”幼馴染”という壁
「んでさー……一保ってば聞いてんの?」
あぁ、聞いてる聞いてる。
俺は頭の中でそう思うのと同時に、同じ言葉を口にしていた。
幼馴染の高校一年生、天江華に向かって。
「なら良いけど。で、初デートに着ていく服どんなのが良いかなー?」
「そりゃ、その彼氏が好きそうな感じので良いだろ」
「それが分からないから聞いてんじゃんかー」
ブスッとして、不満を露わにした目で見つめてくる。テスト勉強にさっきから身が全く入っておらず、テスト後にある今の彼氏との初デートのことばかり考えている華。そんなんだから成績が良くならないんだよ。
そのことと、さっきの質問を含めて──やっぱり、こいつは馬鹿だ。
俺は俺であって、お前が今付き合ってる彼氏(確か青山だったか)じゃないんだよ。俺が好きなお前のコーデを言った所で、それがそっくりそのままそいつにあてはまる訳じゃない。
「好きな服装とか、別に聞けば良いだろ。初デートまでまだ全然日にちあんだろ」
「全く、恋愛ってモンを分かってないなー一保は。流石は彼女いない歴=年齢の寂しい男!」
「はいはい、なら是非ともどういった理由がおありで聞かないのか、恋愛ド初心者の俺にご教授下さいませんかね」
「ふっふっふ、答えはサプライズなのだよ! 万が一、いや百億万が一の確率で一保に彼女がいたとして想像してみて。聞いてもいないのに初デートで彼女が自分の好みドンピシャのコーデして来たらどう?」
「まぁ、嬉しいっちゃ嬉しいけど」
「でしょ、だから私もそれ狙いって訳! さっすが華ちゃんあったまいー!」
「あぁ、確かに天才だわ。百億万なんて新しい単位まで発見しちゃうんだからな」
「だよねー!」と鼻高々に胸を張る華。
俺はそれを、幼馴染を見るものではない目で見た。
いつもと変わらない”幼馴染の原谷一保の顔”を浮かべながら、その裏では華のことを俺は女として見ていた。
同時に頭の中にはどうしても浮かんでしまう。
その初デートの日にこいつは──彼氏に抱かれるということも。
「初デートって、どんなプランなんだ?」
「そうそう。午前中は映画観に行くんだー! ほら、今流行ってるじゃん。恋愛映画の──」
この話を振ると、華は本当に嬉しそうに話してくれる。俺には話したことのある初デートのプランを。もう何度も聞いたことで内容なんて覚えた。
観に行く映画は『君以外には何もいらない』。高校生同士の純愛を描いた古臭くもそれがかえって新しいと流行になっている。今をときめく人気俳優同士が主演なのも大きいだろう。
昼食はイタリアンパスタの店。季節も季節なので冷製のパスタ。華はこれが大好物だ。そしてそれが済めば買い物、夏用の水着を一緒に買いに行くらしい。
夕方からはテーマパークに行き、夜の時間帯から使える格安のフリーパスで満喫する。観覧車に乗ってロマンチックな時間を過ごすのが楽しみだとウキウキの笑顔で話す華の顔は、現在進行形で視界に飛び込んで来る。
「それでねー、夜は青山君の家で色々お喋りするんだー! お父さんもお母さんもいないんだって! 夜ごはんも一緒に作るし!」
そう。
そして、華は「何話そうかなー!」と実に嬉しそうにしながら。デートプランの話を終える。
男が、そこから先で何を企んでいるのか考えようともせずに。
この無邪気な笑顔が初デートの夜には女の顔になって。
先ほど見つめてた胸が彼氏の手で形を闇雲変えられて。
明るく朗らかな声は悦びや痛み押し殺すものとなるのか。
いずれにせよ初デートが終わった翌日、朝に顔を合わせておはようと言ったその時。
既に華は俺の知らない一面を持ち合わせてしまっている。
良いか華、お前は初デートの日に大人の階段を登るぞ。
なんてことは言わない。こればかりは、華自身が気づいて、どうするかを考えるべきだ。
「って、さっきから聞いてんのー?」
「聞いてるって。とにかく楽しそうで何よりだよ。それより、テスト勉強もしっかりやれよ。ここの公式ミスってんぞ」
「あっ、ホントだ!」
公式をしっかり覚えない所も、男が何を考えてるのか何も想像していない所も。
馬鹿で明るくて純粋無垢な考えの甘い、華らしい所だ。
期末テストが終わった。
蝉の声とテスト用紙に書き込むペンの音、それらが耳にこびりついている。
「やったー! テスト終わったー! 青山君との初デート楽しみだなー!」
しかし耳に染み付いたそれらを一瞬で消し去ったのは、喜びを爆発させた幼馴染の声だった。
地獄のテストを乗り越えたこともあり、その声はかなりテンション高めで教室中に響くほど。
クラスメイトの注目を普段以上に集めながらも、独り言を叫んだ後に華は話しかけて来た。隣の席、単なる幼馴染である俺に。
「テス勉手伝ってくれてありがとうね! 今回もいけた気がする!」
「おう。俺が教えてやってんのに赤点取ったらマジで許さねえからな」
「もちろー! ほんっとにありがとうね、一保!」
嬉しさから俺の手をグッと握って、目をキラキラと輝かせる華。
テスト前に華に勉強を教えてやるのは、俺達にとってはただの日常だった。幼馴染という腐れ縁からなる何の変哲もないイベント、故にテストが終わっても華がこんなに喜んでお礼を言ったりはしない。精々、「ありがとー」と申し訳程度の感謝を述べるくらいだ。
そんな華がこんなにも大喜びしてるのも、青山との初デートが原因だ。追試さえ免れれば、来週の土曜日は一日フリー。
サッカー部もたまたま休みの青山と予定していた初デートに行くことが出来る。
「あっ、あたし青山君とこ行くから! じゃね!」
「あー、じゃあな」
テンション高めの華に対し、俺は普段と変わらない感情の波に身を任せていた。
ただ、その奥では……華が女にされる時のことを考えていた。
華、その明るい太陽みたいな笑顔をどんな風に歪めるんだ?
華、その耳に否応なく飛び込んでくる朗らかな声をどんな風に鳴かせるんだ?
華、その馬鹿で浅はかでだけど一点の曇りもない純白の心模様をどんな風に──汚してしまうんだ?
「……うっ」
そんなことを考えていたと思ったら、気がつけば俺は自分の部屋にいて。
いつの間にか夢中になって──華を想い、一人寂しく耽っていた。
後処理を済ませ、パンツとスウェットを着込んでベッドで横になる。
あれから華とした会話はあまり覚えていない。たぶん初デートへの楽しみを爆発させる華に「おー」とか「あー」とか、そういった相槌を打って適当に流していたような気がする。
ただ明確に覚えているのは結局、華が彼氏との初夜でどんな風に悦ぶのか、あるいは泣くのか、ということを妄想していたことだけだった。
テスト返しが終わった。
俺が手伝ったのと、今回は特に頑張ったこともあって華は補習を免れるくらいの点数は何とか取れた。
「良かったな、華」
俺はいつもと何変わらぬ顔をして、華にそう声をかけた。あいつもテストが終わった時以上に喜びを大爆発させ、俺に目を爛々と輝かせながらお礼を言いまくった後に。
「……これで、青山君と初デート行けるんだ」
あまりにも落差が凄まじかった。
乱高下どころじゃない、高低差あり過ぎて耳キーンなるどころじゃない。
天から地、それすら超えて深海の底に沈み込むような心地がした。''幼馴染''として飽きるほど見た華の顔が、常に明るく輝き続ける太陽のように明るい華の感情が──酷くしおらしい、恋する女としての一面を見せたから。
「……あぁ、楽しんで来いよ」
俺はそれだけ言うと、その場を後にした。華もまた、「うん」とだけ答えた。
そして、その日も俺は華を利用して一人果てていた。実を言うと、学校で華のあの顔を見た時から己の昂りが抑えられなかった。
自宅に帰り、パートの仕事が休みだった母親からテストどうだったと質問が飛んできて、「まぁまぁだった」と曖昧な返事をしてる時も頭の中は華のことでいっぱいだった。
男と出かけることが、男と二人きりになることが、子どもの時と同じように遊ぶだけと考え込んでいる華。
純粋無垢だからこその考えの甘さ、自分の身体が男から見れば如何に魅力的なのかを分かっていない無自覚ぶり、つまりは……馬鹿で浅はかな華。
そんな華がいよいよ身を以て知る。自分のことや想像だにしていなかった快楽のことを。
そう思うと、興奮はすぐさま俺の下半身の熱を猛烈に上げた。学校から家に帰り、果てるその時までずっと熱は抜けなかった。
「……馬鹿だよな、華」
三回分のティッシュをゴミ箱に捨てて、ベッドに横たわった俺。
天井を見上げてぼんやりと華の顔を浮かべながら呟いた後、そのまま眠り込んだのだった。
【いえいれて】
連絡用アプリにそんなメッセージが届いたのは、華と青山の初デートの日だった。
外は生憎の雨模様、しかしこれも天気予報通り0時を回ってから降り出したもので。つまり、厳密に言えばこの華からのメッセージが届いたのは青山との初デートの翌日ということになる訳だが。
【分かった。いつ着く?】
それはさておき、俺は華に返信した。
時間は既に午前1時26分、母親は既に眠りに就いていて俺もそろそろ寝る所だった。
だが、こんな雨の中で幼馴染を見捨てるほど情が薄い訳でもない。だからこそあーだこーだ言わず、用件だけを伝えた。
【分かった。いつ着く?】 既読
既読がついた、メッセージを返信した直後に。
だが返信自体はすぐには来なかった。1分、2分と俺は何の変化も訪れない画面を見続ける。
今いる場所から俺の家までの到着時間を計算中なのか、馬鹿な華のことだから分からなくてどうしようもないのか。
もしくは──本当は俺の家に来るのを躊躇っているからなのか。
【ちょっとかかる】
5分くらいした時に漫画を読もうかと思った矢先に華からの返信があった。
いつ家に着くのかという質問の答えにはそぐわないあまりにも曖昧な返事に、俺はイラつくことはなかった。ただ瞬きするときのように反射的に指を動かした。
【分かった。家の前に着いたらまた連絡してくれ】
そうとだけメッセージを打ち込んだ。
既読がまたもすぐについたのを見届けると、読もうとしていた漫画を手に取って俺は華を待ったのだった。
【着いた】
着信音と共に画面に表示された華のメッセージ。既読がついてから40分ほど経った時だった。
自室の窓から外を伺った。雨はより一層強くなっていて、不要不急の外出など絶対にしようとは思えないほどの悪天候と化していた。
俺の部屋からは通学路が見下ろせるほかに、玄関先も見ることが出来る。
──華と思わしき影が、そこにぽつんと立っていた。
ここまでの華とのやり取りが、もしかしたら華の携帯電話を奪った変質者、あるいは幽霊の仕業かもしれない。それだったら夏にぴったりの怖い話になるなーと考えつつ、俺は自分の部屋から出た。
少し急いで階段を下りて、廊下や外灯の電源を入れつつ玄関までたどり着く。何のためらいもなく、俺はドアを開けた。
「──」
立っていた影は間違いなく俺の幼馴染、天江華だった。
ただその姿は見るも無惨なものに変貌していた。これほど強い雨に打たれているというのもそうだが、まるで生気が全て奪われたかのように華の顔は焦燥している。
そして何よりも目に飛び込んできたのは、頬。
華は怒ったときによく頬を膨らませる。子どもの頃からの癖で、俺はいつも「漫画かよ」とからかって余計に華の頬を膨らませたりしていた。
今この時も、華の頬は膨れていた。ただしそれは、華の意志とは無関係にだった。
つまり華は……殴られた。頬が腫れ上がる程に。
美少女だと幼馴染ながらに思わされる華の可愛い顔が、見るも痛々しいものになってしまうほどに。
「よう、華」
心には動揺が広がる中、俺は自然体で華に話しかけた。
メッセージをやり取りしていた時のように、すぐに返事はない。口をほんの少し開けたまま、華は雨に打たれるのも厭わずそこに立ち続けていた。普段なんて絶対に雨に濡れることなんて避けるのに。
「とりあえず、中入るか?」
今の華のことを考えると、あまりにも残酷な言葉だった。だけど、俺に出来ることはこれぐらいしかない。このままだと華は風邪を引いてしまうかもしれないし。
華は俺の提案に表情をピクリとも変えることはなく。
ただ静かに、よく見ないと分からないくらいのレベルで……頷いたのだった。
雨の音をBGMに漫画を読むのを楽しんでいた最中。
ふわりとした良い香りが、俺の部屋の扉が開くと共に鼻をくすぐってきた。
「おう、上がったか」
部屋に入ってきた香りに向かって、俺は目を合わせずに声をかけた。
もちろん、それの正体は華だ。ただ、俺は二つの理由から華の方に目をやることは出来ない。
一つは華が風呂上り(厳密に言えばシャワーを浴びた)だから。普段も華で致すことがある俺が、風呂上がりのあいつなんて見たら絶対に挙動不審になる自信がある。
そしてもう一つは……まぁこれは推測にしか過ぎない。俺の杞憂、思い過ごしであって欲しい。
だけど万が一、華が連絡をくれた時から頭にこびりついて離れないこの”予感”が当たっていたとしたら……そう思うと今の俺の顔など、華は見たくないに決まってる。
「大丈夫、か?」
そう分かっていたはずなのに、俺は華を気に掛ける言葉を言ってしまっていた。
漫画の内容なんて、華が部屋に入ってきた時から一切集中出来ていない。仲間のピンチに主人公が駆けつけ、敵のボスと決戦というクライマックスも良いところなのに。
俺の頭は、華のことでいっぱいだった。
「……うぅん」
とても口なんて利けなさそうなほど顔が死んでいた華が、肉声を発した。
普段のあいつからは想像も出来ない悲しさや絶望に満ちた声に、俺はほんの少し眉をひそめた。
推測、予感でしかなかったものに色がついてくる。華の声と返事が、それらをドス黒い確信へと変えていく。
「あたし……ね……」
座り込む音が聞こえてしばらくしてから、華が口を開く。
そして……一点の白もないどこまで見渡しても真っ黒な。
そんな真実を、華は今まさに語ろうとしていた。
「………………青山君に……………襲われた」
その瞬間だけ、雨は逆に弱まった。だから、華の声はすんなりと俺の耳に届いた。
華は、青山と一つになった。
俺が想像していた通り、華は”女”になっていた。
でもそれは俺が想像していたのとは少し違う形で。
華は青山に抱かれた。華自身が望んでもいなかったのに。「襲われた」という華の言葉がそれを如実に物語っている。そもそも、華があいつと円満に事を成していたらこんな雨の日にわざわざずぶ濡れになってまで彼氏以外の男を訪ねるはずがない。
「……そっか」
俺が口を開いた時には雨が再び強くなっていた。
現実になったこと、華が処女ではなくなったこと。今、俺の目の前には俺が望んだものを失うという形で手に入れた華が確かにいる。
あれだけ華のことを想って独りで情欲に興じた。だけど今、俺の下半身はうんともすんとも反応しなかった。……そうだったら良かったのに。
俺の心は華のことを心配して痛みすらも持っているのに、悔しいことに俺の下半身は熱を持ってしまっていた。男というのは、俺という存在はどうやら自分で思っている以上に最低だったのだと知った。俺も、華を強引に抱いた青山も、根本では変わらない。そこにあるのは妄想で済ますことが出来るか出来ないかと、臆病かそうでないかの違いだけだ。
「まぁその……とりあえず落ち着くまではここにいろ。俺はリビングとかで寝てくるから」
そうして俺は、この上なく情けない選択肢に逃げた。
幼い頃からよく知る華に、機嫌の取り方なんていくらでも知ってる華に。この時はどんな言葉をかければ良いのか、全く分からなかった。傷ついてる女の子を前に、どんな反応をすれば良いのか、皆目見当もつかなかった。
……いや、違うか。
俺はただ臆病なだけだ。どんな言葉をかければ良いのか分からないんじゃない。考えて考えて考えて、それでようやく伝えた言葉で華のことを励ますことが出来なくて、余計に傷つけてしまって。そうして自分が傷つくことが嫌だったから。
ずっとずっと”幼馴染”という関係から一歩踏み出すことが出来なくて、自分の都合の良い華を妄想の中で作り上げて、現実の華には告白する勇気も度胸も持っていなかった臆病者。腹に一物を持った最低な男。
自分への失望と嫌悪感が全身を重くしながらも、俺は自分の部屋を出るまであと一歩の所まで来ていた。
後はドアノブにかけた手に力を入れて、部屋を出て行くだけ……それだけで良かったのに。
「待って」
弱弱しく震えた声と不意に背中を襲った温もりが俺の身体を硬直させた。
振動、震え。俺の身体に伝わってくるそれは、俺が震えている訳じゃない。
俺の背中に密着した華が震えていた。
「ごめん、こっち見ないで。何も言わないで……」
言われずとも、俺は華の方を見ることなんて出来やしない。
華と密着している、その事実がどうしようもなく身体を強張らせている。もちろん下の方も、限界だと思っていたさっき以上に熱と硬さを持ってしまっている。
華の声には恐怖が宿っていた。青山と同じ存在、男である俺に対して震えが止まらないほど華は怯えていた。それも加わって、俺はその場に貼り付けられたかのように動くことが出来なかった。
「でも……一緒にいて。傍にいてよ……」
華は恐怖していた。
欲望の権化、男という存在に。
それでも俺に対しては、望んでいた。
”幼馴染”として恐怖と傷を癒してくれることを。
「……」
「うっ……ぐすっ……ひぐっ……」
俺は華に言われた通りに無言を貫いた。
華は俺の背中に寄り掛かりながらすすり泣き始めていた。
”男”に裏切られた華は、それでもまだ”幼馴染”のことを信じている。
俺を”男”ではなく、”幼馴染”として見ている。
「……馬鹿だよな、華」
華には聞こえないように、俺はそう呟いた。
あの時は自分に対して、今は華に対しての言葉だった
”幼馴染”という関係に縋って、その壁を壊さないように徹した馬鹿
”幼馴染”という関係を信じて、その壁が壊れないと思い込んでいる馬鹿
7月26日土曜日、午前2時26分。
俺と華の間にある”幼馴染”という壁に、大きな亀裂が入った気がした。