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八 「もういい加減にしなさいよ」


 南寝屋川高校の授業は、教師のほうが教室に来てくれるので、教科教室方式を取り入れている四条畷市立の中学校から進学してきた生徒にとっては、とても楽が出来るものだった。何と言っても、授業毎に教室を移動しなくても済むのだ。

 校舎は四階建ての二棟だ。北棟校舎が学級教室で、最上階から一年生、二年生、三年生と順に下がっていく。そして、一階は校長室。職員室・保健室・進路指導室などであった。中庭を挟んで、南棟校舎は特別教室や視聴覚室・図書室になっている。

 音楽・美術・書道が、芸術の教科で選択できる。入学前に第一希望と第二希望を提出して、定員数によって振り分けられていた。

 那珂夜月は書道を選択している。神社では毛筆書きが必須で、幼い頃から慣れ親しんでいたからだ。ところが、藤波愛真は音楽を選択していた。自己紹介で、ピアノが得意だと言っていたのを思い出した。

 芸術の教科の授業は、特別教室のある南棟校舎に移動することになっていた。教室に入ると、専門の用具が設置されている。北棟校舎とは違って、こちらの教室からは、広い校庭が窓から見渡せた。

 墨の匂いが充満する教室での書道は、何を書くかは、ほぼ生徒に任せられていた。どのような書体で書くかは、生徒の自主性を重視している。それに応じた指導を、ここの教師は行っていた。

 窓の外には、エンジ色の体操服を着た男子生徒たちが、走り高跳びの授業をしているのが見えた。南寝屋川高校では、入学年度によって体操服が色分けされている。今は一年生が緑、二年生が赤、そして、三年生が青だ。だから、あれは二年生だと、すぐに分かった。

 夜月は窓からの陽光を浴びて、少しまどろんでいる。今朝からの出来事が、心に深く突き刺さっている。これからどうなってしまうのだろうか。そう思いながら、ぼんやりと窓の外の体育の様子を眺めていた。

「あら、たいへん」

 跳躍に失敗したのだろうか。地面に頭から倒れ込んでいる生徒が見えた。

 夜月は心配しながらも、今朝の愛真の微笑みが思い出されてならなかったのである。夜月には、絶対に笑えない瞬間である。どんな理由があったとしても、他人の不幸を笑う人間なんて、許せなかったのだ。

 音楽教室は、部屋の奥にグランド・ピアノが設置されている。蓋が開かれ、艶のある黒い巨体が、その存在をより際立たせていた。その傍らに、一際体格が小さい女の先生がいた。

 音楽理論・和声学・音楽史が、一年生の課題だ。まずは、各生徒をソプラノ・アルト・テノール・バスに分け、四部合唱で複雑で繊細な心情表現をすることを学ぶ。

「はーい。皆さん、初めまして」

 教諭は自己紹介後、授業の過程を一通り説明していった。

「そうそう、このクラスには、ピアノが得意な生徒がいるんですってね。担任の浦川先生から聞いていますよ。藤波さん。お願いできるかしら」

 男子生徒たちの野次が飛んだ。何事にでも調子に乗ってしまう馬鹿な人類が、男と言うものだった。

 愛真が首を振って拒否していると、男子たちが一斉に煽りかけてきた。

「ふーじーなーみー」

「ふーじーなーみー」

「ふーじーなーみー」

 手拍子を打って、さらに増長していく。

 愛真は、自己紹介で言ってしまったことを後悔しながらも、覚悟を決めるしかない。全くもって、お喋りの担任教師を恨むしかなかった。

 愛真は、ピアノを前にした。考えてみれば、中学二年生から弾いていないことを思い出した。大好きだったピアノ。人を感動させる曲を弾けるのが、楽しくて仕方なかった筈だったのに、今はすっかり弾かなくなってしまっていた。

 カーペンターズのイエスタデイ・ワンス・モアを奏でた。得意だった曲だ。愛真のピアノは、あれほど騒いでいた男子生徒たちを、すっかり魅了させてしまっていた。

 愛真の気持ちは、教室にいる生徒たちの興奮と感動とは違って、静まり返っていた。二年の空白期間。大好きなピアノをしなくなった二年間という空白は、愛真の指の動きをすっかりと鈍らせてしまっていた。

 悲しくなってきた。みんなの表情を目の前にしているのも、辛くなってきてしまった。自然に視線が、窓の外に移った。エンジ色の体操服を着た男子生徒たちが、走り高跳びの授業をしているのが見えた。

「あっ」

 跳躍に失敗したのだろうか。頭から地面に倒れ込んでいる生徒が見えた。

 バンっと、力一杯に鍵盤を叩いてしまった。

「もういい加減にしなさいよ」

 愛真が、小声で叫んでいる。

 えっと言う教諭の声がした。生徒たちも一斉に驚いた目をしている。

「もう、いいですか。先生」

 どうして止めるの。上手だったのに。生徒たちのそんな不満の声が上がった。皆はピアノが得意だと言った愛真を認め始めていたのである。

 席に戻ると、杏香が知らん顔をしている。しかも、意気消沈している愛真を、見ようともしていなかった。注目されてしまった愛真が、気に入らないのである。しかし、そんなことは、愛真には分り切ったことだった。この四人組では、杏香が一番でなければならない。それが畷中二年生からの暗黙の掟だったのである。

 愛真は、限界に達していた。何故自由になってはいけないのか。やりたいことをやって、何が悪いのか。聖人面をしている教師たちは、一度も助けてくれなかったではないか。大人の言うことは、いつも正しいのだと言って、面倒事はいつも押し付けてくる。喘息の杏香の面倒をみる都合のいい生徒の代表格でいるのには、もううんざりしていた。

 まだ中学生だった愛真が、重圧に潰されそうになったことが幾度もあった。それを助けてくれたのは、青山和彰の優しさである。その和彰だけが、愛真を救ってくれた。

 和彰は野球部のキャプテンで、誰からも信頼されている。派手に振舞う仲間に目を向けるよりも、むしろ目立たずにいる仲間のほうに、手助けをしてやるのが常であった。

 そのような和彰だったから、いつも親身になって、愛真の悩みを聞いてくれた。ただそれだけのことだったが、愛真には嬉しかったのだ。

 その和彰とも、高校進学で離れ離れになってしまった。それは愛真にとって、自分を優しく見守ってくれる人物を失うことになったのだ。

 それ以来、重圧が愛真を押し潰していった。

 昼休みになった。

 弁当を持参して、教室で四人揃って食べることにしていた。

「結衣。千春。今日はお天気がいいから、中庭で食べておいで」

 愛真が、出し抜けに言い出した。信じられないという顔で、二人は見つめ返している。そして、恐る恐る杏香を見た。

「でも・・・」

「大丈夫。二人だけで食べて来ていいよ。天罰なんて無いんだからね」

 二人と杏香の間に、愛真は立ちはだかっている。杏香の天罰なんて、あり得る筈がないのだ。

「でも・・・」

 もう一度、そう言った。しかし、愛真に押し切られるようにして、二人は中庭に行った。

「何がしたいの、愛真ちゃん?」

 杏香の表情が、歪んでいる。うつむき加減で、愛真を睨んでいるから、白目がちで不気味さを増していた。

「別に」

 愛真は、渡り廊下を歩きだした。杏香が強引に腕を掴んできた。

「私から離れる気なの」

 愛真は乱暴に腕を振り払った。

「いい加減にしなさい。もう、杏香には何も出来ないわ」

「ヒィィィ、ヒィィィ・・・」

 喘息が引き起こされた。杏香が苦痛で、さらに顔を歪ませる。

 ガシャーーン

 ガラスが割れる音がした。渡り廊下の窓ガラスが一枚割れて、破片が飛び散っていた。

「もう、させないよ」

 決意の愛真の言葉だった。

「ヒィィィ、ヒィィィ・・・」

 その隣の窓ガラスがひび割れた。大きく縦に一本の筋が入っている。だが、飛散しない。

「駄目よ。もう、させないよ」

 愛真が杏香の呪縛から抜け出そうとする瞬間だった。


 夜月が、渡り廊下にいる愛真を発見した。その視線の先の窓ガラスが割れている。愛真が何をしたのか、夜月には分かった。

「嘘でしょ。エマは卑弥呼さんの力が使えるっていうの」

 俄かには信じられなかった。しかし、冷静に判断すれば、あり得ないことではない。畷中の天罰の噂は知っている。何人もの先生や生徒が怪我をしている。車に轢かれて、両足を骨折した事故も、南中まで報告が来ている。その後には、虐め問題が世間で騒がれてしまった最悪の事態だった。

 今日の事故も、愛真がやったのかもしれない。今朝、喘息の声を聞いたということは、四人組が踏切にいたのかもしれない。二年生の階段からの転落は、愛真が窓から見ていた。体育の授業はどうなのか。愛真は音楽教室にいる。窓から見えていた筈だった。

「嘘だ」

 あまりにも恐ろしい結論に達した夜月は、取り乱していた。卑弥呼の力と言う一点だけでも、あり得ない筈だったのだ。それを悪用しているなんて、できる筈がないと信じたかった。

「だったら、確かめるしかない」

 夜月は、頭がクラクラするほどの衝撃を受けたようで、立っていられなくなっていた。

 渡り廊下で窓ガラスが割れたのが、天罰の始まりだと思った結衣と千春が、慌てて教室に駆け戻って来た。しかも、杏香と愛真が離れて座っているのに驚いてしまった。

 何があったのだろうか。愛真が自分たちに、中庭で食べて来いと言ったことも不可解である。初めは二人だけの話でもあるのかと思っていたが、これはそうではない様子だった。

「何かあったんですか、広田さん?」

 ご機嫌伺いのように、今にも揉み手でもしそうな雰囲気であった。

「結衣ちゃん。千春ちゃん」

 杏香に名前を呼ばれて、二人とも硬直した。

「二人は、私の親友だよね」

「はいっ」

 即答するしかない。これが二人の生きる術だからだ。

 愛真が背中を向けて、弁当を食べていた。何があっても知らん顔をすると決め込んでいるのだ。

「どうしたの。喧嘩でもしたのかな」

 夜月が愛真に近付いた。疑問を確かめるは、今しかないと思った。誰もいない場所で、じっくりと話がしたかった。

「あんた、何。昨日から、鬱陶しいわね」

 愛真がプイと横を向いてしまった。

「クラブ活動には入らないの? 私は剣道部に入るつもり。エマはピアノが上手だったって、みんなから聞いたよ」

 返事はなかった。でも、聞くことは聞いている様子だ。ふと何かを考えだしている気がした。

 そうだ、軽音楽部がいいかな。愛真は、そんなことを考えていた。楽器と歌を、今の愛真は心底求めていたのだった。

「ねぇ、放課後に食堂へ来てよ。もっと話がしたいな」

 夜月の呼び出しに応じるかは、今の愛真の態度を見ていれば、可能性が限りなく低そうに思われた。

 杏香が、頻繁に愛真の様子を窺っている。何を話し合っているのか、聞き耳を立てているようだった。しかし、愛真は無言である。聞かれていると思っているから、何も話さないのだろうと、夜月は思うことにした。


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