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六 「うん、約束だ」


 愛真の疲労は、突然限界に達した。

 杏香の面倒を押し付けて来るばかりの教師たちに、中学生の愛真は逆らう術を知らない。藤井が暴れていた時に、何故愛真は教室にいてやらなかったのかと、叱責を受けていた。杏香を守る義務を果たさなかった責任を取らされたのだった。

 勿論、これは教師たちの嫌がらせである。世間の非難や退職の恐怖が、愛真に向けられたのだった。

「やぁ、日曜日なのに応援に来てくれたのかい」

 青山和彰が、野球場で愛真を見つけた。和彰にとって、これが中学生最後の試合だった。これが終われば、高校受験に専念するつもりでいる。野球部がある高校へ進学する為には、今以上に成績を伸ばさなければならなかった。

「どうした、エマ。元気がないな。また、広田のことか?」

 いつも愛真を心配してくれていた。野球部のキャプテンで忙しい中を、落ち込んでいる愛真を見つけては、よく声を掛けてくれていた。

「うん。杏香のお見送り。今日はお母さんとお買い物に行くって言うから、忍ケ丘駅まで行ってきたの」

「そんなことまでしているのか、エマは」

「うん。千春と結衣が行くって言うから」

「二人とも広田を怖がっているって言ってたよな」

「仕方ないよ。天罰を信じているんだもん。でも、私たちが行ったから、杏香のお母さんは喜んでいたよ。だから、それでいいの」

 和彰は愛真を見詰めて言う。

「エマは、どうなんだよ。このままでいいと思っているのか」

 四人でいる愛真たちを、クラスメイトたちは知っている。体が弱い杏香の介護役として、二年生の時に担任教師が任命したことを、皆が承知していた。だから、二年生の時には同じクラスだった和彰も、当然ながら承知していた。

 本当に仲の良い四人ならば、何も問題はなかった。杏香が不思議な力を持っていると信じ込ませて支配さえしなければ、楽しい日々を過ごしていた筈だ。

「実はね。もう、何もかも嫌になったよ。私は一生懸命にしているのに」

「知ってるよ。二年生の時からだもんな。エマはよくやっているよ」

「藤井くんが酷いことをしていたのに、何をしていたんだって先生に叱られたわ」

「どうして。そんなのエマの責任じゃないのに」

「私の役割だったから、私が悪いんだって」

「その時、エマは教室にいなかったのに、いた奴らには責任がないのかよ」

「仕方ないよ。藤井くんを、みんなが怖がっていたし。何をしていても、みんなは何も出来ないよ」

「そうなんだけどさ」

 和彰は視線を野球場に向けた。相手チームの守備練習が始まっている。それが終われば、キャプテンである和彰は、行かなければならなかった。

「ごめんね。これから、アオの大事な試合あるのに。私がこんな顔してたから、心配掛けちゃったね」

 愛真は和彰をその名字の青山から、アオと呼んでいる。これはごく親しい幾人かの間でしか使われていない。殆どの者が、「青山」とか「カズ」と呼んでいたのだった。

「困ってる奴がいたら、声を掛けてやるのがキャプテンというものさ。まぁ、助けてやれないかもしれないけど、それは勘弁してくれよな」

「アリガト。アオが話を聞いてくれるだけで、嬉しいの。助けてもらってるよ」

「そうか。ならいいけどな」

「うん、そうだよ」

 愛真は、えへへと笑った。元気が出た。気持ちを分かってくれる人がいるだけで、随分と心が安らぐ。

「そうだ、アオ。これ、差し入れのトマト」

 氷の欠片で冷やしているトマトの袋を渡した。和彰はトマトが大好きだったのだ。部活の前に、丸ごとのトマトをよく食べていた。

「おぉ、美味そう。よく冷えてるな。ジュースにしたら、もっと美味いだろうなぁ」

「あれ? アオはジュースにしたほうが好きなの?」

「学校には丸ごとで持って行くけど、家ではジュースにしてるんだ。そのほうがトマトの味がよくするからね。でも、ありがとう。とっても嬉しいよ」

「どういたしまして。今度はジュースにして持ってくるね。あっ、でも試合は今日で最後だね。じゃあ、高校生になったら持って来てあげるね」

 愛真はまた、えへへと笑った。

「うん、約束だ」

 和彰が小指を差し出した。愛真は笑いながら小指を絡めた。

 試合が始まった。愛真は精一杯の声援を送った。和彰の活躍を、キラキラ輝く瞳で追い続けていた。愛真のたった一人の理解者だ。そんな和彰を知らず知らずに、愛真は憧れから好意へと感情を深めていくのだった。

「おめでとう、アオ。大逆転勝利だね」

「おぅ、これでキャプテンの大役を果たせたよ。エマの応援のお陰だ」

 他の男子の誰よりも、和彰が逞しく見えた。何故そんな風に感じてしまうのか、愛真にはまだ分からない。感情が変化しているのには気付かなかった。

「エマ、ラーメン食べに行こうよ。奢るからさ」

 思い掛けない誘いだった。だが、愛真には断る理由が見当たらない。

「ずっと緊張してたから、腹減っちゃってね」

 和彰が頭を掻きながら言った。試合の間、愛真の為に何か力になってやろうと考えていたのだった。

 初めて二人並んで岐路に就く。和彰が着替えに帰る道程で、愛真はずっと和彰の横顔を盗み見ていた。何故かまともに見られない。和彰にも愛真のそんな気持ちが伝わって、無言で自転車に乗っていた。

 ボーダー柄のシャツに黒縁眼鏡。初めて見る和彰の私服姿は、愛真には眩しく見えた。

「あれ。アオはメガネ掛けてた?」

 愛真はまじまじと見た。

「三年生になってから、授業中にだけな」

 二年生の一年間しかクラスが一緒でなかったので、愛真は知らなかった。いろいろな話をして、和彰のことを知っていると思っていたのに、まだまだ知らないことがある。トマトジュースのこともそうだった。

「似合わないかな?」

「そんなことないよ。賢そうに見える」

「何だとォ」

 愛真が漸く笑った。二人だけになってから、何故か変な雰囲気になってしまっていた。それがやっと解放された。

 近所の中華料理屋は、青山一家の馴染みの店だった。汚いが美味い。そんな店が二人の初めてのデートだった。

「和彰君、いらっしゃい」

 店主が中華鍋を振り上げながら言った。小太りなので、詰め襟の白い料理服の腹が汚れていた。

「おじさん、ラーメン二つ」

 店主が満面の笑みでいる。愛真といるのを見て感心していた。

「デートかい、和彰君。いいねぇ」

「違うって、おじさん。考え過ぎだよ」

 否定しているが、満更でもない顔をしている。愛真はそんな和彰を見て、にこにこしているのだった。

「ごゆっくり」

 意味あり気な視線を送って、店主はラーメンをテーブルに置いて行った。 和彰は胡椒を取り、ラーメンに二振りしてから考えながら、愛真に渡した。

「どうしたの?」

「何でもないよ」

 そう言いながら、和彰は愛真に渡した胡椒を見ている。

「あっ、分かった。胡椒でしょう。もっと胡椒を入れたいんでしょう」

「うん。でも、いいんだ。外ではたくさん入れないことにしてるから」

「どうして?」

「お父さんも胡椒好きなんだけど、店では二振りまでって約束したんだ」

「お父さんとの約束?」

「うん。それがマナーなんだよ」

「ふーん。いいことだね」

 愛真はそんな話が聞けて、嬉しくなった。和彰のことをもっと知りたかった。

「エマも、そう思うか」

「うん。いいお父さんだね」

「あっ、そっちか」

「えへへへ」

 そんな笑い方をする愛真を、和彰は好きだった。照れ笑いをする愛真らしさが、そこにはあった。

「美味しい。このラーメン、和風だね。でも、中華っぽいし、とても美味しいね」

 愛真はびっくりして、つい声が大きくなってしまった。店主がそれを聞きつけて、親指を立てていた。

 塩ラーメンだ。和風出汁の奥深い味わいと食感が抜群である。透き通るスープはあっさりしていて、ほんのり香る柚子が良いアクセントになっていた。

「折角のお楽しみのところ、お邪魔するよ」

 店主が再び現れ、マーボー豆腐を置いた。

「お譲ちゃんが褒めてくれたんで、ワシの奢りだよ。和彰君はこのマーボー豆腐よりも、醤油も掛けていない豆腐が一番だと言うんだよ。お嬢ちゃん、食べてみて何とか言ってやってくれ」

 店主は笑いながら言っている。怒っているのではなく、こんな冗談が好きなのだ。

「美味しい! おじさん、とても美味しいですよ。アオは、本当は美味しいと思っているんだけど、意地っ張りだから本心が言えないんですよね」

「なるほど、そうか」

 店主は妙に納得して、行ってしまった。

「何言ってんだよ、エマ」

「アオ。コレのお代の替わりなんだから、気にしないで」

 ペロリと舌を出した。その表情の無邪気さに、和彰は見惚れてしまった。今日の試合の間に考えていたことを、ここで言う覚悟を決めた。

「エマ、聞いて欲しい」

 和彰の態度が改まっていた。体をテーブルに乗り出して、愛真を見詰めている。

「ボクは野球を続けたいから、畷高(なわこう)に行く。エマも一緒に行こう」

 和彰の告白だった。しかし、愛真は疎い。

「私は、・・・・」

「エマの成績だったら、畷高に絶対に合格できるよね。ボクも頑張って受かってみせるから、一緒に行こうよ」

 畷高は、大阪府立四条畷高等学校のことだ。この地域の由緒ある進学校であった。

「でも、・・・・」

 愛真の表情が曇っている。言い出せない理由が潜んでいる様子だった。

「他の高校を受験するの?」

「うん・・・・・」

 小さく頷いて、下を向いたしまった愛真。

「南寝屋川高校」

 愛真は知っている。その高校には野球部がない。和彰には絶対に選べない高校だった。和彰の今の成績で、合格圏内であるのは、ここだった。だから、必死で勉強しているのである。

「どうしてなの。エマなら、畷高の筈だろう。ランクを落とすなんて、勿体ないよ」

「先生にも、そう言われてる」

「だったら――――」

 和彰は絶句した。そこに進学しようとする愛真の胸中を察した時、ある人物が思い浮かんだからだ。

「広田なのか? 広田の為に、南寝屋川高校に行くつもりなのか?」

「ごめん、アオ」

 悲しい顔をする愛真に、和彰は何と言っていいのか分からなくなった。しかし、何とかして愛真を杏香の呪縛から救ってやりたかった。

 中華料理屋を出て、二人は自転車を押しながら歩いていた。愛真はあのまま黙ったきりである。

「ボクは、エマのしようとしていることは、素晴らしいと思うよ。でも、間違っていると思う。自分を犠牲にしては、広田の為にならないと思うよ。それにこの先ずっと、広田と一緒にはいられないんだ。必ず別れる時が来る。その時が、高校進学なんじゃないかな」

「うん・・・・」

 愛真は、和彰が言ったことを既に考えていた。本心は和彰が言うようにしたい。だが、愛真には選択肢がないのだ。それが愛真の存在理由だからだった。

「エマ。キミが好きだ。ボクと一緒に畷高に行こう」

 愛真は漸く分かった。和彰の思いが嬉しい。初めて好きだと言ってくれた異性。体中が震える幸福感に、涙が出そうになった。

「うん。行くよ、畷高。私もアオと一緒に行きたい」

 呪縛が解き放たれる。杏香の天罰などと言うものは、この世には存在しないのだ。その真実は、愛真が一番よく知っていた。


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