七 「知らない、そんなの」
一九七八年四月、那珂夜月は、大阪府立 南寝屋川高等学校に進学した。四条畷神社から真西に位置している。学校から二㎞以上自宅が離れている学生は、自転車通学が許されていた。勿論、夜月は自転車を新調してもらって、真新しいブレザー制服姿で、自宅からほぼ一直線の道程を三年間通うことになったのである。
全日制課程普通科、第一学年六組。那珂夜月、十五歳。この者は本校生徒であることを証明する。進学が決まった時に撮影した写真が、身分証明書に貼られていた。
これを渡される時は、これからは本校の学生であることを自覚して、行動することを命じられた。もはや義務教育ではない。同年齢では、社会人となっている者もいる。そう言う責任ある年齢になったということである。
この高校は、夜月の通ってきた南中の二年後の、一九七三年に創立して、たった五年である。だから、ここに通うということは、古き伝統とか習慣とかを、大切に引き継いでいくと言うことを、また経験することなく、学生生活を送ってしまうことになるのである。この時はまだ気付かないが、年を取った時に、学生時代の思い出が、随分と少ない気がしてしまうかもしれない。
担任教諭・浦川は、英語担当教師である。小太りのおっちゃんで、カバに似ていた。
「浦川です。成績の悪い者には、留年してもらうから、しっかりと勉学するように」
見た目に似合わず、厳しい第一声であった。当たり前だが、夜月は衝撃を受けていた。中学生のような生半可な気持ちで、ここにいては、すぐに置き去りにされる気がした。
浦川は、自己紹介の時間をたっぷり取っている。生徒同士の親密度を高める顔合わせでもあるが、浦川はこれをすることで、各個人の性格を知りたかったのである。一人ずつ教壇に立たせて、発言させることに意味があった。
「尾関丈人です」
男子の出席番号四番目に現れた。南中出身と言っただけで、席に戻ってしまった。当然浦川の評価点は低いものになった。
もっと自己アピールできる長所がたくさんあるのにと、夜月は残念に思った。宇宙の話なんかすれば、一気に人気者になれるのに、無口と言うのは短所にしかならない。実際、無口だから、尾関は夜月にあれほど気に入られながらも、それほど親しくはなっていなかったのだ。
女子の十番目。
「那珂夜月です。夜の月でミツキです。出身校は、四条畷南中学校です。四条畷神社で巫女をしていて、雑誌で紹介されたこともあります。いつでも祈祷をして差し上げますので、是非お参りに来てください」
写真雑誌の大賞のことを、何人も知っているという生徒たちがいた。夜月は、二年前に南中学校写真部が、雑誌に投稿したいと言って来たことに驚いた。しかし、許可してあげて良かったと思っていたのだ。
女子の十四番目は、随分と癖のある人だった。緊張しているのか、荒い呼吸をして、ヒィヒィ言っていた。
「広田・・・杏香です。ヒィ、、、体がよわ・・・弱くて、ヒィ、、、、喘息・・・喘息気味です。な・・・畷中からきま・・・来ました」
畷中仲間か。ずっと女子四人が一緒にいると、夜月は教室に入ったときから気になっていた。あまりに結束が固いと、新しい仲間には入り難いものになってしまう。
次の十五番目の女子が、夜月の脇を通って、教壇に立った。
あっ!
夜月は驚愕した。まだ十五年間の人生だが、これほどの驚愕を、経験したことがなかった。こんなことが人生には、起こってしまうのだろうか。夜月は、全身が震え出した。
「藤波愛真です」
夜月は、その顔を凝視している。
愛真だ。顔つきが少し大人っぽくなっているが、間違いなく愛真であった。
「四条畷中学校から来ました。運動が苦手ですが、ピアノなら任せてください。どうぞ宜しくお願いします」
愛真がいた。夜月は、今すぐにでも飛び出して行って、愛真に抱き付きたくなった。
愛真は、畷中にいたのか。楠公墓地で発見して以来、探しに探して、遂にはもう会えないと諦めていたのだ。
あまりの嬉しさで、夜月は涙を流してしまった。早く終わって欲しい自己紹介の時間は、まだ続いた。何故会いに来てくれなかったのかと、愛真に一言いってやりたくもなった。
ようやく、休憩時間になった。
「エマーー。あなた、畷中に通っていたのね」
夜月が、仲良し四人組に向かって声を掛けた。当然のように愛真も、この再会を喜んでくれていると思っていた。
「あんた、誰?」
夜月の予想に反した返事が、愛真からあった。
背中を向けていた愛真が、振り返って、夜月を睨みつけている。
冷たい言い方だ。愛真はそんな言い方をしただろうかと、夜月はふと思った。
「えっ? ミツキだよ。那珂夜月」
愛真は首を傾げた。再び背中を見せて、杏香のほうに向き直った。
「誰? みんな、知ってる?」
杏香が小鼻に皺を寄せて、相手にするなと合図をしていた。
「何故? 私を覚えていないの、エマ」
「随分親しげに話し掛けてくれるけど、どこかでお会いしたかしら」
愛真は振り向きもしなかった。今日からクラスメイトになるのに、それはあまりに冷たい態度だった。
悪夢が蘇った思いがした。夜月はどん底に突き落とされてしまった。
愛真は、以前の世界の記憶を失くしている。
『倭祷神器』の世界の記憶を持っているのは、やはり夜月だけだった。折角、幸福な世界に戻ったのに、もはや以前の記憶など無いほうが幸せだっただろう。
夜月は、二年前に辿り着いた、自らの結論を思い返していた。
これから愛真とも、改めて親しくなっていけばいい。高校生活は、今始まったばかりではないか。焦らずにやっていこう。夜月は、そう自分を慰めていた。
翌日、登校前の夜月は、宮司をしている父親から恐ろしい話を聞いた。それは、朝食を摂りながら見ていたテレビのニュースにも関係していた。
「参拝者さんから聞いたんだが、深夜に駅前の踏切で、事故があったそうだ」
国鉄の片町線が、四条畷・長尾駅間で不通になっていることを、夜月はテレビで見ていた。
「事故?」
「人身事故だ。どうも、飛び込み自殺らしい。警察が来ていて、今は踏切を通れないそうだ」
嫌な予感がした。これが災いの始まりのような気がしてならなかった。
「楠公商店街から、今日は行きなさい」
父の指示通り、四条畷神社の一の鳥居をくぐると、商店街へ続く裏通りへ向かった。線路を渡る東西の道が、近くではここしかない。自動車こそ入ってこないが、通行人で溢れる状態になっていた。
夜月は自転車を降りて踏切を渡り、商店街をそのまま抜けた。
「!」
楠公郵便局の前で、信号待ちをしていると、変な声が聞こえた気がした。気管支喘息特有の息苦しい声だ。これを発する人間を、夜月は一人しか知らない。だが、通学路が違うはずだ。畷中出身者は、もっと北の道を通って来る筈だった。昨日、藤波愛真たち四人組が、蔀屋方面の道を帰って行くのを見ていた。だから、人違いだと思うのは、当然だった。
教室に着くと、話題は人身事故で持ち切りだった。現場を通って来たであろう夜月が、クラスメイトから質問攻めにされるが、ニュースで見たこと以外には知らないし、現場も通っていないと答えると、潮が引くように、人が去って行ってしまった。
愛真が、柳原結衣と和塚千春だけの三人といた。まだ広田杏香は、登校していないようだ。
「藤波さん。今日は、広田さんはお休みなの?」
夜月は、登校途中のことが気になっていた。あれは、杏香だったのであろうか。
「知らない、そんなの」
愛真は窓の外を見詰めたまま、不快感のある答え方をしてくる。昨日の会話もそうだったが、夜月は嫌われているのかという気がしてならなかった。
千春が、険悪そうな二人を察して、代わりに答えてくれた。
「四人で登下校しようって、約束していたんだけど、今朝広田さんは、もう先に行っているって言われたの」
何だか、いつもの怯えた感じがしない。千春と結衣は、昨日は見せなかった笑顔でいた。二人で仲良さそうに顔を見合わせて、うんうんと頷き合っていた。まるで鬼の居ぬ間に洗濯と言う雰囲気だった。愛真だけが、何故か気に食わぬ顔をして、窓の外をずっと見ていた。
「おーい。たいへん、たいへん」
クラスでお調子者の窪田が、血相を変えて、教室に雪崩れ込んで来た。
「南棟の階段で、二年生が転落した」
窪田が指を差している。クラスメイトが、わっと現場に飛び出して行ってしまった。どいつもこいつも野次馬さながらの根性を見せた。
夜月が何気なく、窓から南棟校舎を見ると、その現場である階段が見えた。人だかりがしていて、騒ぎになっていた。
「あっ、ここからも見えるのね」
夜月が何を言っても、愛真には聞こえていないのか、返事は返ってこない。だが、その表情を夜月は盗み見て、ギョッとなった。
微笑んでいる。否、笑っているのだ。
現場には、担架が運ばれて来ている。それを見ながら笑うとは、愛真は一体どうしてしまったのだろうか。夜月が知っている愛真は、絶対にそんな女の子ではなかった。最悪ではないか。人として、愛真は間違っている。夜月は、そう叫びそうになった。
間もなく、杏香が教室に現れた。結衣と千春の態度が一変する。表情が無くなり、愛真の陰で、子犬のように尻尾を丸めて震えだした。
気分が滅入ってきた。夜月は、楽しい高校生活が始まると信じていたのに、こんなことなら、愛真に出会わないほうが良かったのにと、後悔してしまっていた。