地域人
会社の帰り道、何時もの様に通勤で使っているバスを下りて、自宅に向かって歩いた。秋の夕暮れはつるべ落とし。すっかり暗くなった夜道を往くと、運動不足からか、着ぶくれのせいか、体がほてって息苦しい。思わずネクタイを緩めて深呼吸をした。沢山の家の窓からは、温かそうな明かりが、道路に漏れて彼の行く手を照らしている。
ふと彼は、家路に向かう脚を止めると、ため息をひとつついて、高台に向かう坂道に踏み出した。その坂道沿いにも家々が連なっている。しかし、歩を進める度に少しづつ家の数は減り、その代わりに闇と樹木が席巻してきた。
辿り付いたのは、一つの公園だった、公園の周囲は柵で囲われ、季節を彩る木々や草花が植えられていた。彼は、公園の柵の側にある背もたれのないベンチに腰掛けて、公園の外側を向いて坐った。
眼下には、生活の明かりが、広がって見える。そこでため息をついて、彼方に目をやると、ひとりで居るのをあざ笑うかのように、猫の目のように黄色い月が地平線からわずかに上がった場所から彼を見つめているようだった。
近くで猫の声が聞こえた。
彼は、ふとこの街に来る羽目になった経緯を思い起こしていた。
□
「砂船くん、ちょっと会議室に来てくれないかな」ねこなで声で音古田課長が彼を呼んだのは、先週の事だ。
課長は、書類をトントンと机の上でまとめて端をそろえると、それを右手で持って、席を立った。砂船はそれを追うようにして、課長の背を見ながら歩いた。
「どうだい、こっちの仕事は慣れたかい?」と後ろを向いて、課長が訊いた。前の部署から地方に転勤させられたのは、先月の事だった。進歩が早すぎる技術革新についてゆけないまま、最初は技術部門に配属だったのに、事務に転属させられ、そしてさらに支店から支所に左遷に次ぐ左遷を繰り返してきた。名字の読み方を変えれば、させんとも読めるため、陰ではさせん君と呼ばれているのは、よく知っていた。
「はい、ようやく・・・」と彼は、返事をした。課長は、それはよかったと返事を返しただけだった。
小さい、4人用の机のみ置いてある会議室に入ると、二人は机を隔てて向かい合わせに坐った。課長は、書類の中に挟み込んである、白い封筒を取り出して、彼の前に置いた。辞令と記載されているおなじみの封筒だ。
これ以上、何処に往けと言うんだ?彼は、現在の所属が最下層と思っていた。
「N市のE区のK町にある、O分室に転勤になったよ」課長の声は申し訳なさそうだ。
「何時からですか?」彼の声は震えていた。いっそ仕事を辞めようか。しかし、就職難のご時世だけに、辞めたときの不安の方が大きい
「明日にでも」課長の声が冷たく響いた、「社宅はもう用意してある。電化製品もベッドもあるから、身一つで引っ越しもできるよ」
現在住んでいる、社宅もそうだ。身一つで入居して、自分もものといえば、衣類と数冊文庫本だけだった。トランク一つで、引っ越しが出来てしまう。
「わかりました」彼は、うなだれたまま返事をした。
「なぁに、向こうの仕事はきっと君にもぴったりだとおもう、それにそのうち戻ってこれるさ」明るい声で課長が言った。
事務所に戻り、課長から明日から異動になったからと、課員の前で挨拶をした。送別会も当然ない。引き出しの中の私物・・・歯磨きセットや、マグカップ・・・だけを、手提げ鞄に詰め込んで、そそくさと部屋を出た。
ドアの脇で、迷い猫がにゃあと鳴いた。耳の先っぽに、三角の切り込みが見えた。地域猫だった。
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仕事は、子供にでもできそうな単純作業ばかりだった。彼と室長と二人だけの小さい分室。室長という役職もどこか聞こえは良いが、二人だけとなると、とてもたいそうな身分と思えない。
部屋のドアには会社名と部署名を書いた紙が貼り付けてあるが、実際はワンルームマンションの一室に過ぎない。
そんなものだから、設備は一般家庭にあるようなものが揃っている。ちょっとした料理はできるし、風呂にも入れる、いざとなったらベッドで休憩も可能だ。
机と椅子のセットは、ちゃんとあったが、こういう部屋にあるせいで、まるで勉強机のように見える。もっともやる仕事といったら、DMの袋に、本社から送られてきた資料を畳んで入れる作業とか、DMの返事で来たアンケートの集計、新聞紙を切り抜いて指示された情報を含む記事をスクラップブックに閉じたり、ネットサーフィンしながら会社のエゴサーチをしたりと何の為にやっているか分からない作業ばかりだった。
そんな作業をしつつ、これ以上落ちれないところまで、来てしまったなという感じと伴に、今まで仕事上なにも成果を上げられなかった自分自身を苛んだ。
砂船は、まだ心の中に残っている、出世欲を満たすために、仕事が終わると社内におけるスキルアップのための研修を申し込むための事前テストを受けるEラーニングを受けていた。
「分かるかい?」室長は、彼の背からPCの画面を見て訊いた。彼は、首を横に振るばかりだった。
「基礎からして難しいです。」
「俺も、以前は頑張ってみたけど、駄目だったよ。」そういう室長の耳に、彼は切れ込みがあることに気がついた。
「室長、耳をどうしたのですか?」
「さぁ、ここではみんなこんな感じだよ」
「みんな?」
「ああ、君もいずれそうなるのじゃないかあぁ」
室長の言っている意味が全く理解できなかった。
□
自宅に帰るバスにのって、無口なままの乗客達を見渡せば、室長の言う通り、ちらほらと耳に切れ込みができている人が老若男女関係なくいた。一種のファッションなのだろうか?
ーいずれ君も-と言った室長の声が、頭の中で再生された。一体どういうことなんだろう。意味があるように思えなかった。
公園の外の光景は、暖かい街の灯火にあふれている。しかし、彼を取り巻く公園の薄暗い闇は、彼を覆い続けていた。
思い出したくも無い記憶をリフレンしていると
「こんばんわ」女性に背中からいきなり声をかけられた。
「あ、こんばんわ」彼は、反射的に挨拶に応じて、女性を見た。ここに来たばかりで知人はいない筈だが、会社関係の知り合いでここに飛ばされてきた人なのだろうかと、思って女性をちらりとみたが、若くは無いが美人といえる容姿であり、見覚えのない顔だった。
「ひょっとしたら、砂船さんですか?」女性は、彼の座る椅子の横に立って、彼の顔をしげしげとみた。目が大きい、そして瞳が不自然に光に反射している。最近流行の、コンタクトなのだろうか?
「ええ」彼は、見知らぬ人にいきなり自分の名を出されて、警戒しながら返事をした。「あの、会社の方ですか?」
「いえ、この地区の民生委員をしている、炉端と言います。」と女性は、名刺を差し出した。「会社をあがって帰宅しているかなと、ご自宅に伺ったのですが、留守だったので、あるいは此処かなと・・・よかったわ、カンが当たって」
「なぜ、ここが?」と言いつつも手が自然と出て両手で名刺を受け取ってしまった。身に染みついた習性だ。
「初めて、この街に来た人は、だいたいここにやってきて夜景を見ている事が多いものですから・・・綺麗ではないけど、どこか温かみがあるでしょ」女性は、いつの間にか彼の隣に座った。
「あの何か用があるのでしょうか?」女性が、ぺらぺらととりとめようもない話しを続けるのではないかと思い彼は、訊いた。
「いえいえ、今日はご挨拶までに伺っただけです、もし何か困った事があれば、名刺に書いてある連絡先にお電話してくださいね。」
そうして女性は闇の中に消えてしまった。
□
周囲の人々の時間は、まるでのんびりと進んでいるようだった。事務所で見る室長しかり、通勤している人々、何時しか居酒屋で飲むようになった新しい友人たち、誰ものが現在の自分の環境に満足し、上の役職やよりよい生活を目指そうとしていないように思えた。
しかし彼は、本社に戻るためにEラーニングをこなし多くの書籍を買い集め、出社時間以外は、必死になってスキルを向上すべく頑張った。そして、社内でも認定されている、資格を得ることに成功した。
本社から、管理職が来て資格面談を受ける際には、プラスとなるものだ。次の面談では、きっと前の事務所に戻れる自信が湧いてきた。
面談用のシートをワープロで作成して印刷すると、彼はそのできばえに満面の笑みを浮かべた、傑作だ。そしてボールペンでそのシートの隅に文字を書き込んだ。
そんな、ある日の帰宅時。バスを降りてからずっと誰かが付いてくる気配を彼は感じた。振り向くと一匹の黒い猫が、寄ってきて彼の足下にまとわりついた。
-なんだ、猫か-と安心し、足を踏み出すと、猫がにゃあにゃあ言いながらまとわりつき、下手をすると猫を踏みそうになる。
「おいおい、帰るんだ。どいてくれないかい?」と言うと、電信柱の陰から、一匹のチャトラの猫がやってきた。デブネコだ。それもまた彼の足下にまとわりついた。
「かんべんしてくれ。」彼は、手でネコを追っ払おうとしたが、全然いうことをきかない。そこに今度は、キジトラのネコがやってきた。それも彼の足下にまとわりついた。
-なにかおかしい-
そう思ったとき、白猫、三毛、灰色がやってきて、彼の足下にからみついた。駆け出そうにも、ネコを蹴り上げそうで、怖い
さらに、サバトラ、白黒、黒白、サビ、白黒のハチワレがぞろぞろと、やってきやはり彼を取り囲んだ。
彼は、ネコを踏まないように、早いすり足で進んだが、それでもネコの足でも踏んだらしい、ぎゃあと言う声が響き、ネコが彼の体をよじ登り始めた。思わず、ネコを掴んで放った。ネコは無事に着地をしたが、その向こうには、道路を埋め尽くすようなネコの群れが、静かに彼の方に向かっているのが見えた。
-なんだぁ!?-彼は、ネコを蹴るのも厭わず思わず駆け出した。ネコも彼を追いかけ、体に飛び乗り、かぎ爪で彼の皮膚を掻きとり、噛みついた。ネコが、足下をうろうろするので、とうとうその一匹に躓きかれは、正面からもんどりうった。
「こっちに!」と誰かの声がした。そっちをみれば、車が止まっていて、後部のドアが開いている。彼は、最期の力を振り絞ってそっちに駆け出した。ネコを振り切り、車に乗り込んだ。ドアがしまり、車が発車した。
「大変でしたね」と後部席で公園で会った民生委員の女性が言った。
「なんですかあのネコは?」彼は、荒い息をして訊いた。
「いえ、あの子達は指示に従っただけですよ」女性は言った。
「指示?」車の後方には、もう猫の子一匹いない」
「まぁ、いいじゃないですか。あの子たちは指示に従うようになっているのです。そういえば、資格試験に受かったそうですね」女性は、呟くように言った。室長には、話したが、全くの第三者がどうしてそんな事をしっているのが、不思議になった。
「どうして、それを?」
「私は、この街に住む人々の全ての情報を閲覧できる権限がありますから」女性は、そんんな事は当たり前だとばかりに言った。「私は、AIですから」
「今、世界中どんな職場でも働いているのはAIです。あなた方人間は、一応能力の確認のために、最初はAIと一緒の職場で働いていますけど、役立たずなら、私達の仕事の足をひっぱるだけなので、さっさと単純作業にまわってくれないと困るのですよ」
「でも、私は、難しい資格を得たのですよ」彼は反論した。
「あんな資格、役にも立ちません。」
「じゃあ私は、ずっとここであんな仕事をして一生を終えるのですか?」
「そうです。」
「そんな、酷い・・・なんで、あんなに頑張ったのに・・・職場で働いていたのが、全部AIだったなんて・・・」
「AI並の能力があれば、当然AIと伴に働いている方も居ますよ。でも貴男には、無理なようです。」
「お先真っ暗だ・・・」
「いえ、そんなことはありません。そのために私達民生委員が人々をサポートするのですから、あなたのその自己を周りにみとめさせたいという気持ちを、最新の処置で抑える事ができるのですよ。そうすれば、今の職場に戻っても、自己嫌悪に陥ることはありません、日々充実した気持ちで、1日を終えるでしょう。そしていつか良き伴侶を得て、人類を増殖させるその一翼を担うことになるかもしれませんよ」
彼は、腕にちくりという痛みを感じた。横をみれば、女性がペン型のシリンジを持って笑みを浮かべていた。
「休んでください、起きた時には、きっとすっきりしています。処置をしたという目印のために、耳に小さい切れ込みをいれますが、大丈夫。あなたはここで地域人として大事に保護されますという印ですからね」
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朝、歯磨きをしながら鏡をみると、右耳の先端にV時型の切れ込みがあった。どこでこんな傷が?と思ったが、そういえば、バスの乗客も会社の室長も、同じであることを思い出し、不思議とは思いつつ、関心を持つことをやめた。
出勤すると、机の引き出しに、次回の面談に使うシートに、新しく得た資格と、それを元にした昇進の意気込みを書いた印刷物がでてきた。そこに小さい文字で、ここから本社に戻るための帰り道を行くぞ!と荒く書かれた文字があった。
彼は、それを丸めて、ゴミ箱に放ると。昇進なんかしたって、大変なだけだし。現状のままの方が楽だし、今のところ生活に困る事も無さそうだからーと思い、ワープロソフトを立ち上げると、全ての項目を現状維持と書き直した。




