I am falling
Help me to breath
金曜の夜。針井が夕飯を終え、TVを見ているときに、カナからLINE通話の着信が鳴った。彼はそれに、強い憤慨を感じた。
針井にとって、金曜の7時30分から8時までの時間は、なんでも実況板でアニメの実況をし、毒にも薬にもならないような書き込みをして、リラックスをする時間だったからである。
LINE通話ともなると、開いていたブラウザを強制的に撥ね退け、着信を強調するために煩わしい。しかし、無視する程に冷酷になれなかった針井は通話のボタンを押した。
「はい、もしもし。カナだよな? 何の用だよ。俺今忙しいんだけど。毎週のこの時間はクレヨンしんちゃんの実況してるんだ。てことで手短に用件を頼むわ。ていうか、ヒロシの声って声優変わったままだっけ?」
「えっとねー。悪いねー。針井君。カナの祖母ですけどぉ……」
「えっ!?」
針井は仰天し、すぐさま口調を変え、ネコを撫でるような声をしながら、
「え、えっと。すみません。いやぁ、カナさんのラインアカウントでかかって来たものですから、ついつい馴れ馴れしくしてしまい。それにしても、お若いお声ですねぇ」
針井は遠くから「なにきっしょい声でお婆ちゃんを口説いてんねん」と声が聞こえた。
「いやだねー。お世辞はいいのぉ」
「いえいえ、本心ですよ」
カナが「お婆ちゃんもなんでデレデレするんや!」と指摘する声が遠くから聞こえる。それにカナの祖母は、「うふふ」と笑い声を漏らす。
「それで、今日はどうしたんです? なんでカナのスマホで通話を?」
「それがねー。カナの調子がおかしいの」
「はぁ……」
「カナが箸を持とうとしたら、ばきーって感じに箸が粉々-って。あと、ちょっともたれたら、壁がばーんって」
「はぁ……」
針井は話をまったく理解できず、気の抜けた返事だけをする。カナの祖母もその後にいくつか例を挙げてみたり、カナの様子を説明したりするが、どうにものんびりとした口調が針井に真剣みを感じさせるに至らない。
「もー、お婆ちゃん! やっぱあたしが相談するわ! あっ! アカン! ちょっと当たっただけなのに椅子が吹き飛んどる!」
物が破裂するような音と、それが壁に衝突して粉々になったかのような轟音が針井の耳に入る。カナの焦ったような声も相まって、相当な状況であることが徐々に感じれた。
「そ、そう……? じゃあお願いするわねー」
カナの祖母は残念そうに引き下がり、スマホをカナに渡そうとする。
「ちょっとお婆ちゃん! だから今のあたしにスマホを渡しちゃあかん! 慎重に持たないと握りつぶしちゃいそうや!」
「あらあら……」
と、カナの祖母はスマホを机に置く。
「どうしたんだよ、カナ。まぁ、だいたい察するけどさ」
「なら話は早いわ! とにかく、あたしがちょっと触れたりすると、凄い勢いで飛んで行ったり破裂するねん! どうしたらええんや!?」
「落ち着け。とりあえず、人目の付かないところで集合しよう。古椅子も一応、同席させるか」
「翠ちゃんも呼んでくれや」
「いや自分で呼びなよ」
「あのなーっ! こっちはスマホを操作しようものなら画面が粉々になるねん! こーいう所でiPhoneが嫌になるわ! ダサいけど頑丈らしいandroidにすればよかったわ!」
「androidでもたぶん壊れるだろうけどな」
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「遅れてごめんね!」
地元の少年野球チームがしばし練習や試合に使用されている公共のグラウンドにて、翠は駆け足でやってくる。ドライヤーをかけたばかりの髪やラフなTシャツ姿の彼女を見て、待っていた針井と古椅子は風呂上りにすぐに駆け付けたらしいと推測した。
「いえ。大丈夫です」
古椅子は息を切らしながら謝罪をする翠に優しい声で返答。
「すまんな、春野。こんな時間に呼び出して」
「いいよいいよ! それに、カナの大事だしね! ……でも、カナ、大丈夫かな。さっきもカナの家に寄ったんだけど、もう出たらしいんだよね」
「そうなのですか? それなら、もう着いてもおかしくないはずですが」
「うん。……それと、カナの家からここに来る途中で、壁が破壊されているとか、コンクリートの道路に穴が開いてるとか……まるで戦車が酔っぱらって歩き回った後みたいになっていて」
針井と古椅子は嫌な予感が冷や汗となって現れる。互いに顔を合わせるなどはしなかったが、それぞれが似たようなことを考えていた。
「そ、そういえば、春野には悪いことをしたな。夜中に女の子を歩かせるなんて」
「大丈夫だよ。そーいう時の為に、ちゃんと護身用の警棒を持ってるんだ」
翠は自慢するように、カバンから警棒を取り出した。彼女は短くまとまっている警棒を手で引っ張って、伸ばす。そして、ふらふらと振り回せて見せた。
「凄いですね!」
「護身用の拳銃も欲しかったけど、ちょっと高いし、小さな弟妹がいるからこっちにしたんだ」
警棒は21インチのジュラルミン素材。、頑丈なのはもちろん、アルミの軽量さによって腕の細い翠でも使い勝手が良い。
「うちの団地、ちょっと治安が悪いからね~。こう言うのも必要なんだ!」
「自衛の備えは素晴らしいと思います」
軽快に警棒を回して見せる翠に古椅子は微笑ましく思いつつ彼女を眺める。しかし、針井は警棒をどこかにぶつけてできたらしい凹みや染みなどが目について、ただ悪いことを考えないように黙っていた。
「おーぃ」
疲れ果てたようなカナの声が3人の下に届く。しかし、3人はいくら周囲を見渡しても、視線の先にカナを見つけることができない。
「こっちや……」
と、カナが言うと、察しが良かった針井が空を見上げる。
「マジかよ」
針井の信じられない、というような声に影響され、古椅子や翠も針井のように空を見上げると、そこにはカナがいた。そらをプカプカと浮いているのである。もちろん、フライアンのように翅が生えたわけでもない。物理的な動力は見当たらず、針井はすぐに自身の小人のような力で飛んでいると推察できた。
「カナ―っ! どーして飛んでるのー!?」
「地上にいると、小指をタンスにぶつけただけでタンスが隣の家の壁まで吹っ飛んでくねん。このままじゃ、吉本の劇場でツッコミとしてライブをするって夢が……。相方の人体を破壊してでも漫才する覚悟はないわ……」
「ボケになればいいじゃん」
「そういう問題じゃないですよ」
妙に緊張感を見せないカナの雰囲気に、3人も若干の肩の重みが緩む。
「なんかあたしの中にある巾着にゼリーのように重みのあって流れるもの……? そんな気体と液体の中間の物体が溜まって…手…。それが今はいっぱいになってて、ちょっと気を抜くとそれが漏れて、物凄いパワーになるんや。空を浮くのも、その流れるものに乗ってるからや」
「……なんとなく、本当になんとなく、なんだが……カナの中に濃縮されたエネルギーが溜まっている」
「エネルギー?」
「反物質……? 物質が完璧に消滅して、エネルギーに変換されてる。カナの胸のあたり……もっと言えば心臓?」
「ファッ!?」
古椅子は体を震わせるほどに仰天する。対して、翠には何が何だかわからないという顔をしていた。
「反物質っていうのは……まぁ物凄ーい量のエネルギーを取り出す方法のひとつで……ううん、ちょっとあるだけで宇宙船が何十年も動くレベルだ。よくSF小説には登場するけど、身近には絶対にありえない」
と、針井が困惑する翠に説明。
「よくわからないけど、カナの心臓に爆弾があるみたいな?」
「リアル。まさにその通り。しかも、その爆弾のエネルギーが漏れてるのが特にヤバい」
「と、とにかく、どうしたらええんや……? ぶっちゃけ、今はたまに上空に掌底の突きとかして、凄い衝撃波の風を感じて涼んでいるんやが」
「どうすればいいの? 2人ともわかる?」
「わかるわけないだろ」
「申し訳ない」
「あーもう、無能な男どもめ!」
とカナが激しい言葉を放つと、針井はカナの心臓にあるエネルギーの流動体は巾着から零れ落ちるほどに溢れだしたのが分かった。
「カナっ! 落ち着け!」
「大きな声出すなや! ああっ! 溢れるっ!」
「ど、どうしましょう!?」
古椅子と翠は対応のしようがない事態にしどろもどろする。カナは溢れ出る流動体を抑えるようにするが、まるで歯止めが利かないらしい。
「しょうがない!」
針井は小人の力を借りて空を飛び、カナの方へ駆けていく。
「何をするんですか!?」
古椅子の声も耳に入らず、針井はカナへと手が届くところで止まると、そのままカナの頬を力いっぱい殴った。
「っ!?」
カナは顔を殴られたショックで、思考は停止する。視界は真っ白になり、全身の力が抜けて、ふらふらと不安定に落ちていく。
「なにやってるんですか!?」
「いやぁ……ちょっとやりすぎじゃない、いくらなんでも殴るって……」
あまりの行動に古椅子と翠は驚きを隠せない。
そんな古椅子を尻目に、針井は慌てて落ちていくカナの服を掴み、落下を止める。
「わっ、いやあああ!」
「すまん、踏ん張れっ!」
カナは掴まれた瞬間、針井に恐怖を感じて暴れまわる。カナが手を払っただけで、大きな衝撃を生み、針井は直撃こそ避けたものの、どこか彼方へと吹き飛んでいく。
針井が腕を離したことにより、カナは体勢を崩し、再び落ちていく。
「カナっ!」
翠が呼びかけるが、カナは反応しない。彼女は恐怖でパニックになったので、自分が落下している状況に気付かないらしい。2人から見て、このままだとカナがそのままグラウンドに激突することは明らかであった。
しかし、ソニックブームと共に、針井は猛スピードでカナの方へと直進してくる。空気の抵抗が刃のように彼の体を切り裂き、彼は服や肌の至る所に切り傷を作っていた。しかし、それに痛みすら感じないほど血眼になりながら、針井はカナの胸元を掴み、針井は拳をカナの頭へ叩きつける。手加減の余裕がなかったせいか、ほとんど本気の拳である。カナはその衝撃によって気絶し、ぐったりと体の力を落とした
ビリリッ、とカナの頭から電流の音が鳴る。
「やべ、止まってくれ小人! これ以上にやるとカナの脳が焼ける!」
針井の声を合図に、電流はぴたりと止まる。
「な、なにをしたの……?」
翠は針井とぐったり倒れるカナを見上げて尋ねる。
「とりあえず、パニックを抑えようと思って、頭を殴って思考停止にさせようと……。ただ、それでも暴れるみたいだから、気絶させた。2発目のパンチは、小人を乗せて、脳に直接的に電流をかけた。あ、安心しろよ。ちゃんと生きてるから」
「いやいや……。もっとやり方があるでしょう……」
「すまん。俺も焦ってた。最初から気絶させた方が良かったのかもしれんな。ただ、気絶させたら、残った心臓のエネルギーがどこへ発散されるのかが怖くて」
針井はゆっくりと着地をすると、カナを近くのベンチへ寝かせる。少し肌寒い夜だったからか、針井はジャケットを脱いで、カナに掛ける。ジャケットはカナに吹き飛ばされた時にボロボロにされたが、それでも多少の温もりを提供できた。
「とりあえず、心臓の巾着に溜まっていたエネルギーの流動体はどうにかなったよ」
「本当ですか!?」
「俺が吹き飛ばされた時に、エネルギーが溢れ出ないくらいには減ったらしい。あとは、本人がどうやって残りを片付けて、増やさないかだ」
針井は疲労からか、カナが寝ているベンチの横へどっさりと音を立てて座り込む。そのままぐったりとしているつもりだったが、ひょいとカナの前髪が乱れているのに気づき、優しく整える。
「……ん?」
針井はカナの頭の中、もっと言えば脳に小人とは違う気配を感じた。よく覗くと、ふわふわと浮かぶ菌がカナの脳で繁殖し、他の小人たちを寄生していた。小人たちは体中に倒木に生えるツキヨダケやニガクリタケみたいなキノコが生えている。そして、菌に寄生されている小人たちは通常とは違う働きをし、特に偏桃体での機能に障害を与えようとしていた。
「ジュンさん? どうしました?」
針井は古椅子の声に反応することもなく、黙ってカナの頭を弄る。そして菌と菌に寄生された小人を排除するための小人をカナの脳へ送り込んだ。小人たちはカナの脳の働きを極力阻害せず、隠密に任務を執行し続け、すべての敵対物質を排除した。
今度こそ、針井はカナの脳、また体中をくまなく観察し、菌の魔の手を探った。
「……」
ひとまずは異常がないらしいことがわかり、針井は少し安堵をする。
「大丈夫? どうかした?」
「大丈夫だよ」
古椅子はともかく、翠にまで話したところで仕方がない事だと感じ、針井は懸念を増やすような言及をしなかった。
「時期にカナは目が覚めると思う。もし目覚めたら、春野が対応してくれ。たぶん、俺やレーサンじゃあ、不安にさせるだろうから」
翠は「わかった」と一言だけ出して、針井が退いたカナが寝ている隣にポジションを取る。そして、針井と古椅子の男2人はカナから少し離れ、芝生の上に尻を付けた。
「カナさんの反物質って、やっぱりジュンさんと同じ……」
「たぶん、似たようなものかな。俺も、あの時から小人が見えるようになったし、一緒にいたカバも瞬間移動みたいに消えた。……いや、瞬間移動よりもっと、異質な。まぁいいや」
「そうですね。とりあえず、カナさんが力を制御できるようにならないと……」
「実際、地球がヤバい」
針井と古椅子はどちらもその予感の現実性をひしひしと感じ、2人は口が開く余裕さえも失った。2人が横目で見るカナの様子は穏やかだったが、その穏やかさすら悪い予兆を感じさせる。
「まぁ、話を変えよう。俺たち男が何をしたところで、カナを興奮させるかもしれない。あとは春野に任せよう」
「そ、そうですか? ああ、そういえばピカルって知ってます?」
「ピカル?」
「YouTube rですよ。Twitterで、エレボルまでメッセージが届くように話題を広めてるんです」
針井は「あーっ」と、聞き覚えがあるらしき声を出す。
「なんJでもなんかスレが立ってたな。YouTube rスレなんて興味もないからクレしん実況してたけど」
「探しているみたいです。エレボルを」
「どーせ、動画のネタ探しだろ? そいつのアフィリエイト収入を増やしてまで会いに行く理由はないね」
「そうなんですけど、何か、嫌な予感がしません……?」
針井は不自然に話題を転換したことに違和感を抱き、古椅子の頭を覗き込むと、悪い顔をした菌がそこにいた。