第41話 贅沢な願い
——ママとあたしの手で育てる。
雅美の言葉が藤田の頭でぐるぐると回り続ける。
できるわけがない!
喉まで出かかった言葉をぐっと飲みこんだ。
普段から汚い、しんどい、面倒くさいと言って家事を一切やらない雅美。
そんな奴が赤ちゃんの世話など無理だ。
最初は頑張れたとしても、いずれ投げだすに決まっている。
そのときがチャンスだ。
美紅瑠を手塩にかけて育てる。
「あらら、うんちをしたのね。気持ち悪かったでしょう。
おむつを交換しましょうね」
退院後、宣言通り雅美は義母と協力して美紅瑠を世話している。
汚物の処理などできるはずがないと高を括っていたが、いまだにいやがりもしない。
重労働の風呂入れも上手にこなし、手を汚しながらも食事を与えている。
だから、藤田は美紅瑠に触れられる機会が一切なかった。
「美紅瑠ちゃん、泣かないで。ほら、ママよ」
突然泣きだした美紅瑠を必死に雅美があやしている。
「ああ、泣きやまない。ちょっと、あんたのせいよ」
「えっ? どうして僕が?」
「あんたが来たから美紅瑠が怖がったの」
雅美の言い分に言いがかりだと心のなかで反論した。
だが、片隅にはそうかもしれないという思いがあった。
雅美と義母に阻まれて美紅瑠に触れさえてもらえない。
だから、美紅瑠にとって藤田は見知らぬ存在のまま。
近づいただけで泣かれたことが何度かあった。
「美紅瑠に近づかないで!」
美紅瑠を抱き、雅美は別の部屋に行ってしまった。
このままでは根こそぎ奪われてしまう。
危機感以上に恐怖を覚えた。
金や家事などに費やす時間ならいくらでも奪えばいい。
だが、美紅瑠だけはだめだ。
失ってしまったら二度と取り戻せない。
普通の父親のように娘が成長する日々を共に過ごし、触れあいたいだけだ。
そんなささやかな願いすら望むのは贅沢なのだろうか。
なんら打つ手がなく、娘のためだと言い聞かせながら耐えつづる日々が十数年も続いた。
「ただいま」
美紅瑠が雅美と共に帰宅するとすぐに義母に駆けよった。
「美紅瑠、おかえり。かわいいお洋服は買えたかい?」
「うん、あったよ。ばあば、ママ、ありがとう」
嬉しそうに紙袋を掲げながら雅美と義母を見つめた。
同じような場面に遭遇するたび、藤田は金を出しているのは自分なのにと思う。
だが、黙って見守る。
美紅瑠の笑顔が見られるだけで幸せだ。
「……臭い」
美紅瑠が顔をしかめている。
「どうかした?」
雅美が尋ねると、美紅瑠が迷いなく藤田を指した。
「あのひと、臭い」
「あはははっ、あんた、臭いって」
雅美が腹を抱えて笑いだす。
藤田は愕然とした。
雅美に侮辱されたからでも、笑い者にされたからでもない。
美紅瑠に臭いと言われて悲しかったが、加齢臭はどうしようもないと聞き流せる。
ショックだったのは、藤田を見る美紅瑠の表情だった。
美紅瑠のそばには雅美と義母がいる。
並ぶようにして立っている三人が同じ表情だった。
藤田のことを蔑むように見ている。
その目は家族に向けるものではない。
美紅瑠が、美紅瑠が……。
「臭い、臭い」
美紅瑠が鼻をつまんだ。
「加齢臭だからどうしようもないよ」
義母が汚いものを見るような目で一瞥した。
「そうなんだ。じゃあ、あっちに行って」
美紅瑠の口調はまるで雅美。
僕の娘が、かわいい美紅瑠が完全に奪われてしまった。
もう二度と戻ってこない。
あれほど楽しみにしていた娘の成長だったが、年を追うごとに辛くなってきた。
美紅瑠は反抗期を迎えて雅美以上の暴言を吐き、藤田を見くだす。
社会人になる頃には雅美と義母を上回る横暴な女になってしまった。
雅美と義母、美紅瑠の三人は家族としての結束を強めていく。
その一方、藤田はより一層隅へと追いやられていく。
もうどうしようもないとあきらめかけたとき、不意に思った。
三人一緒にいるうちはどうにもならない。
でも、一人になったらどうだろう?
生活を共にする相手が藤田だけになったら、否応なしに歩みよってくるかもしれない。
金を稼ぎ、家事全般を担う重要な存在だと認識を変える可能性がある。
待てばいい。
珍しく心が穏やかになっていく。
そう遠くない未来にそのときがやってくる。
いずれ義母は死ぬ、おそらく美紅瑠は嫁に行く。
結果、雅美が残される。
夫婦が残り、本来あるべき生活スタイルを取り戻す。
ただ待てばいい。
藤田は毎日、明日こそはと希望を抱きながら過ごした。
だが、定年退職を迎えてもまだそのときは来ない。
義母はぴんぴんして雅美と遊びまわっている。
美紅瑠は気楽なフリーター生活に満足し、結婚する気配はない。
「定年退職して稼ぎが減るんじゃないでしょうね」
雅美は長年働いてきた藤田の体調ではなく、給料の金額を心配している。
「表向きは定年退職扱いだが、わしは職人だから仕事を続けていける」
「そう。じゃあ、死ぬまでしっかり稼ぐのね」
金の心配がなくなり、雅美は高笑いした。
そんな笑い方がいつまで続くかな。
雅美は義母が死に、美紅瑠が嫁に行ったあとの生活など考えていないだろう。
いざそのときになって慌てふためき、藤田に頼らなければならないと気づくはずだ。
現状しか見ていない雅美の浅はかさを嘲笑った。
ところが、藤田もまた同じだった。
自分のことを棚にあげ、雅美だけを笑い者にした罰なのか脳梗塞になった。
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