羽ばたく音が聞こえる日 その1
「サンキュ、兄貴」
針井はベンツから降りて、礼を言う。
「おう」
「ハライさんも、運転ありがとう」
針井が運転席の少女に声をかけると、彼女は小さく会釈を返した。
「うちの女が陰キャですまんな」
針井の感謝に対し、返答があまりに静かだったからか、彼はやれやれと言わんばかりに針井へ謝罪した。しかし針井にとって、彼のその行動は嫁を自慢したい気持ちでいるのかと察し、針井は薄い笑みと共に、
「嫁さんに向かって陰キャなんてずいぶんと親しいな2人は」
と聞いてみる。
「いいだろ? うちに来てファックしてもいいぞ。親に虐待されて育ったから、男性器やタバコの火を見ると発狂するPTSDを除けばいい女だ」
「遠慮しとくよ。刺されたら怖い」
「そっか」
残念なのか、それとも安心したのか、どちらともつかないような返答。針井はその真意を読み取ろうとはしなかった。
「しかし、お前がここに何の用だ?」
針井が降り立った場所は、なんの変哲もない一軒家。辺りよりは少し屋根が高く、せいぜい庭が狭そうな外観であるが、しかし気にしなければさして注目するには値しないであろう。
「友達に会いに行くだけだよ。波速ってゆーの」
「友達?」
その言葉を聞いて、兄貴は一瞬、目をまんまると広げて驚いたと思えば、すぐに吹き出し、
「あははっ! お前に友達かーっ。あははははっ! 何度聞いても似合わねーっ!」
抱腹絶倒と言わんばかりに笑い転げ、腹を抱え、それに社内の椅子とかをバンバンと叩くものだから、勢い余ってその辺りの小物が零れ落ちたりする。
「人が友達出来たくらいでそんなに笑うなよ……」
ギギギッ、ギャン! と鉄が引き裂かれ、破壊される音が鳴った。
「!?」
針井が驚いた顔をした直後、次にドン! ドドドン! と鈍いが確実に響く音が家からやって来る。
そして、最後に目の前の家の屋根を破壊するように何かが飛び出してくる。破壊された屋根の破片が飛び散り、その中でも一番大きい瓦礫がベンツのトランクの辺りに落下し、ベンツは大きく凹んだ。
「うっはw ベンツ凹んでるw これ修理費何十万?w」
針井はその飛び出してきたものを目に止めた。
「フライアン……?」
信じられないと思いつつも、はっきりとした視界でそれを確認した。大きな複眼の両目にと長く伸びた口吻に小刻みに音を鳴らす大きな翅。腕や脚だけは微かに人間とハエの中間にあるような姿かたちをしているが、その顔面と翅はまさしく蝿そのもの。
フライアンは両腕に人を抱え、そのまま最高速度でどこかへ飛んで行った
「ほら、ジュン。お友達が困ってる様だぞ。追っかけてやんな」
針井は少し思惟の顔を見せ、返答をする。
「いや、それよりも波速くんの様子を確認しなきゃ。フライアンはその後だ」
針井は浮遊し、フライアンが破壊した屋根から波速宅に侵入する。彼は例え放たれたフライアンがどこかで暴徒となろうと構わない気持ちで、それに彼が抱えていた人間は波速輝夫ではないことも確認していたので、まずは波速輝夫の安否を第一と考えていた。
__しかし、解せないな。
いつしかの決闘したフライアンはエレボルが確実に殺した。それは確定事項であるし、そもそも、あの決闘後、フライアンに恨みがあった学生の群衆たちが好き勝手に死体を弄り、頭部から爪の先までぐちゃぐちゃになった画像が匿名掲示板やTwitterなどにアップロードされていたことを、針井はもちろん知っている。だからこそ、あのフライアンはあの時のフライアンではなく、別でナガノからやってきたか、波速博士によって人工的に作られた、行ってしまえばネオ・フライアンなのだと、針井はすぐに推測した。波速宅から飛び出してきたことが、そういった推測を何より納得させる。
__しかし、しかしだ……なぜ、ネオ・フライアンは中田とその取り巻きたちを抱えている?
彼は考えが微妙にまとまらない中、波速宅の奥まで進む。
そして、針井は一階のリビングにまで降りると、ソファーに腰かける波速博士を見つけた。彼の姿に不安を感じつつ、辺りを見渡すも、波速輝夫の姿はない。しかし、何かによって引き裂かれ、破壊された形跡のある鉄格子の檻だけが妙に印象深い。
「まさかの来客だな。……まぁ何があったか、気になるだろう? 話だけでも聞いていけ」
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「あーあ。まぁ、冷静に考えれば、お前はそう行動するよなぁ。まったく、兄貴のアドバイスは素直に受け取っておけよ」
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針井が波速宅に到着する15分前。
波速輝夫が意識を戻すと、妙な感覚に気付いた。前日、いつ寝たのかは思いつかず、ただ久々に帰宅した父親と一緒に夕ご飯を食べた後、どうにも記憶がはっきりとしなかった。目覚めたその場所も、夕ご飯の片づけもままなっていない台所で、昨日、父親が買ってきた総菜の容器がそばに転がっている。
「あれ、僕、片付ける前に寝てたのかな」
床に散らかったゴミなどを拾おうとした瞬間、腕から肉の臭いが走ったような感覚が起こり、その妙な感触に波速はびっくりして手を引いた。
「え、なにこれ……」
腕から肉の匂いが走る、という表現はとてもじゃないがマトモではなく、その感覚を適切に伝えられるとは思えないが、波速が起こしたものはまさに、腕に嗅覚がついて、匂いを感じたような感触だった。
彼が恐る恐る、総菜の容器に手を伸ばす。すると、その腕から伝わる匂いは確かな感覚となり、手に取るころには、ちょっとお腹が空いたなぁ、と思えるくらいに匂いは影響力を増した。
波速が良く自分の腕を観察すると、自分の指が以前のものより短くなっている。それに、手の甲から角質が突起している。その周りは体毛で覆われていて、すでに、人間ではないような形になっていた。
「アレ……なにこれ……」
体なんかはコンパクトになったようで、体の中身がないみたいに軽快に動く。起き上がろうとした瞬間、いつも通りに力を入れたと思ったのに、それ以上にパワーが出力され、ふわーっと体が浮かんで、そのまま天井にコツン、とぶつかった。
「とにかく、水となにか甘いもの……」
自身のパワーを制御できず、動きすぎる体にブレーキを掛けながら、ぎこちない足取りでちょっと離れた冷蔵庫にまでたどり着く。
そして、たまたま近くにあった鏡で自分の姿を確認する。
すると、自分の顔はハエになっていた。
「あ、えっ……わあああああっ!?」
「おお、起きとったんか」
波速博士がリビングのソファーから顔を出す。どうやら、テレビのニュースを見ていたらしい。朝の占いが流れていて、蟹座は一位、牡羊座は最下位だった。
「どうだ? イカす顔になっとるだろ」
「お、お父さん……? これって……」
「私がお前のDNA情報を書き換えた。お前のゲノムはほとんどがフライアンと同じ作りになっている。ほら、翅が生えてるだろ? 気づかなかったか? やはり鈍いなお前は」
波速が少し視線を後ろに送ると、大きいか少し薄い翅がそこにあった。
「……」
「驚いたか? どうだ? 今まで構ったやれなくてすまなかったな。誕生日もクリスマスも……プレゼントなんてしたことなかったからな。これが、俺が出来る精いっぱいの贈り物……ブッ! いや、ゴメン、思ってもない事を言いながら道化じみた演技するのはどうにもおかしいな。すまん息子をハエの姿にするって好奇心が止められんかったわ。すまんな」
「……」
波速の顔はすでにハエのものになっており、表情もフライアンほどではないが、変化が乏しい。彼の表情は、怒っているのか悲しんでいるのか、それとも別のものなのかは、他人が判断できるようなものじゃなかった。
「ま、プレゼントは別にあるから。それは喜んでくれ」
反応が薄いことに不満でもあったのか、波速博士は白けた様子で踵を返した。そして、動物を入れるにしては、少し広めで、武骨な鉄格子の檻へ波速博士は力強く蹴りを入れる
「起きろ!」
ガンッ! ガンッ! ガンッ! 耳にまで響かせる攻撃的な音が辺りに鳴り渡る。
「うぉっ!? なんだなんだ!?」
「うるせぇし、なんか床の心地が悪いぞ」
「てか、アレ? どこここ。なんでお前らおるの?」
そこに収監されていたのは、中田とその取り巻き二人。彼らは寝起きで、しかもなぜ波速博士によって檻に入れられているかを、まだ理解できていないらしい。
「これ、お前を虐めてたんだろ? 輝夫。殺していいぞ」
「は? 何ってんだこのおっさん」
「ちょっと待て、おい、あそこ……」
「うわぁっ!? ふ、フライアン! キメェ!」
「それに、こいつって、テレビに出てた波速縦一じゃね……?」
中田たちは徐々に状況を把握し始め、そして自分たちが命の危機である自覚さえ、整えていく。
「ふ、フライアンは死んだはずだ! そいつは着ぐるみか何かで」
「でもよ、よ、コイツ、波速縦一だぞ。コイツの息子は卒業式を滅茶苦茶するサイコ野郎で、輝夫の方もちょっとネジがずれてる。その父親だぞ……? フライアンをたくさん用意していて、俺たちで人体実験するくらい……」
「ふざけんな! け、警察!」
「うるさい奴らだな。ポケットにスマホ入ってるだろうから、警察でも消防署にでも連絡してみればいい。それに、お前らを殺すのは、実験ってわけでもない。漫画やアニメじゃあるまいし、そんな狂った理由で人を殺すもんか。というか、お前らが殺されるのは自業自得だ。今まで散々、息子を虐めてくれたな。息子はハエになるほどお怒りだ」
ほら、ほら、と波速博士が、中田とその取り巻きたちの視線を波速の方へ誘導させる。中田たちは、そのハエの様子を見て、酷く顔を真っ青にして怯えた。
「お、お前……輝夫なのか……?」
コクリ、とハエの顔をした輝夫は頷いた。
「嘘だろ!? このおっさん、自分の息子をハエ人間にさせたのかよ!?」
驚嘆の声に、波速博士は得意げに鼻を鳴らす。
「狂ってるっ……」
流石の状況に、中田たちは言葉を失った。取り巻きの1人は恐怖で失禁したが、残りの2人はそれを咎めることはしなかったし、そもそも匂いや液漏れに気付くことさえなかった。ただ、波速博士は「きたなー」と苦い顔をして、檻から離れた。
「じゃ、輝夫。早く殺したら?」
波速博士は息子を促した。
「……」
波速は何も言わなかった。
「私の息子とはいえ、本当に鈍いやつだな」
忌々しげに波速博士は吐き捨てた。波速博士は、自分の息子に愛情を注ぐようなタイプでもないが、今の波速が倫理の葛藤にあるとすぐに推察した。
「……ごめんなさい。お父さん」
波速が絞り出したような声でそう言った。その言葉に、波速博士はピクリ、と顔が反応し、顔が引き締め、責めるような厳しい表情を作った。
「何がごめんだ」
「心配させて……。でも、別に僕はイジメられてないよ」
「強がるなよ。いじめられてる自分がみっともないから、お前はそれを隠したいだけだ」
「……中田くんたちにも、いろいろと事情があるんだよ。あんなにかっこよくて、Gifの希望くらい凄かったお兄ちゃんの人生を滅茶苦茶にしちゃったんだ」
「だからって、殴られる理由になるもんか。お前のねじがずれてるのは、そこだぞ。いつまでも弱い自分でいるから、虐げられるのに慣れたんだな。可哀想なヤツ」
「僕も、ファンだったんだ。……中田選手の」
「はぁ……? おい誰かコイツが本当に俺の女の股から出てきたかDNAを調べてくれよ。頭に妖精さんでも飼ってるのか、お前は」
波速博士は自暴自棄になったように騒ぎ暴れている様子に、流石の波速も少し怯えた。しかし、檻の中にいる中田だけ、さっきまで怯えていた様子と半分に、波速に対して興味あり気な視線を送っていた。
「高校も、中田選手と同じになりたいと思ってたし、運動音痴だけど、野球部にも入りたかったなぁ。僕が入ると、ピリピリするだろうから、ちょっと遠慮したけどね……」
「なぁ、輝夫。つまり、だ。私は、なんで散々殴ってリンチして、の、この男たちを許してるのか、が知りたいんだよ。お前がさっきから語ってるどーでも良いことは、便所の落書きより興味がない」
「え、あ、そうだね。うん……で、でも、僕も良く分かんないんだけど……、ううぅん。やっぱり、僕が殴られて、それでその場が収まるなら、それはそれで良いんじゃないかな……? それに、憧れの中田選手を失った腹いせ、だったら、僕も背負いたい、背負ってもいい? 背負うべき……ううん、わかんないけど、中田くん……中田伸二くんと僕は同じ気持ちだったんだ。中田慎吾選手を失ってしまった辛さって、本当に、辛かったから」
「はぁ……呆れた」
「ご、ごめんなさい。でも、他人が気持ちよくなれることの助けが出来るって、凄くステキなことだって、僕は思うんだ。確かに、我慢することも必要だけど、でも、それで他の人は気持ちよくできるんだから、僕が辛いと思った甲斐があったのかもしれない。だから、殴られても、平気だよ」
「……」