木曽川のヒッポは過ぎ去った……
木曽川とは、長野県の鉢盛山から南西に流れ、岐阜県、愛知県、三重県を経て伊勢湾まで伸びた一級河川の事。味噌川とも言われている。
河口まで約230キロメートルの長さで、流域面積は9000平方キロメートル。日本の川のなかでも7番目に大きく、愛知県の面積とほぼ2倍と考えると、それなりに規模の大きさが分かってくれるだろうか。以前は、生活の為に水源、また水力発電など、東海三県の生活や産業に大きな貢献を果たしてきた。
と、言うのも過去の話である。
1998年3月26日の1時頃にナガノ(旧長野県)の諏訪湖の北方にてINES(国際原子力事象評価尺度)レベル7・OVERの放射線量が発生し、諏訪湖北方を中心としたナガノ一帯は放射線の海と化した。世界でも最大規模の原子力事故の1つとされている。(チェルノブイリやフクシマの事故はINESレベル7であり、諏訪湖のものはそれをゆうに超える)
今でも事故と称されているものの、諏訪湖には原子力発電所など存在せず、もちろんのことだが、諏訪湖付近の住民が核分裂物質、または融合物質を所有している事実も存在しなかった。
原因は未だに不明で、ガンマ線バーストのように、何か超大質量の物質がブラックホールを起こしてガンマ線、またはそれに準ずる新種の高エネルギー粒子放射線のバーストを発生させたという説が最も有力である。しかし、なぜ超新星爆発にもいた現象が起きたのか、という部分は解明されておらず、眉唾モノのオカルト雑誌などは、これに関しての陰謀論で数年分のネタが約束されていた。
それから、ナガノの面積の半分以上は放射能汚染区域に認定され、約1万平方キロメートルにもなる領域を透過不能の壁で封鎖した。ナガノは徹底的に管理され、放射線やそれを起こす放射能を外部への漏出することはもちろんのこと、ナガノで生まれた新種の凶悪生物なんかは高度一万メートルまで監視し、場合によっては駆除を行っている。
「と、言った具合に、ナガノというエリアは魑魅魍魎の巣となっている」
「それは流石に知っとるわ。故郷でGifに行くって言ったら、放射線のことを心配されたし」
「あはは。確かに、他の地域の人は心配かもしれないね」
「でも、ナガノのおかげでEP衰性の放射線除去装置が開発されて、少なくとも壁に大きな損害が起きるとか、あのバーストがもう一度と起きない限りは安全なんだけどな」
「放射線除去装置が出来たなら、ナガノはもう安心やないのか?」
「いや、あそこはもう手遅れだ。放射線まみれを良いことに、いろいろな原子力実験とかやったお陰で、あそこは未知の生物でいっぱい」
「もしかして、木曽川の動物って……」
「もちろん、ナガノから流れてきた動物のことだよ。たまに、珍しい生物がいるの」
ナガノに狂暴で力の強い生物たちがいるのは確かだが、もちろん、木曽川に流れて来る生物には物騒な肩書きは付かない。ナガノを隔てる壁を通してやって来る生物は、ある程度の形態、性質、生態、習性などをコンピューターがチェックし、狂暴と判断したものは駆除、そうでなければ壁から抜け出してきてもほとんどがスルーされる。EP衰性放射線除去装置によって、放射能の問題も皆無である。
「そういや、ハエ人間なんてのもおらんかったか? この前にニュースで見た気がするけど」
「ああ、フライアンだな。確か、放射線耐性の蠅を摂取し続けた結果、生態変化したとか……。一応、ナガノの元住人だけど追い出されてきたんだっけ。まぁ、そこそこに知能を持って、本人は平穏な暮らしを望んでいるし、害はないと思うぞ」
「でも、不思議だね~。フライアンって、ちゃんと翅があって飛べるし、顔も人間じゃなくてハエそのもの。あんな人間が誕生するなんて、ナガノって本当に不思議」
そんな雑談に興じているうち、彼らは木曽川に辿り着いた。洪水や高潮への対策で、河川は道路より低いところで流れている。それを見下ろすと、草が無造作に生い茂る堤防や錆びついた樋門が立っている。あまり手入れが為されていない印象だ。澄み入った木曾の水からは、ナガノからやって来た物質とは思えず、むしろ人を平和ボケさせそうな純粋さがあった。
彼らは川に沿って続く歩行者用の道路を進む。平日の昼間からか、ペットを連れた高齢者くらいしかすれ違わず、ただスズメや風の吹く音、たまに野鳥が翼を広げて何か鳴いている声くらいしかなかった。ただ、太陽はギラギラと空から光線を降り注ぐために、彼らは肌に少々の汗を滑らせていた。
「あっ」
木曾の自然にそろそろ飽き飽きし始めていた頃合いに、翠が声を上げた。それに続いて、カナや針井もそれが何なのかに気付いた。
「何やあれ」
「カバ……だな」
丸みを帯びた、五メートル近いコゲ色の塊。豚みたいに呑気で鈍間そうな顔つき。皮膚は日差しから身を守るために、泥や水をかけて湿気を作る。目と鼻と耳が一直線になっているのは、水中でも顔を少し出して外を覗き、さらにそこで睡眠ができる為らしい。
「マジでいるんか……」
「ナガノなんだし、カバくらいはいるだろ」
カバはノロノロと川を下り、たまに草植物を口に入れる。アフリカに比べ、川の水位は格段に低いために、たまにゴロゴロと体を倒して全身に水を付ける。これで肌の乾燥を防いでいるらしい。ときたま、後ろに付いてカバを観察する三人に気付くが、とりたて攻撃や威嚇をしたりする様子もなく、すぐに忘れてトコトコと歩き始める。
「こうやって見ると、意外にカバもチャーミングやね。でも、あんなんがその辺にいたら、いくら何でも危ないと思うんやけど」
「流石に、ずっと放置ってことはないぞ。多くは、動物園とかに保護されるな」
「Ichのトオヤマ動物園なんかは、ナガノ出身の動物がたくさんいるよ。ほら、一時期に有名になったイケメンゴリラとか」
「ゴリラまでイケメンと持て囃されたら、人間の立場がないわなぁ。な? ジュン」
「確かにな。カナはゴリラにはモテそうだし、ちょっとアプローチしてみなよ」
カナが針井の脇腹を拳で突いた。針井が「別に人間にモテないとは……」と苦しく返事をすると、カナはまたも無言で脇腹を突いた。翠はそれにクスクスとまた笑う。
「なぁ、もっと近くで見たいわ」
「はーっ? 止めとけ止めとけ。狂暴じゃないとはいえ、下手に動物のテリトリーに近寄ると、攻撃してくるかもしれんぞ」
「そうだよ。カバって、走ると車にも追いつくらしいし……」
「なんや2人とも。そんな心配症にならんでもええのに……」
「えっ、ちょっと……!」
カナは2人の制止の言葉を路上の小石のようにお構いなしとカバの方へ向っていく。無造作に草が生えている堤防の坂を靴の裏を擦って下って、ズズズーという音が響いていた。
「あーあ。どうしよう」
「しょうがない。春野はそこで待っていてくれ」
翠が「ごめんねー」と声をかけるのを聞きながら、針井もカナに従って堤防を下る。そして、忍び足でカバに近づいているカナの肩を叩いた。
「おいおい待て」
「なんや? ジュンも来たんか。以外にデカいんなぁ、カバ」
「馬鹿やろう」
と、針井はカナの額にグーのパンチを食わらせる。カナは「いったあ!」だとか「女の子を叩くなや」と騒いだが、針井はそんなことを耳にも入れずに
「考えなしに突っ込んで、怪我でもしたらどうするんだよ。俺はどうでもいいけど、春野さんとか、心配してたぞ」
「だから、大丈夫やって……」
「言っとくが、カバには牙があるから、普通に食われてもおかしくないぞ。それにな、野生動物を下手に刺激すると、その動物は殺処分するしかなくなるんだ。それに、ナガノから来た動物のイメージも悪くなる。木曽川がより厳重な警備になって、木曽川でのんびりしているコモドドラゴンや豹なんかが、お前のせいで殺されることになるんだぞ」
「いや、流石にコモドドラゴンや豹は殺すべきやろ」
「まぁ確かにそうなんだが」
針井、妙に納得!
しかし、危険性も悪意もない野生動物が人類の勝手な考えで殺処分が行われているのは、れっきとした事実である。例えば、住宅街で猫のエサやりなんかをすると、猫のたまり場になる。それだけならば問題はないが、猫による糞害や夜中の騒音被害なんかが問題となり、泣く泣く住民は彼らを追い出す羽目になる。結果、殺処分にまで至る。好奇心でも親切心でも、野生動物に対する身勝手な行動がすべて善となりえないことはマナーとして心得るべきである。
しかし、猫の殺処分が毎年悲惨な数字を表しているのも事実。彼らの命を尊重するには、猫の肉を料理として用いるべきだという筆者はときたまネットで主張するが、倫理的な面から非難されるか、または揶揄の言葉で終わって議論にすらあがらない。非倫理的という面に囚われ、一考すら与えず拒絶する社会。本当に道徳的な社会はやってくるのだろうか。筆者の問いかけに、社会は無慈悲な回避を行うばかりだ。
「……少し、軽率だった?」
「ん? ああ。そうだと思うぞ」
カナが突然、低いトーンで呟いたので、針井は少し虚を突かれつつ返事をした。顔を伺うが、カナは少し小難しそうな顔をしていた。
「んー。確かに直さなきゃいかんなぁ。……高校生になったんだし。翠ちゃんを心配させてばかりやな……あたし」
針井は少しかける言葉に迷い、とりあえず「はぁ、まぁそうだな」と杜撰な対応をする。それがマズかったのか、カナの物思いにふける顔は払拭されなかった。針井は、マズいことをした自覚が現れてきて、2人の間に気まずい雰囲気が漂う。
「ああ、そうだ」
針井が思い出したような声を出し、学生かばんを探る。そして、そこからリンゴを出した。
「あげてみるか」
「あのさ、キミ、今、動物を下手に刺激するな言うてたやん」
「言うてたわ。でも、正直、動物いてもサイくらいだと思っててさ。まさかカバがいるとは思えなくてさ」
「いや、サイの方が狂暴やろ」
「狂暴なんだけどさ。でも、買ってきたリンゴ勿体ないやん」
「勿体ないなぁ……確かに」
「だろ? 少しくらいヘーキヘーキ」
「こう言う事をする輩のせいで、野生動物の地位が危うくなるんやろうなぁ」
呆れるカナを尻目に、針井がリンゴをヒョイ、とカバの方へ放り投げる。
スローモーション。
リンゴが放物を描いて宙を舞う。
針井がリンゴを離した高さは0.5m。初速度は秒速4.61m。水平方向に秒速3.50m進んで、垂直方向に秒速3.00メートル進む。南西方向に風が吹き、それがだいたい秒速5.6mでリンゴの進行を妨げる。
しかし、ここにエキゾチックな粒子が現れる。
それは、針井を観測者として……もっと言えば人類を観測者として、127億と7452万912年と12日と10時間41分12.59秒の時間から、X次元的な座標値で活動を始めた。そして、その後は高次元的な変移をはじめた。時間と速度が決定されても座標を特定することの敵わない高次元粒子。
このエキゾチック粒子は人類が時間と呼ぶ線を相対的に逆流したり、時には横切ったり(もちろん、これも人類の進む方向から見て)、煩雑な運動をしていた。人類が観測される宇宙空間には、数億年に一度の頻度で、数秒から数年の間だけ現れることもあった。もちろん、それは人類が観測できるはずがないほどに地球から離れた空間座標での話である。
しかし。
このエキゾチック粒子は、針井の投げたリンゴに直撃した。
リンゴが針井の手から離れて0.428秒後(針井&カナの体感時間)、地球から垂直に0.8976m離れた位置にて、エキゾチック粒子と衝突。この粒子自体に質量やエネルギーはなく、代わりに虚数質量とそれによる虚数エネルギーを持っていたため、リンゴはその軌道を変えることはおろか、まるでエネルギーのしきい値を無視するように互いが交差する。
質量やエネルギーが虚数であるために、もちろん光や熱、音なんかも辺りに残さない。しかし、超大な速度を持ち、時空間の概念を超越した虚数エネルギーの運動は、まるで粒子加速器のように、針井とカナ、それにカバの細胞……もっと詳細にすると彼、彼女、それの原子核に“ゆらぎ”を与えた。
「あれ?」
針井とカナは何かの違和感を抱いたが、それが何か理解する前に、リンゴは地面に落ちた。トン、トトン。土とリンゴが重なって、鈍い音がする。
「おーい! 何してるの!?」
翠が何か声をかけていることに、針井とカナは気づいた。2人は随分と久々に翠の声を聞いた感じがする。針井とカナが翠の方向を見て、それに返事をするよりも互いに顔を見合わせた。互いに、妙な感触を覚えたことに気付く。
ついで、カバの方向を見ると、そこには何もいなかった。
ただ、数秒遅れて、地面に取り残されたリンゴが音もたてずに潰れた。
「あれ?」
まるで、『カバがリンゴをカジったような現象』だったのにも関わらず、『音が全く発生しなかった』。針井もカナも、その現象を確かに観測し、また互いに顔を見合わせる。しかし、どちらも音がたったことを確認できなかった。
「あれ? あれれ?」
「なんや、これ……」
ガリッ!
カバがリンゴをカジって潰したような音が鳴った。