0話 プロローグ
明朝5時。PCのファンは薄暗いこの部屋で、ひたすらに鳴りつづける。小さい顔には溢れんばかりの汗が溢れていた。
彼女は今日も徹夜でキーボードを打ち、椅子に根を貼っていた。見つめる先にある大きなモニターには、フリーゲーム『アッシュ』のテキストエディタが表示されている。
それは、彼女がこのゲームの製作者であることを意味していた。
「もう少しで真のゲームエンドが完成する……」
彼女は一言呟いた。そしてコーヒーを手に取る。いつ入れたのかさえ曖昧な、冷めたコーヒーだ。
「ジーク、あとはお前を入れるだけ。……随分と待たせたな。バッドエンドのみが搭載されたゲームに、ようやく本当のエンディングを実装できる」
一口啜り、視線を落とす。その先には紙切れに描かれたコウモリの絵。そして3140の数字。あとはこれを打ち込むだけであった。
彼女は、コーヒーをデスクに置き、背筋を伸ばした。これでようやく終わる。これが真のゲームエンドとなる。それを確信していたからか、自然と笑みがこぼれた。
「今日は、可愛い妹の友達が家に来る。いくら私でも、化粧をしないとな……」
そう言いながら、打ち込んだ3140の数字。彼女は画面を切り替えると、ゲームのタイトル画面を映した。
「さて、試しに動かしてみよう……」
両腕を合わせて、うんと伸びをする。長時間椅子に座っていたせいか、肩こりもひどい。そろそろ席を離れた方がいいと思い、彼女は立ち上がる。
「やっぱ仮眠とってから、試遊しよ……。さすがに眠いわぁ」
デスクに背を向け、ベッドの方へと歩き始めた。
その時、PCのファンが、耳を張り裂ける勢いでゴォゴォと鳴り始めたのだ。モニターがガタガタガタと振動し、部屋の空気が一瞬にして、淀む。何かを察知したように、彼女の目は変わった。
来る、何かが来る気配がしたのだ。
「まさか──」
刹那、モニターが割れ、耳をつんざくような雑音が部屋を包む。同時に、液晶の破片が辺り一面に散乱した。デスクに置いてあった書類や、ペットボトル、菓子袋も全て、一瞬にして吹っ飛ばされた。
この状況で、微動だにしない彼女は、しっかりとモニターの方を見据えていた。
そこに現れたのは黒く大きな人型の化物。体の形状が曖昧になるほど、尋常ではない量の煙を、身体中から出していた。
ニタァと笑い、大きく口を開けると、
「アヤメさん、突然ごめんね」
と言い放った。その声は男女の区別がつかない奇天烈なものであり、この世のものとは思えない音であった。
「ゲームの世界の住人が何の用だ」
「まるで、『来ちゃいけない』みたいな言い方だね。アヤメさんだってゲームの世界に何度も来てるじゃないか」
そう言って、化物はギョロリと目を剥くと、ゆっくりとアヤメの近くへと歩み寄ってきた。一歩足を踏み出すたびに、ベチャベチャと気持ち悪い音を響かせる。
「もうこれ以上、ユニットは搭載しないって言ってたよね?コイツはなに?」
そう言って化物は、手に持っていた端末装置を床に叩きつける。傷だらけの液晶には、コウモリのアイコンが表示されていた。ソレは間違いなく、先ほどアヤメが打ち込んだ3140番ユニットの本体であった。
「ジークは例外だ。真のエンディングを迎えるためには、コイツが不可欠になる。クールだと思わないか?こいつのコンセプトは、短刀を使って敵の情報を盗むハッカーで──」
「そんなことどうでもいいんですけどぉ??質問にしっかり答えてくださいよ」
想像以上に動じないアヤメに対して、化物の態度はさらに威圧的になる。二人の顔の距離は、紙一重だ。
「例外だと言ってるだろ。もう一度言うぞ、真のエンディングのために──」
「真のエンディング……??ソレはアタシたちの仕事じゃなかったの?アヤメさーん」
「お前を搭載した結果、バッドエンドを2つも生み出したんだ。もう任せられない」
化物は体を震えさせ、さらに煙を吹き出してきた。
「もう邪魔をするな!ワタシのやり方で次こそは、次こそはハッピーエンドに……」
「残念だが、お前の仕事は終わりだよ。」
化物は大きな頭を両手で抱え、唸り声をあげながらフラフラとよろめき始めた。アヤメは瞬き一つせずに、その場でただ立っている。まるでこの光景を何度も見てきたかのような目であった。
「コイツを、コイツを壊せばワタシはまだ活躍できる!」
化物の声はさらに歪み、怒りに我を忘れているようだった。
「ゲームの中で壊そうとしたが、ダメだった!どういうことだ!!」
化物は床にある端末を震える指で差して、叫んだ。アヤメは何かが可笑しかったのか、フッと微笑む。
「壊そうとしても無駄だ。コイツはこの端末から出てこない限り、ダメージを受けることがない」
「ならどうやって出てくるんだ!!!!さっさと教えろ、アヤメ!!!!」
化物の身体から、さらに煙が吹き出し、鼻息だと思われる何かをフシューと出し始めた。顔はさらに肥大化し、今にも爆発しそうになっている。
「それ以上のことは教えられない。どうしてもそいつをぶっ壊したいなら、自力で方法を探してみな」
アヤメがそう言った。すると、化物はなぜか正気を取り戻したかのように、急に落ち着きを取り戻したのだ。肥大化していた頭が、プシューッと煙を出しながら、元の大きさに戻っていく。
「ふぅ……。だったら何が何でも吐かせてやる。アタシが連れていってあげるよ、ゲームのセカイ!」
次の瞬間、化物の手はアヤメの細い腕を鷲掴みにしていた。
「いいだろう。だが私を痛めつけたところで、解決策は見つからないぞ」
「カッコつけないでよ、反吐が出るほどキモイから。それじゃあ後でね」
化物は背後にあるボロボロのモニターめがけてアヤメを思い切り投げた。その体は、割れた画面に衝突することなく、煙に包まれていた。そして、ゆっくりと、ぬるりとゲームの世界に吸い込まれていく。
やがて、アヤメの姿は跡形もなく消えてしまった。化物は満足そうな笑みを浮かべて、パソコンデスクを見つめる。
「さてと……あとはお前を連れていくね。3140番こと、ジークさん」
化物はそう言って、自分の液体で黒く汚れた端末を手に取る。その時だった、何かの力で反発したかのような衝撃が起きる。その力に化物は耐えることができず、モニターの方へ吹き飛ばされた。
あろうことかその力は、端末から出たものだったのだ。
煙に包まれ、画面に吸い込まれていく化物は必死にもがいていた。予想外の出来事に混乱しながら、3140番を睨み続ける。
「クソックソ!クソが!覚えてろ、覚えてろよ!!!!3140──」
ついに化物も部屋から消えた。先ほどまで騒がしかったこの部屋は、いつも通りの日常へと戻っていく。
数秒後、端末には、メッセージウィンドウが映し出された。
──バディを検知。
誰かの目覚まし時計が鳴った。