羽ばたきの音が聞こえるまで その2
イジメというのは個人プレーのみで成り立たない。もし個人でイジメのような行為があるとすれば、ただの拒絶に過ぎない。イジメというのは全体での迫害であり、つまりイジメとは全体の総意による個人迫害なのである。
「というわけでなぁ。イジメってまるで忌むべき行為のように思えるけど、それはちゃうんや。極論を言やぁ、死刑というのも国民全体で行うイジメみたいなもの。つまり、いじめられる方が悪いんや」
彼は夕暮れの商店街の中を歩みながら、そう呟いていた。高校生くらいの青年で、涼しそうな私服姿とチェック模様のショルダーバックを肩にかけている。
彼の前方には、波速輝夫の姿があった。波速輝夫は学校から戻ったばかりらしい制服姿で、スーパーで今晩の夕食に使う食材を買い終えて、帰宅しているらしい。彼は波速輝夫に気づかれない距離を保ちつつ、尾行をしていた。
「まぁ、Gif県ん人たちに理解しいやなんて思いまへんけど。イジメしいおるなんて思いたくないやろうし」
彼はズボンの大きなポケットの中で、球体状の物体を弄りながら、次第に波速との距離を縮める。そして、波速がとりたて人込みの多い商店街の中心部あたりに入り込むと、彼は後ろから生卵を波速の後頭部に投げつけた。生卵はカーブの軌道を描き、そのままグチャッ、と音を立てて波速の後頭部で崩れた。
「えっ?」
波速は驚いて後頭部を手で確認した。波速が拭った掌に黄身と白身が混ざった触り心地の悪い液体が付着して、波速は「うわぁっ……」と気色悪がった。
周囲の人間も生卵の軌道を見たり、生卵が崩れる音を聞いたりしたので、皆が波速輝夫に注目した。ザワザワと辺りは騒ぎだし、そして次第に彼が湯豆腐の弟だと知っていた誰かがそれを広め始めたので、奇異なものを見る目をする者、愉快に笑う者などが多くなる。
「あぁ……すいません……」
波速は少し恥ずかしくなって、ポケットのハンカチで潰れた生卵を拭いた。気恥ずかしさから動作はひどく乱れていて、随分とみっともない姿を晒した。
しかし、すべて拭い終えたのもつかの間、今度は正面から生卵が飛んできて、波速はそれを顔面で受け止めてしまった。波速の顔に黄身と白身、それに卵の殻がミックスしたものが塗られた。
「うわっ……」
「ぷっ!」と笑う者も少なくなかった。1人は投げた本人で間違いはないが、しかし生卵とは無関係の人間も、湯豆腐の弟の不幸が愉快で仕方がないらしい。「クスクス」と嘲笑する女子たちの姿もあった。子供連れの親は「あんまり見ちゃダメよ」と言っただけですぐに去っていく。
「あ、あはは。どこから飛んでくるのかな?」
しかし、波速はそれでも気にしないという風に、笑顔を振りまいて見せた。すぐにハンカチで汚い液体と殻を拭う。
__なんか、おもろうないなぁ……
イジメる側にとって、嗜虐行為に対して苦痛が返ってこないのはつまらない。できることならば羞恥に委縮するとか、泣きじゃくるとかのアクションが彼は欲しかった。
__ほんなら、ちょっと小突いてみましょっか
彼は早歩きで波速に近づき、その場を去ろうとしていた波速を、まるで自然にぶつかった風を装い、後ろから付き押した。波速はその勢いで前から転がって、地面に伏せる。手に持っていた荷物は中身が飛び出して、リンゴなんか転がりやすいものはころころとどこかへ転がっていった。
「わっ……すみません!」
「なんや、気いつけてや」
わざとらしくぶつかった彼はきつく責めるような言い方でそう告げた。
「ほら、手を貸し」
「あ、ありがとうございます……」
彼は波速に手を差し伸べると、波速は少し嬉しそうにその手を掴む。
しかし、彼は波速の手を思い切り引いて、そのまま足を引っかけてまた波速を転がした。波速は思ってもみなかった裏切りらしく、受け身すらままならず地面に叩きつけられた。
「君が変な掴み方するから、手が滑ってもうたわ。もう君の手に触りたくないから自分で立ってな」
「う、うぅ……。すみません……」
さすがにビックリしたこともあり、波速の声は弱弱しかった。それに対し、彼の顔は満悦の顔をしていた。
「やりすぎだろ、キョート人」
誰も救おうとしない彼の前に、針井が出てきた。彼もまた、制服姿のままで、片手に図書館で借りた本があった。どうやら彼は借りた本を喫茶店でキリの良いところまで読み終え、帰宅するところだったらしい。
針井のきつく責めるような声に、キョート人と呼ばれた彼は、敵の登場に驚きつつ笑顔を維持したまま答えた。
「やりすぎって……これはこの子が勝手に転んだだけやしなぁ……」
「よく口が回るもんだ。キョート人らしい姑息な性格をしている」
「まー、嫌らしい偏見や。教養の低さが知れとる」
「キョート人に語れるほどの教養があるみたいな言い方だな」
彼は本当にキョート人だったらしい。キョート人には教養がないと図星を突かれ、笑顔を保っていても、少し頭に血が上っている様子だ。顔がいつもより紅潮していて、ギロッとした視線を針井に送っていた。
「あーあ。せっかく親切しようと手を刺したんに、萎えてもうたわ。まるで自分が悪役みたいに扱われて、不快やなぁ」
「あくまで、自分は悪くないと言うのか」
「当たり前や。自分が何した言うねん」
「ポケットに入ってる生卵を見ても、言い逃れするのか?」
「! なんのことやら……」
キョート人はとぼけて見せたものの、針井は彼のポケットを小人たちで焼いた。すると、穴の開いたポケットからボロボロと市販の卵が零れだした。
キョート人はさすがに動揺したようだったが、しかしボロを見せるほど気弱な性格じゃないようで、
「お、おやおや……。今晩の卵が落ちてしもうたわ……」
「……」
この状況下になっても言い逃れに終始するキョート人の図太さおよび意地汚さに、針井はかける言葉さえ失う。
「お前らさぁ……。なにをどうして波速輝夫にちょっかいをかけるんだよ。そこまで楽しいのか?」
「ん? 言ってる意味がようわからへんなぁ。ああ、もしかして、その子はイジメられてるんか?」
「とぼけちゃってw」
「さぁ……。でも、それはほんまにイジメなんか? イジメやのうて、ただその子が当たり前のことができないから他の子に責められてるだけちゃうか? そんなん、イジメやないで。むしろ、他の子が被害者なんや」
「キョート人らしい回答だな。ま、古臭い価値観を小さなコミュニティで肯定することしかしてこなかった意地汚い民族だからしょうがない」
「ふんっ……。でも、ここにいるみんなだって、この子がイジメを受けているなんて思わんやろ? なぁ、イジメだと思う人はおるん?」
キョート人の問いかけに、誰も答えなかった。別段、キョート人という存在が波速以上に嫌われていることを含めても、『あなたは波速をイジメていますか?』という問いにイエスと答えるのは難しい。
__今更、それにしても、今更だ。
__なんで、波速輝夫を虐げるのに、ここまでGif県が一致団結するんだろう。
入学式の日、波速をリンチした中田を止めたカナも、似たような疑問を針井たちにぶつけた。それに対し、針井は『そういうものだから仕方ない』と言いたげな、あいまいな返事をした。
しかし、小人が見えるようになって以来、針井はそれに対する疑念を大きく膨らませていた。まるで、カバと出会ったあの日に受けたエキゾチックな粒子が、自分の体を震わせ、ゆらぎを与えたことによって、脳にあったとっかかりのようなものがすっぽりと抜けたように。
「……」
針井は無言でキョート人の腰に巻いたベルトを焼き、そしてついでにズボンのチャックも焼いて破った。言うまでもなく、キョート人のズボンはズレ落ちて、彼は公でパンツを晒した。
「わっ!」
キョート人、慌ててズボンを掴み、元に戻そうとしたが、その隙を見て、針井はイオンエンジンの要領で落ちていた卵を顔面へぶつけた。
「おやおや。随分と間抜けな姿だなぁ。文明に取り残されたキョート人は、ズボンすらはけないと見える。顔のグチャグチャの卵はキョートで流行の白粉かなにかかな?」
「ぐっ……。なんなんや一体……。これ、キミがやったんか?」
「人聞きの悪いことを言うなよ。ほら、手を貸してやろうか?」
そう言って、針井はキョート人に手を差し伸べた。しかし、キョート人は不機嫌そうな顔を返すだけで、その手を掴まず、自分で立ち上がろうとする。
「別に、俺はキョート人でもあるまいし、足払いなんてしないぞ」
「……」
キョート人は何も言わない。不機嫌そうな顔こそ止めて、笑顔を作っていたものの、しかし決して楽しい気分じゃないということは一目瞭然だった。
「あ、あの……大丈夫?」
波速輝夫がハンカチを手渡しながら、キョート人に話しかける。
「えっ、何してんの?」
針井はせっかく一矢を報いてやったキョート人に、波速自らが手を差し伸べ、少しばかり驚愕をした。とっさに、それを止めるような言葉が出たが、しかし、それと同時に、自分も報復をすることでキョート人と同じ、醜い人間になって気分になって、かける言葉を自重した。
しかし、キョート人は波速のハンカチに見向きもせず、そのままどこかへ消えた。
「……波速くんや。あんな奴に親切するなんて馬鹿らしいでしょ」
「そんなことないよ。手を貸してもらったのに、悪いよ……」
「……」
針井は周囲の反応を伺った。しかし、どうにも反応が薄い上に、むしろもっと波速が惨めになる姿を期待していた様子の輩がちらほらいて、葬式みたいな雰囲気になっていた。元から関わりたくないと思っていた野次馬はさっさとどこかへ消えるし、意地の悪い性格をしている奴は聞かせるようなため息を残して帰っていった。
「少し、異常かもな」
「え、どうしたの?」
「いや……まぁ、いいんだが」
確かに、波速はあの悪鬼の弟だ。
しかし、それにしたって、味方が少なすぎるんじゃないだろうか? これだけの人間がいれば……もっといえば、卒業式の日や、教室にだって、波速を庇っても良いと思うくらいに清い心を持つ人間がいるのが普通じゃないだろうか。ましてや、ここはキョートでもあるまいに。
針井の中で、次第に疑念が募っていくのが分かった。
そして、彼はこの結論に至る。今のGif県は少しおかしいのかもしれない、と。
「また、なんかあったら呼んでや。力になるから」
「えっ、うん! ありがとう!」
波速はけっして美形の顔をしていないが、いい笑顔だと思った。