砕けるサファイア
幼い頃から抱いていた信頼感が徐々に揺らいでいった日々をウラは思い返す。
数か月前からデミトリオスはウラとの交流を行わず、ヘスリンド男爵令嬢のリュシテナ・ヘスリンドと頻繁に会っていることが多くなった。
デミトリオスがリュシテナとの関係を深める一方で、彼女に向けられる視線や言葉が次第に冷たさを帯びていったのだ。
初めてリュシテナとの関係が目立ち始めた頃だろうか。ウラがデミトリオスに次の舞踏会について話し合おうと提案した時、彼からの返事は驚くほど冷たいものだった。
「すまないがリュシテナ嬢と予定がある」
それまで彼が見せていた熱心な態度が嘘のように冷たくなり、ウラは胸がズキンと痛んだ。
しかしあまりにも突然な態度の急変で何か理由があるのは明白だった。だからこそウラは必死で問うてみたが、それをデミトリオスは「どうせ君とは結婚するのだから自由にさせてくれ」と冷たくあしらうだけだった。
日に日に酷くなるデミトリオスの言動に傷つき、それでも彼の言動に違和感を拭えずにいた。彼を疑いたくはない一心でウラは自分に何か足りないものがあるのだと思い改善に努めた。
礼儀作法、教養、ダンス。ありとあらゆるものをやり直した。もはや病的なまでに行うウラを家庭教師や侍女は必死に止めたが効果はなく。その結果心身の疲労で体調を崩しても、ウラは両親に知らせる事をひどく嫌がり禁止した。
そんな状況に婚約者が陥ってもデミトリオスの態度はひたすら悪化する一方で、とうとう二人の会話すらまともに成立しなくなった。ウラが精一杯努力して自分を変えようとしても、彼の視線は常に冷ややかで、どこか遠くを見ているようであった。
後日ウラは意を決し、再度デミトリオスに話し合いを持ちかけた。どのように接するべきか必死に考え、ボロボロになった心身を微笑みで隠し穏やかに話を始めた彼女だったが、返ってきたのはまたしても素っ気ない返事だった。
「くどいな。リュシテナ嬢のことは私の自由だと言ったはずだ」
その言葉に隠された苛立ちと冷たさにウラの心はまたズタズタに傷ついた。得体の知れない壁を感じ、これ以上近づくことを拒んでいるように思えたのだ。
違和感は確かにあるのに何も言ってくれない。教えてくれない。
ウラはもうどうしたら良いのか分からない。デミトリオスの美しい金髪も、ルビーの瞳もひたすらに遠い。
がむしゃらに走り回ったウラの取り繕う微笑みの仮面はぴったりと癒着し外せなくなってしまった。
温室に用意された茶会のテーブルでデミトリオスがリュシテナと腕を絡ませ談笑する様子を目の前にしても──
「ごめんなさいねウラ様?デミーがどうしてもアタシと一緒じゃないと嫌だって」
清楚さを感じさせる銀髪とピンク色の瞳とは裏腹にリュシテナの口元は下品に吊り上がっている。ご丁寧にデミトリオスとお揃いの色とデザインを模したドレスを身に着け、茶会の席にいる。
婚約者であるウラの目の前であるというのにベタベタとしな垂れかかっているというのに振り払うこともなく、デミトリオスはあろうことかそれを許し、リュシテナの手に自身の手を重ねている。
「このっ……!!」
あまりにも無礼なデミトリオスに痺れを切らした侍女の一人が声を上げそうになるのを、先ほどまで泣いていたとは考えられぬほど凛とした表情のロッタが無言で諫める。
その鋭い視線が侍女達を静かに制し、曲がりなりにも波風が立たずに済んだ。それを背後に伯爵令嬢としての品位を保つべく、ウラは胸の奥で燃え上がる招かれざる客人への怒りと悲しみを必死に抑え込んでいた
「まあ……リュシテナ嬢、デミトリオス様があなたとお揃いのドレスを選ばれたのですね。とてもお似合いですわ」
ウラは静かに言葉を紡ぎ出した。その声には冷静さを保ってはいたが、あまりにも虚しく微かな震えは隠せない。
ウラはデミトリオスから揃いのドレスやアクセサリーなどを貰ったことがない。反対に全てを手に入れているリュシテナはウラの様子を鼻で笑い、これ見よがしに腕を絡める力を強める。
「まあウラ様ったらお優しいのね!強引に婚約を決められ窮屈な生活をしてらっしゃるデミーも感謝してるわ!でもご心配なさらないで?デミーの苦しみはアタシが癒して差し上げますから」
「ああ!愛らしいリュシーのおかげでとても助かっているよ」
人の婚約者をニックネームで呼ぶという明らかな侮蔑を含んだ傲慢な振る舞いにも関わらずデミトリオスは同意し、リュシテナに対して恋慕の表情を向けている。
すっかり二人だけの世界に入っている仲睦まじい姿は確実にウラの心を削り、壊していく。
ウラはすぐにその場を立ち去りたい衝動に駆られたが、どうしても微かな希望が諦められずその場に縛り付けられてしまう。
──来週の舞踏会。
前回も、前々回もリュシテナ嬢と出席すると言って断られた。
それでも今回なら何か変わるかもしれない。もしかしたら努力したことを知り満足して承諾してくれるかもしれない。
誰が見ても叶うはずがない希望だとしても、追い詰められた心ではひたすら縋りつくしか無かったのだ。
「デミトリオス様、次の舞踏会には、私と一緒に……」
未だべたべたと触れ合っている二人にウラは静かに問いかけた。もはや隠すことも出来ぬほどの震えが混じっていたが、彼女の瞳には決意が宿っている。
二人の時間に水を差され不服げに顔をゆがめるリュシテナの傍らでデミトリオスは一瞬ウラを見つめたが、すぐに視線を逸らし──冷たく言い放った。
「悪いがリュシーと行く。君を伴うと邪魔になるから欠席してくれ」
その言葉に即座に蕩けた様な表情でデミトリオスに抱き着くリュシテナ。瞬く間にウラの心に大きな亀裂が走り、バキリと欠けた。背後に待機するロッタ達もデミトリオスの言葉に各々が目を見開き、唇を噛み、拳を握りしめる。何て男なの。酷すぎる。と小声で囁き、冷静だったロッタでさえ歯を食いしばっていた。
ウラの存在そのものを否定するかのようなデミトリオスの言葉に一気に視界が歪み、頭から氷水をぶちまけられたように体が冷えていく。そのままティーカップを落としてしまいそうになるのをなんとか耐え、伯爵令嬢としての品位を保つべくウラは静かに「そうですか」と返す。
(あの目、やっぱり変──なのに、どうして……どうして何も言ってくださらないの!?)
心の中で問いが繰り返される。かつては優しく、ウラを守ると誓ったデミトリオスの姿が、今では遠い幻のように思えた。彼の冷たい態度に、ウラは自分が何か間違ったのではないかと自問せずにはいられなかった。
でも思いつくことは全てやった。見直した。やり直した。そしてデミトリオスのあの表情と眼差し。確かに何か理由があるはずなのに、二人きりのときですら何も答えてくれない。
ならばこれ以上何をしたら良いというのか。もう──詰みなのだ。
「まあ、ウラ様ったらしつこいわね。デミーはアタシと舞踏会に行く方が楽しいんですって!だから~……ウラ様はお留守番していて下さいね?変な噂が立つと困るでしょう?」
追い打ちをかけるようなリュシテナの嘲笑など耳に届かないほどウラは茫然自失となっていた。そして静かに立ち上がり、その場を立ち去るべく二人に一礼し、身を翻した。
背後から聞こえる、勝利を確信したリュシテナの笑い声が胸に鋭く突き刺さる。それでもウラは振り返らず、ただ前を向いて温室へ出る扉まで歩き続けた。
(もう駄目なのだわ。本当に、もう……)
今まで積み重ねた努力、耐え続けた時間、そして微かな希望すら、すべてが滅茶苦茶になって崩れていく。
胸を貫いたのはリュシテナの嘲笑だけではなく、デミトリオスの態度もだった。彼は最後までウラを見ようとしなかった。それが何よりも彼女の心を踏みにじって惨めにした。
彼を支えるのは婚約者の自分ではなくリュシテナだと、焼き鏝を押し付けられたように醜く焼き残る。
「──っ」
温室を出た途端ウラの視界は涙で滲み、大粒の涙がとめどなく頬を伝った。拭うこともせず、サファイアの瞳からただただ宝石のように流れていく。
「お嬢様!」ロッタの悲鳴にも似た声が響いた。侍女たちがウラを引き留めようと手を伸ばすが、ウラはそれを振り払い、一心不乱に走り出した。
伯爵令嬢としての矜持などもうない。優雅な立ち振る舞いも、冷静な微笑も、今この瞬間全て投げ出した。ただ。デミトリオスの冷淡な視線とリュシテナの勝ち誇った微笑から逃げたかった。
何度も廊下で転んでも、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになってもただ必死に走った。転んだ拍子でアクセサリーの金剛石が涙と共に煌めきながら床に落ちていく。
ウラはそれを拾い上げようともせず、ただある場所へ走った。
「ノクティヴェールッ……!!」
幼い頃からの拠り所へ。
ブックマーク等ありがとうございます!
あまり長くならない程度で完結予定です。