第56話 地中地獄のはじまり
——働けなくなるくらい病気が進行したのなら、近々死ぬってことでしょう。
藤田は真顔で答える雅美を見つめた。
予想だにしなかった表情をしている。
「は?」
なにを言っているのか理解できない。
途方に暮れていたところ、義母が嬉しそうに雅美のそばにやってきた。
「話、聞いてたわよ。
あたしの言った通り保険に入っておいてよかったでしょう」
義母が雅美の手を取る。
「本当にそう。さすがママね」
雅美が義母の手を握りかえす。
「奮発して一番いい条件の保険に入っておいたからから、今後も大丈夫よ」
「ああ、早くお金が入らないかなぁ」
「保険金が入ったら、まずは船旅に行きましょう」
「行こう、行こう」
ふたりは盛りあがっている。
稼ぎ頭を失ったら途端に生活が困窮するだろうから、保険に入ったのは問題ない。
だが、藤田はそのことを知らされていなかった。
黙って保険に加入していた……。
雅美はおそらく、家族ではないから相談する必要はないと考えたのだろう。
不愉快だが百歩譲って受けいれる。
だが、先ほどの会話は許せない。
早く死ねとばかりにふたりは保険金の使い先を楽しく語りあっている。
勝手にわしを殺すな。
わきあがってくる怒りを必死に抑える。
もしこの世に神がいるなら、あいつらに天罰を与えてください。
生まれてはじめて神に祈った。
その結果、神のご加護か、それとも元々こうなる運命だったのか、義母が死んだ。
藤田以上に元気だった義母だったが、運がなかった。
歩道を歩いてたところ、飲酒運転の車に突っこまれて即死。
義母が亡くなり、雅美は嘆き悲しんだ。
寂しさからではない。
加害者が無保険でたいした賠償金が得られなかったからだ。
雅美は悲しくて動けないのを理由に、義母の死後の手続きや処理を藤田に丸投げした。
その作業はこれまで押しつけられた雑用のなかで、一番楽しくやりがいがあった。
手間暇がかかり、骨が折れる。
だが、少しも苦痛を感じなかった。
手続きをこなすたび、この手で義母の存在を消していく快感を味わえたから……。
邪魔者はもういない。
これからは雅美とふたりだけの生活がはじまると心が弾んだ。
雅美のことは嫌いだが、藤田に頼らなければ生きていけない姿を見るのが楽しみでならない。
これまで通りの態度ではやっていけないことくらい、馬鹿な雅美でもわかるはずだ。
これまでの行いを改め、普通の夫婦としてやっていこうとするだろう。
全ての手続きを終えて義母の存在を消しさったところで、藤田は甘かったと気づいた。
「美紅瑠のところに行く」
キャリーバッグに荷物を詰めながら雅美が言った。
「なにを言ってるんだ。ここがおまえの家だろう」
「違う。家族がいるところが家。
ここはあたしのいる場所じゃない」
もうだめだ。
なにをどうやっても家族にはなれない。
雅美の言葉を聞き、藤田は完全にあきらめた。
「……出ていくというのなら離婚してからにしてくれ」
精神的に家族になれたことは一度もない。
それはこの先も同じ。
ならば、法律的にも家族関係を解消して望みを完全に断ちきりたい。
「離婚はしない」
荷造りを終え、キャリーバッグを閉じた。
「だったら、別居は認めない」
「あんたの了解なんていらない。あたしが決める」
「出ていくなら、わしの稼ぎは一銭たりとも渡さん!」
思いのたけを遠慮なく口にした。
口答えなどしなかった藤田が反論したのに驚いたのか、口の達者な雅美が数秒間黙った。
「いらないよ」
藤田は驚いた。
守銭奴の雅美が少額とはいえ、あっさりとあきらめるとは思えない。
「一緒に住まない、家計は別というのなら婚姻関係を維持する必要はない。
……離婚だ」
「断る」
雅美は即答した。
「金なら義母さんの保険金があるから、わしの稼ぐはした金なんていらんだろう。
だから離婚を……」
「しないったら、しない」
雅美は突っぱねる。
「どうしてなんだ? 理由を教えてくれ」
「うるさい。あんたは黙ってあたしに従っていればいいんだ」
反論しつづける藤田にストレスを感じているのか、感情をぶつけるようにまくしたてる。
「理由があるなら……」
「黙れっ。離婚したら死亡保険金が手に入らなくなるからに決まってるだろう」
雅美が感情的に怒鳴った。
なにも言い返せない。
最初から最後まで家族として扱わず、金を得るための手段としてしか見ていなかった。
その事実が胸をえぐる。
終わった、完全に。
雅美がキャリーバッグを引き、家から出ていく。
その姿を藤田は黙って見送った。
またひとりぼっちだ。
居場所がほしくて、家族がほしくて結婚した。
視覚的には家族を得て新居に住み、願いを叶えたように見える。
だが、実際は違った。
精神的には家族がいないも同然で居場所もない。
結婚前より孤独が増し、悲惨な状況に陥った。
この世にひとりぼっち。
居場所も家族も仲間もいない。
こんな状態で生きていく意味などあるのだろうか。
孤独と苦しみに耐えるだけの世界なんてもういやだ。
死んでしまいたい。
発作的に浮かんだ。
これまで孤独感や辛い思いをしたり、理不尽に耐えかねて嘆いたときも、決して死を願ったりしなかった。
生と死は自分の意思とは関係のないところで存在し、自らどうこうするものではないと思っていたから。
だが、いまははっきりと死を自覚している。
死のう。
強い思いが足を動かし、死に場所を求めた。
歩いていく。
そのあいだずっと死を意識した。
どうやって死のうか、どうすれば簡単に死ねるのか——。
そんなことを考えているさなか、頭上から降ってわいたように言葉が浮かんだ。
本当に死にたいのか?
藤田は上を向いた。
先ほどまで見えていた夕焼け空が見えない。
気づかないうちに夜になったのだろうかと一瞬考えたが、すぐに違うと否定した。
夜空よりももっと暗い闇が辺りを包んでいる。
本当に死にたいのか?
再び言葉が頭に浮かんでくる。
それに答えるように頭のなかで想像した。
もし……。
もしも、雅美が美紅瑠のところへ行かず、わしと一緒に暮らしたとしたらどうなっただろうか。
あの様子では態度を改めたり、わしを夫と認めたりしないだろう。
それでもいい。
これまでずっとそうだったから耐えられる。
ひとりぼっちで孤独に震えながら生きるよりいい。
頭上に小さな光が出現した。
いや、それは理想論だ。
雅美がこれまで通りだと考えるのは甘い。
新しい家族だと言ってペットを飼うかもしれない。
そうなったら、わしの存在は動物以下になる。
やはり家族として扱ってもらえない。
わしに生きる価値などない、死ぬべきだ。
小さな光が闇に飲みこまれていく。
ペットを飼うにはわしの稼ぎと年金が必要だ。
義母の保険金が底をついたら頼れるのはわしだけ。
そうなったら、ペットと同等に扱ってもらえるかもしれないじゃないか。
稼ぎ頭として生きる価値が生まれる。
点ほどまでに小さくなっていた光が輝きを取り戻していく。
金の切れ目が縁の切れ目。
わしが働けなくなったらどうなる?
とりあえず年金で食いつなげられるが、まとまった金が必要になったら……。
保険金目当てに殺されるかもしれない。
もし、そうなったら……。
いや、もしじゃない。
十分ありえる。
雅美なら絶対にやるだろう。
冗談じゃない。
雅美の手にかかるくらいなら自ら死んでやる。
光の輝きが失われていく。
もういやだ。
過ぎたことをあれこれ考えるのも、ああすればよかったと想像するのも辛い。
本当に死にたいのか?
問いかけに反応して脳が動いた。
妄想を膨らませては希望と絶望が交互に浮かんでは消えていく。
その度に感情が乱高下し、心がすり減る。
本当に死にたいのか?
問いが止まらない。
希望と絶望が現れては消え、また現れては消えていく。
それが繰りかえされる。
疲れた。
もうくたくただ。
それでも問いつづけ、繰りかえしては感情を揺さぶる。
ああ、これがもしかして……。
直感した。
きっとこれが地中地獄だ。
ようやくわかった。
じゃあ、残る光の玉とはなんだろう……。
別のことに意識が向いたせいで、一瞬だけ苦痛から解放された。
だが、再び藤田を襲う。
本当に死にたいのか?
同じ問いが何度も、何度も……。
*月・水・金曜日更新(時刻未定)
*カクヨム(https://kakuyomu.jp/works/16817330647661360200)で先行掲載しています。




