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羽ばたく音が聞こえる日 その3

 思えば、人生でいい経験があった覚えがない。しかし、それもまた人間らしいのかもしれない。良い経験ほど覚えが悪く、対して悪い経験ほど覚えがいいものなのだから。だからこそ、自分にいい経験がなくとも、それは人間らしいというだけで、自分はさして不幸な人間であるとは限らない。


 波速輝夫は、それを確たるモットーとして生きていたわけではない。彼は、まるで水中を目的もなく泳いでいるような、「なんとなく生きている」だけの人間だった。


将来の夢はあるものの、それに邁進はしていない。ちょっぴりの努力でちょっぴり満足している。趣味だってある。しかしマニアではない。ちょっぴり楽しんで、ちょっぴり満足をする。


 いつしか小学生ではなくなっていて、中学生になっていたと思えば、今は高校1年生だ。ぼんやりとしか時間の経過を見ることなんてできない。アニメやゲームの登場人物のように、何かを達成して、最高の思い出を胸に秘めるとか、そういう生き様とは無縁の人生だった。


とても堂々と幸せな生活とは言えない。


 が、母親が早くに亡くなり、親父は家庭を放棄しているものの、それを不幸とも思わない。彼の視界は、いつでも、幸せも不幸もぼんやりとしか見えていないのだろう。


「何で助けたんだよ」


 波速宅からだいぶ距離がある、公園の真ん中。中田がやりきれない思いでもあるように、波速に問い詰めた。


「えっと、そ、それは、あの檻から君たちを助けないと、君たちもハエ人間にされると思って……」


「そういうことじゃない!」


 中田は思わず、大きな声で波速の声を遮った。波速はきょとんとしてしまうが、ハエの顔では、驚いた顔もできなかった。


「俺はお前を殴ったし、蹴ったし……それを毎日やったんだぞ。ほっとけばいいじゃないか」


「ごめんね……」


「は?」


 普通ならば、謝るべきはむしろ中田とその取り巻きたちである。しかし、なぜだか謝罪をする波速に対し、中田たちは困惑を隠せない。


「僕のお兄ちゃんのせいで、中田くんは野球部に入れなかったから……」


「そ、そんなこと……!」


 中田は動揺する声を出す。突かれたくない核心部分に触れられたことによる拒絶の感情から、少し波速を責めるような声でもあった。


「本当は、中田くんもお兄ちゃんみたいに野球をして、甲子園でも活躍するような選手になるんだろうって、僕も思っていて……」


「に、兄ちゃんが例えレイプをしたって! 野球部に入りづらいとか考えた俺が全部悪いんだ! 俺が野球に注いだ情熱がそれだけだっただけだ!」


 中田は以前までの静かに溜め込んでいた雰囲気とは打って変わり、感情的で、それでいて自嘲的に波速を否定した。


「し、伸二……」


 取り巻きたちにも見せなかった中田の姿に、後ろの2人は彼を心配する気持ちとその姿に驚愕する感情を混ぜていた。


「そうだよ! 俺は尊敬してた兄ちゃんがレイプなんかして、馬鹿単純に裏切られた気持ちになっていて、そんで野球にまで失望していたんだよ! それに、レイプ魔の弟が入ってきたら、イジメられるんじゃないかって、陰口叩かれるんじゃないかって! ずっと怖くて……!」


 中田は鬱蒼とするような顔で叫んだ。目からは今にも涙が出そうなほどゆるゆるだった。本音は決壊したようにボロボロと流れてくる。


「お前を殴っているときだけは、俺も被害者になった気分でいられた……。気分悪そうに、黙って、俺も被害者なんだ、ってそんな風にお前を殴っていると、周りの人間は同情してくれる。それだけで、俺は何も悪くない、って思えたんだ。そうすることが、まるで『根底にあった俺の欲求』みたいだった。……本当は、俺も加害者の1人になっただけなのに。欲求に従っているだけで、俺は肯定されるようだった」


「気にしないでよ。僕は、それで中田くんの気が済めば……」


「気が済まないから、こんなに辛いんだよ! なんでそこまで俺たちを許すんだよ! もっと恨んでも文句は言えないんだぞ!」


「だって、中田くんたちには事情が……」


「なんなんだよお前は!」


 中田には、波速の行き過ぎた慈愛の精神が理解不能だった。


「イジメていたんだぞ、俺たちは!?」


「しょうがないよ……。それは」


 中田とその取り巻きは、何度とその言葉を聞いても、それを理解することはできなかった。はぐらかされているような、そんな曖昧さがある返事にも思えた。しかし、波速がはぐらかしたところで利益がない事を、3人はよくわかっていたので、彼の言葉が正直なものだと納得するしかない。


 ブゥ―、ブゥー。と波速の後ろポケットから、バイブレーションが響いた。


「あっ、ちょっとごめんね」


 そう言って、波速はスマートフォンを取り出した。


「メールが来たみたい。あっ、針井くんだ!」


「メールって……ラインじゃないのか」


 中田の取り巻きから小さく呆れた声。


「……うーん、待ち合わせかぁ。でも、これから、他のハエになった人たちを助けに行かないといけないし……」


「行ってやれよ」


 と、中田。


 その言葉に、波速はきょとんとした顔。


「知らないだろうが、アイツ、エレボルだぞ。知ってるか? エレボル。黄色い変態男だ」


「えっ!? ホントに!? サイン貰おうかなぁ……」


 波速は大きな目をしてまで驚きと喜びを表現するものの(もちろん、最初から彼の目は大きいハエの複眼だが)、取り巻き二人は「うえっ……趣味悪……」と波速の嗜好を卑しめるような顔をした。中田も、内心で波速の感性を酷く侮辱する感情を焚いていた。


「たぶん、アイツもフライアンの増殖を聞いて、混乱を止めに行こうとしてるんだろ。……人助けの為か、それはわからないが」


「でも、なんで僕を呼ぶんだろう」


「さぁ。どこかでお前もハエになったことを知ったんじゃないか? ……友達なんだろ? アイツ、少なくともお前に悪くするやつじゃないぞ。あんまり待たせてやるな」


「えっ、あ……」


 波速はほんの少し、困惑するようだったが、


「うん、じゃあね。気をつけて帰ってね」


 大きな声で、はっきりとそれを肯定した。


「……」


 無言でいた中田に、取り巻きの1人が心配になって声をかける。


「伸二、もう、俺たちがいくら懺悔したって、アイツ、ただ無意味に許すだけだと思う」


「……じゃあ、それなら」


 中田は途切れ途切れに言う。


「今度は、俺たちがアイツのためにならないと……」


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