を呼ぶ。
窓枠に頬を預けたまま、
少女は、その背中を見つめ続けた。
怖くない。
それどころか、
そこに背中があるだけで、
安心している自分がいる。
「……変なの。」
ぽつりと、笑ってしまう。
その声は、
自分でも聞き慣れないものだった。
外では、
ヴォイドの拳が、またひとつ、
静かに空気を震わせていた。
◇ 夜、お腹がすいた
薪の火だけが、暗い小屋の中を柔らかく照らしていた。
少女は布団の中で丸くなり、
胸のあたりを両手で押さえている。
(……どうして
なんで今日に限って……)
ぐうぅぅ……。
「っ……」
毛布を頭まで引き上げ、
少女は顔を隠した。
(いやっ……
ぜったい、聞こえてます……)
今までの人生、食べ物をちゃんと与えられたことなんて少ない。
ほとんどが残飯のようなもの。
村から逃げる前も、何日も何日も空腹のままだった。
“お腹がすいた”という感覚は、
とうの昔に壊れたと思っていた。
なのに、今は。
(お腹、すきました)
胸の奥から、
素直すぎる言葉が出てきてしまう。
薪がぱち、と弾けた瞬間、
また腹が鳴った。
ぐぐぅ……。
少女は布団の中でうずくまり、頭を抱えた。
(どうしよう……
恥ずかしい……)
自分にしか聞こえない声。
でも、分かっている。
椅子に目を閉じて座るあの男は、
眠っているようでいて、たぶん起きている。
(ぜったい、聞こえてます……)
迷った末に、少女は布団を握りしめ、
泣きそうな顔で起き上がった。
「……ヴォイドさん。」
呼んだ瞬間、男の片目が静かに開く。
「なんだ。」
(やっぱり。)
顔が一瞬で熱くなる。
「え、えっと。
その。
あの……」
そこでまた、腹が鳴った。
間が、最悪だった。
少女は固まり、
今にも泣きそうになる。
「いままで……
何日も平気だったのに。
な、なんで今日だけ、
こんなにお腹がすくんですか……!?」
半泣きの訴え。
「お、お腹がぺこぺこなんです……
ほんとに……」
言い終えた瞬間、
恥ずかしさでぷるぷる震えた。
ヴォイドはしばらく黙り、
ごく短く息を吐いた。
口元が、ほんのわずかに緩む。
一瞬だけ。
だが、少女は見逃さなかった。
「いま……
笑いました?」
布団を抱えたまま立ち上がり、
信じられないものを見るように指をさす。
「わたしの……
お腹の音で……!」
「笑っていない。」
即答だった。
「え、でも今……」
「気のせいだ。」
「う、嘘です!」
ヴォイドは視線を逸らす。
「腹が減るのは正常だ。」
「う……」
「今まで感じなかったほうが異常だ。」
言い返せなくなる。
少し間を置いて、男は続けた。
「ここでは飯が食える。
体が思い出しただけだ。」
少女は、はっと息を呑む。
(体が……
“食べてもいい”って……)
胸の奥が、じんわり温かくなる。
「食べたいのか。」
短い問い。
少女は顔を隠したまま、
小さく頷いた。
「……お腹……すきました」
「なら言え。
黙っていれば痩せる。」
「ひ、ひどい……」
そう言いながら、
声には少しだけ笑いが混じっていた。
ヴォイドは立ち上がり、コートを羽織る。
「外に行く。
すぐ戻る。」
「え?」
「お前が黙っていても腹は鳴る。
眠れん。」
「っ……!」
少女は布団の中で真っ赤になりながら叫ぶ。
「ヴォイドさんのせいです!
こんなにお腹がすくの!」
「俺のせいじゃない」
「でも、そうです!」
ヴォイドは小さく鼻で息を吐き、
扉を開けた。
「待っていろ。」
「……はい」
夜の空気が流れ込み、扉が閉まる。
残された少女は胸に手を当て、
小さく呟いた。
(笑った。
ヴォイドさん……)
その声は火の音よりも静かで、
確かな幸福に満ちていた。
◇ 森に残る死の匂い
夜の森は、本来なら騒がしい。
虫の声があり、
どこかで獣が動き、
風に混じって羽音が走る。
今夜は、それがない。
ヴォイドは森に足を踏み入れ、
空気の違いを感じ取った。
足元の枯れ草が、力なく沈む。
踏み慣れた感触が、どこか薄い。
季節の問題ではない。
小さな生き物の骸が点々と落ちていた。
傷はない。
争った痕もない。
ただ、止まっている。
ヴォイドは一瞥をくれるだけで歩みを進める。
森に残るのは、
消えきらない死の匂い。
重く、鈍い余韻。
木々の一部が、妙に色を失っていた。
老木でもない。
時間だけが先に進んだような枯れ方だ。
「……」
拾わなければ、終わっていた。
それだけのことだ。
倒れていた少女の姿が、
一瞬だけ脳裏をよぎる。
ほとんど息をしていなかった。
血に濡れ、
生きているほうが不自然な状態。
今は、小屋で眠っている。
ヴォイドはそれ以上考えなかった。
理由はいらない。
理屈もどうでもいい。
自分に影響しない。
それで十分だ。
ふと、森の外れへ視線を向ける。
近頃、街道に残る足跡が変わっている。
重い靴底。
乱れのない歩幅。
……変わっていない。
それだけ確認し、視線を戻す。
この森で、
勝手に死なれるのも、
勝手に荒らされるのも、御免だ。
ヴォイドは素早く獲物を仕留めた。
小屋の娘が食べる分だけ。
夜の闇に紛れるように、
森を駆ける。
口元が、わずかに緩んだ。
騒がしい腹は、
満たしておく必要がある。
◇ 幸せの味を知った日
火の明かりが、小屋の壁に柔らかい影を揺らしていた。
少女は布団の中で小さく丸くなり、
胸の前で両手を握りしめている。
お腹は満たされ、
体は温かい。
痛みも、ほとんど感じない。
こんな夜を、
今まで知らなかった。
(……なんだろ。
落ち着かない。)
胸の奥が、むずむずする。
安心しているはずなのに、
じっとしていられない。
頬に触れるものがあって、
指先で確かめてから、
ようやく涙だと気づいた。
温かい。
慌てて拭おうとして、
そのまま布団に顔を埋める。
声を出したら、
何かが壊れてしまいそうだった。
今日まで、
生き延びることだけで精一杯だった。
泣く余裕も、
笑う余裕も、
考えたことがなかった。
だから今、胸にあるこの感覚が、
なんなのか分からない。
ただ、
変だ。
胸が、じんわりと熱い。
そのとき、
ふっと、映像のようなものが浮かんだ。
夢でも、熱のせいでもない。
記憶の底が、かすかに動いた感覚。
(……あれ。)
白いものが、空から落ちてくる。
細かくて、冷たくて、
手に触れるとすぐ消える。
幼い自分が、
それを両手で受け止めている。
誰かの声。
笑っている気配。
大きな手に持ち上げられて、
耳元で呼ばれた、
自分のものだったはずの音。
白い景色。
そこで、途切れた。
(……思い出せない。)
無理に追おうとすると、
胸の奥が、ちくりと痛む。
白くて、
冷たくて。
でも――
なぜか、怖くなかった。
涙が、また一粒落ちる。
悲しいわけじゃない。
でも、止まらない。
「……ありがとう。」
布団に顔を埋めたまま、
小さく呟く。
「……ヴォイドさん。」
誰にも届かない声。
それでも、
今日を生きた実感だけは、
確かにそこにあった。
薪の火が、静かにぱち、と弾ける。
少女は、
涙の跡を頬に残したまま、
静かに眠りへ落ちていった。
胸の奥に、
名前のない温かさを抱いたまま。
◇ エピローグ 森の奥の影
少女が眠る小屋から、
さらに森を奥へ進んだ場所。
夜の気配が濃く沈む中で、
ぱき、と小さな枝の折れる音がした。
「……あー。残ってる残ってる。」
闇の中に、細い人影がひとつ。
足を止め、地面を見下ろす。
「これは……派手にやったね。
でも、全部じゃない。」
指先で土をなぞり、
空気を一度、吸う。
「死の残り方が雑。
制御できてないタイプ。」
胸元で、かすかな金属音。
外套の下で揺れた薄い金属板が、
月明かりを一瞬だけ弾いた。
七つの短線を閉じた輪の刻印。
「処理未完了。
観測記録、続行中……っと。」
立ち上がり、森の奥へ視線を向ける。
「当事者は未自覚。
暴走初期。
……うん、よくある。」
声は軽い。
判断は早い。
「この段階なら、
まだ“仕事”で済む。」
独り言のように言いながら、
一歩、踏み出す。
「接触して、
状態確認して……」
一拍、間。
「ダメなら、処理。」
その言葉に、
迷いも感情もない。
「放置はナシ。
あとで面倒になる。」
夜風が吹き、
影の髪がわずかに揺れた。
「ま、記録通りに動くだけだね。」
彼女はまだ知らない。
その“災厄”が、
今まで見てきたどの事例とも違うことを。
そして──
それを、
本気で囲っている存在が、
すでにこの森にいることを。
影は音もなく歩き出し、
夜の闇に溶けるように消えた。
静かな森だけが、
何も知らないまま息をしていた。




