03
喜兵衛は針の名人であり、小吉郎はこの父から、全ての技を伝授されたものと思っていた。
一吉が小学一年生になったときだ。流感にかかった。高熱を発し、命が危険な状態になった。この熱病は、小吉郎の針の力を受け付けなかった。そもそも、感染症に針とは、無理がありすぎたのだ。小吉郎も十分に承知していたのだが、医者にかかる金がなかったのである。
佐恵は、実父に無心しようとまで思い詰めた。
そんな場に、他行していた喜兵衛が帰ってきたのである。状況に仰天した喜兵衛は、取るものも取り敢えず一吉を診た。そして。
しばらくして、彼は奇妙な行動に出たのである。
喜兵衛は、一吉の後頭部の髪の毛を一本、引き抜いたのだ――
熱にうなされながらも、一吉は、このとき得た感覚を、一生忘れない。
まるで、自分が水になったかのようだった。
静かな湖面に小石を放る。その時できる波紋のように、後頭部から冷気が広がった。その波紋は体内を広がり、皮膚の内側で心地よく反射し、体の隅々まで浸透したのだ。
感触を得た喜兵衛は夫婦に告げる。
「半刻ほど、待つがよい……」
ほどなく、一吉の呼吸が落ち着く。小吉郎、そして佐恵は、鳥肌が立つほどの思いを味わった。喜兵衛は平気で言う。
「なんか滋養のある物を食わせろ。さすれば、かずの体は、病に克つであろうよ……」
佐恵は近所から卵をもらい受けてきた。
そして翌日。熱が引き、一吉は起きあがることを得たのである。
小吉郎の父を見る目が変わった。また佐恵にしてもこの時初めて、針に、そして小吉郎、喜兵衛、それ以前へと連なる煙丸の道統に、深い尊敬の念を抱いたのである。
喜兵衛は小吉郎に語った。
「煙丸秘伝、“一ノ毛”と呼ぶ。毛を抜く衝撃をもって、針同様の力を奮う。効き目は見た通りじゃ。時にして、針ではいかぬ病に効く……」
「おおう……」
「当然、経絡は針とは異なる。これは患体の年齢性別によっても異なり、さらには毛の抜き方にも法がある。ただ引けばよいというものではない。いまだ未知の領域があり……この術は、まだまだ完成してはおらぬのだ」
「父上……」
「お前は無責任で未熟で、実に頼りなかった。見せるのは早すぎたやもしれぬ。わしも慌てておった」
「父上」
「……継ぐか」
「はい。よろしゅうお願いいたします」
小吉郎は叫ぶと共にひれ伏す。喜兵衛は完爾として笑んだのであった。